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何のために「基礎・基本」を語ることが重要なのか?

 それは,誤解を解くためであり,他人の人格を否定することではありません。

 正しい教育への理解を深めようとする努力に,「あたまがおかしい人」とかいう言葉を投げつけるのは最低の行為であり,このブログも参加している「ぶろぐ村」の精神に反していることは言うまでもありません。

 繰り返しになりますが,「基礎・基本」とは,様々な難易度の学習を展開していくうえでの,あるいは実社会で想定外の場面への対応もできるようになるための「土台」となるものです。

 この「土台」がしっかりとできていないために,「応用」ができなくなる,という話は簡単に理解していただけるものと思います。

 しかし,多くの方が抱いている誤解というのは,

 「基礎・基本」とはだれでも簡単に身につけることができるもの,シンプルなもの,頭を使わなくてもできるもの,

 というもので,ここが「基礎・基本」に対する考え方,もっと言えば,学習に対する考え方の
 
 「基礎・基本」が身についていない証拠なのです。

 こういう人に教科の学習の指導を任せると,

 「この子たちは基礎・基本が身についていないからできないのだ」と

 前の段階の教育に文句を垂れるパターンの最低の教育になっていきます。

 社会科の歴史の授業のことを考えてみましょう。

 鎌倉で初めて幕府を開いた人物はだれですか?という質問には,簡単に答えられます。

 しかし,源頼朝はどのようなことをした人物ですか?という質問に,どのような答えを教師は期待するでしょうか。

 知識が多いことをもって「基礎・基本ができている」と考える教師は,

 いくつかの答えを聞くだけで満足して,そこから先は自分の話したいこと,

 子どもが知ってなさそうなことを話して,仕事をした気になってしまいます。

 「基礎・基本」を育てるための授業は,それではいけません。

 たとえ「源頼朝」という人物名を忘れてしまっている子どもがいたとしても,

 「初めての武士らしい政権を立てたこと」や,その政権が「将軍と武士=御家人との主従関係によって成り立っている」ことが理解できていれば,歴史を大きな流れの理解には役立ちます。

 歴史上の人物名を必死に覚えるより,どのような歴史の流れ,社会の動きがあったのか,ということに頭を働かせるようにするのが中学校の歴史学習です。

 小学校段階と中学校段階では,当然,歴史の学習についての「基礎・基本」の質が変わってきます。

 年表に出ているようなことを暗記していれば,「基本」が身についている,と思ったら大間違いです。

 そもそも「鎌倉幕府」という用語が,いつから使われるようになったものか,ご存知でしょうか。

 そういう用語を使う目的は何でしょうか。

 歴史学の学習と,歴史学習とは何が異なっているのでしょうか。

 小学校や中学校の学習の目標が,教師によってまちまちにならないように,おおまかに定めているのが学習指導要領です。

 ただ,教育基本法でも示された目標があり,その能力を育てるために,教師はあらゆる場面で子どもの「基礎・基本」を鍛える努力をしなければなりません。

 源頼朝はどのようなことをした人物ですか?という質問ではなく,

 どのようなことをしなかった人物ですか?という質問を投げかけてあげると,

 子どもは「質問の意図」を考えてくれるような人間に育っていきます。

 「質問の意図」とは,単純な知識の再生を求めることではなく,自分たちがもっている知識を活用して,

 「考える」こと,「意味を探る」ことを求められているのだと実感してくれるようになります。

 こういう経験に乏しい生徒たちには,「追究心」「自ら学ぶ意欲」は育ちにくいのです。

 「基礎・基本はシンプルだ」などと言って,たった一つの「具体的な事例」を挙げることが,自分の主張の論拠になるわけがないことは,小学生でもわかります。

 「この動物は,象です。なぜなら,鼻が長いからです」と言ってみても何も始まらないわけです。

 「基礎・基本はシンプルだ」などという言い方自体が「決めつけ」であり,思考停止状態を最もよく表している言葉です。

 禅では,そういう境地に至るまでに,ありとあらゆる「実践」を繰り返しますが,

 結論をいきなり示してそれで終わり,という「教育」など存在しません。

 蛇足ですが,「基礎・基本」と「応用」の違いは,どのようなことをしようとするかによって,変わってきます。

 ですから,両者の「線引き」はできないのです。

 「基礎・基本」と「応用」の関係は,グラデーションで示すのがよいでしょう。

 そういうふうに「基礎・基本」と「応用」の関係が示せるということは,誤解状態から完全に抜け切れないというわけではないことを表しています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より