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完成品を見せても,同じようにはできないことがわからない人がいる不思議

 ある小学校は研究のために訪れる教師が多くて大人気で,それこそ小学生を相手にする時間はあるのかと思うほど教師は忙しく執筆活動に精を出している。

 私もときどき研究会に顔を出すのだが,気になるのは参観に来ている先生方の視線の先である。

 多くの先生方の視線の先に,子どもはいない。

 教室の後ろから授業を見るという,最も悪い場所から参観する人はそれしかできないのだが,

 何を見に来ているのかと言えば,教師がどのようにふるまい,どのような言葉をかけ,

 どのような板書をつくるのか,といった「教師目当て」のところが正直なところだろう。

 子どもは優秀であるに決まっている(という誤解も何とかしてほしいが)。

 私はあのような教師になりたい。あの教師から学びたい。

 そういう気持ちはわからないでもないが,その授業を参観して,同じような授業ができるかといったら,

 そんなことはないだろう。

 子どもから学ぶ姿勢がもっとほしい。

 それこそが教育の基礎・基本だからである。

 自分は優秀な教師のように授業をしているのに,子どもはできるようにならない。それは・・・

 「だって子どもが違うから」というのは,最低の教師の言葉で,

 なぜ「完成品を見ても,同じようにできるようにならないか」がわからないから,

 自分も同じように,「完成品を見せて,同じようにさせようとする」という発想しかできない。

 もしそういう教育が可能なら,そこに教師など必要ない。

 最もその道の技術が秀でている人の動画をすべての学校の子どもに見せればよいのだ。

 そして,「これが基礎・基本だ」などというテロップをはめ込んでおけばよい。

 できない人は,「どうしてこんなふうにできるのか」という疑問をもつはずなのに,

 それを追究することができない教師に,

 子どもを教育することはできない。

 なぜ教師は,その場に必要なのか。

 それは,「こうやれ」と指示しても,その通りにできないのが普通の子どもだからである。

 子どもによって,できるようになる時間も違う。できるようになる程度も違う。

 それぞれの段階に応じたきめの細かいアドバイスをしなければならない。

 優れた教師の授業を参観していると,ある子にはわかるが別の子にはわからない指示をすることがある。

 それは,別の子に対して必要な指示ではないとわかっているからである。

 指導力に課題のある教師の授業を参観すると,わかっている子に繰り返すまでもない指示を出したり,

 その生徒にその指示をしたところで何も改善しないことが明白であるような場面に遭遇する。

 個に応じた指導をするという姿勢が教育の基礎・基本であることがわからない人がいる。

 何だか自分が高いレベルのところにいて,子どもを見下ろす,見下すような指導を平気で行ってしまう人たち。

 そういう教師は,もっと優れた教師の「本当に優れた部分」に気付かなければならない。
 
 基礎・基本を子どもが身につけていくプロセスにもっと目を向けていくべきである。

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コメント

基礎・基本を単純化してとらえようとする人間は,要するに「考えること」がめんどうくさい人たちなんですね。

そんなに簡単なことが,どうしてできるようにならないのか・・・・と,

一番疑問に思っているのはご自分のはずなんですけどね・・・。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より