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「きまりの意義」「決定のしかた」を学ぶ中学校の公民的分野

 法教育の実施が小中学校にも求められるようになった背景には様々なことがあるが,

 私は日本の伝統的な問題解決の方法の確認をする,という意味での重要性に注目したい。

 法律の専門家を頼るようなリーガルコードの国ではなく,

 当事者どうしの話し合いで解決することをよしとするモラルコードの国であることを確認しておきたい。

 もちろん,当事者が国と個人という関係になると,法律の専門家に助けてもらう必要もあろうが。

 中学校では,3年生の社会科で,「きまりの意義」「権利と義務」などの学習を行うことになっているが,

 実は小学校でも,中学校に入学してすぐにでも,

 「多数決で決める」ような場面を経験することになる。

 中3の7月か9月に始まる公民的分野の学習で初めて目にするような情報であっては困るというのが実感である。

 さて,「きまりの決め方」については,

 1 全員で話し合って決める

 2 代表者で話し合って決める

 3 一人で決める

 の3つの方法が,

 「採決のしかた」については,

 1 全員一致

 2 多数決

 という方法があり,

 それぞれの長所や短所が教科書にも示されている。

 どういう場合に全員一致が望ましいか,

 多数決で決まった場合でも,少数意見を尊重すべきことなどは,

 「法」というよりも「道徳」のレベルの話である。

 日本では厩戸王の時代からあったことになっている。

 さすがに中3らしい内容もあって,

 「きまりは変更できる」こと,

 「きまりを評価する視点」もおさえなければならない。

 後者については,「効率と公正」という考え方で理解させるようにしている。

 「公正」には,「手続きの公正さ」と「機会や結果の公正さ」という2つの確認事項がある。

 ここ2年間の高校入試問題でも,具体的な事例を通してこれらの考え方が

 理解できているかどうかをみる問題が出題されている。

 こういう時代に,

 「先生が決めたことにただ従っていく中学生像」は望ましいものではない。

 「決める場面」を教師に勝手に決められる,

 「決めること」を教師に強制されるようなことはあってはならない。

 何度か紹介しているが,ある退職教員の指導事例を紹介する。

 部活動に遅刻してきた生徒がいた。

 そして,「全員が来られる時間を決めろ」と指示した。

 結果として,「集合時間を遅らせる」という決定を生徒たちが下した。

 時間どおりに参加していたほとんどの生徒は,

 遅刻してきた生徒につき合わされるという結果になってしまった。

 そして,当然のことだが,遅刻した生徒が,集合時間が遅くなったからといって

 遅刻せずに時間通りに来る保障はない。

 これでまた遅刻したら,

 「自分たちで決めたことが守れないのか」

 という怒号が飛ぶのだろう。

 「きまりを変更する理由」として,「1人がルールを守れないこと」

 が妥当なものであると考えることはできない。

 今の教育は,こういう「おかしな発想」をする教師を「おかしい」と言える人間を育てようとしている。
  

 「私たちの生活と命に関することは,先生だけでなく,自分たちにも議論したり決定したりすることができる権利があるはず」という発想がもてる中学生を増やしたい。

 「それは先生たちが決めることだ」という思考停止状態から,どうしたら抜け出せるかを考える教師が1人でも多く現場に立てるようにしてもらいたい。

 残念ながら,採用試験の面接の段階では,「浅はかな人間」と思われてしまうリスクがあるため,胸の奥にしまっておく必要がある。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より