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「学び合い」を全否定するであろう人たち

 教える情熱が強すぎると,子どもはひいていくものである。自主性が育たない。

 子どもを主体的に動かすことへの情熱が強すぎると,知識基盤社会を生き抜くための「姿勢」だけしか身につかなくなるおそれがある。

 子どもの自主的な学習や練習を否定するような教師は,

 「学び合い」という授業形態もきっと全否定するであろう。

 「学び合い」という授業形態は,「学び合わない」結果や,

 「誤ったことの学び合い」という結果も当然引き起こすものだから,

 事後の個に応じた評価が絶対に欠かせない。

 それも,「ただ答を覚えていてよかった」程度のものではいけない。

 「できない生徒」をゼロにするつもりが,

 「できたつもりの生徒」を量産する結果に陥る失敗を繰り返してはならない。

 教師は,「全員にできるようになってほしい」という希望をもつのは当然だが,

 そのために自分と生徒が何ができるかを考え続けなければならない存在である。

 教師の中には,授業にしろ,部活動にしろ,完全に自分が言うとおりのことを子どもが実行しないと気が済まない人間がいる。

 1人で2~3人を見るのならよいのだが,数十人単位となる部活動は,そうもいかない。

 だから,中学校や高校になると,上級生が下級生を指導するという場面を多く用意するようになる。

 ここが,部活動と学習活動の大きな違いである。

 部活動は,経験が豊富な上級生から学ぶことが可能な場であり,

 ふだんの授業には,上級生はおらず,先生しかいないのが普通の場である。
 
 小中連携をしっかりやっている学校では,中学生が小学生に勉強を教えたり,学習したことを発表したり,

 勉強のしかたや発表のしかたを教えるような場面を用意して,それなりの成果を上げている。

 私も上級生と下級生がセットになっての「学び合い」は,とても意義のあるものだと評価したい。

 同年代の学力差の大きい学習集団での「学び合い」は,

 勉強が苦手でプライドが高い小学生や中学生の気持ちになってみれば容易に想像ができると思うが,

 あまり歓迎できるものではないし,そればかりやらされて,成果が出せるなら,教師はいらないと信じ込むことができるようになってしまうだろう。

 なぜ教育の世界は,

 こういう両極端なことを考えたり,実行したりする人たちがいるのだろう。

 それは,どの手段をとっても,さほどの成果の違いがでないから,というところが正直なところだろう。

 「学び合い」が本当に効果のない方法なら,

 やっている教師はみんな袋だたきになる。

 しかし,そもそもたいした成果がでていなかった場合は,

 「学習への姿勢は前向きになった」ことだけが評価されたりして,

 成果を比較することもできない。

 子どもはさすがに自分たちに任されて完全にさぼることはできなくなる。

 教師の話は聞いているふりが可能だが,目の前の子どもの言葉を聞いているふりはできないからである。

 要は,バランスである。

 子どもだけの練習をいっさい認めないような教師に・・・・

 自宅での自主的な練習すら認められないのだから・・・・子どもの「やる気」を伸ばすことはできないであろうし,

 子どもたちに自由な学習の進行を任せている教師に・・・・
 
 教科書に出ていないような,一定量の良質な情報を提供してもらうことを期待することはできない。

 本当に教師に「教科書の枠を超えるような知識がない」のであれば,

 教師がすべてを教えきるような授業より,

 生徒が勝手に調べたり話したりしている授業の方がましであると考えられる。

 教師があまりにその道の専門家であることも,子どもにとっては息苦しくて嫌だろう。

 子どもと一緒に,何がどのように課題であるかを考えていくような教師を育てていく場は,

 実は現場しかない。

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コメント

教育に関係した仕事をしようとする人の中には,とても真面目な人が多いと思います。

ただ,その真面目さは,視野の狭さとも相関があって,社会一般の人から見ると

「融通がきかない」人間に見えてしまうのですね。

自分の思い通りにいかなくてイライラしている教師は,たくさんいました。

みんな,「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という信念が強すぎるんですね。

子どもというのは,イライラした人間を相手にするのは嫌なので,

教師の前だけではちゃんとしたり,平気で嘘をいったりします(本当のことを言うと怒られるのがわかっているから。

よほど,「大人」の対応をするんですね。

「演技」が上手な子どもをどれだけ見てきたことか・・・。

何もしらないで満足そうにしている教師の顔が目に浮かびます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より