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瀕死の状態の「総合的な学習の時間」

 言うまでもなく,「学力向上」の真のねらいは,

 基礎的・基本的な知識や技能の習得にとどまらず,

 それらを活用してさまざまな角度から思考し,適切に判断・表現する

 能力を高めることにある。

 自ら進んで学ぶ意欲をもっていることを含めて「学力」と呼んでいる

 のが文科省の考え方であり,公立学校のすべてもその学力観に

 基づいた教育を行っている・・・はずであった。

 総合的な学習の時間は,こういう「学力観」を

 教師と子どもが共有するために設けられたものだと考えてよい。

 総合的な学習の時間の指導については,

 多様なテーマで学習が進んでいるかどうかを見れば,

 子どもなりの興味・関心が生かされているかどうかがわかる。

 しかし,昨今の「学力向上ブーム」は,本来の「学力」の向上が

 ねらいではなく,「国語」と「数学」の基本的なテストでどれだけの

 平均点を出せるかだけが焦点となってしまっている。

 そのため,数字化されたデータでその成果が図りにくい

 「総合的な学習の時間」などは,ひどい言葉を使えば
 
 「お荷物」扱いとなっている。

 目先の数字ばかりに目がいくおよそ「教育者」とは言えない

 ような人間たちと,

 指導のための準備に労力が必要で,子ども一人一人に対する

 きめの細かい指導が求められる総合的な学習の時間に

 負担感しか感じないような指導力・教育力不足の教師たちが

 子どもにとっては「最悪の意味」で協調し合い,

 破壊されていくのが,「総合的な学習の時間」の近未来の

 よくない想定であろう。

 実際のお荷物とは,学習に興味や関心をもたせることができない

 教師であるとは言えないので,学校全体として低学力の責任を

 とるように管理職もしむけざるを得ない状況にあるのは気の毒な

 ことではあるが。

 実は,ある校長に「総合的な学習の時間」の成果を発表させて

 もらってもよいか,と問い合わせたところ,

 「それは困る」という返答をいただいた。

 総合的な学習の時間を突破口として,奇跡的な学力向上を

 果たしたその学校においてすら,現在では総合は

 「お荷物」扱いにされつつある,ということである。

 行政の支援も得られないようで,それは昔から変わらない話では

 あるが,「学力」の高い人間にしか通じない話をそこでしても

 始まらないのであきらめるしかない。

 「学力」の高い子どもたちをつくるには,

 もっと「学力の高い人たち」が教育にたずさわれるようにする

 環境をととのえなければならない。

 1人のリーダーが社会を変える時代ではない。

 学力向上の成果を上げた教師たちによる,

 本来の「学力」向上をめざす学校づくりは,

 「年度ごとの決算報告」がすべての人たちには不可能である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より