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完成品を見せる目的は,「目標に向かう意欲」を高めること

 私が他のブログで紹介している社会科の生徒作品は,もちろん生徒たちにも自由に見てもらっている。

 毎年,新しいタイプの作品をつくってもらっているので,簡単に「マネ」はできない。

 中学生ならではのセンスの良さにいつも舌を巻いている。
 
 基礎・基本を固めていく途中の段階では,それなりの「理解」も,あやしい「認識」も,

 明らかな「誤解」もたくさん混じっている。それは,相当のレベルの段階までいかないと,

 自分では整理できないくらい,人間の「脳」というのは複雑な情報処理を勝手にやってしまう。

 常に脳は働いているから,今,自分の脳はどういう働きをして,こういう結果をもたらした,ということを

 一度に言葉にしていくことはできない。私は今,これを書きながら,明日の予定も考えている。

 こういうことができる「脳」には,意外な「ひらめき」をもたらしてくれる期待感を常に抱いている。

 基礎・基本が明瞭なもので,すべて言葉にできるなら,すでにだれかがやり終えているはずである。

 そして,その言葉通りにだれもができるのなら,学校の教師など,本当に何の苦労もいらない。

 イチローの打撃フォームをマネしている小学生や中学生がときどきいるが,

 打てないのを見て少し気の毒になる。

 イチローがバッティングセンターで打ったボールの数を知っているだろうか。

 「応用編」の頂点にいる人間のマネをして,「これでいいのだ」と思ってしまう愚かさ。

 基礎・基本・・・・特に実技教科でいうところの様々な基礎的・基本的な技能は,

 練習をしながら身についていくものである。

 あるとき,ある段階で,その人間が「これが基本だ」ということに気づいたとして,

 それを初めての子どもに「これが基本だからこの通りにやってみて」と言っても,なかなかできるようにはならない。

 (もちろん,できるようになる場合もある)

 基礎・基本には,ある程度の積み重ね,反復練習が必要だということについては,

 まだ「百ます計算」などをしている人にも納得できることだろう。

 (お願いだから,「百ます計算」を大量に家でやらせることだけはやめてほしい。学校でもほかのことをしてほしいが,家ではなおさら,もっと充実した時間を過ごさせたい)

 基礎・基本などシンプルなものだ,ただ練習さえすればいい,というのも考えものだが,

 「練習が大事」という「基本姿勢」は間違っていない。

 でも,「基本練習」と聞けば,たいていの人は「嫌な思い」を抱くだろう。

 「つまらない練習」の代名詞だからだ。

 だから,時には,イチローの打撃のマネをさせてみてもいい。

 もちろん,「時には」である。

 最高のバッティング技術を動画で見せて,「マネをしてみろ」と言ってみる。

 でも,できない。当たり前である。

 「そういうことができるようになりたい」と思わせるようにすること,

 「そういうことができるようになるためには,~をしなければならない」と実感させることが

 大事なのである。

 完成品を見せる目的は,その通りにすぐさせることではない。

 そうなりたいと思わせることが大事なのである。

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コメント

いつの間にか,なりすましコメントが「本体」の主張とそっくりになってしまっている人がいる。

なりすましコメントを入れる時間と,「本体」の時間を逆にしてしまったことで,少しお疲れの様子でもある。

丸一日パソコンに向かっていられる人間があまり短時間で「反抗」しようとしても,同じことの繰り返しで何の説得力もなくなってしまう。

コメントのやりとりで失敗した経験が生きていないようだ。

「関わり合うのが時間の無駄」というなら,無視すればいい。

こちらは,時間の無駄にはならない。

同じような教育観の欠陥による教育の失敗が繰り返されている現場の惨劇を何とかして終わらせたい。

こちらは生身の中学生を相手にしている。

切実な問題であるのだ。

それにしても,あの図は自分で表現しているものの意味が自分でわかっていないという面白い現象を証明するものとして,本当に役に立つ代物である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より