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「コの字」型の座席配置は廃止しよう!~常に「さらし者」になっている子どもがいる

 教師が気付かないように目くばせをする子どもたち。

 「コの字」型に座席を配置している学級を参観するときに,時々出くわす場面である。

 ここで「コの字」型座席配置が生まれた経緯を説明するゆとりはないが,

 歴史の本には大正時代に流行った教育を紹介する写真で確認できるものもある。

 平成25年に日光市教育委員会が出した「コミュニケーション活動を重視した授業づくり」

 の中に,「学び合いを推進するには!」というコーナーで

 「コの字型の座席配置にし,全体での学び合いを推進する」事例が紹介されている。

 コの字型の座席配置の意義は,

>発表している人の顔が見え,学び合いに適しています。学び合いにおいて重要なのは,お互いの発言をきちんと受け止め合うことです。たとえ,一人の子どもが教師に顔を向けて発表しても,他の子どもがその顔を見ることができます。

 実際に席に座ってみるとわかることだが,発表している子どもの顔を正面から見ることができるのは,コの字型にしてみたところで,教師だけである。

 前の方の子どもは比較的,発表者の子どもの顔が見えやすくなるが,それは普通の座り方をしているときでも振り返れば見ることができる。

 ここで説明されていることから伝わってくるのは,「話している人の方を向いて聞く」ことの大切さだが,

 そういう「形式上」のことと,「お互いの発言をきちんと受け止め合う」という内面的なものは,同じレベルの話ではない。
 
 他の子どもが話している内容にかかわる重要な資料を目で追いながら,耳で話を聞く,というたいへん立派な態度も否定されることになる。

 そもそも「コの字型」と呼ぶように,形で何かを操作しようとする考え方は,小学校に代表的な浅い教育観である。

 授業参観すれば,その弊害をいくらでも指摘することができる。

 向かい合わせで授業と関係ないことのやりとりを目でする子どもたち。

 授業が理解できていない子どもを見ながら,優越感にひたっている子どもたち。

 逆から見れば,いつ,自分の反応で笑われないかとびくびくしている子どもたち。

 全く意見が言えない状態のまま,常に「さらし者」にされ続けている子どもたち。

 一斉指導の場面で子どもを向かい合わせにしてみたところで,

 簡単に「学び合い」などは始まらない。

 本当に「学び」が始まってしまったら,それこそ収拾がつくなくなることはだれでも想像できるだろう。

 だから,本当は言いたいことも言えないまま子どもは我慢するのである。

 「コの字型」座席配置の最大の課題である。

 教師から発言権が与えられるまで,何も言えない状態になるのはコの字型でなくても同じだが,

 今,目の前に「それはおかしい!」と反論したい相手がいても,何もできないというストレスを抱くのが

 コの字型の問題である。

 参観している教師たちは,「言いたいことがあってうずうずしている」子どもがたくさん待たされていることに,

 さほどストレスを感じていないらしい。

 みんな,学習意欲にあふれていていいな,などとのんきに見ている。

 「全体での学び合い」なんていう言葉を軽々しく使うのも考えものだということが,わからないのだろうか。

 一度,国会の本会議をコの字型でやってみたらどうか。

 全体の学び合いの前に,4人程度の少人数でのやりとりがあり,それぞれの代表者がコの字型の中心で

 代表の立場で議論し,他の子どもがだれの意見が最も説得力があったかをジャッジする,というような

 方法をとってもよいかもしれないが,これも,別にコの字型でやる特別なメリットはない。

 コの字型の授業のデメリットは,横方向にある黒板のメモをとらなければならない,というものもある。

 コミュニケーション活動を授業で重視するのも大事だが,

 まずは授業以外の場面での公的なコミュニケーション活動をさかんにすべきである。

 そうすれば,授業で「話し合い活動をさせてみようとしたが,話し合いが始まらない」なんていう

 時間の無駄もなくすことができる。

 上で紹介した資料の2ページ目に,

>すべての子どもが参加し学びを実感できる授業のイメージ

 が紹介されているが,これはとても参考になる。

 最も重要なのは,「全体」の場面ではなく,「個」の場面である。

 コミュニケーションを重視するのは,「個」の力を伸ばすためである。

 「みんなで楽しくおしゃべりする時間を増やすため」ではない。

 特に,まとめの段階で「個」としてどうなったかが評価できないと,

 お話にならない。 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より