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2014年9月

今世紀初の親睦会

 先日,ある組織における「今世紀初の親睦会」に参加した。

 十数年のブランクを経て,「再開」された教員の親睦会である。

 私は組合には入っていないから,そっち系の親睦会ではない。

 純粋に,子どもを通じての関係は深いものの,なかなか顔を

 あわせる機会のもてない教員の親睦会。

 当然,「飲み会」で締めくくられる。

 次回は,「飲み会」を先にやって,親睦会を行い,さらに「飲み会」を
 
 行うという,「日本シリーズ形式」というプランも提案されたが,

 どうなるかわからない。

 しかし,「今世紀初の親睦会」というだけあって,滅多にできない

 大切な機会である。

 こういう「親睦会」が,教師の世界から縁遠くなってどれくらいたつだろうか。

 組合も弱体化し,自治体組織頼みの会ばかりになっていないか。

 特に「ボス」がいるわけではなく,

 声をかけあって集まる会。

 もちろん,こういう会に全く参加しない教師もいてかまわない。

 私はお酒が飲めないから,飲み会が待ち遠しいというわけでもない。

 会自体が「大切だ」「貴重だ」と思うから参加しているのである。

 小言を書こうと思ったが,やめた。

 言いたいことを直に言わないのが,日本式のマナーである。

 幹事の方々には感謝したい。

 今世紀二度目の会が待ち遠しい。

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ひとりぼっちでは,教育は語れない

 これから1週間の間に,多くの国の方々の訪問を受ける。

 授業を参観されたり,体験をされたりするプログラムが用意されている。

 こういうときの,「見た目の派手さ」を私は今まで気にしないできたが,

 ほんの些細なやりとりを外国の方々と生徒がするだけで,

 とても「派手」なシーンができあがる。

 言葉ではなく心がつながっていることが,映像から伝わってくるような

 シーンが撮影できるだろう。

 その空気感の中に,次のステップへの大きなヒントが隠されていそうな

 気がしてならない。

 教育現場には,こうした「期待感」の持続がとても大切である。

 研究や研修は,ひとりぼっちではできない。

 教育をひとりぼっちで語るような行為は,哀れすぎて気の毒である。

 自分の目で,現場を見る機会を失わないように努力してほしい。

 自分の目でしっかり見て,心で感じ取ったことをもとに,

 発信してほしい。

 現場で語るから,現場は応えてくれるのだ。

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未来の「大横綱」の「過去」をあさる人たち

 大相撲の人気は,あるテレビ番組を見たら納得できた。

 魅力のある力士が増えている。

 最も高い関心を集めているのは「逸ノ城」だろう。

 インタビューに真摯に答えるその姿がさらに人気を呼ぶ。

 インタビュアーはそのことがわかっているから,

 さらに突っ込んだ質問をする。

 将来の「大横綱」の,若いときの記憶をひたすら刻みつけようと

 している人たちがいる。

 「現在」は,「横綱になる未来」から見れば「過去」である。

 「過去」をあさっているような,むさぼっているような印象があって気になっている。

 野球の場合,負けた選手へのインタビューはあまりない。

 勝った選手のヒーローインタビューは,本人が舞い上がっている場合があるから,

 ほとんど意味のない言葉しか出てこない。

 相撲ファンの場合は,野球ファンにはない楽しみ方ができているようでうらやましい。

 ただ私が少々気にしているのは,

 マスコミ側が伸び盛りの力士をおもちゃにしている様子である。

 勝敗に一喜一憂するファンの側は,ただの素人である。

 観客側のわかったような分析にも,真面目に力士たちは答えてくれるが,

 相撲や力士の魅力とは,そんなおしゃべりだけでつたわるものではない。

 テレビでは,もっと普段の激しい稽古で力士たちが全力を尽くしている姿を

 流していったらどうか。

 「試合開始」=「立会い」前の「空気」を味わうこともいいが,

 高校野球のようにふるさとやら普段の姿を紹介するような企画はできないのだろうか。

 NHKは何パターンかの相撲の楽しみ方を試してみてほしい。

 倒れた対戦相手に手をさしのべるやさしさが私は好きである。

 対戦後の正しい挨拶の場面を,子どもたちには目に焼き付けておいてほしい。

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単純化のワナに自らはまっていく人たち

 ストーリー仕立てのCMで代表的なものはソフトバンクのものであろう。

 人間には,「物語」にあこがれるくせがあるらしい。

 神話の世界には,「あり得ない」ことばかりが登場してくるが,

 批判的な力を奪うには最適な手法かもしれない。

 気をつけておきたいのが,

 「ストーリーのワナ」というものである。

>物語が,わかりやすくするために真実を単純化してしまう傾向を指す。
 
 それにより,物語にうまく収まらないことはすべて排除されてしまう。

>・・・すべては「意味のある」物語に仕立てあげられている。その結果,

 真実は歪められる。そのことが,わたしたちの判断力や決断力を

 鈍らせてしまう。

 排除ならまだよい。

 捏造や差し替えや誇張などが加わってさらに「物語らしく」なることが恐ろしい。

 教育の世界の

 「学力低下」「学力向上」にまつわる「ストーリー」に,

 ほとんどかかわっていないものの正体にせまる必要がある。

 まずは,大学の教師の授業力である。

 大学教師の授業から,まずは公開して,授業力に関する批判の対象にしてみたらどうだろう。

 「生徒が100人もいるのだから,授業力と言われても困る」

 なんていう人間に,学校の教師を育てる能力があるとどうして「思えてしまう」のだろうか。

 自分たちが話したり本に書いたりしている

 単純なストーリーで納得した人たちが,何か自分の仕事の改善に

 生かせたことがあるのだろうか。

 「すぐに役立つ研修」などという幻想にとらわれている行政も教員も,

 まずは研修すべき内容を自ら箇条書きにしてみればよい。

 それをやっているうちに,研修などを受けに行く暇がないことに気づくかもしれない。

 そういうことに気づけないようにストーリーを作り続けているのは,だれか。

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あなたの組織に「悪魔の代弁者」はいるか?

 失敗の原因を説明してくれている本として,とても手頃で内容もシンプルなものが見つかった。

 『なぜ,間違えたのか? 誰もがハマる52の思考の落とし穴』(サンマーク出版)は,ドイツとスイスの2つの新聞に連載された「思考の落とし穴(明晰な思考法)」に関するコラムを1冊にまとめたものの翻訳である。

 教育の失敗が,どのような「思考の落とし穴」を経由して生まれたのか,

 考えてみるのにも最適な1冊である。

 ここでは,「集団思考のワナ」に関して,特に一定の数のメンバーの合意によって

 物事を決定するのが好きな日本人への警句として,紹介してみる。

 「みんなで話し合って決めたことは,みんなで守る」というのは,

 とても大事な姿勢である。しかし,「みんなで話し合って決めた」ときに,

 「反対意見はでなかったか?」というチェックを働かせることの大切さを,

 「集団思考のワナ」で紹介されているエピソードが教えてくれる。

>ひとりひとりが普通の状況で判断していたらそうはならなかった愚かしい決定が,
 
 集団で話し合ったために下されてしまう。

 こうした経験をしたことがある人は多いだろう。

 アメリカの心理学者の分析も紹介されている。

>大失敗の事例に共通するのは次の点である。結束の固いグループのメンバーが,

 「幻想をつくり上げること」で連帯意識が高まる。しかも無意識のうちにそうなるのである。

 戦前の日本で,「悪魔の代弁者」になる人間が一人でもいたら・・・・・

 あるいは「排除」されてしまったかもしれない。

 他にも,「悪魔の代弁者」として,異論を唱えることが可能な人物,

 その人物の一言に非常に大きな意味がある人物がいた。

 しかし,「立憲主義」がその人物の能動的行動を抑えてしまっていた。

 「結束の固い組織が避けきれない問題」として,「集団思考のワナ」は認識しておくべきだろう。

 異論を認めない人間こそが,真の悪魔である。

 異論を出す人間の人間性を否定する人間は,悪魔を通り越した元凶である。

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教師をどうやって育てるか?

 教員養成系の大学の教師はもちろん,

 学校現場の教師も,

 あるいはとても見識の高い保護者や地域の人たちも,

 日本の将来を背負う子どもたちの教育の大部分を任せる

 教師をどうやって育てることができるか,

 真剣に考えてくれていることと思います。

 大学の教師の場合は,

 「こういう学生に早く教師になってほしい」と願う対象が採用試験に合格できず,

 学校現場の教師の場合は,

 「どうしてこんなのが試験に合格できたのか?」と頭を抱える現状もあるので,

 「育てたい人がそこにいない」という問題も浮上するわけですが,

 とりあえず,採用されて教師になった人を対象とした話を書こうと思います。

 なぜそういう内容を書こうと思ったかというと,

 苫野一徳著『教育の力』(講談社現代新書)を読んで,

 ますます「教師を育てることの大切さ」を実感したからです。

 書かれている内容を読む限り,「いままでどういう教師に接してきたのだろう?」

 と不安に思うことばかりです。内容の批評はここでは控えます。

 「よい教師はどのように育つか」といったら,それは

 「よい生徒」によって育てられている,というのが私の考えです。

 「よい生徒」とは,教師になってから接する「相手」だけとは限りません。

 自分が生徒だったときの,「よい生徒」も大切な「教師育成者」です。

 学校という社会での人間関係は,一般社会でのそれとは少し異なっていることは,

 多くの人が認めることでありましょう。

 そこで成功した体験,充実した体験,あるいは,明らかに失敗した体験があることが,

 「よい教師」になるための条件であるように私は思います。

 ですから,教師としての私が伝えたいのは,

 教師の卵は,現在の,学校現場で着実に育てられている,ということです。

 能力が高い子どもは,教師という職業を選ばないかもしれません。

 しかし,その子どもたちも,着実に教師になるのに適した人物を

 育ててくれているのです。

 様々な面の成果が出せない子どもも同じです。

 「よい教師」の卵を育ててくれています。

 大学の先生は,何ができるのでしょう。

 もし,大学の先生を育てたいのであれば,そこでの学びを充実させることが

 最優先ですが,教育現場に立つことを夢見ている学生たちには,

 小学校1年生から高校3年生までの4月から3月までの動きをしっかりと

 思い起こさせ,それぞれの段階で教師と子どもにどのようなかかわりが

 あったのかを文章化させてみてはいかがでしょう。

 その中に,それぞれの学生の「適性」や教師になった後の「成長の遺伝子」が

 隠されているかもしれません。

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後方重点の「日本語論理」の生かし方

 よく日本語の論理が「後方重点」なのに対し,

 欧米の言語では「前方重点」・・・つまり,言いたいことを先に断るため,

 日本人の政治家が外交の場で何気ない「枕」として語る言葉が

 重く受け止められ,問題にされるということが起こっていると言われます。

 この問題を避けるには,

 「私の話は,最後が肝心です。最後までしっかり聞いて下さい」

 と断っておくという方法もあるでしょうが,外交の場では,

 相手の言語感覚に合わせた「前方重点」に変更しておいた方が無難でしょう。

 学力向上への取り組みとして,

 「授業のはじめに目当て=目標をはっきり提示しておくこと」

 が大事であると言われています。

 しかし,これは非常にレベルの低い話であって,そもそも1単位時間に

 1つの目標なんていう話は内容が乏しすぎるし,結論を知ってしまう以上,

 もう参加する意味はない,と判断できる子どもがいてもおかしくないと考えなければなりません。

 目標が達成できたかどうかは,授業の最後に,

 こういうことが理解できた,と子どもが言えることに意味があるのであって,

 「先出し」するのはあまりにも芸のないことです・・・・・

 というのが「後方重点」の日本語的論理です。

 グローバル化に向けて,何でもかんでも「前方重点」に変えようとするのは,

 日本語を使って思考する私たちにとっては考え物です。

 時と場合によって,使い分けることができるようにすることが,

 学校教育の使命でしょう。

 ですから,当然,最初に目標を示す授業はあってもよいのです。

 そこから,その目標の枠をいかにはみ出せるかが,

 子どもと教師の「知力」のなせる技であって,

 私もどこかで参観した記憶がありますが,

 「今日,やる予定だったことは終わったので,あとは自習にします」

 なんていう残念至極の授業は根絶してほしいのです。

 気をつけなければならないのは,「後方重点」の日本語には,

 「大事なことが伝わらない相手がいる」ことへの配慮が必要だということです。

 もちろん,落語の「オチ」の意味が分からない人のために,説明が加わる
 
 落語は「分かる人」から見れば非常に「余計なお世話」なのですが,

 「古池や~」の句で感じるべきものは,「水の音」がした後の「静寂」だ・・・・

 というのは,気がつかない方が普通かもしれませんので,

 教師の存在意義が生まれるわけです。

 日本の教師は,後方重点の日本語論理の長所と短所をよく理解しながら,

 言葉を選ぶ専門家でありたいものです。

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「地球の裏側」と「裏日本」

 「日が昇る」「日が沈む」という表現や,「地球の裏側」という表現は,

 地動説や地球が球体であることを認識してからも,使い続けられています。

 太陽が地球のまわりを動いているとか,自分が立っている場所が平面であるということが,

 いかに「当たり前のこと」として受け入れられているかがわかる表現でしょう。

 逆に言えば,「地球が太陽のまわりを回っている」とか,

 「地球は球面である」ことは,なかなか認識しにくいことであるということです。

 それは,「人間は自分を中心に物事を考えているからだ」という説明では納得しにくいものです。

 ただ,そのような誤解を防ぐために,イギリスは

 「地球の裏側」を示す「対蹠点」という言葉を作り出しました。

 「対蹠点」という言葉は,日本の学校教育では地理で初めて学習するものかもしれませんから,

 そもそも「対蹠」という言葉が読めない人がいるかもしれません。

 イギリスは「地球の裏側」に植民地があったので,よく表現にも出てきたのでしょう。

 だから「裏」という呼び方を遠慮したのでしょうね。

 日本では,太平洋ベルトに工業地帯・工業地域や大都市が集中し,

 日本海側を「裏日本」と呼ぶような時期がありました。

 40代過ぎの人は,学校で習ったかもしれない呼び方です。

 しかし,普通に考えれば,日本海側の人たちに失礼な表現であることは明らかです。

 いつ頃からかは忘れましたが,そのような表現はされなくなりました。

 地理的な事象の表現で,このように「差別的」なニュアンスが生まれる背景について,

 単に「自分中心が考えるくせがある」ことではなく,

 そもそも人間の思考が「平面思考」であり,「球面思考」ではないこと,

 「ところ変われば意味が変わる」ことに気づけない面があることが問題だ,

 と指摘しているのが外山滋比古です(『考えるとはどういうことか』集英社インターナショナル)。

 「正しい解釈があるのだから,自分の勝手な解釈はよろしくない」

 という考え方のうち,気をつけるべきものにナショナリズムや宗教があると指摘しています。

>本来は人間社会の平和に貢献すべき宗教が戦争の原因になるのは,自分たち以外の価値観を認めようとせず,平面思考で凝り固まっているからにほかなりません。

 さまざまな宗教を学習する中で,その「欠点」や「理解できない点」,「嫌な点」に着目させるような教育をしてしまうと,まさに平面思考を強化することになってしまうおそれがあります。

 教師の側に,そうするつもりはなかったとしても。これが教育の難しさでもあり,

 世界の人々が共存共栄を図ることの難しさでもあります。

>山の杉の木のように,ケンカをせずに高さを競えばいいのです。

 そのようにうまく地球をおさめていくことは可能でしょうか。

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「いつでもやめられる人」に任せるメリットとデメリット

 世の中のほとんどの人は,今,働いている職場をクビになってしまうと,

 経済的に困るという結果になるだろう。

 しかし,中には豊かな財産をもっていて,仕事を失っても経済的には困らない,という人もいる。

 ある先生は,相当の資産をもっていた(らしい)。

 部活動の顧問をもってくれ,と強く管理職から言われて,

 「そんなに言うならやめる」といって退職してしまった。

 もちろん,二日酔いの月曜日の欠勤が多いとか,いろいろ問題は

 あって,その都度注意は受けていたようであるが。

 いつ辞めてもらっても困らない人だった,という評価は厳しすぎるだろうが,

 仕事に真剣に向き合えない人に教師は続けてほしくない,というのが

 生徒や保護者の素直な声だろう。

 「いつでもやめられる人」が,仕事に消極的である事例である。

 逆に,「いつでもやめられる」からこそ,仕事・・・特に改革に積極的に臨める人もいる。

 なかなか人がなりたがらないポスト・・・・

 公立学校で言えば管理職や指導主事の仕事の場合,

 失敗したら「降格」という方法で普通の教員に戻ることができる。

 大学の教員なら,学部長とか附属学校の校長など,

 多くの教員にはほとんど意味のない仕事がまわってくることがある。

 ある幼稚園の園長に就任した大学教授は,

 勝手に幼稚園を週5日制にしてしまった。

 問題になったら,責任をとる,という態度を貫いた。

 何年も継続できたので,次の園長にも引き継いでもらった。

 しかし,さらにその次の園長のときに,とうとう「ダメ」という通達が来てしまった。

 そして1年だけ週6日制に戻したが,次の年には,

 国が週5日制を決定したので,「元通りになった」という話である。

 改革をして,だめなら責任をいつでもとれる立場,

 というのは,本当にうらやましいものである。

 多くの管理職は,新しいことをして教員の反感を買ったり,

 問題を起こして教育委員会ににらまれたりすることを嫌がり,

 なるべく「何もしない」「何もない」ことに専念する傾向がある。
 
 そんな管理職には全く存在意義がない。

 「いつでもやめてやる」というのは「脅迫」に近いかもしれなし,

 自分から問題を起こされてしまっては困る。

 しかし,「この人にやめられたら困る」という認識を教育委員会だけでなく

 教員たちからも思われるような管理職がどんどん生まれていってほしい。

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正しく人を見抜いて・・・20億円→8兆円

 アリババ上場によって,ソフトバンクは8兆円弱の含み益を得るようだ(日本経済新聞より)。

 14年前に出資を決めたときのことを,孫社長は次のように表現しているらしい。

>会って最初の5分,話すやり取りや目つきを見て,動物的なニオイで決めた

 もちろん,投資には失敗もつきものだから,すべてがうまくいっているわけではないだろうが,

 決して少なくない額をつぎ込んだ結果が,4000倍になって戻ってきたわけである。

 しかし,「取り戻す」わけではないらしい。

 株はそのまま保有して,含み益を担保とし,金融機関から資金を借り入れるために活用するらしい。

 このように独特な勘をはたらかせることができるのは,

 同じような起業の経験があるとか,成功した人,失敗した人をたくさんみたとか,

 ほんの一部の人に限られたことかもしれない。

 ただ,こういう「限られた人」は,様々なところで強く求められているはずである。

 たとえば,人事の世界である。

 教員の場合,大学の先生がよく口にする。

>教員採用試験の面接官は,本当に人を見る目がない

 この学生がなぜ合格してしまうの?

 この学生がなぜ不合格になってしまうの?

 という事例があまりにも多いからだろう。

 面接を担当する人は,年によってころころと代わるかもしれない。

 しかし,こういう世界こそ,「実績」がものを言う場にしてほしい。

 面接官が出した点数と,職に就いたあとの勤務成績等との相関をとる。

 その相関が高い人は80歳になっても面接官を続けてもらう。

 そうでない人は,わかった時点でやめてもらう。

 人の将来性を見抜ける人の資質・能力の研究をしている大学はないだろうか。

 もちろんのことだが,採用後の環境が教員の資質・能力の向上を支えるという面も大きい。

 すべて総合的に判断して,面接官の評価を徹底的に吟味してほしいのだ。

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忠告を嫌みとしかとれない小さい人間は消えていく

 外山滋比古が,かつて月刊『英語文学世界』の編集後記で

>この調子でいけば英文学科は大学から姿を消すだろう。

 と記したとき,とくに英文科の教師から,「なぜそんな厭味をいうのか」と悪く思われたという。

 大学英文科の人気があったころの話である。

 そのときすでに「危惧の念」をもてていた人間と,そうでない人間の違いは,

 「今の姿」でわかるのではないか。

 ここ数年で,大学から英文科が消えていっているらしい。

 中身はほとんど同じで,

 単純に看板を「比較文化」などと変えているだけのところもあるかもしれない。

 しかし,人気がなくなったのは事実のようである。

 それはなぜか,ということに思考をはたらかせるためにこの話題を出したわけではない。

 何か言われたときに,

 それを「厭味」ととるか,「よき忠告」ととるか,

 「思考の材料」にするかは,受け手次第であるということである。

 批判をされると,条件反射的に相手を「上から目線の嫌なやつだ」と決めつけて

 思考停止とともに相手への攻撃だけに陥る人間がいる。

 利己的な自己防衛機能だと単純に評価することもできるが,

 崩壊しかけている自分に気づけない人間を放っておけないのが

 「教育の世界」の人間である。

 だから,さらなる「忠告」が必要となる。

 具体的な内容を何も示さずに,ああだ,こうだ,とわめき散らしてみたところで,

 何も始まらない。

 具体的な内容を示すと,「おまえが間違っている」と言われることがこわいのかもしれない。

 実際に,そのような内容かもしれないし,たとえそのような内容ではなくても,

 「反対意見」があるのは当然のことである。

 それを,「思考力がないのにそんなこと言うな」などという「思考停止」系のキレ方をしているようでは,

 間違ったことを言っていなくても,「おまえが間違っている」ということで終わってしまうのである。

 スコットランドでも,独立したい,独立したい,と言ってみたところで,何も始まらない。

 住民投票にまでもってきたことに意義がある。

 過半数がとれず,実現できなかったとしても,

 「そういう気持ちをもっている人が半数近くいる」ことが明らかになったことの意味は大きい。

 実際に,自治権の拡大という「成果」も手に入れることができるようになるのだろう。

 自分で何を評価しているのかを具体的に言わずに,

 逆の評価をしている人を「頭がおかしい」などと呼び捨てるような行為はやめるべきである。

 どのような行為が「利己的」で,それがだれにどのような損害を与えているのか,

 どのような損害を与えているから,「利己的」な考え方にどれだけのデメリットがあるかを

 訴えるような主張をしなければならない。

 損害が単に「自分が傷ついた」というだけの話なら,それこそ「利己的」な心理的名誉回復の欲求にすぎない。

 こういうブログの世界では,社会から隔絶されたたった一人の立場になっても生き続けることが可能である。

 しかし,自分で自分のブログによいしょコメントを他人になりすまして書き込むような寂しさは,見ていて本当に気の毒になる。

 ブログの世界でも,よいしょされるだけが「存在価値」とは考えず,

 忠告をしっかりと受け止めて「成長している自分」を示すことに価値を感じてもらえるとよいと思う。

 この記事は,生活指導の場面で,同じような指導を中3にしたこともあって,書き留めておいた。

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中学歴史の授業への不満

 日中戦争に関する「不適切授業」を学校が謝罪したという報道が行われているが,

 同時に,指導計画通りに授業が行われていないことにも触れられたのだろうか。

 中3の7月にまだ近代の学習が終わっていないということは,

 社会科の授業の進度が相当遅れていることを意味する。

 歴史の進度の遅れは,公民の学習にしわ寄せがくるということである。

 このような事態は多くの学校で発生しているようで,

 高校入試のための業者テストでは,9月のテストでもまだ公民の内容が範囲になっていない。

 いまだに1,2年生の復習をしているようなものである。

 どうして進度がこんなに遅くなってしまうのか。

 保護者や生徒からの苦情を受けている中学校も多いだろう。

 「言語活動の充実」を課題にしているので,考える時間や発表する時間をとりすぎたから・・・・

 なんて言い訳ができる中学校なら,まだよい。

 そうでないとしたら,計画ミス,実施ミス,チェックミスの3つが重なった

 「重大過失」である。

 ある国の広告係のような社会科教師がまだ残存していたのかと懐かしく思ったが,

 それでも「初体験」だったようで,何で勉強されたのか,興味もわいてくる。

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沖縄県民がスコットランド独立の住民投票から学べること

 スコットランドの住民投票の結果がまもなくわかる。

 中学校の文化祭で,学級ごとに参加することになっている場合,

 劇をやるか,展示にするかでもめることがある。多数決をとった結果,

 21対19という結果になったとする。19票の側の生徒たちが,

 すんなりと結果を受け入れ,頭を切り換えることができるかどうかは,

 リーダーの力量次第である。

 国が独立する,なんていう結果になるとしたら,

 こんな例どころではない対応がリーダーには求められるだろう。

 さて,スコットランドのニュースにふれることで,

 想像力のある人は,「沖縄」のことが気になるはずである。

 実際に,いくつかのニュースが報道されている。

 沖縄県の中学校の社会科の授業では,どのような「ふれ方」をするのだろう。

 沖縄県民に「独立」を求める強い動きはなくても,基地問題という

 「政府への反対」「住民の意思の重視」を訴えるための材料がある。

 スコットランドでの結果がどうなろうと,

 住民投票自体のインパクトは世界に波及することが予想される。

 「主権国家」のイメージが何となく漠然としたものだったのが,

 それなりの輪郭をもって現れてくるのではないか。

 沖縄県民には,「日本」という国のイメージと完全に重なり合わない

 「琉球の民」という感覚がどのくらいあるのだろうか。

 歴史上で,「独立」を求めた人々のエネルギーの強さはなかなか想像できない。

 歴史の授業は,幕末から明治にかけての「独立を守る」ためのエネルギーも,

 なかなか授業で伝えきれないもどかしさがある。

 生まれたときからそれなりに落ち着いた「国」があった私たちに,

 「国とは何か」を積極的に問おうとする動機はなかなか生まれにくいものだと思う。

 今回の住民投票は,スコットランド議会第1党の党首とイギリスのキャメロン首相の合意に基づいて実施される。

 日本の憲法には,分離独立に関する規定がない。

 同じレベルで語ることはできないが,

 少なくとも,沖縄・・・・琉球が独立国であったことだけは確認しておきたいところである。

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教育現場からの「一発退場」

 教育現場で残存する「体罰」としての「暴力」には,まだ十分な監視機能が働いていないようである。

 プロ野球のゲームでは,審判への暴言や胸をぶつけるなどの「暴行」で一発退場になるが,

 学校現場での暴力は,子どもが大きな怪我をしたり,不登校になったりしない限り,

 なかなか事実が認められて「裁かれる」ことはない。

 その背景には,怪我や精神的なマイナスのショックを受けない限り,

 「目の覚める」ような劇的な改善が見られ,体罰を受ける前よりもよくなるという

 「プラスの効果」への神話が生きていることがあると考えられる。

 日本は法治国家だが,

 リーガルマインドが徹底した国ではない。

 「うちうちの慣習」の方を優先させる傾向が残っている。

 教室に監視カメラを設置し,児童生徒の安全を確保する,という政策が現実味を帯びることはない。

 一度,教師向けに,自分自身が体罰を受けた経験があるかどうかを

 アンケート調査してみてほしい。

 体罰に「愛情を感じたか」という質問とセットにしてほしい。

 学校現場から体罰が根絶できない原因の一つが判明するかもしれない。

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現場の問題に直面せずにいられる人たち

 指導主事とは,教員を指導できる能力が認められた教員が,籍をある自治体の学校におきながら,

 役所で仕事をするようになる人間である。

 現場の教師からすると,「現場にいないのに何がわかる」という目で見られる傾向がある。

 公立学校というところは,基本的に常に何かしらの問題を抱えて対処し続けているところだから,

 そこで教員をしていた指導主事は,そういう問題の解決で一定の成果をあげていないと勤まらない。

 「生徒がだらしない」と嘆いているような学校には,

 「教師がだらしないからだ。たとえばたった1日訪問するだけで,A,B,C,D,Eという問題が発見できる。

 特にAは致命的で,改善には時間がかかる。BやCは大きな問題ではないという認識があろうが,

 生徒に要求していることは自分たちも実現していなければならない。

 DやEは明日からでも直せる。」

 という指導が行えないといけない。

 本来,指導主事よりも経験があり,現場に実際にたっている副校長や校長の方が,

 そんなことはわかるはずだ,と思う人も多いだろうが,

 その問題はここではスルーさせていただく。

 一言だけ,人からうらまれることは言えないというのが日本の管理職の最大の欠点である。

 指導主事が「現場にいないのに信頼できる」と思ってもらえるには,

 即効的な指導を行い,実際に成果が上がることが求められる。

 教育学者のように,抽象的な話でごまかすことはできない。

 常に,現場で起こっている問題には頭を悩ませている。

 自分が直接,代わってあげることはできない。

 やる気のある人には,本当にストレスがたまる仕事である。

 しかし,「悩んでいるふり」をすればすませられる仕事でもある。

 このことが「悩ましい立場」にある理由でもある。

 優れた管理職というのは,自分よりも経験が浅い指導主事にもきちんと相談をもちかけてくれる。

 力量を図っているといういじわるな見立てもできるが,ちょっとだけ違う視点,

 あるいは,似たような事例の他の学校での解決法など,

 その立場だからこそ知っている情報に期待をしてくれる。

 同じような態度が,教員にも求められるのだ。

 現場にいて,問題に直面しながらも実は直面していない,

 そういう教師たちを見抜く目を養っておきたい。

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国を滅ぼすための教育プログラムを考えてみる

 これは架空の話です。

 A国のある人物が,B国の教育プログラムを考案する責任者に任命されたとします。

 きっかけは,B国の指導者たちが,自国の将来に非常に悲観的で,

 何かの突破口を開きたいと考えていたところに,

 ある調査の結果をとてもよく伸ばしたA国があり,その国のように

 教育をすれば,自分の国が救われると思ったことがきっかけです。

 表向きは,B国の未来のため,という目的で依頼を受けますが,

 A国はB国がこの地球上からなくなればよいと考えており,

 裏の目的として,教育でB国を自滅に導くようにする,という最低の対外戦略が隠されているとします。

 もちろん,A国にそのような意図があることをB国の人間に悟られてはなりません。

 では,A国としてB国に薦める教育プログラムとは,どのようなものでしょうか。

 ・・・・こんなことを考えたことがある人はどこにもいないと思います。

 自国の未来の教育プログラムを,外国人に依頼するとは・・・・

 いや,実は,そういう例はあるようです。

 しかし,もちろんですが,「滅ぼすための教育」ではありません。

 どうしたら,教育によって国を滅ぼすことができるのでしょう。

 学力低下が話題になっていたときは,

 真剣に「これでは国が滅びる」と考えている人がいました。

 何とか亡国論なんて本も出ていますね。

 別の理由で,「滅びる」ことを心配している人もいます。

 「道徳」の教科化を推進しようとしている人たちです。

 単純に考えて,日本の未来は,少数の若者が多数の高齢者たちを支える社会になります。

 高齢者を敬う心がなければ,そんな社会は実現しません。

 選挙ではそういうことを訴える人が当選します。

 なぜなら,強力な「支持基盤」がいるからです。人口の多数を占める高齢者です。

 しかし,歴史的に見て非常に損な気がする超高率の税に苦しめられるのが若者です。

 自分たちの生活を犠牲にして,過去にしていた借金を返済させられ,

 仕事をリタイアした人たちの暮らしを支える生活。

 そんな未来を,しっかりと受け止めることができる日本人をつくることが教育の使命だ,

 と考える人がいても不思議ではありません。

 たとえばB国が日本なら,順調に滅亡に導くような教育は,

 どのようなプログラムが理想的でしょうか。

 こういう研究をしている大学の先生はいませんか。

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どの県の,どんな学力向上策を実施すれば,いいですか,という質問を否定する

 すでに,「特別な学力向上策はいらない」ことは明らかになったのではなかったか。

 小学校2年生なのに,やけに宿題が多い(採点までさせられる)ことが気になっている

 今日この頃である。学校に残してもらってかまわないから,丸投げはやめて,自分たちでやれって。

 もっと働いてほしい。22時まで働いている親に,18時には帰宅してしまう教師の

 手伝いをさせるなって。

 ・・・・ただの愚痴である。

 学力向上策なんて,簡単である。

 教師が汗水垂らせばよいのだ。

 朝は勤務時間の1時間前に来て,すでに登校している子どもたちと一緒に校庭を走る。

 夜は21時まで学校に残って,授業の計画を練る。

 そういう教師は,たくさんいるはずである。

 当たり前だが,だれかに命令されているわけではない。

 むしろ,「そんなに働くな」と注意されなければならない。

 自分が好きでやっているのだ。

 そういうことが好きだから,教師になったのだ。

 1日,16時間働け,なんて校長や教育委員会が命令できるわけがない。

 そんな「学力向上策」など世の中には存在できないようになっている。

 しかし,本気で学力を向上させたいと思っている教師は,寝るとき以外はそのことだけを考えているのである。

 ・・・・・なんてことを,堂々と言えた時代が懐かしい。

 今は,本音すら明かせない息苦しい世の中になってしまった。

 それこそが「学力低下」の原因だと言いたくなる。

 行政ができることなんて,たかが知れている。

 それは,「教員の勤務時間が決まっている」からである。

 学力向上を支えているのは,

 「こんなのはブラック企業以下だ!」という冗談を笑顔で言える教師たちである。

 教育委員会のように公の立場の人間は,そんなことは言えない。

 しかし,「願う」ことくらいは許されるだろう。

 本当に荒れていた学校が,地域の信頼を回復した理由は簡単な話であった。

 夜中近くまで,毎日,職員室の電気がついている。

 あの先生が来るまでは,そんなことはほとんどなかった。

 学力がつく前に,向上するものがある。

 そう。

 情けない話かも知れないが,

 「学力向上以前」のレベルの学校が少なくない現実を,知らせなければならない。

 それは,生徒ではなく,教師のレベルかもしれないことを付け加えておく。

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「どの問題集をやればいいですか」という質問自体を否定する

 受験関係図書のセールスの仕事をされている方であれば,

 売れないと話にならないから,いろんな理由をつけて,どんどん薦めてもらってかまわないと思う。

 しかし,学校の教師の場合は,こういう質問自体を拒否しなければならない。

 それは,すでに「終わっている」おそれがあるからである。

 以前にも紹介したことがあるが,

 なぜ真面目な女子の中に,ノートはきれいで完璧に書けているのに,

 テストで点がとれない生徒がいるのかは,

 身近にもいるかもしれないから,ぜひアドバイスしてあげてほしい。

 「書いただけで終わった気になっていない?」

 「ノートに何を書いたか,要点だけでいいから説明してくれる?」

 教師の板書をいくらきれいにノートに写してみたところで,

 内容が理解できているとは限らない。

 問題集をやって,解けているのなら,いいかもしれないが,

 おそらく解けない問題がいくつかある問題集で

 「解けなかった」という結果が出ただけでは,

 勉強にはならない。

 「この1冊で完全マスター」なんていう本のタイトルにつられて買って,

 「完全にマスターできた生徒」が何%いるのか,だれも調べたり発表したりはしない。

 何をどの程度まで理解できればよいのかを知るのが学校の授業である。

 実際には,どこまで理解しないといけないのか,わからなくなる授業もあるかもしれない。

 レベルの高い授業である。

 ただ教科書の問題を解いて,答合わせをしているような,

 大学生のアルバイトでもできるような授業をしている教師はいないか。

 こういう教師が,「どの問題集をやればいいですか」という質問をする子どもを生むのである。

 営業妨害だと言われるかもしれないからこれ以上はやめておくが,

 ただひたすらプリントばかりやっている子どもたちに,

 創造的思考力が育つと信じられる人はいるだろうか。

 想像力が向上すると自信を持てる人はいるだろうか。

 たった1つの問いに,じっくりと30分以上考え込んでいる,小学生を見たことがあるだろうか。

 「学ぶ楽しさ」を教えることができるのは,だれだろう。

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教師が秘密にしている技

 専門としている教科以外の話を学会と研究会でしたことが

 1つずつある。

 そのうちの一つが,平たく言ってしまえば,

 生徒に「暗示」をかける指導である。

 もちろん,文章には「暗示」などという言葉はどこにも使っていない。

 しかし,発表の場では,正直に申し上げている。

 「私は生徒をだましています」とも発言した記憶をしている。

 よい結果を導いていることを先に紹介しているから,冗談だととっていただいたようだが,

 私としては,本当は少しだけ,心を痛めながら,「だましている」。

 教師というのは,おそろしい職業だということが,実感してもらえると思う。

 ニュースでは問題ばかり起こしていることが紹介されている「教師」だが,

 たとえば「先輩からいい先生だと聞かされる」というだけで,

 教師というのはそれなりの信用,信頼,権威を約束されている存在である。

 そういう教師から,あることを根拠にして語られる言葉というのは,

 紛れもなく強烈な「暗示」として生徒の心に浸透する。

 生徒にするのと同じように,聞いてもらっている

 先生方や大学関係者に納得してもらうための

 発表のコツは,同じような体験を実際にしてもらうことだが,

 ここで「想像力の豊かさ」が教師にとっていかに大切かを実感してもらう。

 教師はいつでもイメージトレーニングを欠かしてはならないことを痛感してもらう。

 スポーツの世界では,一流のアスリートたちの中にも,

 「イメージトレーニング」や「暗示」のおかげで成功している人がいる。

 もしかしたら,「自己暗示」がかけられる人が一流になれるのかもしれないが,

 あまりそういう話を聞かされない方が,いい気持ちでいられ続ける人もいるだろうから,

 そっとしておくのもいいだろう。

 「暗示」の話自体を文章にしたり,直接子どもに教えてしまうようなことはできないのは当然である。

 一種の「手品」と同じだから,タネを明かしてしまうとおもしろさだけでなく,効果も失われてしまう。

 今,マインド・リーダーが書いた本を読んでいるので,こんな話になった。

 実際に自分が使っていた手法がいくつか紹介されている。

 ぜひ,マインド・リーダーの本を読んでみてほしい。

 心理学の本よりも,実践的である。

 本によっては,「そんなタイトルの本を堂々と買えるのか?」という露骨なものもあるが,

 「思考」という言葉で引っかかって,たまたま私が手に取った本は,

 タイトルだけからはどういう人が書いた本かはわからない。

 『青い象のことだけは考えないで!』(サンマーク出版)という本である。

 人をだます方法も学べてしまうのが,少し気まずい。

 変な気を起こしたりしない人に読んでほしい。

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国内基準で「楽観視してはならない」代表的な事例

 思想や信条によって人を差別してはならない,とする原則は,

 場合によっては曲げておかなければならない人たちがいる。
 
 多くの日本人はそもそも「思想や信条」に大きく左右されない毎日を送っているのと,

 差別することで事態が悪化することが多いので,今回のような

 「ミス」が起こってしまう。

 それは,国内では「単なる新閣僚とだれかのツーショット写真」ですむが,

 海外から強い非難が起こっている写真である。

 
 思想や信条によって差別しない,という原則に基づく行動が,

 まさに特定の思想や信条による差別が行われてきたことへの反省ができていないという

 批判の根拠になる。

 写真におさまっている両者ともに,今回の件では,目先的に見て,

 「国益に反する行動」をとっているように思える。

 いまだに「18」とか「88」という数字を使ってはならない,という国があること,

 その理由を知っておかなければならない。

 たくさんの「やるべき仕事」にとりかかる前に,

 「やらなくてもすんだこと」に振り回されるのは,いかにも時間の無駄である。

 しかし,時間の無駄にはなっても,これからの政治のあり方を

 考えていくための材料にはなる。

 「グローバル社会への適切な対応」は,教育界ではなく,まずは

 政府の人たちに求められることである。

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なぜ低所得=低学力という図式を大事にしたがるのか?

 教師がそれを口にするとき,頭の中で考えていることは容易に想像がつく。

 全国学力調査のような,易しいテストの結果が悪い理由。

 「おれの指導力不足のせいではない」「家庭のせいだ」

 こういう見方をする教師や保護者がいるからこそ,都道府県別などではなく,市町村別でも生ぬるく,

 学校別の成績公表という選択肢をとりたくなる,

 「本気で教育改革を考えている人」が生まれてくるのである。

 なぜそうしたくなるかというと,情報を入手しているからである。

 「知る権利」の重要性は,こんな事例からでもよくわかる。

 「知る」からこそ,そのからくりが分かるのだ。

 教育改革とは,要は教師の力量の向上がど真ん中の中の真ん真ん中の重要課題である。

 偏差値が低い何とか大学の教員養成課程から来る教師が多いから,

 教師の学力が低く,指導力も低い,なんてことであきらめていてはいけない。

 もしそういう課題がある教師なら,本気で指導力向上のための努力をさせなければならない。

 前の学校でも指導力不足が問題になっていた教師が多い場合も,

 「仕方がない」ではいけない。努力をさせるのが校長の仕事である。

 大学受験までの学力が低かった教師の中でも,現場で経験や研修を重ねて

 指導力が高い人はいくらでもいる。

 環境が厳しい家庭の子どもが多い学校の中でも,

 学力向上の取り組みに全教師が本気になって成果を上げているところがある。

 それが,都道府県別・市町村別だけの結果公表では見えてこない。

 全教師を本気にさせることができる校長は,確かに一握りだけしかいないのかもしれない。

 しかし,国民に対して,「そういう事情なので,あきらめてください」などとは言えない。

 手が抜けるのなら,努力しないですむのなら,

 楽をして生きていきたいと思うような人間が多いのは仕方がないだろう。

 しかし,公務員がそれでいいのか?

 教師がそれでいいのか?

 そういう問いを突きつけてくれる人が,この国には本当に少ない。

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日本の教科書を考える

 コメントありがとうございます。

 こちらで,「日本の教科書」について,検討すべきことは何かを明らかにしていきたいと思います。

 議論になるかどうかはわかりませんが,とりあえず,最初の話題です。

*************************

こんにちは。

議論してみたくておじゃまいたしました。

日本の教育の地域の格差をなくするためには教科書の充実が大事ではないかと
思っております。
首都圏などでは塾とかいろいろとあるのに地方ではあるいは塾に通うことができない生徒にとっては教科書が頼りとなるからです。
私立の学校では副教材としてあれこれ使っておりますし、中高一貫校では別の教科書を使うことができるようです。
日本の教科書をいかがお考えでしょうか。

*************************

 まず,「教科書の内容をもっと充実させてほしい」という要望自体が,一般的にあるかどうかですが,

 小中学校に関する限り,私自身はそういう要望を直接耳にしたことはありません。

 中学校の教師たちの中に,小学校の教科書のレベルをもっと上げてほしい,と願っている人たちがいるのは肌で感じることができますが。

 教科書に示す内容は,基本的には

 「学習指導要領」で示されているものです。

 「学習指導要領」で示された目標を踏まえ,そこで扱うとされている「内容」を

 教科書会社なりに考え,編集して,文部科学省の教科書調査官などがチェックして,

 世の中に出ているのが「検定済 教科書」です。

 教科書は検定に通っただけではだめで,現場に「採択」される必要があります。

 この「採択」は,必ずしも「よい教科書」「内容が充実している教科書」が選ばれるとは

 限りません。

 「多くの学校ですでに採用されてきたから」とか,

 「入試で役に立つから」などという理由で選びたくなってしまうこともあります。

 「内容が多く,とてもいい教科書だ」と一部の教師が感動しても,

 「この内容をすべて習得させるのは無理だ」「扱いきれない」などという意見で

 「不採択」「不採用」になってしまうのです。

 こういう話からよくわかる日本の教育の問題点は,

 教科書の内容というよりは,むしろ教師の側の安易さにあるというのが私の第一の感想です。

 優秀な教師ほど,教科書は使わずに,一般の教師が教科書を使った以上の効果をあげることもできます。

 「教科書を教える」のではなく,

 「教科書で教える」教師になれ,というのは教師の世界では格言のようなものです。

 教科書の枠をはみ出して,どんどん自分から情報を求めていくような

 子どもを育てたいと思っているのが日本の多くの教師です。

 必ずしも「教科書でこれだけの学力を保障してほしい」という主張は,生産的ではないかもしれません。

 ・・・・これでは議論になりませんかね・・・・。

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同情と共感の違いがわからない人が陥る場所

 なぜ日本の教育界では,同じような内容の文章が何年も隔てて

 平気で「これ,最新の授業です」なんていう形で顔を出せるのでしょうか。

 他人がやっているのと同じような授業をして,

 「私のオリジナルです」なんて顔をすることができるのか。

 そういうときはいつでも,「自己中心的」な人間が顔を出しているわけです。

 『すべては心理学で解決できる』というサンマーク出版の本では,

 「よくある」身近な事例を,心理学の適切な実験結果などをもとに,

 「わかりやすく」理解させてくれる内容がたくさん紹介されています。

 子どもが穴に落ちて泣いているとき,

 1 はしごをとりにその場を離れる

 2 穴に入る

 3 立ち去る

 のうち,どの選択肢をあなたはとるか?と聞かれると,

 1も2も3も,それなりにとる確率があるのではないかと考えてしまう人は,

 特段「変わった人」ではないように思います。

 さすがに3はやらないとしても,

 思考が停止して2の穴に入ってしまう自分を想像してしまうのはあり得るのでは?

 心理学的に考えれば,「共感」ではなく「同情」というレベルでものごとを捉えるくせがあることと結びつけて説明できるようです。

 本当にその子どもを助けたいのなら,穴に自分も入ってしまうような行動はおかしいわけです。

 助からないかもしれない人間が1人増えるだけですから。

 子どもの「穴から出たい」という願望に「共感」できれば,
 
 「穴から出るためにすべきこと」を冷静に考えることができるのに,

 「穴にいるのはつらい」という感情に「同情」していることを示すために,

 自分も同じ穴の中に入ってしまう。

 なぜ相手から見ればわかるはずの,同情による「迷惑な行動」が避けられなくなってしまうのか。

 それが,「自己中心的」になってしまう人間の弱さだ,ということです。

 「共感」して「あげている」という単なる「同情」のポーズが,

 いかに「迷惑」な行為なのか。

 学校の道徳の授業は,こうした「心理学」の成果をしっかりと学べるような内容に進化していけないでしょうか。

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「誤報の謝罪を引き出した偉大なジャーナリスト」誕生への秒読み

 池上彰氏が「歴史に名を残す」日が近づいているようだ。

 人気記事を失うことと,「謝罪すること」によって何かが失われることを

 天秤にかけた結果,新聞社そのものの生き残りをはかるために

 とる選択肢は見えているように思う。

 インタビュー記事を読むと,池上氏は厳しい追い込み方をしている。

 主張が明確で,説得力もあり,

 新聞社の方が手玉に取られているという印象である。

 誤報によってどれだけの混乱が生じ,そこにどれだけのエネルギーが

 費やされ,どれだけの損害が生じたのだろうか。

 その点の検証記事の特集をしっかりと組んだ上で,

 しっかりと謝罪をする,という方法もあるだろう。

 新聞社のあり方自体がニュースになるという今回の事態が,

 新聞の終わりの始まりなのかどうかは,わからない。

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新聞の読者を増やす方法

 今回の池上彰と新聞社とのやりとりでは,

 新聞社の情けなさと池上彰のジャーナリスト根性の気高さとの対照が際立ったが,

 「新聞を売る手法」として有効なものがあることに気づいた人もいるのではないだろうか。

 今は,ネットで情報がいくらでも手に入るから,新聞を配達してもらわなくてもすむ,という人が増えている。

 それなのに発行部数が数字上,あまり低下していない理由はわからないが,この先,

 発行部数が飛躍的に増える,というビジョンをもっている新聞社は多くないだろう。

 どうしたら新聞の発行部数を増やすことが可能だろうか。

 すでに,「初心に戻ること」など,新聞社内では議論は尽くされていることと思う。

 しかし,外部の人間にしかわからないこともある。

 「そこでしか読めないもの」「そこで読めるからおもしろいもの」が読めること。

 たとえば,

 「新聞記者による自由な投稿コーナー」

 「会社の事情でボツにさせられた原稿の特集」など,

 自社への批判も含めて,「編集部を通過しない記事」がたくさん読める,となったら,

 どうだろう。

 特に,強烈なその新聞の批判と,その批判への反論を自由に記者が述べる。

 まさに,「言論の戦いの場」が繰り広げられ,しかもそれはネット上では公開されない

 (新聞の内容をネットに掲載することは許可しないこととする)となれば・・・・。

 私もそうだが,まだ紙の新聞のスクラップをとっている人はそれなりに存在する。

 紙でしか読めない,というものがあれば,新聞の「価値」は上昇するのではないか。

 とここまで考えてみて,あらためて,「紙」で情報を配達する,というシステムが,

 国民の「基礎学力維持装置」になっている気もするが,

 絶対になくてはならないものか,と言われると,はてなマークがついてしまう。

 各新聞社から優秀な記者だけを集めて,本当に読む価値のある内容ばかりの新聞ができればよいのだが。

 本当にいい記事を書くための「取材費」は,分野によっては莫大なものになる。

 コストとの天秤がけで,結局,安易で大衆受けする,元手がほとんどかからないようなものだけで

 紙面が埋められていく現状の方が売れてしまうという,新聞社も責められないようなこともある。

 質のよいメディアが生き残れるようにするために,できることも考えたい。

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「きまりの意義」「決定のしかた」を学ぶ中学校の公民的分野

 法教育の実施が小中学校にも求められるようになった背景には様々なことがあるが,

 私は日本の伝統的な問題解決の方法の確認をする,という意味での重要性に注目したい。

 法律の専門家を頼るようなリーガルコードの国ではなく,

 当事者どうしの話し合いで解決することをよしとするモラルコードの国であることを確認しておきたい。

 もちろん,当事者が国と個人という関係になると,法律の専門家に助けてもらう必要もあろうが。

 中学校では,3年生の社会科で,「きまりの意義」「権利と義務」などの学習を行うことになっているが,

 実は小学校でも,中学校に入学してすぐにでも,

 「多数決で決める」ような場面を経験することになる。

 中3の7月か9月に始まる公民的分野の学習で初めて目にするような情報であっては困るというのが実感である。

 さて,「きまりの決め方」については,

 1 全員で話し合って決める

 2 代表者で話し合って決める

 3 一人で決める

 の3つの方法が,

 「採決のしかた」については,

 1 全員一致

 2 多数決

 という方法があり,

 それぞれの長所や短所が教科書にも示されている。

 どういう場合に全員一致が望ましいか,

 多数決で決まった場合でも,少数意見を尊重すべきことなどは,

 「法」というよりも「道徳」のレベルの話である。

 日本では厩戸王の時代からあったことになっている。

 さすがに中3らしい内容もあって,

 「きまりは変更できる」こと,

 「きまりを評価する視点」もおさえなければならない。

 後者については,「効率と公正」という考え方で理解させるようにしている。

 「公正」には,「手続きの公正さ」と「機会や結果の公正さ」という2つの確認事項がある。

 ここ2年間の高校入試問題でも,具体的な事例を通してこれらの考え方が

 理解できているかどうかをみる問題が出題されている。

 こういう時代に,

 「先生が決めたことにただ従っていく中学生像」は望ましいものではない。

 「決める場面」を教師に勝手に決められる,

 「決めること」を教師に強制されるようなことはあってはならない。

 何度か紹介しているが,ある退職教員の指導事例を紹介する。

 部活動に遅刻してきた生徒がいた。

 そして,「全員が来られる時間を決めろ」と指示した。

 結果として,「集合時間を遅らせる」という決定を生徒たちが下した。

 時間どおりに参加していたほとんどの生徒は,

 遅刻してきた生徒につき合わされるという結果になってしまった。

 そして,当然のことだが,遅刻した生徒が,集合時間が遅くなったからといって

 遅刻せずに時間通りに来る保障はない。

 これでまた遅刻したら,

 「自分たちで決めたことが守れないのか」

 という怒号が飛ぶのだろう。

 「きまりを変更する理由」として,「1人がルールを守れないこと」

 が妥当なものであると考えることはできない。

 今の教育は,こういう「おかしな発想」をする教師を「おかしい」と言える人間を育てようとしている。
  

 「私たちの生活と命に関することは,先生だけでなく,自分たちにも議論したり決定したりすることができる権利があるはず」という発想がもてる中学生を増やしたい。

 「それは先生たちが決めることだ」という思考停止状態から,どうしたら抜け出せるかを考える教師が1人でも多く現場に立てるようにしてもらいたい。

 残念ながら,採用試験の面接の段階では,「浅はかな人間」と思われてしまうリスクがあるため,胸の奥にしまっておく必要がある。

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議論をすべき相手がいない

 文部科学大臣と,静岡県知事の主張のどちらが正しいか。

 「知る権利」を保障してくれるのはどこか。

 議論すべきことはたくさんあるが,お互いに,議論をすべき実体が存在しない。

 議論は大事だなどと言いながら,

 議論すべき相手を「頭がどうかしている人」などと決めつけていては,

 何も始まらないのである。

 そもそも,事例で出している内容が,

 今回の学力調査の結果の扱いのようなものではなく,

 議論の余地のないというか全く議論する価値のない事例だから,

 議論しようとする気が全くないのに,「議論が大事」などと主張しているものであることがわかる。

 教育の世界では,こういう事例が山のようにある。

 何か学校で新しい研究を立ち上げようとするとき,
 
 「ただでさえ忙しいのに」と研究内容を聞く前から反対するような人間・・・・

 「反対ありき」の集団が長い間,学校を本当につまらないものにしてきた。

 公立学校が背負っているものは,決して軽くはない。

 しかし,そもそも,そういうことがわかっていて,堂々と職に就いた人間で構成される場所であることを信じたい。

 学校では,もっともっと,「いい方向へ変える」ための議論を増やしてほしい。

 「議論のための議論」が好きな連中がいるのも学校の特色だが,

 そんな議論をしている暇をなくすような,「前向きな議論」の題材を管理職は提供すべきである。


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閉鎖空間の「勝ち負け」にこだわる体質の改善を

 学力調査の結果公表について,出した,出す,出さない

 というくだらないニュースばかりが続いているが,

 教育関係のニュースはせっかく取材しても読む人がいないという悲しさからか,

 どうでもいい話しか耳に入ってこない。

 ドングリの背比べになっている学力を全体として底上げしなければならないという危機感はどこからも発信されないのが,今の日本という国の特徴である。

 閉鎖空間の中で,たいした差がない「勝ち負け」にこだわっている。

 塾の中で,テストの成績順に座席が決まるという,ゲームの世界のような話がある国である。

 教育評論家たちも,結果を公表するとかしないとかいう話よりも,

 もっと根本的な「学力の低さ」を問題にすべきである。

 真剣に考えるべきなのは,

 東京都大田区で起こった痛ましい事件である。

 ニュースのタイトルは「中学受験控え,眠れない」という痛ましい言葉で紹介されている。

 小学生を追い詰めているのは,いじめだけではない。

 おそらく命を絶とうとしてしまった子どもたちは,

 全国学力調査のような「易しい問題」は難なく全問正解してしまうような学力をもっていたのではないか。

 なぜ,命を絶たなければならなかったのか。

 なぜ,二人で一緒だったのか。

 こういうニュースは,私の中での記憶では,自殺したアイドルの後追い自殺の事件以来である。

 たかが国内の中学校や高校,大学への受験で競い合うことが,

 この事件のような結果を招いた可能性があることに,

 公立小学校の教員たちは動くべきである。

 たとえば,小学校の基本的な生活習慣が送れていないような子どもには,

 受験資格を持たせないなど。

 最低でも,中学入試の合否判定には,高校のように,内申点を加味する条件をつけさせるなど。

 第二,第三の犠牲者を出す前に,目の前の子どもたちを見て,何か行動を起こすべきである。


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ネットは丸裸メディア~リアル以上に素がにじみ出る世界

 8月6日に公開されていた,日経の『ネットメディアで自分をごまかす人』(藤田晋氏の経営者ブログ)では,耳が痛くなる指摘がたくさんつまっていました。

 ある人は匿名のブログなのに自分の姿を公開してしまっていましたが,

 基本的には本人の姿は見えないのが普通です。

 しかし,そこに油断が生じているというのが藤田氏の言葉です。

>自分が思っている以上に「ネットは丸裸メディア」なのですが、そこに気づいていない人は多いように思います。

>ネットメディアで自分をよく見せようとしたり、取り繕って別人格を出そうとしたりしても、100%うまくいきません。バレます。頭の中身のレベルまで全部、見透かされている、と思った方がいい。

>性格が悪い人はどこか悪さがにじみでてしまうし、いい人は良さが出てくるし、賢い人は知性が出るし、逆に賢く見せようとしてもその魂胆が分かってしまう。何か戦略的にうまく伝えてやろうと考えても、基本的にはバレてしまいますし、意味がない。諦めた方がいいです。

>リアルの場では、対面している一人、あるいは、少人数の目をごまかしきればいいのですが、ネットではそうはいきません。様々な背景を持ったいろんな立場の人が見ています。自分の能力をはるかに超える人も大勢見ています。自分より、何十倍も上手な人の前に立ったと思った方がいいでしょう。

 企業であれば,自分たちの力をみせつけたい気持ちはわかります。

 ただ,TVのコマーシャルを見ればわかるとおり,

 「いい商品だなあ」と感じてもらうことと,買ってもらうことはイコールではない。

 本当に信用し,自分のものにしたいと思い,購入するまでには,かなりのハードルがあるのです。

 「~さんが使っている」という情報だけで,手に入れようとする人もいるから,

 あえて「商品の機能」にはふれず,企業イメージを向上させようとするコマーシャルもある。

 企業の側で,「消費者」になりすまして「評判」をつくりあげるという行動まででてくる。

 ここ教育分野の村になると,本当にたいした差はないのに,

 当たり前のことが当たり前にできない世界だけに,

 目の前の成功や輝いている子どもに目がくらんだような言葉があふれています。

 大切なのは,

 なぜ当たり前のことが当たり前にできないのかを明らかにすることです。

 「~で~が劇的に変わった!」

 などという宣伝文句におどらされてしまう人たちは,

 まず足もとをしっかり見つめることが大事なのです。

 「昔はよかった」という話も何の意味もない情報ですが,

 そのよさを何が支えていたのか,

 何が失われたために,今が問題なのか,

 代わりの支えはないのか,などを提案できればよいのでしょう。

 まずは,「自分をよく見せよう」なんていう意図がにじみ出てしまうような行動はやめるべきでしょう。

 自分で自分をほめるような「なりすましコメント」なんかを書くのはやめることです。

 ネットは丸裸メディアという指摘は,常に自分自身に向けてのものだという意識を忘れないようにしたいものです。 


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最後の砦を守る人たちが重視する「表現の自由」

 言論の自由を封じているのは,国ではなく,報道機関であることがニュースになっている。

 他人にとって都合の悪い事実は報道する一方,

 自分にとって都合の悪いことについてはふれないという姿勢。

 表現の自由を条件に記事を書いてもらっていた人を裏切る行為。

 新聞社を成り立たせているのは,記者であり,記事を投稿してくれる人たちである。

 もちろん,印刷所の人や販売員,営業の人も大切だが,

 何を売っているのかといえば「情報」である。

 「だれが言っていることを載せるか」の判断は,編集の権限を持っている人が決めるのだろうが,

 「連載記事の内容が自分の会社にとってまずい」からといって掲載を拒否するという判断は,

 それ自体があまりにも大きな企業としてのダメージになるはずである。

 この件は,「表現の自由」「言論の自由」を考えていくための重要な教材になる。

 NIE教育に力を入れている人にとっては,格好の題材だろう。

 この新聞社は,社員によるソーシャルメディア活用を積極的にすすめているそうである。

 その社員が,「表現の自由を守る」ための発言をしているが,

 それはイコール「会社を守る」ための発言でもある。

 ツイートには,「査定に響かないように」というコメントも見られるようだが,

 「会社を守る」ための行動は,間違いなく「プラスの査定」に結びつくものだと思われる。

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池上彰に見捨てられた新聞社

 報道の命とは何か。

 自分にとって都合が悪いことでも,堂々と掲載できる「事実発信力」である。

 とうとう,多くのファンを持つジャーナリストに見捨てられた新聞があるようだ。

 「謝罪はしない」という会社としてのこだわりと,

 自分たちが散々「謝罪しない」人たちを非難し続けたこととの非整合は修正しようがないようである。

 参考書や予備校の模試じゃあるまいし,

 「大学入試にいっぱい使われている」ことを宣伝文句にしていたころから,

 もう「終わったのか」と思い始めていたが,

 今回は本当の「終わり」の始まりが見えたような気がした。

 今度は,そういう新聞ばかり読んでいた大学の教師たちが標的になっていくのだろう。

***********************

 (追記9月5日)

 ジャーナリストに見捨てられる新聞社など,もはや価値がないことに経営者は気付いたようですね。

 トップがどう責任をとろうが,「どういう姿勢をとる会社か」はとてもよくわかりました。

 道徳の教材にももってこいです。


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先生が頼りない方が子どもが頼もしくなる

 教師の逆・逆コンピテンシーとでも呼べるものだろうか。

 担任の先生があてにならないと,子どもが自主的に考えて行動できるようになる。

 A班で,アトピーの子どもがいじめられている。

 「うつるうつる」とひやかされている。

 「アトピーはうつらないんだよ」なんてことをいうと,今度はそちらが攻撃対象になる。

 まともな担任なら,すでに状況を把握して対応しているはずだが,

 そのかけらも感じられない。

 直接,子どもから訴えがあれば,電話連絡はできるようだが。

 子どもがいじめの対象になるかもしれないが,作戦を考えていくだろう。

 考えてみれば,私の子ども時代も,自分たちで解決した課題はたくさんあった。

 いじめっ子にはやさしくする。

 そういう作戦が実行できるかどうか。

 あからさまな差別は子どもの正義感に火をつけるきっかけにもなる。

 小学校2年生である。

 弱音を吐かずに戦ってくれることを期待したい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より