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« 「カタカナ語氾濫」への危惧など言っていられなくなる? | トップページ | 学校の「体育」の授業が大きく変わる? »

充実した授業は,すぐに時間が経ってしまう

 楽しいだけの時間はあっという間に過ぎていく。

 楽しいだけの授業も,

 充実した授業も,同じである。

 子どものときに,

 「どの授業の時間が一番短く感じましたか?」

 などと聞いたら,

 「体育」と答える子どもは今も多いだろうか。

 昔は空き地で毎日2時間くらいは遊んでいたが,

 本当にあっという間に時間が過ぎた。

 小学校の授業の45分など,時間のうちに入らない。

 体育は,始まったと思ったら,(何もしないうちに)終わった,

 なんて感じだった。

 算数が好きで,国語が苦手(嫌い)な子どもは,

 算数の時間に比べて,国語の時間の方が

 長く感じるだろう。

 さて,ここでは,教師の側の話である。

 中学校の教師の中には,ほとんど自分がしゃべって

 終わり,という人もいる。

 たまに生徒に当てて,答えない時間が4~5秒続く

 と耐えられなくなって,他をあたるか,自分が答えを

 言ってしまう,なんてことが繰り返されていく。

 こんな教師の授業は,子どもにとってはおそろしく

 長く感じることもあるだろう。ひたすら「自分にあてないで」

 と堪え忍んでいる子どももいるかもしれない。

 教師にとっては,話したいだけ話して,ああ,もう50分か,

 なんてことになる。教師の側の時間は短く感じられる。

 こういうのは教育ではない。

 テレビとほとんど同じである。

 中学校2年生の歴史的分野では,現在,

 ある状況下での政府の政策について,「所信表明」

 を「記者会見」方式で行っている。

 あえて,史実を完全にはふまえず,理想を語ってよいことに

 している。それは,反論させやすくするためでもある。
 
 4人のグループで,どの班があたるかはわからない。

 あたらなかった場合は,ひたすら記者会見での

 質問や意見,反論でがんばる。

 こういう授業をすると,いつの間にか「議論」になっていく。

 史実に基づいての反論があったり,

 現在の理想とされる社会像にもとづく反論であったり,

 意見の出所は様々である。

 教師の側は,それぞれの発言の性格を一つ一つ

 確認していく。一つのテーマのやりとりが終わると,

 史実を確認しておく。

 このような授業を展開すると,どうしても50分では

 足りなくなる。続きは3日後,などということになる。

 各教科の授業計画が,こういう時間も想定に入れて,

 9月は理科で,10月は社会で,11月は数学で,

 2時間続きの授業が何回・・・

 などと,月ごとに時間割が変わるような柔軟性のある

 カリキュラムだと,教育効果も高くなっていくだろう。

 50分を時間を離して2回やるのと,100分を1回

 やるのとでは,どちらの効果がどれだけ高くなるか,

 こういう実験はなかなか行いにくい。

 しかし,小学校なら毎日できるのだろうな,とうらやましく

 感じられる。少々気がかりは,ある小学校で,ある期間,

 毎日,国語しかやっていない,なんていう学級があること

 である。研究発表のためなのか。

 子どもも乗っているのかもしれないが,ものには

 限度というものがある。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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