ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

充実した授業は,すぐに時間が経ってしまう

 楽しいだけの時間はあっという間に過ぎていく。

 楽しいだけの授業も,

 充実した授業も,同じである。

 子どものときに,

 「どの授業の時間が一番短く感じましたか?」

 などと聞いたら,

 「体育」と答える子どもは今も多いだろうか。

 昔は空き地で毎日2時間くらいは遊んでいたが,

 本当にあっという間に時間が過ぎた。

 小学校の授業の45分など,時間のうちに入らない。

 体育は,始まったと思ったら,(何もしないうちに)終わった,

 なんて感じだった。

 算数が好きで,国語が苦手(嫌い)な子どもは,

 算数の時間に比べて,国語の時間の方が

 長く感じるだろう。

 さて,ここでは,教師の側の話である。

 中学校の教師の中には,ほとんど自分がしゃべって

 終わり,という人もいる。

 たまに生徒に当てて,答えない時間が4~5秒続く

 と耐えられなくなって,他をあたるか,自分が答えを

 言ってしまう,なんてことが繰り返されていく。

 こんな教師の授業は,子どもにとってはおそろしく

 長く感じることもあるだろう。ひたすら「自分にあてないで」

 と堪え忍んでいる子どももいるかもしれない。

 教師にとっては,話したいだけ話して,ああ,もう50分か,

 なんてことになる。教師の側の時間は短く感じられる。

 こういうのは教育ではない。

 テレビとほとんど同じである。

 中学校2年生の歴史的分野では,現在,

 ある状況下での政府の政策について,「所信表明」

 を「記者会見」方式で行っている。

 あえて,史実を完全にはふまえず,理想を語ってよいことに

 している。それは,反論させやすくするためでもある。
 
 4人のグループで,どの班があたるかはわからない。

 あたらなかった場合は,ひたすら記者会見での

 質問や意見,反論でがんばる。

 こういう授業をすると,いつの間にか「議論」になっていく。

 史実に基づいての反論があったり,

 現在の理想とされる社会像にもとづく反論であったり,

 意見の出所は様々である。

 教師の側は,それぞれの発言の性格を一つ一つ

 確認していく。一つのテーマのやりとりが終わると,

 史実を確認しておく。

 このような授業を展開すると,どうしても50分では

 足りなくなる。続きは3日後,などということになる。

 各教科の授業計画が,こういう時間も想定に入れて,

 9月は理科で,10月は社会で,11月は数学で,

 2時間続きの授業が何回・・・

 などと,月ごとに時間割が変わるような柔軟性のある

 カリキュラムだと,教育効果も高くなっていくだろう。

 50分を時間を離して2回やるのと,100分を1回

 やるのとでは,どちらの効果がどれだけ高くなるか,

 こういう実験はなかなか行いにくい。

 しかし,小学校なら毎日できるのだろうな,とうらやましく

 感じられる。少々気がかりは,ある小学校で,ある期間,

 毎日,国語しかやっていない,なんていう学級があること

 である。研究発表のためなのか。

 子どもも乗っているのかもしれないが,ものには

 限度というものがある。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「カタカナ語氾濫」への危惧など言っていられなくなる?

 これからしらばく,「英語教育」に関する議論がホットになるだろう。

 日本語はとても優れた言語で,外国語はそのまま,

 カタカナで「日本語のように」表現することができる。

 昔は,「グローバル化」とか「グローバリズム」とか言われても

 ピンと来なかった人たちも,本屋の店頭でこの言葉が

 タイトルに使われているものが増えている現状に違和感を

 抱くことはないだろう。

 今はまだ,「ユビキタス」とか「オンデマンド」という

 カタカナ語を耳にすると拒否反応を起こす人がいるかも

 しれないが,こういう日本語の状態が,

 それこそ「ユビキタス」の本来の意味の「ユビキタス」

 になる日も遠くないだろう。

 近い将来,それなりの制度の音声翻訳ソフトがあふれる

 ようになると,外国語の語彙が一気に膨れあがって

 いくと思われる。

 日本人に限らず,「そういう表現の仕方の方がスマート」

 と思える言葉に出合うと,迷うことなく活用し出していく。

 「カワイイ」のように,本当の意味が何かわからないような

 言葉も含めて,外国語と日本語の言葉の壁は,

 どんどんなくなっていくはずである。

 小学生にそのままの英語を教えるのはよいが,

 もっともっと「実は英語の言葉を日本語にして

 どんどん使っている」ことに気づかせてあげてほしい。

 日本語は,習得が難しい言語かもしれないが,

 それだけ豊かな感受性が「あった」ことに気づける

 言語でもある。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「できる子」向けだけにお金をばらまいていては,教育の質は向上しない

 指示通りでないことを能動的にやられることに批判的で,

 消極的である(目立たない)ことには寛容である・・・・・

 こういうダメな教育と同じことをしているのはだれでしょう。

 学校の適正規模という基準をおいておきながら,

 それが守られていない学校の数が全国にいくつあるか,

 担当者はすぐに答えられるはずです。

 そういう「基準が守られていない」ことには寛容で,

 「基準から積極的な意味ではずれる」ことには敏感に

 反応し,是正を求める。

 競争を求める路線は小泉内閣のころから継続しています。

 いい研究を行う学校には,お金をあげます。

 お金をあげたあと,その研究で成果がなかったからといって

 とりあげることはしない。

 研究の成果など,作文でいくらでもつくることが可能です。

 ダメな状況を示す数字は隠しておいて,

 少しだけでも改善した数字と比較するだけでよいのです。

 それだけ「成果」を言挙げしても,内容を細かく検証する

 人間などいない。どこかの研究機関のように。

 モラルを教える側の立場が,

 お金でご褒美をあげるようなしくみを平然と実行している。

 むしろ,文部科学省が示している基準(これはあくまでも

 基準にすぎないことが重要なわけですが)とは異なる尺度で

 成果を探るような学校にこそ,未来があるかもしれないわけです。

 そういうところでこそ現われている成果から,

 何を学ぶべきか。

 最終的には,「人」である,というあまりにも当然の,

 過去の歴史からも学べる事実。

 その「人」との接触の機会が減らされている現状=学校の小規模化

 に歯止めをかけない省庁を「正してくれる」のは財務省,

 そして内閣総理大臣しかいません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

子どもをタイプ別に分けて考えてはならない

 子どもに限らず,人間に「完成」などはない。

 どこか必ず人より劣った点をもっており,

 「これで満足」と思ってしまうようなことも

 「欠点」の一つである。

 能力開発途上の子どもたちにとって,

 邪魔な存在は,余計なレッテルを貼ってくる

 教師たちである。

 人間は,「わかりやすく理解しよう」とする

 単純な面をもっていて,教師もその点では

 非常に「人間らしく」,子どもにレッテル貼りを

 していく。

 「おとなしい子」
 
 「活発な子」

 「賢い子」

 「落ち着かない子」

 などなど,カテゴリーに分けて整理することが

 できてしまう「ベテラン」もいるだろう。

 これでは「教師」のレベルに達しているとは言えない。

 「今はできないが,そのうちできるようになるだろう」

 というのを楽観主義というが,それですませてしまえるのは,

 給料をもらっていない人だけである。

 「こうしたら,ここまではできるようになった」

 という段階を経て,子どもを成長させるのが教師である。

 今の通知表の評定のように,おそろしく基準を落として

 しまうような教育をしていたら別だが,

 基本的にはすべての子どもに学習指導要領が示す

 内容をすべて習得させるのは難しい。

 だが,習得の出来なさ加減に応じた指導というものはできる。

 それを「個に応じた指導」というが,それができていない

 学校が多いのは,言うまでもない。時間がないからである。

 できないのに「します」と書いてあるものを教育課程届けという。

 教師が成長の鍵をすべて握っているわけではない。

 教師ではなく,子ども同士のはたらきかけで

 子どもが成長できる場面も,もちろんある。

 それは,教師がお膳立てしてあげることで,効果が増す。

 どれだけの角度から,子どもの成長へのプロセスを

 想定していけるかは,教師の指導力に左右される。

 単純な人は,ものを多面的に見られない人,

 と言い換えてもいいだろう。

 

 指導力不足の原因は,非常に複雑で,要因も一つ

 とは限らない。生育歴に大きな課題をもっている教師か

 どうかは子どもの生徒指導と同じで,特定の場面で

 気づいてしまう。どうしてここで,愛情のある言葉を

 子どもにかけることができないのか・・・

 そういう感情を親が育ててくれなかったためである。

 指導力不足というのは,単なるレッテルではなく,

 とても根っこの深い,改善が困難な問題で,

 どこの教育委員会の研修担当も,頭を痛めている。

 自分が言っている他人の行動への文句が,ストレートに

 自分自身の行動にあてはまっているのに,

 それに気づけない人間というのは,

 絶対に教職についてはならない。

 1年目からでもトラブルを起こす。

 
 だめなものは,だめと言い続けなければならない。

 子どもと同じである。

 同じ失敗を100回繰り返して,ようやく失敗の頻度が

 1%減る,なんて子どももいるかもしれない。

 
 小さな前進,小さな成長を常に期待しておきたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「35人学級」「40人学級」という用語を使うのはやめましょう!

 平成22年度のデータでは,中学校の学級規模別生徒数を見ると,

 20人以下は1.5%

 21~30人は17.6%

 31~35人は42.9%

 36人以上は38.0%となっています。

 6割の学級では,「40人学級」のしくみのもとで,35人以下なのです。

 35人以下だと教育効果が高く,学力の定着が図れるというのなら,

 学級規模別の学力調査の平均点を公開してください。

 それをやっていないということは,何を意味するのでしょうか。

 財務省に有利なことでしょう。

 小学校2年生では,

 20人以下は7.2%

 21~30人は51.1%
 
 31~35人は32.8%

 36人以上は8.9%

 小2も「40人学級」のしくみですが,そのもとで,

 9割以上が35人以下なのです。

 子どもの数が減っているからです。

 減らすべきなのは,学校数です。

 学校の規模を大きくすることで,

 中途半端に人数が少ないクラス,極端に人数が多い

 (40人に近い)クラスが減らせます。

 「35人学級」とか「40人学級」という呼び方は,

 実態を誤解させるおそれのあるものです。

 「最大35人」「最大40人」という表現に改めてほしいものです。

Photo

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

表現力に乏しい「秀才」たちをどうするか

 小学校の授業を参観すると,子どもたちが元気に挙手して,

 発言の許可を教師からもらおうと,はりきっている。

 ただの時間の無駄にしか見えないが,何もわかっていない

 子どもでも,手を挙げているだけで意欲的に学ぼうとしているように

 見えるから,小学校の教師たちにはやめられない悪習なのだろう。

 想像してみてほしい。40の手がこちらに向かって差し出されている。

 教師の方には,「選ぶ権利」がある。

 絶対に発表したい,という意欲に燃える子どもは,

 声でもアピールする。自分に酔いたい教師には,欠かせない

 クスリであろう。

 しかし,こういう原始的な教室風景は,まともな学校では姿を消していくだろう。

 人間は,譲り合うことを学ぶ動物でなければならない。

 自分ではなく,他人に機会を与えることも,道徳で教えるべき美徳である。

 いつになれば,「挙手合唱」がなくなるのか。

 それは,子どもが教育されたときである。

 中学校に入ると,たいてい「俺が俺が」はなくなっていくが,

 逆に問題になるのが,「わかっていても,発言しない」生徒が増えることである。

 しかし,観点別学習状況評価のここだけは優れている点で,

 「表現しない限り,評価はされない」仕組みができている。

 ときどき,テストが100点なのに,なぜ通知表が「5」ではないのか,

 と苦情が寄せられる学校があるようだが,

 知識面だけを問うたテストの100点分は,

 総合的な評定を数値化して,四観点のバランスを1:1:1:1にすると,

 それは100点満点で25点分にすぎない,と示してあげることになる。

 教師がまともな学校では,思考力や判断力を問うて,ある程度の文章で

 書かせる問題を出題しているが,業者のテストを見る限り,そんな問題は

 1割もない。だから,テストで100点を取っても,総合評価の中では

 せいぜい40点くらいにしかならない。

 実は,残りの60点分の評価の場面が学校には存在しないのではないか

 と疑われる教育が,かなりの部分でまかり通っているのが今の中学校である。

 「秀才」たちが,自分の能力を伸ばす場面を用意してもらっていない。

 そこが大問題なのである。

 特に,表現力に乏しく,知識面に著しく偏るタイプの「秀才」を何とか

 してあげなければならない。

 教師の言葉遣いがどうだとか批判されている自治体は,

 そんなことを考えるレベルにないことは言うまでもない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

偉大なる未来の失敗~部活動の外注と教師の仕事~

 以前に書いた記事では,部活動を外注して,そこで

 まあまあの手当がもらえたら,教員を辞めてそっちで食べていく

 人が増えるのではないか,なんて冗談まじりにふれていたが,
 
 とうとう大阪が予算化しような雲行きになっている。

 教員の多くも,

 「部活動をもたないですんだらどれだけ楽か」

 と思ったことがあっただろうが,

 「部活動を外注することによって増える仕事」

 の方にまだ神経がいっていないようである。

 部活動をろくに指導していない教師たちにとって,

 部活動の外注化は「仕事を増やす」政策になる。

 そして,これも多くの教師が,

 想像はしてみた経験はあっても,想像上の結論はほぼ

 同じところに行き着いて,

 「うまくいかない」だろうから,あきらめてきたのが

 今までである。

 部活動の外注が始まると,おそろしく仕事が増えるのが

 管理職である。

 人捜し,謝礼の計算,連絡・相談,事故対応などなど,

 おそろしい量の実務が襲ってくる。

 とても「負担減」になるとは思えない。

 机上だけで考えている人と,そうでない教師との

 最大の違いをだれかが教えてあげないといけない。

 しかし,実施して味わうであろう「失敗」に,

 何の意味もない,とは言えないだろう。

 学校教育の方向性を大きく変えるきっかけになる

 「偉大なる失敗」「成功の母」となってほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

人はだれも「政治」から逃れられない

 塾や予備校といった教育産業にかかわる人を除けば,

 「教育関係者」は税金で食べている。

 「教育関係者」がどういう立場でいるべきか,

 という議論は難しいが,

 首長の口出しに対して反発すると,

 もうそれ自体が「政治的な行動」となる。

 実質的には官僚が動かすしくみになっているとはいえ,

 建前上は,国民なり市民によって選ばれた代表者が

 政治を動かしていく民主主義の国である。

 首長のあり方に反発をしたければ,その

 首長と対立できる立場・・・つまり,自分も首長に

 立候補したり,自分と同じ考えをもつ候補者に投票する,

 という行動に出なければならない。

 今,文部科学大臣と静岡県知事の間で問題に
 
 なっていることは,実はたいしたことではない。

 たかが学力テストの結果を公表する,しないの

 問題がここまでニュースになるのは,公教育のレベルが

 低いという大前提のなかで,その低さを競い合うという

 愚かしさが関心をひいているというだけの話である。

 単純に,自分より下がいる都道府県が46個もある

 わけだから,ニュースとしての価値がある。

 生徒がいれかわり,教員もいれかわり,問題もかわる

 のだから,順位が変動するのは当たり前である。

 「去年より順位が上がった」といっても,それが教育の

 成果かどうかはわからない。

 たったそれだけの,当たり前の情報さえ知っていれば,

 順位が出ようが,平均点が出されようが,どうでも

 よい話である。

 「どのくらい学力の課題があるか」を知るための調査を

 税金を使ってやっているわけだから,課題があることを

 国民は知る権利がある。

 こういう考えを自由に公表できる権利が,日本の国民

 には保障されている。当然だが,そういう考えを批判する

 自由も保障されている。

 日本の将来にとって,学力テストの平均点が60点から

 65点に上がることが,どのような意味をもっているかを

 語れる人間が政治の世界にも出てきてほしい。

 現在の対立で最も重要なのは,財務省と文部科学省との

 対立である。

 基本的に省庁は予算を削られることがマイナスだから,

 削られそうなら条件反射的に反発するDNAがある。

 多くの子どもがわずかな仲間や教員としか接することが

 できていないほど小規模化している学校が放置されている

 現在の教育現場の状況は,どう考えても子どもより

 大人を守るための論理である。

 子どもを守るためには,学校の数を減らし,学校で子どもが

 接することができる人間を増やすことの方が大切である。

 学校の規模が大きくなれば,教員の負担も減る。

 小規模校で私は3つの分掌を兼ねていたが,

 大規模校ではたった1つの分掌の,その中の1つの部署の

 担当であった。

 保護者が多くなればなるほど,PTA活動も活発化する。

 地域が広域化することで,通学時間が延びることが想定

 されるが,子どもにとっては読書や思索や運動の機会が

 増える。就職したら職場が「家から遠い」などとは言って

 いられない。国立学校や私立学校に通っている子どもも

 いる。「かかわりをもつ地域」「行動できる地域」の幅が

 広がる。

 極小規模の学校をつぶしたくないという感情はもちろん

 わからないでもないが,私がたった1人の卒業式を迎えた

 子どもを見たとき,正直のところ,大勢の人たちに見送られて

 幸せそうだなという気持ちよりも,それまでの生活が不憫

 でならないという感情だった。隣の学校に通っていれば,

 多くの友達と一緒に運動会で競い合い,合唱発表を楽しみ,

 劇の役を演じて,生徒会活動にかかわり,・・・・。

 今後,生徒1人あたりの教育関係費を学校別に公表して
 
 みてはどうか。文部科学省はやらないだろうから,ぜひ

 財務省の人に試算してほしい。

 「統廃合反対」の住民も,唖然とするような数字が出るだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

たった一つの尺度の測定結果の善し悪しで騒がない大人を増やそう

 人間の評価は多様であってよい。

 教育の評価も,多面的になされるべきである。

 全国学力調査の結果は,その一つにすぎない。

 だから,公開されたくらいで騒ぐ必要はない。

 公開するしないでもめること自体が,

 たった一つの尺度の結果を気にしすぎるという

 教育上,あってはならないことをしている

 ダメな大人の反応である。

 報道で何を言われようが,それは「学力調査の結果」

 の話であって,「教育の結果」全体を示している

 ものではない。

 子どもの能力はもっとたくさんの角度から伸ばして

 あげるべきであって,テストの結果くらい,なんだ,

 と開き直れる教師が現場にいなくなってしまったのか。

 そういう親は公立学校にはいないのか。

 教育委員会にはいないのか。

 学校ごとの結果が公表されても,

 高くてよかったね,

 低かったようだから,がんばんなさい,

 くらいの言葉をかけて大人ならスルーしてかまわない。

 自分がもらった子どもの結果も見たことがない,

 という親も考えものだが。
 
 どの都道府県も,結果がよくないことには

 変わりがないから,一律,どこのだれでも

 努力はすべきである。

 平均点の上がり下がりは人間が変わる

 のだから議論する意味はない。

 都道府県別の順位だって,全体として

 できがよくないという意味では,たいした差はない。

 問題なのは,学力調査の結果くらいしか,

 まともに議論できる題材がないことである。

 量的な結果ではなく,

 質的な評価が必要な話が,いっこうに

 話題にならないのが,日本の教育界の

 後進性である。

 どれだけ創造性を子どもが発揮しているか,

 独創性あふれる作品をつくっているか,

 それを認め合う場がない。

 まもなく私の学校の研究発表があるが,

 廊下に掲示してある何気ない「作品」に,

 どのくらいの目がとまるだろうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

お子さんの学力向上を考える上で,見落としていた重要な要因とは?

 教育の質を向上させるには,教師の質を向上させなければならない,

 それは確かなことです。

 ただ,教師の質が高いことで,かえって子どもの学力の伸びが

 抑制されてしまう現象も起きます。

 それが「先生頼み」の環境です。

 塾などはこのような環境ということになります。

 子どもにとって,学校には,教師以外の先生がいます。

 それは,同級生です。

 建前上は,すべての同級生が「学ぶ対象」ですが,

 学力面で実際によい影響を受けるのは,「優秀な同級生」からです。

 あまり学力差がありすぎると,マイナスにはたらくことが

 ありますが,一定レベル以上の学力の生徒が集まり,

 「適度に優秀な同級生」が一人,また一人と増えていくと,

 その増え方が加速していき,「優秀な生徒」が増えていきます。

 子どもは,優秀な同級生からも学ぶことができるのです。

 これを,少人数で最初から最後までやられてしまうと,
 
 「機会均等」が失われること,

 実際に,「優秀な同級生の優れた言葉」から

 遠ざかってしまうことを意味します。
 
 ですから,学び合いという名の「機会喪失」には気をつけましょう。

 40人の生徒がいれば,当然のことですが,

 「適度に優秀」な子どもも相当数にのぼります。

 学級の人数が多いところで,学力向上が実施されやすい要因は

 ここにあります。

 20人しかいないクラスを想像して下さい。

 「優秀な生徒」は固定化されているでしょう。

 そして,その生徒たちは「優秀であることを隠す」ようになるでしょう。

 大勢の中の複数の中の一人はそんなにつらくないですが,

 少数の中の一人はつらいのです。

 「ああ,この教室には,優秀な子どもがたくさんいるな」

 と思えたら,その学校に子どもを通わせるのは大正解ということになります。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

私が出会った中でも最低の教師

 少子化が教育の質を上げる決め手になるのなら,すでに

 相当程度,教育の質は向上していなければならない。

 学校や教師の数はそれほど減っていないために,

 学校選択自由化で人気が高い学校以外は,
 
 自動的に学級の生徒数が減少しているからである。

 1学級の生徒数が30人以下の学級も少なくない。

 少子化=教育の質の向上ではなく,

 教師の努力×教師の指導力が教育の質を決める。

 お金が重要なのではない。

 子どもを塾に通わせずに難関大学に入学させた

 親が本を出版して話題になっているが,

 お金があって,塾に通わせれば学力が上がるとは

 限らない。

 同じように,お金を学校につぎ込んでも,成果が

 出るとは限らない。むしろ逆の効果の方が高いというが

 私の考えだが,別の機会で述べていた。

 

 今日は,私が出会った最低の教師の話を一つ。

 さすがに,同僚だった人の悪口は書けない。

 たとえ上司(管理職)であったとしても。

 (管理職の悪口を堂々と,平気でかけることが,

 最低の教師の条件の1つであることは言うまでもない)

 ある教師は,他の教師の「国語力」を問題にして,

 バカだとか頭がおかしいとか非難していた。

 そして,自分自身の間違いを指摘されると,

 「重箱の隅をつつくような嫌なやつ」

 「揚げ足取り」などと,逆ギレした。

 最低の教師である。

 子どもにも同様の容赦のない言葉をかけるのだ。

 こういう教師は,私が児童・生徒のときにも目にした

 ことがあり,教師の中には本当にダメな人がいるのだな

 と「感心」していた。

 「こんな大人になってはいけない」ということを,

 身をもって教えてくれる価値の高い存在だと

 認識していた。人間としては最低だが,

 「教師」としての一定の役割を果たしている,

 と感じた。「反面教師」という言葉を知る前の話である。

 ただ,親になると,そうも言っていられない。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

子どもための統廃合~学校が減ると,先生は増える~

 「先生を減らす」ことが大切なのではありません。

 「学校を減らす」ことが大切なのです。

 学校を減らせば,1校当たりの先生の数は増えるのです。

 人口ピラミッドというものをご覧下さい。

 子どもの数は,ものすごい勢いで減っています。

 先生の数は,それほど減っていない。

 それは,学校の数が減っていないからです。

 どういう現象が起こっているかというと,

 昔では考えられないほどの,学校の小規模化です。

 こういう言い方は失礼ですが,厳しい過疎の町や村の

 話は置いておくことにします。

 なぜなら,地域によっては,3校を1つにしても,

 学級数が増えない,というところもあるからです。

 話の想定は,ある程度の人口がある都市の公立学校です。

 学校数が減ると,教員の数は減りますが,
 
 それは総数の話。

 1校あたりの教員の数は増えます。

 ここが,教員にとっても,子どもにとってもプラスの効果です。

 私は大規模校から小規模校に異動したことがありますが,

 担任の仕事は同じようでも,分掌の仕事量は全く異なります。

 規模を大きくすれば,教員1人当たりの事務量は大幅に減ります。

 大規模校に勤務すれば,1時間遅れで出勤して定時に帰ることも

 夢ではありません。担任はまわってこない,分掌も仕事も

 たいしたことない,それで学校の先生が務まります。

 非常勤講師の方が授業時数は多いし,行事のお手伝いもして

 子どもの役に立つ,なんて事例はどこにでもあるでしょう。

 ある落ち着いた学校が,小さい子どもをもつ,「定時に帰宅する」

 教員を増やしてしまったところ,1年にして荒れ始めた,という

 ケースがありました。

 ですから,油断は禁物ですが。

 1学年に2クラスでは,2人に1人が学年主任です。

 1学年に5クラスでは,数人に1人しか,学年主任になれません。

 教員がたった12人しかいない学校にも,校長が1人,副校長が1人必要に

 なるのです。

 学校の規模は,最低の基準として定められている1校12学級というのは,

 「最低の基準」なのです。

 「最低以下」の学校をなくす努力を自治体はすべきでしょう。

 キーワードは,

 子どもから見れば,先生の数が増えること。

 これでどうにか住民の皆さんを納得させて下さい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「人数が減れば教育の質が上がる」わけではなかった証拠

 別に,深く考える必要はありません。

 現在の公立学校は,半世紀の歴史で見たときに,最も

 教育の質が上がっていないといけない。

 子どもの人数が最も少ないのが今ですから。

 1クラス十数人という学級の教育の質が,

 1クラス40人の学級の教育の質より高いことを

 証明できる人はいるのでしょうか。

 「教師の力量には影響を受けない前提で」なんていう

 訳の分からないことも受け入れたとして。

 現場の教育をよく知らない人が,
  
 「人数が少ない方がよく目が届く」なんて言い方をしていますが,

 40人が35人になって,「より目が届く」なんて本気で考えている人は

 いるのでしょうか。

 指導力のない教師は,数人の子どもでもコントロール不能に

 なるのですよ。

 文科省が絶対に出せないデータがあります。

 それは,学級の人数と学力調査の得点の相関です。

 もし35人学級の方が教育効果が高いということであれば,

 すでに40人学級よりも平均点が高いというデータを出しているはずでしょう。

 そんなに単純な話ではないのです。

 たった一つ言えることは,

 40人が35人になれば,担任の教師の負担は減りますよ。

 テストの採点は5人分少なくてすむ。

 通知表の所見は,5人分少なくてすむ。

 指導要録の記入も,5人分少なくてすむ。

 そう考えれば,極小規模の学校の教師は,とてもつない「負担の軽さ」を

 享受しているように見える。

 ところが・・・現場は数がどうこうで語れる場所ではないのですね。

 たった1人,様々な問題を抱えている子どもがいるだけで,

 教師は「超多忙」になるのです。

 「超多忙」になるのに,40人も必要ない,というのが

 学校現場です。

 とても魅力のある学校が,今のところ40人,定員いっぱい,という規模を

 維持しているわけでしょうが,その魅力は教育にあるともいえるし,

 学校の規模にある,ともいえます。

 5人減らしてどうこう,なんていう机上の話はやめにしましょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

人数が多い活気のある集団と,人数が少ない活気の乏しい集団のどちらで学びたいか?

 財務省が小1の40人学級復活を文科省に提案する。

 この提案を文科省は受け入れるべきである。

 実現すると90億円の歳出抑制になるらしい。

 あなたは,優秀な教員がそろっている学校に,子どもが
 
 「定員オーバーで入れません」と言われたら,どんな気持ちがするだろうか。

 入学できる子どもがいる一方で,入学できない子どもがいる。

 定員が減らされたということは,入学できる子どもが減らされた,ということである。

 特にいい評判も悪い評判も聞こえてこないある学校に通わせることになった。

 学級数が少なく,クラスの生徒数も少ない。

 きめの細かい指導が期待できる,なんて本気で考えるだろうか。

 子どもを入れたい学校に入りにくくする政策が,

 35人学級というしくみだと言えなくもない。

 40人学級の復活も大事だが,もっと大切なことは,

 学校規模の最低基準を守ることである。

 財務省によれば,小中ともに1校あたりの規模を最低でも12学級とする

 現行の統廃合の基準を単純に適用すれば,

 全国で小中学校を5400校あまり,減らせるとのことである。

 この基準を,各自治体はできるだけ守るべきである。

 守った自治体には,浮いた分のお金を補助金として1年間だけ配分

 するのもいいだろう。その後,どれくらいの歳出が削減できるか,

 10年くらいのスパンで試算してみてほしい。

 1学年1クラスの学校に子どもを通わせている方には複雑な思いも

 あるだろうが,もしその中学校に3クラスあったら,どうだろう。

 クラス替えもできる。運動会で競い合える。合唱コンクールで磨き合える。

 教育効果という面にもっと目を向けて,不便を克服できるようにお願いしたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教育現場に「気にならない子ども」は存在しないはず

 教育現場に「気にならない子ども」はいない。

 これは,私の実体験に基づく切なる主張である。

 ある教師からの引き継ぎで,

 「この子は心配ない」

 「この子は普通の子だ」

 などという,おざなりな言葉を耳にして,

 油断してしまったのだが,実際には,とても深い悩みを抱えており,

 すぐにでも手当が必要だったはずの子どもが見つかった
 
 という経験がある。

 だから私自身は,教師を信用しないというよりも,

 一人の教師が見抜ける問題には限界があるということを

 肝に銘じることとして,

 次のような表現形は絶対にとらないように気をつけるようにした。

 「ふつうの生徒」

 「気にならない生徒」

 教育や指導には,油断は禁物である。

 当然のことだが,状況は一瞬にして変わることがあるのが

 教育に限らない「現場」という場所のおそろしさである。

 人口密度が低い大学の研究室は,毎日同じ空気が流れている

 かもしれないが,「現場」はそんな甘い場所ではない。


 だれからも「気になる」と思われるような子どもは,

 何らかの配慮を受けていることが多い。

 そうではなく,「教師が自分を気にしないように」

 心がけている子どもにこそ,しっかりと心配りをしてあげることが

 大切だと考えている。

 「気になる子ども」という言葉を使うときの

 「気になる」という言葉の意味をしっかりおさえておいてもらいたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

教育現場は,「志」を異にする教師が争い合う場所か?

 教育関係者による「同志」という呼びかけが,

 教育にたずさわるすべての教員たちに向けてなされるので

 あれば,常に困難に立ち向かわなければならない

 立場の者としての自覚を奮い立たせてくれる言葉として,

 歓迎したい。

 しかし,「同志」が一部の者たちで,しかも多くの教員たちから,
 
 あるいは管理職から,保護者から,「受け入れられない」ことを

 している対象だとしたら,教育の場は「戦いの場ではない」

 と言いたい。

 対話が必要である。

 何よりも,「同志」以外にも「伝わる」言葉が必要である。

 新しくできた「団体」の中には,他との共生がうまくいかず,

 組織の崩壊を防ぐため,「同志」の結束を高めることを目的に,

 神秘主義的な匂いを強めるようになり,やがて崩壊の道を

 たどったものがいくつもある。

 「崩壊の始まり」ではないことを祈りたい。

 なぜなら,最も大きな被害を受けるのは子どもたちだからである。

 妙な信仰心をあおるような教育論が「教育論」であるはずがない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

企業や学校が頼りにする親御さん(保護者)

 朝のラジオで放送していた内容だったと思うが,

 就職戦線で企業側にとっての「伏兵」は「親御さん」だと言う。

 せっかく内定を出しても,「親の意見で止めた」というケースが,

 多くはないが実在するという。

 親はどこまで子どもの生き方にかかわっていられるのだろうか。

 東大の入学式には,親はもちろん,祖父母まで来てしまう

 場合があるという。

 子離れできていない世代は,親世代だけではなく,さらに

 その上の親世代にまで及んでいる。

 親が頼りにならないので仕方なく登場するケースもあるだろうが,

 こういう「親べったり」の日本に対して,

 香港でデモに参加している学生たちの親はどうなのかと

 疑問に思ってしまう。

 止めないのか。

 止めても子どもが止めないのか。

 勧めている?のか。

 親と子どもの関係についての話題は,教育の世界にもある。

 たとえば子ども(教師)が担任を持たせてくれないときに,

 親(教師の親)が校長に直訴に来るなどという問題。

 子ども(教師)が不登校(出勤拒否)になり,

 家庭訪問する管理職。

 そこで親(教師の親)に子ども(教師)を励ましてもらう。

 国内の政治や国際社会がどうだという前に,

 することがあるだろうと言いたくなってくる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

政治に対する子どもたちの単純な疑問

 学校はいろいろな意味で危機管理能力に課題があると言われているが,

 政府(内閣)についても,同じようなことが言える。

 子どもたちの単純な疑問は,

 閣僚に選ぶような人に,問題がないかどうかの事前調査はないのか?

 というもの。

 あっても,調査能力がないのか?

 日本の政治家は,「カネ」の問題でよく失脚する。

 ほかの国と比べて,そういう失脚の仕方があること自体が

 健全だと言えなくもないだろうが,それは大人の目である。

 子どもの目は,

 任命されてすぐに問題が発覚する人が多すぎないか?

 という点に集まっていく。

 野党の人々は,血眼になって「キズ」探し,あら探しをするような

 印象もある(国会や委員会等での熱の入り方は,よほど大切な

 問題だという印象を子どもに与える)。

 女性の方々から見れば,本人も口にしている

 「甘い」という自己評価は,決して女性一般に広げてほしくない,

 と感じるものだろうが,今回のようなことが続くと,

 「能力もないのに女性だからといって登用されている」

 という陰口を封じることは難しい。

 これは私自身が直接耳にしたことがあるフレーズである。

 「女性閣僚は何人」などという目標設定の仕方が,

 そもそも「正しい」ものなのかどうか。

 学力向上と同じである。達成すべき目標というのは,

 本物の「学力」の向上である。A問題の平均点ではない。

 政治の世界で大切なことは,

 「優秀な閣僚を増やす」ことであって,「女性の閣僚を増える」

 ことは,結果としてそうなるのが望ましい,という話である。

 今回のことで,もし政権の土台が揺るがない,ということになると,

 だれにとってプラスであり,マイナスなのか。

 政治の世界と教育の世界の共通点は,

 人から「感謝されにくい」ことにある。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

学力向上の報酬にカネをばらまく自治体

 かつてその「国」を徳で治めていた領主は,あの世でさぞ嘆いていることだろう。

 学力が向上した学校に自治体がカネをばらまくというニュースに目を疑った。

 文科省も大学に対して同じようなことをしているが,

 こうして教育機関は「目先の成果」をあげることに必死になる。

 手を挙げる方も挙げる方だが,何よりカネを出す方は

 「活用報告書を義務づける」だけですむのだから,苦労はない。

 本当の意味での学力を向上させるために,

 最も邪魔になるものが何であるかを知らない人間が多い。

 報酬がカネ,というのが何とも「道徳的」ではない。

 だれもとめる人間がいないわけではないだろうが,

 「意見が自由に言えない」ことだけ,江戸時代と一緒のようである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

遅すぎた小中学校の統合促進政策

 公立小中学校の統廃合の指針が58年ぶりに見直される。

 政府がようやく学校再編を促す政策を実施する。

 このブログでは何度もその必要性を訴えてきたが,単なるかけ声だけでは

 設置者である自治体が動くことはない。

 統廃合のための校舎改修費への補助が拡充され,

 財政面のハードルが下がる,ということになって,

 ようやく重たい腰を上げるところが増えてくることだろう。

 公立小中学校の小規模化の弊害は,はかりしれない。

 まず,子どもの数が大幅に減少しているのに,

 教師の数がそれほど減っていない。

 大量採用の時代の教員たちが退職する時期に,

 また再び大量採用を行うという痛恨の事態が始まっている。

 もっと早く統廃合の後押しをしていれば,こういうことにはならなかった。

 学校の小規模化は,教員の力量形成の機会も奪っていった。

 研究や研修の世界でも,おそるべき現象が起こっている。

 20年前には「当たり前」だったことが,

 今になって「これは画期的だ」なんて騒いでいる連中がいる。

 先人たちが築き上げてきた大切な財産が,引き継がれていない。

 いまだに35人学級の実現を求めている人がいるが,

 実態はすでにそうなっている。むしろ,

 子どもの数が減りすぎて,1学級の生徒数が少なすぎることが

 問題になっている。生徒数が少なくなれば,教師の目が行き届き,

 学力も向上するなんていう話は幻想であることがすでに証明
 
 されているのだ。

 今,学校選択自由化が行われている地域では,人気と活力がある

 学校に子どもが集まり,むしろ生徒数が多いところの方が学力が

 高いところもある。当然と言えば当然の結果である。

 教師は子どもに育てられ,同僚に育てられる。

 その相手が少なくては,成長の機会も限られてくる。

 公立小中学校への期待感が乏しい今こそ,規模の拡大によって

 学校の活力を蘇らせるべきである。

 統合とはいえ,実質的に廃校になる小中学校が増えていくが,

 むしろ廃校後のその施設の方が,より住民のためになる,

 という具体策を実行していくのは,住民自身の仕事である。

 「自分のことは自分でやる」という意識がない人たちの場所に,

 民主主義も何もない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

瀕死の状態の「総合的な学習の時間」

 言うまでもなく,「学力向上」の真のねらいは,

 基礎的・基本的な知識や技能の習得にとどまらず,

 それらを活用してさまざまな角度から思考し,適切に判断・表現する

 能力を高めることにある。

 自ら進んで学ぶ意欲をもっていることを含めて「学力」と呼んでいる

 のが文科省の考え方であり,公立学校のすべてもその学力観に

 基づいた教育を行っている・・・はずであった。

 総合的な学習の時間は,こういう「学力観」を

 教師と子どもが共有するために設けられたものだと考えてよい。

 総合的な学習の時間の指導については,

 多様なテーマで学習が進んでいるかどうかを見れば,

 子どもなりの興味・関心が生かされているかどうかがわかる。

 しかし,昨今の「学力向上ブーム」は,本来の「学力」の向上が

 ねらいではなく,「国語」と「数学」の基本的なテストでどれだけの

 平均点を出せるかだけが焦点となってしまっている。

 そのため,数字化されたデータでその成果が図りにくい

 「総合的な学習の時間」などは,ひどい言葉を使えば
 
 「お荷物」扱いとなっている。

 目先の数字ばかりに目がいくおよそ「教育者」とは言えない

 ような人間たちと,

 指導のための準備に労力が必要で,子ども一人一人に対する

 きめの細かい指導が求められる総合的な学習の時間に

 負担感しか感じないような指導力・教育力不足の教師たちが

 子どもにとっては「最悪の意味」で協調し合い,

 破壊されていくのが,「総合的な学習の時間」の近未来の

 よくない想定であろう。

 実際のお荷物とは,学習に興味や関心をもたせることができない

 教師であるとは言えないので,学校全体として低学力の責任を

 とるように管理職もしむけざるを得ない状況にあるのは気の毒な

 ことではあるが。

 実は,ある校長に「総合的な学習の時間」の成果を発表させて

 もらってもよいか,と問い合わせたところ,

 「それは困る」という返答をいただいた。

 総合的な学習の時間を突破口として,奇跡的な学力向上を

 果たしたその学校においてすら,現在では総合は

 「お荷物」扱いにされつつある,ということである。

 行政の支援も得られないようで,それは昔から変わらない話では

 あるが,「学力」の高い人間にしか通じない話をそこでしても

 始まらないのであきらめるしかない。

 「学力」の高い子どもたちをつくるには,

 もっと「学力の高い人たち」が教育にたずさわれるようにする

 環境をととのえなければならない。

 1人のリーダーが社会を変える時代ではない。

 学力向上の成果を上げた教師たちによる,

 本来の「学力」向上をめざす学校づくりは,

 「年度ごとの決算報告」がすべての人たちには不可能である。


 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「評定を甘くしろ」と指示する管理職

 研修で学校にみえていた教師から,こんな相談を受けた。

 「自分がしっかりとしたデータに基づいて評価・評定を出したら,

 もっと5を増やせと言われた。」

 こういう学校がたくさんあることを私は望んでいる。

 なぜなら,教師がまともで,管理職がダメな方が,

 管理職がまともで,教師がダメな学校よりも,生徒にとってはよいからである。

 もし,「もっと5を増やせ」などという命令を受けないように,

 あらかじめ評価を甘くしておく,なんていう教師が多いようであれば,

 もはや中学校の評価・評定システムというのはまともに機能していないことが

 明らかになってしまう。

 まだ,管理職に注意を受けるほど,

 「厳しい」・・・ということは,たいてい「妥当な」評価を下しているものと考えられるからである。

 親の苦情を真に受ける校長は,

 「苦情がこない評定」を望む。

 それはつまり,「甘い評定」のことである。

 文部科学省の管轄では,こういうシステムの大疾患に対する

 治療は無理なのであろう。

 第三者機関が必要である。

 誤っていることを,「正しいということにして」放置するのは,

 波風を立たせないことを旨とする「道徳」の社会の話である。

 誤っていることを,「誤りです」と言える立場の人間はだれだろう。

 実はそれは,現場の教師しかいないのである。

 あるいは自分自身も含めて,仲間が誤っていることをしていることを

 証明するような仕事が仕事として成立するのだろうか。

 これが成立できる条件を整えてくれる人はこの国にいないのか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

うんざりする「再放送」,待ち遠しい「再放送」

 学力ネタの記事がほとんど過去の記事の繰り返しのようなブログがあるが,

 こういう「再放送」の類の授業が,学校現場では行われている。

 それが子どもの学習意欲をそぐことにつながっていることに,
 
 自分自身がそうであった人を含めて多くの人が納得するだろう。

 たとえ同じような趣旨の主張でも,二度目に出すときは少し新しい情報を

 入れるとか,たとえを変えるとか,見る角度を変えるなどの工夫がほしいが,

 それができない頭の固さは,

 「これが正しいことだ」「このことを伝えなければならない」と

 自分が強く信じていることの証拠でもある。

 しかし,それが通用するのは,宗教の世界の話である。

 「こんな授業,もう一度,受けたい」という授業ばかりが学校で続くことはない。

 しかし,そういう気持ちを1年間の授業で1回でも受けることができた子どもの

 学力は向上していく。

 子どもは教師への目が変われば,それだけで授業の吸収力がUPする。

 ただ厳しいだけのように見えていた教師が,おもしろい授業をしてくれるだけで,

 学力向上には絶大な影響を与えることになる。

 ある学校には,研究上,絶対的な「掟」がある。

 それは,「他の教師の真似をしてはならない」ということと,

 過去に成功した事例を「繰り返さない」ということである。

 常に新しいものを追究していく意欲そのものが,教師が子どもに伝えていく

 もののすべてである,というのが私の極論である。

 記事も一緒,ついてくるコメントも一緒では,

 期待感もなにもあったものではないが,
  
 思い出したかのようにときどき「使用禁止用語」が飛び出すために,

 監視は続けなければならない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

 
 

仲間ではない人間の目には見えない世界

 LINEでのグループづくりをする能力は,高校生,大学生にとって

 必須のものになっているようだ。

 学校内での会話をする必要はなく,画面を見て指を動かすだけで,

 グループ内でありとあらゆることが決まっていき,

 「共通認識」が形成される。

 こういう「能力」がついたおかげで,これから,

 どのような「能力」が失われていくのだろう。

 40人のクラスで,35人は知っているが,5人は知らない

 「決定事項」がある,というのが学校の現状の例である。

 場所と時間の制約に影響を受けずに,いろいろなことが

 周知されていく世界というのは,「部外者」にとっては本当に

 不気味なものである。

 便利な道具による悪影響が,今後,次々に明らかにされるだろうが,

 「失われていくもの」への危機感を当事者たちは何も感じないで

 「退化」していくことは,本当に気の毒でならない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

限界を超えた「見せかけの学力」と「見たままの学力」の乖離

 東京都の私立高校の推薦入試で使われる合格のための基準は,

 中学校が出す評定をもとに決められている。

 3教科で12以上,5教科で20以上などという形で示される。

 しかし,評定が甘くなっている現状から,期待したとおりの

 「見たままの学力」,すなわち基本的な問題を解いて正解を答える

 能力が出せていない生徒が増えている。

 したがって,「見たままの学力」で具体的な成果を連続して出している

 ことが示されれば,それで判断してくれるという高校が現われている。

 かつて,「偏差値入試」とよばれて批判されていたものだが,

 高校側としては,そっちの「見たままの学力」で判定した方が,

 「見せかけではない学力」もある程度は正しく判断できるという実績が

 積み重なっているために,中学校が出す「見せかけの学力」よりも

 「正しい」合否判定が出せるから,「偏差値入試のどこが悪い」という話になる。

 かつては新聞も真面目に「偏差値入試の問題」を取り上げてくれていたが,

 さすがに「見せかけの学力」の信頼性が失われている状況では,

 「正しい方を間違っていると言えない」という記者なりの勘に基づいて,

 「スルー」する傾向になっているようだ。

 現状は,「見せかけの学力」と「見たままの学力」の乖離が激しい生徒が

 多く,もはや「中学校の評価・評定は信頼に値しない」ことが

 当然のことになっている。

 この問題に拍車をかけているのが,学力調査の結果である。

 この調査と評価・評定の相関をとられたら,ひとたまりもない学校・学級が

 出てくるおそれがある。

 一人の生徒が「たまたま」学力調査ができなかっただけ,

 ではすまされないほど,データはそろってしまっている。

 実態として,ほとんどの中学校の教師たちは,現行の評価・評定システムが

 完全なものだと思っていないはずである。

 その最大の証拠を,明日の記事でご紹介したい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

社会学者の「妖怪」発言と女性議員

 9月はじめのニュースで,ある社会学者の発言が話題になっていたのを知った。

 女性閣僚が非難の対象になっているニュースからのつながりである。

 「妖怪」という言葉に秘められた思いは,各年齢層によって,大きく異なっている

 であろうことがまず念頭に浮かんでいる。

 子ども世代にとっての「妖怪」は,マスコットのようなものである。

 50代くらいまでの人なら,「ゲゲゲ」を知っていれば,「妖怪」らしい「妖怪」を知っている。

 はるか江戸時代に遡ると,葛飾北斎は本当におどろおどろしい「妖怪」を描いていた。

 私には,社会学者の発言の意図がよくわかる。

 なぜなら,そういう雰囲気をまとった人は,女性議員だけとは限らないからである。

 これ以上は書けない。

 昔が懐かしい。

 自分自身を「妖怪」と呼んでいた人がいた・・・いや,「魔女」だったか?

 政治の世界で生きている人は,私たち一般人からすると,「妖怪」そのもののような

 気もするが,実は今年に入ってある衆議院議員の方とお会いできて,

 私の「政治家」像は少し書き換えられることとなった。

 完全に書き換わることは不可能だろうが,人との出会いというのは大事なものである。

 本物の「妖怪」なら,いくらでも自分や身内のミスはごまかせるだろう。

 しかし,少なくとも議員の方々には,誠実でまともな人間であってほしいと切に願う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

一人一人は大勢から教わっている

 一斉授業の問題点を挙げている人の言葉を読むとき,

 指導力のある教師の授業を受けた経験がないのではないかと

 気の毒になってしまうことが多い。

 また一方で,「教師と子ども」という視点でしか,一斉授業のあり方を

 とらえていない人もいることがわかる。

 いずれも気の毒な人たちである。

 子どもにとって,一斉授業では,クラスにいるすべての子どもの意見や

 考えにふれることができる。

 まさに一斉に,Aという考え方に賛成している人と,反対している人を
 
 挙手などで確認することもできる。

 もちろん,自分の意見や考えを,クラスのすべての子どもに一斉に
 
 聞いてもらえることもできる。

 こういう子どもを中心に見た「一斉授業」観というものを,必死に訴え続けていた

 先人たちに申し訳なく思う。

 せっかくの「教育論」も,その「受け手」が不在で役に立っていない。

 ある教師は,おちこぼれをなくそうとして,一斉授業ではない方法で

 授業改善を図ろうとしているのだが,目指すべき場所は,

 一斉授業の場で,「おちこばれ」でも自らの存在感を堂々と示せる

 指導を展開することである。

 最後に,簡単な質問をすれば,中学校レベルになると,

 「理解できた生徒」と「理解できていない生徒」の区別など,簡単にできる。

 また,「理解できていない生徒」をゼロにすることなど,まず不可能である。

 理解水準を極限まで下げれば話は別であるが。

 理解水準を下げて過ぎている事例がたくさん紹介されている。

 最もつまらない授業は,結論がわかっている授業であるが,

 今の時代は,結論を初めから堂々と出して,ゴールにたどりついたらOKなんていう

 とんでもない授業観ですら,悪びれることなく大学でも講義されているようだ。

 別に,授業の達人とか,名人になる必要はない。

 そんなタイトルを堂々と書名に採用させるような,傲慢な人間にもなってはいけない。

 学校の教師は,一斉授業の場で,力量を形成していくのである。

 「学び合い」は,力量形成の場を奪うものであり,子どものためにも,

 教師のためにもならない。

 どうしても行いたいなら,50分授業のうち,5分から10分程度に制限して行ってほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

受験直前で偏差値が上がる生徒

 最初にことわっておくが,これは,子どもには読ませない方がよい文章かもしれない。

 もちろん,私が以下で述べている,「偏差値が上がる」条件をもっている子どもは別である。


 受験までのカウントダウンができる時期になってきた。

 こういう時期に,どのような生徒が学力が伸び,

 あるいは,伸びないのか。

 塾や予備校などは,基本的に「点数」をとらせるための訓練をしてくれるが,

 主に「問題」を通して行われる。


 学校でも,たとえば過去の定期考査問題などを解かせて

 練習させる教師もいるかもしれないが,こちらは基本的に

 まだ履修が終わっていない内容の授業を変わらずに行っていく。

 学校は,「学力」を伸ばすための教育を卒業まで続ける。


 こういう環境のなかで,学校外で受けてくる模擬テストの結果(偏差値)が

 上がっていく生徒を見ていると,そこには昔から変わらない傾向がある。

 それは学校の授業をしっかりと受けている,という共通点である。

 もう少し正確にいうと,学校の授業をしっかりと受けてきた,という点である。


 よく「伸びきったゴム」というたとえが使われるが,

 点数をとるためだけの訓練を受け続けて,「頭をつかわない」ことに

 慣れている生徒というのは,柔軟性がなく,変化に対応できないために,

 全く同じような問題でないと解けない生徒もいる。当たり前と言えば,当たり前である。


 学校の授業では,間違った解き方も,間違った答えも,

 別の方法の解き方も,さまざま登場してくる。

 それだけで混乱して学力が伸びずに,かえって塾や予備校で学習しなおす

 ことで理解できる子どももいるが,少数派だろう。


 機械的に自分だけの答えを書くだけではなく,

 自分より優秀なだれだれだったら,どういう答えを書くだろうか,

 なんていう余計なことを考えられるような生徒は,最後の最後に伸びてくる。


 「問題」で点数をとることは,さほど難しいものではない,それは,余計なこと

 を考えないでよいから,ということに,最後の最後で気づくことができるからである。

 つまり,受験が近づいて偏差値が高くなっていく生徒は,

 「問題」を解いていきながら,答えの導き方をどんどん体得していけている,

 ということである。

 逆に,ずっと「問題」を解いてきた子どもたちは,もう伸びようがないとも言える。

 ちなみに,私が「問題」と書いている問題とは,単純な記憶で解けるようなもののことは指していない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

24時間監視つきの子ども社会

 記事のタイトルは,当初「子どもの24時間監視社会」にしようとしたのですが,

 誤解を招くおそれがあるので,こうしました。

 どこかのニュースで,子どものスマホ利用の規制が各自治体に広がっていること,

 その規制を子どもが歓迎している面があることを知りました。

 子どもたちの生活空間は,学校にとどまらず,

 家庭でも,深夜でも,ネットによって縛られるものになっています。

 LINEなどを利用して,いつでも「会議」が開けるようになった

 「子ども社会」は,ブラック企業よりも厳しい「24時間運営」の世界です。

 常に「監視」されているのといっしょで,

 「仲間はずれ」にされたくなければ,

 オールタイムでつきあいをしなければなりません。

 もちろん,夜9時以降は禁止,などとなっても,

 子どもの「地下社会」はおかまいなしです。

 いくつものグループに参加している中学生は,

 それこそ売れっ子芸人のように,超多忙の毎日を送っているのでしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

子どもは着せ替え人形ではない

 学力向上のための取り組みの多くは,ごくごく「表層的」なものである。

 小学校2年生の子どもの宿題量が増えている。

 「やっとけ」系のこのような課題は,ますます「自ら学ぶ意欲」を奪っていくもの

 であることに,教養があってその地位についているはずの教育長やらが

 気づいて校長に指導しなければならない。

 それが,教育長自らが旗をふっているところもあって,悲しい限りである。

 子どもにいろんな服を着せてもらうのもいいが,

 身動きがとれない子ども,サイズが合わなくて困っている子どもが

 想像できないものだろうか。

 子どもは着せ替え人形ではない。


 私は,研究のために,毎年異なる課題を子どもに取り組ませている。

 実験台のようなイメージもあるため,自分自身には

 「子どもは着せ替え人形ではない」ことを常に言い聞かせつつ,

 すべての子どもにとって学習がムダにならないように指導に生かしている

 つもりである。


 ブログも子どものようなものだが,せっかく新しい住居に引っ越したのに,

 本性が変わらないというのは情けないというか因果なもので,

 また教育の世界を汚すような毒をまいている人間がいる。

 まるごと自分自身のことを,他人にそっくり置き換えて,けなし続けている人間である。

 当事者が読んでいたら不愉快になるだろう,という想像力はだれでも働かせられる。

 人格ごと否定された教師も同様である。

 
 子どもは着せ替え人形ではないが,匿名ブログなどは,看板を替えて

 内容をクリーンにすれば,当事者以外には,いつかは「過去」が忘れ去られる。

 着せ替えはそういう目的ではなかったようだ。

 
 自分の功績(と自分が信じていること)が社会的に認められなかった人間の

 自己顕示欲は,匿名ブログのように書き手の正体が不明の場合は,

 こんなにも強くなるのかと改めて気づかされる。
 
 わざわざ断り書きを入れてくる当たりは,まるで童話に出てくる悪者役である。

 
 子どもたちは,大人たちの汚さを常に感じながら育っている。

 だから本音を建て前でわざわざ隠すようなことを教師がやっている道徳の時間が
 
 大嫌いなのである。

 「俺は偉くはない?だったら,教壇に立って偉そうなことを言うな!」

 と叫びたい中学生はたくさんいるのである。

 
 大人の気色悪い衣装で本当に大切な感性の成長を奪われている子どもが気の毒でならない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

ダビデとゴリアテ ~学力向上策を見直そう~

 イスラエルの人や世界史に詳しい人は,

 ダビデとゴリアテと言えば,何のことかご存じなのでしょうが,

 「ありえない勝利の話」として有名なものです。

 「史上最も有名な決闘」としても知られています。

 日本で言えば「桶狭間の戦い」とか「日露戦争」がそれにあたるのかも

 しれません。

 この話から私が連想したことは,

 「全国学力調査」の結果を受けての各自治体やら学校やらの反応です。

 それぞれ,「逆転」をねらって,「攻め」に転じているといった様相ですが,

 どの自治体も,真正面からの「攻撃」ばかりで,こんな皮肉は失礼かもしれませんが,

 玉砕覚悟の特攻みたいなものです。

 なぜなら,「失敗」に終わった暁に,「戦犯扱い」されるのが,

 教師と子どもという,教育現場の中心にいる人間だけだからです。

 ダビデは,ゴリアテが望んだ一騎打ちに向かいますが,

 ゴリアテが想定した接近戦をしようとは思わず,小石で倒し,

 相手の剣で首を落としたのです。

 学力を向上させるため,学校がすぐに取り組むことは目に見えています。

 それは,華奢な小学生の体に重たい鎧を着せるのと同じ行為になってはいないか。

 小学生に合った武器を探す努力をしているか。

 「必ずしも,剣や槍で戦う必要はない」というダビデのような判断力を発揮できる大人

 はいませんか。

 「答を教えてくれ」とすぐにせがんでくるような思考力のない人間しかいない自治体に,

 未来はありません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

何も語られていないのと同じ教育論

 現場経験のない大学教師の教育論が,とても空疎で何の役にも立たないように

 聞こえてしまうのと同じように,現場教師が語る教育論も,世間の常識と

 かけはなれていて,全く言いたいことが伝わってこない,という批判を覚悟しなければ

 ならないのが教育の世界の話なのかもしれません。

 自分がどういう人間かを伝えたいことは伝わってきても,

 教育については実は何も語っていないことに

 自分自身が全く気づいていないと思われる人の文章によく接することが

 できるのが,こういう教育ブログの世界です。

 塾や部活動の世界というのは,そもそも

 「勉強したい人」「運動がしたい人」が集まるところです。

 そういう世界では,実は「教える人」がいなくても,子どもだけで活動が成立することもあります。

 それが学校の授業ということになると,180度変わった風景になることは

 容易に想像がつくことでしょう。

 すべての子どもがその時間,その場所に縛られて,「勉強しなければならない」場が

 教育現場というところなのです。

 午後3時すぎのことばかり書きたがるような人に,

 教師にとってためになる教育論など,とうてい語れません。

 音楽の授業を受けるなんて時間の無駄だと感じている生徒は,

 どのような態度をとるでしょうか。

 寝ていてくれれば他の生徒に害はないのですが,

 自分たちが好きな歌を歌っていたり,教室の前に出て急に

 ピアノをたたき出したり。妨害のし放題になるのが荒れた学校です。

 そういう行動に対して教師が有効な対処ができない状態を,

 「授業崩壊」といいます。

 荒れた学校の体育の時間は,まさに「自由時間」のように
 
 生徒がスポーツというか,遊びに興じていられたようです。

 音楽や体育のような「実技教科」の特徴は,

 「授業崩壊」している方がよほど子どもが生き生き,伸び伸びしていて,

 やりがいに満ちている姿が見られる時間となりうるということです。

 危険な行動を抑止したり,事故が起こったときの適切な対処ができさえすれば,

 国語や算数の指導力がない教師にも任せられてしまう場所でもあるのです。

 どうしたら,荒れた学校の実技教科が正常な状態で実施できるのか。

 それは,荒れた学校を部活動ではなく,授業など日常の生活で立て直せた

 学校の教師にしか語ることができません。

 私の持論は,「荒れた学校」を生む要因の一つが音楽と体育の教師にある,

 というものです。あくまでも持論ですが。よい学校が荒れていく過程で,

 授業は,この2つの教科から荒れていくことが多いはずです。

 普通教室の中で起こらない荒れは,学校全体からは見えにくいものです。

 しかし,この2つが荒れれば,確実に他の教科の授業の状態にも波及していきます。

 なぜなら,「心」と「体」「身体運用」の乱れがミックスされると,中学生というのは

 とことん「荒れ」始めるからです。

 音楽や体育の教師が生徒と「心の対話」ができないとき,

 授業は死にます。生徒にも教師の「人と対話できない心」が浸透していきます。

 ですから,荒れた学校を立て直すには,音楽と体育で優秀な教師を異動させるのが

 第一条件になります。

 音楽を通して「心」を育てることに成功しているかどうか,合唱発表会などが公開

 されていれば,すぐにわかってしまいます。

 教師が出過ぎていないか,競争させてしまっていないかが重要な観点ですが,

 生徒の顔を見るだけでわかります。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

小中学校にお薦めの「学力向上策」

 小学校ならすぐにできる校内研修のテーマ。

 「学力調査の質を上回る良問の研究」ではいかがでしょう。

 B問題を,その学校ならではの情報を盛り込んで,

 「ご当地ネタ満載の学力調査問題」を作成し,

 定期的に小3くらいから解かせ始めるのです。

 宿題として家庭に配布してもかまいません。

 そして,「より良問」にするために,意見を収集するのです。

 校長がとりまとめます。

 そして,「次の年度の調査に使ってほしい問題」として応募し,

 国立教育政策研究所では,そこからさらに良問を選りすぐって,

 磨きをかけた上で出題する。

 中学校の場合には,定期考査で,必ずB問題風の問題を出題する。

 定期考査問題は,校内研修で他教科の教員にも目を通してもらって,

 練っていく。

 場合によっては,中学校の教師が,小学生向けのB問題をつくっても

 かまわないでしょう。

 そして,中学校に進学する際には,必ずその中学校の教師が作った

 問題を解いてからくる。これを,クラス分けの資料とする。

 入学試験のようなイメージもありますが,

 こういう環境を自治体がつくれば,小中連携の柱とすることもできるでしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

経営側が「人の成長」をつぶす組織

 日本のある球団の,経営側とかつての有力選手たちのわだかまりは有名な話となっている。

 監督の受け手がいない,などというのは

 管理職のなり手がいない,と嘆いている教育の世界にも似ている側面がある。

 組織を支えている人間というのは,単に高い数字をたたき出している者だけとは限らない。

 スポーツの世界でも,数字には表れていない,チームへの貢献の大きさというのは

 ベンチで戦いを見てきた人間ならとてもよく分かっている話だが,

 経営側がそういう「現場」を知らずに,数字だけで物事を判断し,

 「血が通っていない」人事を行って,信頼関係を失っていけば,

 だれも監督という「貧乏くじ」は引きたがらなくなる。

 知事の興奮を抑えることができない,飾りにすぎぬ教育長の場合は,

 指をくわえて「信頼関係の破壊」を眺めているだけになる。

 教育の世界は,「人」で成り立っている。

 公教育の場合,「カネ」でよそから買ってきて補強する,というわけにはいかない。

 管理,経営する側の人間の質が劣っているのは,

 自ら組織の価値を貶めるような行動をとっていることからも明らかである。

 教育の世界で同じような問題を起こさせないようにするための重要な手段は,

 教員がよりあつまって管理職に楯突くことではない。

 教育の世界は「数字」でうかれたりしずんだりする場ではないことを,

 態度で示すしかないのである。

 それはつまり,テストというのは100満点ではなく,200点を目指して

 努力させるという意気込みなり価値観なりを教師と子どもが共有することである。

 100点満点のテストで,200点分の価値が出せる出題を教師は工夫すべきである。

 何のことか意味がわからない人には,それは自分が受けたことがないテストが

 この世界には存在するのだという事実だけを知っておいてもらいたい。

 授業で学んだ内容を試すテストで100点満点をとるのは当然のことである。

 それだけなら,評定上は「3」でよい。観点別なら「B」である。

 どうしたら「4」とか「5」がとれるようになるのか。

 そのためには,「人の成長は無限である」という教育観が不可欠である。

 成長の機会を奪うような教師,管理職,経営者にはなってはならない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

中学生の学力を向上させたければ,教科学習以外の面を充実させること

 学力向上を研究テーマにするとき,ほとんどの学校は

 教科の指導法などを改善しようと努力します。

 しかし,教師に本来は任されているはずの教科指導に手を入れなければならないような学校では,短期的な成果をあげることはおろか,中長期的にも難しいでしょう。なぜなら,公立学校の場合,時間がたてば教師は異動でいなくなるからです。

 学校をあげて大きな変化を起こそうとしたら,教師がどんなに替わっても,

 変わることのない取り組みを始めるしかありません。

 そういうことを大学の教師は教えてくれないでしょうね。

 せいぜい年間に1回か2回の研修にしか呼ばれないような人間には,

 自分の研修の成果を確かめるような「自己評価」の機会も与えられていないから,

 「変わる実感」と「変わったよい状態が継続できている=変わらない実感」を

 味わうことはできません。

 学力向上を本気になって取り組みたい学校では,

 最初に「聞く力」の追究をテーマにすることをおすすめします。

 「言語活動の充実」を図ろうとしている学校が陥っているワナは,

 「話す力」を高めることを重視しすぎて,「聞いて考える力」が全く養われていない

 ことに気づけないことにあります。

 発表する方ではなく,それを聞いている方に教師は注目し,理解できているかを

 評価しなければならないのです。

 今,はやりは,「ユニバーサルデザイン」=「UD」でしょうかね。

 「視覚化」などという,視覚障害者をバカにしたようなモデルを平気で提唱している

 意味不明な「ユニバーサルデザイン」ですが,黒板に書く以前に,

 「聞いて考える」あるいは「読んで考える」

 力がないのに,「話す力」がつくわけありません。

 英語の日常会話のように,「思考」を伴わない条件反射的なコミュニケーションが

 いくら上手になっても,グローバル人材になる道は遙か彼方です。

 生徒の「聞く力」はどのようにすれば育つのでしょうか。

 それは,生徒に「語らせる」ことです。

 何?「話す力」のことか?と思われたかもしれませんが,

 「語り」は独り言でもよいのです。決まり文句でもよいのです。

 理想は,本心から「伝えたい」と思えることを「伝えさせる」ことです。

 さらに大切なことですが,生徒が「伝えなければならない」と思える
 
 ことは,あまり教科の学習の中には登場しません。

 生活です。日常的な,学校生活の場面です。

 「伝えなければならない」状況に,どうしたら,多くの生徒を導くことが

 できるか。生徒の自治活動です。

 「学年集会」を中学生に企画させてみて下さい。

 私の学力向上策の第一歩は,生徒主催の「学年集会」にありました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

中3の平均点が200点代前半だった学校が,なぜ3年後に300点代後半をとれる中3を育てられるようになったか?

 ここ2度ほど,長期研修のため来校された先生方に,私が別の勤務校で発行していた

 学年だよりをお見せして,学年経営のお話をしていたのですが,今回,

 私が異動して入った最初の年の中3と,異動して4年目の中3の5教科のテストの

 得点分布にたまたま目がとまりました。

 異動してきたばかりのときは,とにかく荒れて大変な学校でしたが,

 それだけではなく,低学力に悩まされていました。

 なにしろ5教科のテストで,合計が200点に満たない生徒がたくさんいたのです。

 100点以下も,十数人という単位でいました。

 その子どもたちを卒業させ,新たに迎えた生徒が中3になっていたときのテストでは,

 平均点が360点くらいになっていました。

 小学校の教師には,12月時点の中3実力テストのこの差が何を意味しているのか,

 想像しにくいことでしょう。

 3年間(4年間)で,何が変わったのでしょうか。

 まず,5教科の授業を担当する先生が,すべて入れ替わりました。

 それがすべてです・・・なんていったら,中学校での研修もくそもありません。

 だれがその中学校の教師であるか,だれが教えるかがすべてになってしまいます。

 そういうことがわかっている塾や予備校の世界では,いい先生は

 いい給料がもらえるところにどんどん引き抜かれていきました。

 教師がすべてである,という話は,公立学校の教育の世界では,

 「建前上,語らない」ことになっています。

 それを口にすることは,禁止です。

 そのおかげで,研究が成立し,研修のために教師を派遣してくれる自治体が存在するのです。

 では,そういう研修では,どうやって先生方が納得できる内容にふれることができるのでしょうか。

 私の場合には,そのすべてが「学年だより」に書かれているので,実際に読んでもらえれば

 わかります。ほとんどが実践記録,生徒の言葉,保護者の言葉で満たされた学年通信です。

 親は,基本的に自分の子どもの姿と,学年だよりでしか,学校の様子を知ることはできません。

 しかし,たったそれだけで,親の信頼を得るには十分でした。

 親からのしっかりとした信頼,信用を勝ち取った学校は無敵です。

 学力向上など,あっという間です。

 3年前が嘘のような学校になってしまったのです。

 では,どのようにすれば,そういう信頼,信用を勝ち取ることができるのでしょうか。

 教師から,こういう「価値観」を排除することです。

 ・・・めんどうくさい。

 ・・・忙しくてだるい。

 ・・・早く家に帰りたい。

 この3つを捨てることができれば,学校は変わります。

 子どものためを思って,

 仕事をするのが楽しくて仕方がない。

 子どもと最高の関わり方ができるよう,その果実を想像しながら

 たくさんの準備をする忙しさに充実感を覚える。

 家に帰るのを忘れる。

 そういう教師が子どもを変え,保護者を変え,学校を変えるのです。

 もちろん,これは若い教師,自由がきく教師にしかできないかもしれません。

 私が学年主任として,5年間,その学校にいたのは30代前半のときでした。

 土日も家にいないお父さんでも,充実した生活が送れる家族をもてる人はごく少数でしょう。

 いくつかの幸運に恵まれないと,学校は変わらないと思います。

 こんな話,企業で言えばブラックそのものでしょう。

 違うのは,教員の給料が高いということでしょうか。

 校務分掌はおろか,授業もろくにできない人間でも数百万円の年収があるのが教師です。

 給料分くらい,せめて働け,なんていうことを校長が言おうものなら,

 黙っていない教師はたくさんいるでしょう。

 そう言われて反発してしまうこと自体が信用されない最大の理由であることは,

 実は自分たちが一番よくわかっているはずです。

 学校は,教育という仕事に人生をかけることができる人にしか,変えることはできません。

 流行にふりまわされ,はやりに飛びついているような人間たちに期待する親はいません。

 実際に「変わった学校」をモデルにしていただくのが一番です。

 研修の先生が,過労で倒れてしまわないことを祈っています。

 若い人の心に,教育への情熱をふるいたたせるような「粘り」を見せてください。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「校長先生の宿題(課題)」がある学校

 前の記事では,指導方法や指導体制の工夫改善など,

 個に応じた指導の充実を学校が図る上で,

 校長先生が果たす役割が非常に大きいことを述べた。

 このことは,もちろん学習指導要領総則の解説編でもふられている。

 本日,研修で来校された先生の学校では,

 「校長先生が出す課題」というのがあるそうだ。

 数学の教師だった校長先生は,自校の学力調査の結果を伸ばそうと,

 がんばっていらっしゃるらしい。過去問を解かせているそうだ。

 数字ではっきりと表れる成果というのは,底は浅いかもしれないが,

 とても「わかりやすい」努力の証明となる。

 子どもの立場からすると,こういう

 「校長先生からの宿題」が増えることは,もちろん歓迎されるべきことではない。

 しかし,学校の姿勢というのは,確実に伝わるはずである。

 「数学で高い点数をとれるようになることを求めている」

 というメッセージは,とてもわかりやすい。

 そこに,校長先生が直接,指導で乗り込んでくる,となれば,

 数学の教師も,子どもも,ぼーっとしているわけにはいかなくなるだろう。

 数学の教師への指導が先であるはずだ,と思う人がいてもよい。

 しかし,すぱっと教師の指導力向上は「あきらめている」というメッセージに

 なったとしても,気にしそうにないのがいかにも「数学」の先生らしい行動である。

 「社会科」の先生にはできない。

 教師には,それぞれの「持ち味」がある。

 校長の独走系で動ける保守的な風土の地域では,

 こういう動きが加速してくるかもしれない。

 どうこう言う権利はないが,どちらかというと,そういう動きは「おもしろい」と感じる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

 

小学校教師が勘違いしている「個に応じた指導」

 校長や副校長,教務主任がしっかりしている小学校,あるいは,

 教育課程届けを受理するときに,適切な指導ができる指導主事がいる自治体では,

 指導計画を作成する段階で,次の点に関する具体的な指導のあり方を

 決めているはずである。

>各教科等の指導に当たっては,児童が学習内容を確実に身に付けることができるよう,学校や児童の実態に応じ,個別指導やグループ別指導,繰り返し指導,学習内容の習熟の程度に応じた指導,児童の興味・関心等に応じた課題学習,補充的な学習や発展的な学習などの学習活動を取り入れた指導,教師間の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し,個に応じた指導の充実を図る

 最も重要な役割を果たすべきなのは,校長である。

 最近の調査では,小学校の校長も授業をただ参観するだけではなく,

 授業の指導を行ったり,参加したりしているようである。

 「すべての子どもをすべての教師が育てる」という態度が,学校には求められている。

 開かれた環境をもつ小学校では,すべての教師の週案をだれもが閲覧でき,

 学習指導について経験豊かで研究歴も多い教師が,指導計画を見て,他の学年の

 若い教師に直接アドバイスできる仕組みができているはずである。

 学校全体で広く意見交換ができる雰囲気をつくれるかどうかは,校長の力量にかかっている。

 ほとんど同じ内容を,毎年,他の教師が繰り返して教えている小学校では,

 児童の学力にかかわらず,成果が出たり出なかったりする。

 誰にどの程度の力が足りないかは,校長ならわかっているはずである。

 だから児童に個に応じた指導を行うための大前提には,

 教師に対する個に応じた指導が必要なのである。

 時間がないからといって,力のある教師が,本当に自分の学級の子どもだけの

 めんどうを朝から晩までやっている,というのは,校長としては見過ごすべきではない

 「自己満足」である。

 学校には,校長,副校長,教頭,主幹教諭,指導教諭,教諭,養護教諭や栄養教諭など,様々な専門性をもつ教職員がいる。

 それぞれが孤立し,独自の教育を自分の学級の子どもたちだけにやっている,

 などということが許されてよいはずがない。

 「おれは忙しいから手は貸せない」などという傲慢な教師が育てる子どもには,

 同じような閉鎖性が人間性の根っこから染みついてしまう。

 「学級引きこもり人間」を小学校から一掃し,開かれた学校環境をつくることは,

 校長にとって非常に重要な責務である。

 学年単位,部活動での異年齢集団単位で動くことが多くなる中学校に,

 「学級引きこもり系」の子どもは不適応を起こしてしまう。

 小学生とはいえ,一人一人,能力・適性,興味・関心,感受性,性格,担任との相性などは,

 すべて異なっていると考えてよい。その対応を一人の担任教師が行うのは無理というより,

 「不適切」である。

 中1ギャップのもとにもなる,担任依存症の子どもをつくらないためにも,
 
 多様な見方・考え方,感受性をもった大人とのふれあいを増やしてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

個を生かすためには個を自立させることが大事

 日経ビジネス10月6日号の有訓無訓で,ある会社の顧問が紹介している

 「三行提報」は,従業員にとってはつらい習慣かもしれないが,

 「個の尊重」といった場合にはそれだけ能動的な行為が求められる,という

 教訓にも感じられる。

 国内の全社員はもちろん,海外の幹部層も含めて合計2100人が

 社長宛に毎日,提案や仕事の中での気づき,自分なりの分析を

 3行(127字)にまとめて出すというのが「三行提報」だそうだ。

 私が校長なら,「3行日記」を全生徒に義務づける。

 今日一日で学んだ最も大切なことを,毎日3行ずつ記録していく。

 中学校3年間,夏休みや休日を含めれば1000日以上,

 授業日だけでも600日以上はある。

 卒業するまでに,2000~3000行の記録となる。

 これらは常に電子化して・・・つまり,iPadを活用するなどして,

 まとめておき,全教員が閲覧できるようにしておく。

 その分析や指導に関する研究を3年~5年くらい継続して行う。

 iPadの利用が当たり前になっていく世の中では,さまざまな

 学習や教育の履歴が,一人一人の人間の財産になっていく。

 生涯教育の本格的なスタートを,中学校生活で始められる時代が来るだろうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「すべての子どものため」=「特定の子どものため」

 「すべての子どものため」という理想を教育で実現しようとしたら,

 「特定の子どものため」の支援が必ず必要になる。

 それを,子どもたちに丸投げしてしまうのが極端な「学び合い」である。

 「学び合い」の場面としてとても有効的なものは,学級の自治会とか,

 行事の運営にかかわる面とか,特別活動や道徳にかかわるテーマが

 望ましい。

 教科の指導では,極端な「学び合い」は不向きである。

 小学校では,教科で指導すべき内容が「すかすか」で時間に余裕が

 あるため,ある程度の「学び合い」は許容される。

 しかし,中等教育の世界に入ってまで教科で「学び合い」に重点を

 おけば,大失敗が待っている。
 
 大失敗が大失敗で終わらないように見えるのは,ただただ

 教師の指導力が乏しいからにほかならない。

 教師が教えても,生徒が教え合っても同じだというのなら,

 教師は必要ない。

 ICT機器の活用にしろ新しいカリキュラムの導入にしろ,

 もし「すべての子どものため」という理念を掲げたいのであれば,

 それは「できない子どもをできないままにしておかない」という

 当たり前の指導が必要となる。

 授業力の向上には,まずは個人指導から入っていくという研修方法も

 考えられるのではないだろうか。

 目の前の一人の子どもに「理解させることができない」学生には,

 教師になる資格はないだろう。

 ICTを活用すれば,どれくらい子どもの理解を助けることができるのか,

 そのような観点で研究をしていた教師で,ある一定の成果が得られた人なら,

 たった一人しかその対象となる子どもがいなくても,

 授業で機器を活用する努力をすべきである。

 「すべての子どもを」とうわごとのようにつぶやいている教師の中には,

 「すべての子どもが使えないとだめ」という妄執がとりついている場合がある。

 「すべての子どもを」という用語を使っている人間は要注意である。

 「一人一人の子どもを」という発想で教育は語りたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
中学校教育 ブログランキングへ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

道徳教育の真の恐ろしさ-3

 そもそも日本の学校教育には儒教的な道徳が色濃く残っている面があって,

 「教師を敬え」「仰げば尊し」を子どもにオーラで迫る教師が

 生活指導の一端を担っているところが多い。

 授業でも儒教的な道徳のスタイルが援用される。

 自分が行っている一斉授業は,放送大学の講師とテレビ番組での池上彰

 の授業を比較したら,どちらのタイプに近いと感じるだろうか。

 教育学者が論文などで書いている「一斉授業」のイメージは前者が圧倒的に多いが,

 優れた教師に習ってきた優れた生徒たちとは共有できない価値観である。

 もし道徳教育が,「儒教的な精神」を植え付けるのが目的ならば,

 学校という場所はとてもやりやすい面がある。

 特に中学校の場合,進学に使う資料で道徳の評価が加味される

 となれば,子どもは教師に従わないと損になる。

 今回も道徳教育だけではなく,他の教科の評価にもあてはまることだが,

 「評価」という取り組みがあることによって,本来の目的が破壊される

 というのが教育の「真の恐ろしさ」である。

 評価規準というか,目標となる「行動にうつすべき確かな価値観」は
 
 はっきりしている。

 それに向けて努力する姿だけを見れば,「教育は素晴らしい」ように思える。

 しかし,それが「評価のため」だけである可能性があることを教師は知っている。

 ボランティア活動への参加が高校入試に有利になるなら,喜んで参加するという生徒もいる。

 「その方が得だから。」

 つまり,「自分にとっての利益がある」ことが行動を起こす原則になっており,
 
 「奉仕の精神が養われた」とは言えない可能性があるということである。

 子どもは「大人が求めている姿を演じる」という「生きる力」をもっている。

 「演じる力」と「真実の力」が区別しにくいのが教育とその評価の難しさである。

 だから,逆に,「強制だ」と言い切ってしまって何でもやらせることの方が,

 「正直な人間」を育てるのには向いているかもしれない。

 ただひたすらつらいことだけをさせて,「耐える力を育てる」というのも,

 保護者などからすれば「喜んでどうぞ。どんどん鍛えて下さい」「かわいい子には旅をです」

 などという声が殺到するかもしれない。

 自発的な力が,自発的なものとしてしっかり発揮できているかどうかは,

 「評価しない」ことが大前提になっているのが真の道徳教育である。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

たった1人のための電子黒板

 ICT機器に対する批判を書くのはたやすい。

 教師の側にそれを使いこなす能力がないから,という程度の理由でも説得力がある。

 私が活用している電子黒板は,プロジェクターとパソコンソフトで行うもので,

 ホワイトボード型の高価な商品ではない。

 ホワイトボード型よりも大画面で表示できることと安いことがメリットである。

 黒板にスクリーンのシートが磁石でとまるしくみで,

 スクリーンをはずせば普通の黒板を書き続けることもできる。

 では,ホワイトボード型の電子黒板は必要ないのか。

 私は,ぜひ小学校の全教室に置いてほしいと思う。

 単純に,今,教科書のどこを学んでいるのかを示すだけでもよい。

 学習の進度が遅い児童にターゲットをしぼって,

 その子のためだけに活用するという方法も考えられる。

 多くの小中学校では,「個に応じた指導」などと教育課程届けではうたっておきながら,

 実際には生活指導の個別面談だけをして「やったつもり」になっているところもある。

 学習の習熟に遅れがある子どもに,

 どのような「個に応じた指導」を授業時間内に行えるか。

 その一つの答えが,電子黒板などのICT機器の活用である。
 
 高価な機器ではあるが,たった一人の児童が,

 その教育効果を享受でき,将来は,ICT関連企業を興す時代の先駆者になるかもしれない。

 自分が習得した知識をただ垂れ流すだけの教師にしか接してこなかった児童は不幸である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

3分の2世紀先輩の勇姿

 私が今,教えている生徒たちから見ると,私は3分の1世紀ほど先輩である。

 私から見て,3分の1世紀ほど先輩である方を招いての学習会があった。

 生徒から見ると3分の2世紀先輩である。

 お話は,時に脱線し,先を促す勇気をふるう司会役の生徒の姿も印象的であった。

 1時間の学習内容は非常に濃密であった。

 たった10分ほどだったが,10人以上の生徒の質問にもてきぱきお答えいただき,

 最後は記念写真で終わり・・・・のはずだったが,

 その後も先輩に質問に来る生徒が多かった。

 先輩は,傾きかけている夕陽を浴びながら,立ったままで

 多くの生徒の追加質問に答えていた。

 先輩たちが,どのような未来を後輩にたくそうとしているのか。

 受け止め方は様々であろうが,まだまだ知らないことが多い。

 毛沢東が話していたことを直にその場で耳にされていた方である。

 本には載っていない意外な話も飛び出した。

 生涯現役という人間のお手本のような勇姿であった。

 あと3分の1世紀がすぎると,子どもが自分の年になり,自分が先輩の年になる。

 どんな社会になっているか,

 どんな社会になっていてほしいか,また子どもたちと語り合いたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

子どもと ICT に見捨てられていく教師

 今までは,ICTなんて利用しなくても教師の「馬力」でどんどんできたことが,

 ICTに頼らないとできない時代になってきている。

 仕事が楽になるからなどという不遜な動機でICTに向き合う者も

 あとをたたない。

 ICTの導入を図る前に,ぜひ試してほしいことは,

 ICTを授業で駆使できる教師に,自分の姿を見てもらうことである。

 何がICTによって補完でき,何がより学習の質を高められるのか。

 正直な話を聞いてみるのがよい。

 ICTにふれる前に,自分がなすべきことをすべきである。

 現代は,子どもだけの力で,学校で教師が展開する授業よりも

 よほど魅力のある学習をICT機器で実現できてしまうような時代である。

 ICT教育の看板を上げたり下げたりしているうちに,

 やがて「あなたみたいな教師は必要ありません」と突きつけられる

 時代がやってくることも想定に入っているだろうか。

 予備校につとめている講師たちの厳しい環境を記事で読んだ。

 学校の教師は,「公務員」という立場にあぐらをかいていられるため,

 たとえば・・・・文句をたれているだけでも,定額の給料がしっかりと

 振り込まれる存在である。

 やがて自分にかかっている看板が,あって当たり前ではなくなった

 とき,どう仕事に立ち向かえるのか。

 自己満足ではなく,第三者にどうやって自分の授業の質の高さを理解

 してもらえるようにするのか。

 大事なのは,看板ではない。

 単純な話。自分が受け持つ子どもたちが,学ぶ意欲をもてるようにすることである。

 ICTが意欲を高めるのは,単純な話,子どもが教師よりも期待しているからである。

 学ぶ意欲は,文科省の学力観では,「学力」の範囲に入っている。

 それは,ICTによって高めることも不可能ではないが,持続性はない。

 持続できる学ぶ意欲は,どうしたら持たせることができるのか。

 だれでも答えられる質問だろう。

 基礎・基本となる知識や技能をしっかりと定着させることである。

 土台がないと,単なる気分でやりたい,やりたくないが

 決定する気まぐれな人間になってしまう。

 「基礎・基本の重視」・・・あまりにも当たり前すぎて,そんなこと,

 みんなわかっているだろう,なんて言っている人間が,最もわかっていないこと。

 同じ内容の繰り返しばかりしている教師からは,

 学ばない意欲?をもつ人間が育ったり,

 意欲が持続しない子どもが育ったりしていく。

 「基礎的・基本的な知識・技能」が活用できる環境をつくること。

 これも,ICTではなく,教師が整える。

 その環境に,ICT機器が選択肢として入ってくる場合はある。

 ただ文句を垂れ流してばかりいる教師は,

 何も学べない人間はせっせと育てていってくれていることでしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
 

看板をかけかえるだけで同じことを繰り返す教育界

 教育界は,人から注目を浴びられるようなキーワードを待望するクセがあります。

 実際には,目先が変わっただけで,中身には変化なし。

 同じ内容が周期的にただ繰り返されているだけのブログがありますが,

 看板を変えただけで中身が同じというのが,

 今の教育の姿とぴったり一致しています。

 流行に乗ろうとしているのは,本当に表面的なものだけで,

 本質的なものを突き詰めていこうとすると,

 結局,「当たり前にできるはずのことができていない」状態を

 何とかしなければならないことに気づきます。

 学力調査の結果が下位だ,とあせっている県はあっても,

 上位の県で「こんな低い点数しかとれていないことは大問題だ」

 などと言える人はいない。

 相対評価がいかに人間の心理を動かすかが決定的に

 わかりやすい事例です。

 絶対評価の「実際の評価」から見て,あまりにも甘い評価が

 まかりとおっていることが明白にわかるはずのものが,

 全国学力調査の結果であるはずでした。

 中教審の答申が出ると,新しい学習指導要領の「目玉」探しが

 行われます。

 そのために知恵をしぼることは,子どもを相手にしていない行政の
 
 お仕事。

 現場の教師は,ただひたすら「できないものをできるようにする」

 努力を積み重ねていくだけです。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
 

 

道徳教育の真の恐ろしさ-2

 道徳教育に限った話ではないが,

 教師が「A」ということを教えようとして,

 生徒が「A」ということを学ぶという当たり前のことが,

 簡単にいく場合とそうでない場合がある。

 A=自分に正直になること

 を例にとると,

 うまくいえば,自分をいつも何かでとりつくっていた生徒が,

 本当の自分を表現できるようになるかもしれない。

 しかし,それを強制するようなものは「教育」ではない。

 道徳教育の恐ろしさとは,たとえば,

 教師が「A」ということを教えようとして,

 生徒が「Aとはどうでもいいことだ」を学ぶ可能性があるということである。

 教師がAに対してどういう価値観を抱いているかは,

 教師の言葉はもちろんだが,態度でも伝わる。

 言葉はなくても,態度で伝わる。

 もちろん,誤解がおこる可能性もある。

 「A」を学ばせよう,と教師が考えていても,生徒が「B」という価値の方を学ぶ,

 ということも起こる。

 実は,教育の現場でもあまり意識されていない可能性があるのは,

 この「Bを学ぶ」という効果である。プラスの意味での波及効果である。

 Aとは異なるBを生徒が学べた場合,

 生徒の側では「自分の力で学んだ」という実感がわく。

 こうして学んだBは,生徒の血肉になっていく。

 教育の恐ろしさとは,このBが「善」の世界に入るものならよいのだが,

 「悪」の範疇に入るものである場合が考えられることである。

 こうやって教育の怖さを突き詰めて考えてしまうような人は,

 きっと小中学校の教師にはなれない。なれても自分が病んでしまう可能性がある。

 大学にいた方がよい。

 今,大学の生徒指導というか,メンタル面での指導も大変だそうだから,

 もはや教師の「逃げ場」はどこにもないのかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

道徳教育の真の恐ろしさ

 多くの小中学生は,「道徳の時間」が苦手というか,嫌いです。

 多くの教師も,その時間の指導には苦労しています。

 真の価値は言葉ではなく,体験を通して学ぶ,という当たり前すぎることが,

 限られた1週間のうちの50分の「道徳の授業」ではできないわけですから,

 当然,「ふりかえり」や「見通し」のための50分になりがちです。

 私が今日,道徳教育の「恐ろしさ」について簡単にふれておきたいのは,

 「子どもは教師の誘導にのりやすい。当然,素直な子どもほど。」

 という,これも当たり前すぎることを前提にした話です。

 教師がもっている価値観なり社会観なりは,

 それなりに生徒に「転移」します。

 しかも始末に負えないのは,教師が一時的に強い感情を込めて

 語るような内容が,・・・・実は教師にとっては一時的な感情なのですが・・・・

 子どもにしっかりと刷り込まれることがあるのです。

 ある人が,

 「土地の私有はおかしい」という感想を述べたものとします。

 「資本主義の国なんだから,おかしいもんか」と

 だれでも反論したくなる話でしょう(日本などでは)。

 しかし,ある一定の長さのストーリーのなかでふれられた言葉だとしたら,

 そういうわけにもいかなくなるのです。

 私が知っているのは,「福島」や「水俣」の問題を考える際のことです。

 そもそも,この地球表面の一定の範囲を,一人の個人が独占できるという傲慢さが,

 信じられないことである・・・・なんていう話に中学生なら乗ってきてしまう

 危険性のあるストーリーがあるのです。

 人間の傲慢さを戒めようとする題材が,本来あってよい価値観を破壊するおそれがあるのが,

 道徳教育の恐ろしい一面です。

 私有財産制はいかがなものか,などという思いに導くストーリーに

 日本人を浸らせないための占領政策がどのようなものであったか,

 戦後の歴史に詳しくない人でもご存じでしょう。
 
 このような例は,道徳教育の場合,いくらでもあるのです。

 国は,だからこそ,「検定済教科書」が出せる方向性に進もうとしているのでしょう。

 もちろん,そういう教科書によって,

 「いざというときは,国のために命を投げだそう」

 と思う子どもが増えるかどうかはわかりません。

 「道徳教育」に反対がある人はいないのです。

 しかし,「道徳教育」に危険性があることを感じている人はたくさんいるのです。

 現在の道徳の時間も同じなのですが,

 何がこういう問題を解決してくれるのでしょうか。

 一番よいのは,「記録ノート」をつくることです。

 固く言えば,「議事録」のようなものです。

 ただし,発言した生徒名や,発言に出てきた生徒の個人名はふせておきます。

 教師の話が多くなる場合もあるでしょうが,そのポイントを生徒がメモしたものを,

 学級日誌のような形で残しておくことを義務づけるのがよいでしょう。

 基本的に,この内容を自由に閲覧できる仕組みをつくることが,

 「道徳教育」への不信感,不安感を払拭してくれることになるでしょう。

 「道徳の指導記録」をしっかりと持ち続けている教師はどのくらいいるでしょう。

 他人がつくった計画だけが,ただファイルに綴じ込まれている,

 なんていう仕事術では,きっと指導要録の内容も信頼性に欠けるものになってしまいます。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より