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高校入試で,採点の誤り以外に,「分かってしまってはまずいもの」

 入試における採点誤りは,「誤り」であって,「故意による不正」ではない。

 「誤り」がないかどうかの点検は,何重ものチェックを行っていたはずで,

 それでも「誤り」が見つけられないような場合は,・・・・機械にやらせるしかない,

 というのが東京都の判断となった。

 機械は絶対に誤らないか,という問題も残るが,実は,もう一つ,重大なものの「チェック」は

 「チェック」されないまま,放置されている。

 それは,「内申点」である。

 東京都の場合は,平成28年度の入試から,

 すべての高校で入試得点と内申点の比率を7:3にすることになった。

 かねてより内申点と学力との相関に疑問があり,より「正しい力」を図るための方法をとった,

 ということだろう。

 「内申点」の付け方は,学校によっても異なり,教師によっても異なる。

 この「付け方」に課題があることがばれてしまうと,

 そもそも「入試の結果」自体をなかったことにしなければならない。

 絶対にばれてはいけないことなのである。

 「内申点」は,高校側としては,「適正なものとして扱う」のが原則である。

 まるで,あの研究者たちの論文みたいなものである。

 しかし,あっちの世界では,「パンドラの箱」を開けてしまった人物がいる。

 学生だけでなく,教授たちの論文がチェックされると,それこそ収拾がつかない結果になるので,

 「このへんで打ち切り」にしたい人間はたくさんいたはずだが,

 それではすまされない事態となった。

 内申点の場合,特に難しい話ではなく,

 Aという中学校なら5がとれたはずの生徒が,Bという中学校に在籍していたために4になっていた。

 そのためにX高校に不合格になった・・・・・たったこれだけのことを「証明」することは,

 決して難しいことではない。

 もしこういう「不適当な評価」によって,合格者と不合格者が分かれた場合,だれがどのような責任をとるのか。

 Bという中学校が悪いのではなくて,Aという中学校の評価が甘いことが原因だ,という「責め方」が常道だろうが,

 それを言い出すと,中学校数×教科数(9)だけのチェックが必要となる。

 原因は,5や4という評定の意味がものすごくアバウトなモノであり,

 だれも厳密な基準を決められないことにあるのは明らかである。

 問題をもっといい加減なものにしているのは,

 もともと4観点(国語は5観点)の評価を別々につけ,それをまとめたものが

 1,2,3,4,5の評定だということだ。

 厳密にできるはずがない。

 そもそも学習指導要領に示された内容を学習させていないで,評価をつけていたら,なおさらである。

 だれもこれをチェックしようとはしない。

 チェックしたら,大変なことになることが分かっているからである。

 日本という国の「教育」とか「学問」というものは,「そういうタイプのモノ」なのである。

 リーガルコードの世界の人には,全く理解することはできないだろう。

 モラルコードの世界の日本では,不正は「なかったこととしてふるまう」のが「大人の世界のルール」なのである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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