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個人レッスンレベルの「基礎・基本」イメージでは,学校の先生にはなれない

 小学校に実技教科だけを担当する教師がいた。

 子どもながらに,担任を持たせることができない先生なのだろうなということは薄々感づいていた。

 中学校の教師は,特定の教科を専門的に指導する。

 それでも,いい先生とよくない先生の違いは明白だった。

 生活指導で苦労があるような学校だと,

 担任がもてる先生ともたせられない先生がいることもわかった。

 教員として採用されることをめざして努力している人たちには,

 自分がどのような位置に立てそうなのかをまず把握できるようにしてほしい。

 一連の記事で明らかなように,

 学校という40人の子どもたちを相手にして学習指導を行ったり,

 200人の生徒を相手にして生活指導を行ったりする場で,

 そういう話をいくら口にしたとしても,何も伝わらないだろうなと思えることしか書けない人がいる。

 こういう人は,個人を相手にしたレッスンはできるかもしれないから,

 めざす職業を変更した方がよい。

 40人を相手にして,授業ができるのか,

 そういう授業のイメージを「指導案」というかたちできちんと表現できるのか,

 教員採用試験では,そこを見て判断しようとしている。

 なぜなら,そういう指導ができない教師が大勢いることが,

 「主権者」たちの声から「公の情報」「周知の事実」になってしまったからである。

 イメージがもてない人がいるかもしれないが,

 1人の子どもを相手に話をすることはできても,大人数を相手にはできない人というのが存在する。

 授業参観をすると,一目瞭然である。授業として成立していないのだから。

 最悪なのは,だれも聞いていないのに,お構いなしで,一人で話している人までいる。

 話が伝わっていないこと自体に気付いていないのは驚きだが,

 そもそも,そういう事実はない,という妄想を抱いていることによって,

 自分が教師でいられることの根拠としているらしいのだ。

 「子どもに言葉が伝わっていないことを認めた」時点で「終わる」ことに,

 薄々気づいてはいるのだろう。

 こういう指導力不足教師の共通点は,人の話を聞かないことである。

 「客観的な話」という言葉の意味が伝わっていかない。

 Aくんも,Bくんも,Cさんも,Dさんも,E先生も・・・・全員に聞き取った結果,こういう事実があるらしい,

 それが「客観的な話」だ,という会話が成立しない。

 国語力の問題かと考えたこともあったが,そうではないようだ。

 自分自身が使っている「客観的」という言葉の文脈は成立している場合がある。

 ただ,自分の認識と異なる「客観的事実」を他人から告げられると,

 そこで思考停止になってしまう。

 そして,「あいつの頭はおかしい」とか,「性格が悪い」など,相手の人格攻撃を始める。

 こういう指導力不足教師は,典型的な事例だから,教師の多くは経験済みのことだろう。

 教員採用試験の新しい形を提案したい。

 面接官は,40人とする。

 面接時間は1人5分と決める。

 子どもも,大人も,高齢者も,臨時面接官として採用する。

 そして,あるテーマで「話し合い活動」を行ってもらう,という授業の導入だけしてもらう。

 テーマは,数十種類を用意しておき,その場でくじを引いて決める。

 この面接試験で,まず5分の1くらいにしぼる。

 (ただし,どこかの自治体のように倍率が5倍以下だと,これもできない)

 そして,今度は重要な授業の展開部で,個に応じた指導の場面を用意する。

 当たり前の話だが,自分の採用してもらいたい学校に通っている年齢の子どもを

 ターゲットとした指導が必要なのだが,高齢者に話をもっていくなど,

 信じられない行動をとる人がでてくる。これも不採用にできる。

 どうにかして,採用後に不適格性に気付く,という事態を起こさないようにしてほしい。

 学校の教師として指導を行いたいのであれば,集団としての子どもたちに教えること・・・・

 主体性や積極性,チャレンジ精神だけでなく,

 協調性や柔軟性,責任感・使命感を育てるという

 「使命感の基礎・基本」をまずは固めていくべきであろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より