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高校「近現代史」創設の面白さと難しさ

 日本史と世界史を融合した,「近現代史」の創設は,とても面白いアイデアである。

 しかし,実現は難しいだろう。それを専門とする大学の先生が歴史系にはいないからである。

 今まで通りでいけば,「教科書が書ける人がいない」ということである。

 井沢元彦などは何百回となく?繰り返し書いているが,

 これを機会に,「歴史の専門家ではない人」に,教科書の執筆や編集を任せてつくってもらいたい。

 各時代,各時期の専門家が書いたものを継ぎ足したような教科書は読むのがつらい。

 「史実に則して考えて,問題はないか」のチェック・・・・今は文科省の教科書調査官がやっている仕事だが,こういうのを大学の先生がやればよい。

 実際に,そういう教科ができて,面白い教科書ができたら,もう,授業は受ける必要はないかもしれない,というくらい,高校の歴史の教科書はつまらないものになっている。ただの大学受験やセンター試験用の参考書にすぎない。

 歴史の読み物はいいものが多い一方で,教科書はひどすぎる。

 倉山満はそういう趣旨の本まで出しているが,もはや高校に「検定教科書」は必要なのかとも思えてくる。

 一橋大学を始め,日本史の問題など,メッセージ性も込められた面白いものが多い大学が増えるといい。

 入りたい大学の,それらしい歴史観をもっていけばよいだけである。

 どうでもいい知識ばかりを問うて受験生をふるいにかけているだけの私立大学の問題など,全くの不要物である。

 どれだけ不要物かは,大学に入ってからの教育を考えればすぐにわかるはずである。

 ただ,もし,教科として成立した場合,困るのは教師である。

 学習指導要領が出て,教科書は今のままで,こういう学習をするように,

 と言われるのが一番困るだろう。

 しかし,教師が困る状態をつくることが,最も日本の教育水準を上げる近道の方法となるだろう。

 教師が学び,力量を高める動機付けとして,最も有効的なものがこうした

 「自分のさまざまな知識を比較,関連付け,総合・統合して,新しい枠組みの歴史像をつくること」

 で魅力を感じさせるような施策である。

 問題は,魅力を感じることができる地理歴史科の教師が何%くらいいるかだ。

 そういう学習の必要性が実感できるような職場にいないことが最大の問題である。

 社会人採用をバンバン増やして,歴史や社会の本質を見抜けるような「考え方」を身に付けさせてくれる高校・・・と聞いただけでも魅力を感じる。

 日本史と世界史を融合した「近現代史」・・・・私の予想では,限りなく「日本史」に近いものになるだろう・・・・

 ただ,避けてほしいのは,「愛国心を高める」ことだけを目的としたような教科づくりである。

 「国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者」をめざして教育した小学校・中学校の先にあるものが,

 「○○を中心とした国際社会に生きる,平和を乱す国には断固とした措置をとることに同意してくれる国民づくり」

 であるのは怖い。自分から平和を乱している人たちをよく観察できる国民の基礎づくりは怠らないようにしておきたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より