ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月

創造的な発想を育てるための時間

 日経産業新聞の記事に,脳を活性化する起業ゲームのやり方が紹介されている。

 ある一定の経験を積んだビジネスマンなら,そうとう頭脳を鍛えられそうなプログラムだと思うが,

 同時に,日本人は苦手だろうなと想像する。

 記事を書いたITジャーナリスト,コンサルタントの林信行氏も述べているが,

 日本の企業には「沈黙は金」という価値観があったり,

 日本人にはグループでの活動で,自分からどんどん動くことに抵抗感をもったりするような

 独特な「積極性軽視の文化」があるからである。

>人とアイデアを共有したくないとか,あまり表に立ちたくない

 という傾向は,将来の日本人にとってきっとプラスにはならないだろう。

 だから,学校教育でも「総合的な学習の時間」に限らず,

 「創造的な発想を育てる時間」を教科等で確保していくべきである。

 そこでは,本来,「総合的な学習の時間」での活動が求められていた
 
 「教科横断的な内容」も取り入れるべきだろう。

 文化の異なる民族どうしでも,理解し合える分野に「音楽」がある。

 様々な民族音楽を聴かせて,楽器の材質を考えさせたり,

 その音楽に合う風景を想像させたり,ミックスすると新しい響きが生まれそうな

 音楽の組み合わせを考えさせたり・・・・こういう「具体的な実践例」を多く紹介してくれる人が,

 このブログ村にどんどん集まってきてほしい。

 「積極性重視の文化」を学校にも広めていきたい。

 江戸時代の歴史についての課題を紹介する。

 江戸時代を代表するキーワードをいくつか並べて,ランダムに2つを取り上げる。

 そして,その2つを結びつけて,「新しい産業」を起こしてもらう。

 2つが顧客になる場合もあるし,2つが手をとってサービスを提供したりものづくりをしたるすることもある。

 封建社会や資本主義でない社会のなかでは実現不可能なものでもよい。

 その後,実際の産業とその発達の様子を確認してもらう。

 「起業精神」を育む意味でも,創造的な発想ができる場面を用意してあげるのはいいことだろう。

 深入りはせずに,10分程度でもかまわない。

 教科の内容にある程度則した,自由な発想,自由な発言を,こういう場で発揮してもらうことは,

 教科内容への興味・関心を高めて,理解度を充実させるきっかけになることも期待できる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

流動性知能の発達に磨きをかけることの意味

 結晶性知能に対して流動性知能は,遺伝の影響が大きいと考えられてきたが,

 そうではないことを実証しようと研究している人は多いようである。

 ただ,訓練のためのプログラムは,それほど「楽しい」ものではないようだ。

 集中力が持続する子どもはある程度の成果が見られるようだが,

 そういう「訓練」を強制される子どもたちの中には,二重の意味でつらい思いをしているものがいるかもしれないことを知っておいてほしい。

 やるのがつらい。成果もでない。

 百マス計算をやっている教室に,そんな子どもはいませんか。

 学び合いとかいって,楽しそうに教えている子どもの目の前に,

 だまったまま,返事もできないでいる子どもはいませんか。

 できる子どもにも,できない子どもにも,学習を通して「結晶化」していくものがたくさんあるでしょう。

 単なる「訓練」に夢中になってしまう子どもが,何かを失っていないか,

 単なる「訓練」をやらされている子どもが,何かを失っていないか,

 考えてあげるゆとりがほしいものです。

 学校では,どんな能力を身に付けさせてあげるのか。

 それは,教育基本法にも示されていますし,具体的には学習指導要領に示されています。

 学習指導要領の解説は,教科編だけでなく,総則編にも目を通しておいた方がよいですよ。

 採用試験でも,採用条件として,正解できることを必須とするような問題を,ここから作ってほしいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

自分の利益を優先させる人が増えることの意味

 過去に滅び去った国々では,滅びる前に,

 「自分の利益ばかり考えている人間が増えた」ことへの危機感を訴えた人がいたといいます。

 滅んだ後も,「確かにそういう人間によって,国は滅ぼされたのかもしれない」という実感をもっていたようです。

 国の危機が間近にせまったとき,

 「自分の利益を優先させる人」が非難され,たとえば

 とめどもない増税が続いたり,徴兵制が復活したりという問題が生まれそうだと危惧している人もいる。

 個人を優先するか,国家を優先するか,

 綱引きが始まったとき,多くの人は,「個人が勝つ」と思っているに違いありません。

 そのための「民主主義」が存在すると,安心しているのかもしれない。

 しかし,「多くの個人が負けた後」になって,改めて「個人か国家か」を問われたらどうか。

 そもそも,自分の利益を優先させるようになっていること自体が,

 「国家が終わり始めている」ことの証ではないか,と見ることもできます。

 現状で何とかしておきたいのは,

 公務員による自己利益優先主義に見える動きです。

 それが実際には国や国民の利益にかなっているのであれば,そうとわかるような説明がほしい。

 透明性が足りないと,どうしても「だれか特定の個人が得をしているのではないか」という疑心暗鬼が起こるのです。

 公的な立場の人間すらそうなのだから,自分は堂々と自分優先でやっていける,

 などという価値観が一般化するのがおそろしいことです。

 ユダヤ人にように,国が滅ぼされても,2000年にわたって伝統を守り抜き,

 ようやく新たな土地で国を再興できた人々もいます。

 日本がそういう生き残り方をすることができるかどうか。

 伝統や文化に目を向かせることが,

 自分の利益を優先させたがる一般的な人々の価値観をどう変えることができるか。

 「歴史を学ぶこと」「伝統や文化を知ること」が,自己利益優先の歯止めとなるかどうか。

 学校教育に課せられた責任はとても重いと言えます。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

相次いで報道される教員による犯罪・・・どうしたら食い止められるか?

 報道で知られるものに限らないことは,教育委員会や学校管理職レベルでないとわからないかもしれない。

 「どうしてこんなにたくさん事件が起きるの?」

 と思っている人が,知らない事件も山ほどある。

 「すべてを公開すべきだ」と思っている人も教育委員会や議員レベルにはいるかもしれないが,

 公教育への信頼の喪失は,さらなる問題を生む原因ともなり,頭の痛いところである。

 それにしても,教師による犯罪の報道が止まらない。

 高校の学園祭がどうして中止になったのか?

 その理由を答えさせられる高校生はどのような気持ちだろう。

 ここに及んで,子どもたちに,教師への不信感をもつな,というのは無理な話である。

 すぐに「割合」に換算してごまかそうとする連中がいるが,

 「絶対数」が語る真実から目をそむけてはいけない。

 「かつて自分の学校では一度も起きたことがない」から,関係ない,ではすまされない。

 ほとんどのケースが,「かつて一度も起きたことがない」学校で起きるような事件だからである。

 「犯罪防止策」を講じている自治体は多いが,

 教師の犯罪に関しては,「まさかあの人が」という事例も少なくなく,

 「こういう研修を行えば,きっと大丈夫だろう」なんて予想すらできないのが痛いところである。

 犯罪防止の研修で,「本当にためになった!」などという感想をもってもらるようなプログラムがあるとは考えにくいが,実際には,どこかに存在するかもしれない。

 企業にも,同様の研修があるかもしれない。

 残念ながら,企業が実際に行っている研修を公開すると,それだけで

 企業のイメージダウンになりかねないから,

 簡単に「企業のお世話になる」とも言えない。

 出口のない問題かもしれないが,

 教育の世界の最後の切り札は子どもである。

 全国の小・中・高校(大学にもあってもよいと思われる)には,

 児童・生徒による「教師の犯罪防止委員会」の設置を義務づけ,

 児童会や生徒会の役員に,定期的に「犯罪防止に関する宣言文」を読んでもらう。

 もはや,「そこまでやっても問題がなくならないのか」と思えるような手段をとっていくしかないと思われる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「わかりやすい理由にとびつく」というわかりやすい誤り方

 小学校の教師の中で,「ゲーム脳」などという言葉を使って子どもを脅している人はどのくらいいるだろうか。

 専門家かどうか,怪しい人の話を広めている怪しい一般人が多い。

 専門家の話を広める怪しい人もいる。

 「怪しげな話」かどうかの判断がつかない人の特徴は何だろう。

 ある大学での実験の様子を目にしたことがある。

 人間の脳は,

 簡単な計算と,複雑な計算をしているとき,

 どちらの方が脳全体が活動していると考えられるだろうか。

 実験結果では,簡単な計算をしているときの方が,

 活性度が高いという。

 こういう話に,すぐにとびつく人たちがいる。

 実験することを仕事にしている大学の人たちなら問題ないのだが,

 子どもを実験台にしてしまっている小学校の現場教師たちがいる。

 脳全体が活性化した方が,いいに決まっている・・・・・

 本当に脳の仕組みを知りたい人の言葉とは思えないのだが,

 そう信じてしまう人は少なくない。

 「子どもは飽きやすい」「子どもは長時間,集中できない」

 という信念をもとに,1つのテーマで45分を使わない教師もいる。

 かつてここで紹介したことがあったが,細切れの活動が大好きな

 ある小学校教師の指導案を見たときに,授業前,私がこう尋ねたのをはっきりと覚えている。

 「もしこの段階で,生徒の議論が活発になっていたとき,どうしますか?」

 返答は忘れてしまったが,授業は指導案通りに行われたことと,

 「どうしてあの場面で議論を打ち切ったのか」と非難したことは覚えている。

 若い教師だったので,「どこかのだれかのモノマネかな」と思っていたが,

 やがて,「教祖」が判明した。その教師の教え子たちが中学校で暴れるというので正体がわかったのである。

 こういう「思い込み」だけで授業をしている教師たちを減らさなければならないと思い,

 機会があるたびに問題を事例を紹介してきたが,

 宗教の域に達してしまっている人たちの耳には届かないようである。

 中1プロブレムの原因だなどと指摘すると,

 「中学校でも導入しろ」なんて言い出しかねないから,おそろしい。

 さて,流動性知能というのは,ある年齢に達すると衰えることがわかっている。

 これは,迷路のパズルを2分間で何問解けるか,という単純なテストでわかる。

 しかし,人間はこのタイプの知能だけで生きているわけではない。

 年齢や経験,学習とともに向上を続ける結晶性知能を人間はもっている。

 流動性知能の衰えを,結晶性知能で補うことによって,年齢が上の人間たちもそれなりに優れた行動がとれるという仕組みである。

 問題は,不測の事態に対応する能力のように,単純な記憶量や経験だけで向上するとは限らない知能の解明が進んでいないことである。

 わかりやすい理論にすぐにとびつき,真似をするクセのあるタイプは,

 きっと強迫観念的に「わかりやすいことがいいことだ」と信じ込んでいる人間に多いはずだ。

 パズルを速く解けることが,人間にとってどれだけ価値があることかは考えない。

 とにかく目の前の人間が,必死に与えれた課題に取り組む姿勢だけがほしい人間には,

 百マス計算などはぴったりの命令である。

 それに何の迷いもなく必死に取り組む小学生は,本当にいじらしい。

 というか,気の毒である。

 「脳の活性化」という言葉は,たとえば家族が痴呆で悩んでいる人に,治療の成果を期待させるという手段で使うのはいいと思うが,安易に子どもの教育の場面で使うべきではないと私は考えている。

 なぜ人はだまされてしまうか。

 人を信じるいい人だ,という話とは全く別の次元の問題があることに気付いてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

3054件という数字が意味すること

 都立高校入試の採点ミスの数字には,どのような意味があるのだろうか。

 点検を行った高校は全部で175校。このうち,158校でミスが見つかっている。

 次のようなミスのうち,最も多いのはどれだと思われるだろうか。

 あり得ないミスは,どれだろうか。

1 誤答を正答として採点した。

2 正答を誤答として採点した。

3 部分点を与えていなかった。

4 誤って部分点を与えた。

5 部分点の基準等が不統一であった。

6 合計点の算出に誤りがあった。

 平成25年分で,1から順に,467件,322件,36件,102件,102件,390件となっている。

 部分点が認められる問題は少ないから,ほとんどまんべんなく,ミスが起こっていることがわかる。

 もともとはミスがゼロだったはずの入試の採点で,何回かの調査の結果,

 平成25年分だけで1419件のミスが見つかった。この数字が確かであると容易に信じられない気持ちもわかるだろう。

 再発防止策というレベルではすまないことは,だれでもわかる。

 1校数百万円を費やして,マークシートで採点できるような仕組みに変わることも,納得できてしまう。

 それでも,何か腑に落ちない気がするのは,

 過去に遡れば,いったいいくつのミスがあり,

 計算ミスとか自分だけ都合の悪い採点方法によって不合格になってしまっていた生徒が,

 いったいどれだけいたのだろうか,という疑問も起こるからだろう。

 さらに言えば,都立高校の教師たちだけがミスを犯すとは考えにくいわけである。

 公立高校の教師たちにとっての入試業務とは,どういうものか。

 はるかに倍率が高い私立高校の入試業務では,特別なボーナスが出るところもあると聞く。

 うらやましく思えているのは,お金のことだけだろうか。

 いずれにせよ,「あってはいけないはずのミス」を防ぐ方法がない,

 という判断は,正しかったように思える。

 そして,私のように公立中学校にいた者の金銭感覚からすれば,

 お金で解決できるあたり,さすが「都立」という実感もわく。

 少なくない人たちが,「公設民営化」への道が開けるのも遠くないと思っていることだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

容姿の美しさと心の醜さ

 報道の通りだとすると,容姿を美しさを求める顧客へのサービスを行う会社の経営者が,

 何ともブラックな社員いじめをしていたらしい。

 利益を追求するトップと,

 会社への忠誠心を求められる社員。

 容姿の美しさを追求する会社だが,

 もっと大事なものの美しさは,「利益」という目標の前ではかすんでしまうようである。

 確かに会社にとって,「利益」は

 「生死」を分ける重要な数字なのかもしれない。

 そういう厳しい世界のことを,子どもに知らせることも教育の仕事である。

 トップが口にした「会社をつぶす」というのは,現実のものになるかもしれない。

 自分の不利益を公のものにすることで,

 一つの会社がつぶれ,自分以外の多くの社員が路頭に迷うことになるかもしれない。

 これからどういうことになるかはわからないが,

 人は何を優先に生きていくのか,深く考えさせられる事例ではある。

 正しいのは自分かもしれない。

 しかし,自分の正義を通し,「敵」の不正義を世に問えば,

 「敵」もろとも「自分」も食べられなくなっていく,という世界。

 こういう「真剣勝負」がない公教育の世界・・・・

 どれだけ教師の犯罪行為が起ころうが,決してつぶれることのない学校という場所・・・・

 そこで学ぼうとする「正義」や「美しい心」などが,

 どうにもかすんで見えてしまうことがやりきれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
 

お子さんの宿題は終わりましたか?

 宿題がどうにも終わりそうにない場合,保護者の方はどうされるのが一番よいのでしょうか。

 登校日の前日まで,徹夜させますか?

 体調をくずしてお休みしてしまっては,元も子もありません。

 一番よい方法は何でしょう?

 「宿題代行サービス」の利用?

 教師がよほどバカでない限り,すぐにばれますよ。

 夏休みの宿題が,成績に加味されることを保護者の方は心配されていますか?

 そんな心配はいりません。

 たとえば図工の成績に,夏休みのスケッチの出来不出来の評価が入るわけがありません。

 なぜなら,本人だけの力で描けたかどうか,判断できないからです。

 ふだん,絵がすごく苦手な子どもが,上手な出来の絵を提出するときの気持ちは分かりますか?

 宿題は,間に合わなくてもいいんですよ。

 提出日に,まだ終わっていませんが,いついつまでに,必ず提出します。

 そうやって,子どもから教師に伝えさせるのがベストです。

 できなかったもの,やらなかったものは,できませんでした,やりませんでした,

 と正直に伝えさせることが,何よりも大事なことです。

 いい教師の場合,きちんと現状に寄り添ってくれるはずです。

 いきなり怒り始めるような教師にあたってしまっていた場合は,

 「社会に出たら,これじゃすまない」くらいにびびらせておけばよいのです。

 きちんと自分と向き合い,教師と向き合える子どもになるチャンスにもなります。

 宿題が終わらなかった子どもの保護者の方は,そういうチャンスをぜひ生かして下さい。

 怒っていても,何も始まりません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

全国6位の沖縄の子どもたちは自信を高めたか?

 こういうと沖縄の子どもたちには失礼かもしれないが,

 「算数A問題で沖縄6位!」というニュースは,

 「沖縄ができるなら,うちでも」というやる気をもたらしていくのか,どうか。

 「秋田参り」が「沖縄参り」に変わるのか。

 あるプロジェクトに私も参加しているが,沖縄での研究授業の機会も増えている。

 県の単位ではないかもしれないが,学力向上に力を入れていることが伝わってくる。

 今回の「成果」をどのように考えるかは,県教育委員会が責任をもって発表してくれるだろう。

 子どもたちに自信がつくのが何よりである。

 「算数A問題が6位」であるのに対し,「B問題は34位」というのが,とても

 わかりやすい「ハードル」を示してくれていることもわかった。

 ぜひ,「学力工場」に陥らず,真の「学力向上」に突き進んでいってもらいたいと願う。

 私が気にしているのは,まるで過激な宗教集団のように,

 子どもを飽きさせない,全員に参加させるという信仰のもとで,

 短い時間で区切って次々に課題をやらせて,時間で競わせるのがはやっているところがあることである。

 異端者のいたたまれなさを含め,あまりの痛ましさに,どうにか,だれかにやめさせてもらいたいと切に願う。

 子どもを「売り物」にしている小学校の教師がいる。

 学力向上のための意欲的な取り組みはけっこうだが,

 ぜひ子どもが犠牲になるという弊害だけは,何とか避けてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「学力テスト」という呼び方が,見えなくしているもの

 「学力テスト」というのはマスコミ造語で,

 正しくは「(平成26年度)全国学力・学習状況調査」という。

 つまり,「学習状況」についての調査もかねているが,ここに注目されることはあまりない。

 学力調査の結果・・・つまり正答率よりも,本来は注目されてよい結果が,

 学習状況の調査に隠されているかもしれない。

 小学校の場合は,ほぼ特定の担任教師の評価と結びつきやすいのだが,

 子どもが「学習」をどう捉えているかの情報には,学校評価や学校の選択をするための

 重要なものがいくつか含まれていると考えられる。

 これによっても「学校の序列化」はできるかもしれないが,

 そういう単純比較ではなくて,

 「やりますと言っていることがきちんと実施できているか」という結果が示されている可能性がある。

 地方自治体の議員さんたちの中に,そういうことに詳しい人が一人でもいればよいのだが。

 票に結びつかなくはない,大切なチェック項目が隠されているかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

強くても人気のないスポーツの「はかなしさ」

 「はかなしさ」というのは「はかなさ」と「かなしさ」を合体させた造語です。

 日本・女子ソフトボールはアメリカを破って世界選手権2連覇。

 日本・女子バレーはブラジルに敗れて銀メダル。

 大きく注目されているのは後者です。

 人気に左右される報道の重み付けは,仕方がないものではありますが,

 オリンピック除外前は,ソフトボール人気はそれなりにありました。

 こうした注目度の違いによって,

 人々の関心の向きが一定方向に集中するような傾向は,今後も続くでしょうね。

 しかし,氷水をかぶっている映像のすぐ後に,

 土砂災害や浸水被害の映像が流れれば,

 「氷水をかぶる」ことがそんなに重要なことなのか?ということに気付かされます。

 寄付は40億円以上も集まったようで,それなりの支援が実現するであろうことは,

 本当にうれしいことではありますが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

学校で扱いにくい「防災教育」

 土砂災害に関する報道では,それが起こるメカニズムが小学生くらいでもよくわかるように解説されるようになっている。

 「真砂土」という専門用語も広く知られることになった。

 やわらかい真砂土は宅地造成がしやすい反面,今回のような土砂災害も起こしやすい。

 こういう知識は,その土地で暮らしているような人たちには,欠かせない情報だろう。

 過去にも災害は起こっているし,1999年には土木学会が危険性を訴えていた。


 小学校や中学校では,「防災教育」に力を入れるところが増えてきている。

 そういう教育をするために教師が本気で研修を積んでいれば,東日本大震災のときに失われずにすんだ命がたくさんあったかと思うと,法律で定められた「研修」の大切さが改めて身にしみてくる。

 自治体ごとに「ハザードマップ」もかなりしっかりしたものがつくられていて,

 役所や公的機関にいくとすぐに手に入る。

 問題は,危険な地域の認識と同時に,そこに住んでいる人への偏見が生まれる可能性があることである。

 小学生でも,報道によって,

 「こういう危険な場所には住みたくない」という気持ちを抱くようになる。

 「どうしてこんなに危険な場所に住んでいるのか」という疑問を抱くようになる。

 「どうして崖の下とか,裏山があるところに家を建ててよいのか」と疑問に感じる子どももいる。

 ニュースでは,

 あからさまな危険地域の指定は,地価が下がる原因になるのであまり進められていない,

 などと報道される。

 「防災教育」とは,現状で生活するとして,どれだけ災害が防げるか(防災),

 被害を最小限にとどめることができるか(減災)をテーマにするものであり,

 「危険な場所からの移転」などは扱わないのが普通である。

 しかし,中学生くらいになると,

 それだけの金額のお金を堤防に費やすなら,低い土地をすべて買い取って,

 高台に家賃のいらないマンションを建設することができる,

 という「提案」を思いつく子どももでてくるようになる。

 実際に,危険な場所に暮らしている子どもの立場を教師は考えてしまうから,

 結果としては,「早く逃げる」「1階では寝ない」などのありきたりな結論で終わってしまったりする。

 本当に正解のない問題であるが,

 本来,社会科とはこのような社会の課題の解決を考えていける子どもを育成するための教科である。

 グローバル人材の育成のためにも,

 「災害大国」である日本に外国人を招こうとする場合,相当の知識と,覚悟とをもち,災害への正しく迅速な対応を誇れるような子どもたちを増やしていかなければならない。

 改めて,学校教育の背負っている責任の重さを痛感させられる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「学び合い」を全否定するであろう人たち

 教える情熱が強すぎると,子どもはひいていくものである。自主性が育たない。

 子どもを主体的に動かすことへの情熱が強すぎると,知識基盤社会を生き抜くための「姿勢」だけしか身につかなくなるおそれがある。

 子どもの自主的な学習や練習を否定するような教師は,

 「学び合い」という授業形態もきっと全否定するであろう。

 「学び合い」という授業形態は,「学び合わない」結果や,

 「誤ったことの学び合い」という結果も当然引き起こすものだから,

 事後の個に応じた評価が絶対に欠かせない。

 それも,「ただ答を覚えていてよかった」程度のものではいけない。

 「できない生徒」をゼロにするつもりが,

 「できたつもりの生徒」を量産する結果に陥る失敗を繰り返してはならない。

 教師は,「全員にできるようになってほしい」という希望をもつのは当然だが,

 そのために自分と生徒が何ができるかを考え続けなければならない存在である。

 教師の中には,授業にしろ,部活動にしろ,完全に自分が言うとおりのことを子どもが実行しないと気が済まない人間がいる。

 1人で2~3人を見るのならよいのだが,数十人単位となる部活動は,そうもいかない。

 だから,中学校や高校になると,上級生が下級生を指導するという場面を多く用意するようになる。

 ここが,部活動と学習活動の大きな違いである。

 部活動は,経験が豊富な上級生から学ぶことが可能な場であり,

 ふだんの授業には,上級生はおらず,先生しかいないのが普通の場である。
 
 小中連携をしっかりやっている学校では,中学生が小学生に勉強を教えたり,学習したことを発表したり,

 勉強のしかたや発表のしかたを教えるような場面を用意して,それなりの成果を上げている。

 私も上級生と下級生がセットになっての「学び合い」は,とても意義のあるものだと評価したい。

 同年代の学力差の大きい学習集団での「学び合い」は,

 勉強が苦手でプライドが高い小学生や中学生の気持ちになってみれば容易に想像ができると思うが,

 あまり歓迎できるものではないし,そればかりやらされて,成果が出せるなら,教師はいらないと信じ込むことができるようになってしまうだろう。

 なぜ教育の世界は,

 こういう両極端なことを考えたり,実行したりする人たちがいるのだろう。

 それは,どの手段をとっても,さほどの成果の違いがでないから,というところが正直なところだろう。

 「学び合い」が本当に効果のない方法なら,

 やっている教師はみんな袋だたきになる。

 しかし,そもそもたいした成果がでていなかった場合は,

 「学習への姿勢は前向きになった」ことだけが評価されたりして,

 成果を比較することもできない。

 子どもはさすがに自分たちに任されて完全にさぼることはできなくなる。

 教師の話は聞いているふりが可能だが,目の前の子どもの言葉を聞いているふりはできないからである。

 要は,バランスである。

 子どもだけの練習をいっさい認めないような教師に・・・・

 自宅での自主的な練習すら認められないのだから・・・・子どもの「やる気」を伸ばすことはできないであろうし,

 子どもたちに自由な学習の進行を任せている教師に・・・・
 
 教科書に出ていないような,一定量の良質な情報を提供してもらうことを期待することはできない。

 本当に教師に「教科書の枠を超えるような知識がない」のであれば,

 教師がすべてを教えきるような授業より,

 生徒が勝手に調べたり話したりしている授業の方がましであると考えられる。

 教師があまりにその道の専門家であることも,子どもにとっては息苦しくて嫌だろう。

 子どもと一緒に,何がどのように課題であるかを考えていくような教師を育てていく場は,

 実は現場しかない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

アイス・バケツ・チャレンジと「不幸の手紙」~慈善の押しつけといじめ

 アイス・バケツ・チャレンジとは,筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者支援のキャンペーンとして行われているイベントである。

 社会的にあまり知られていない病気に関する関心を高め,理解を深めるという慈善活動が,

 「不幸の手紙」と同じ手法で広げられているという特徴から,

 徐々に本来の趣旨からはずれてしまったり(つまり,芸能人が目立とうとして本当に楽しそうに水をかぶったり),

 嫌がらせに近いようなかたちになってしまったりすることに懸念を抱いている。

 学校では,「LINE帝国主義」が蔓延しようとしているが,

 だれを指名するか,どういう関係の人を指名するか,なぜその人を指名するか,

 指名された人がだれを指名するか,どういう関係の・・・・

 という情報の中から,容易にいじめに発展しそうな環境にあることが読み取れる。

 「調子に乗っている人たち」による,「慈善の押しつけ」が始まっている。

 もうどこかで「指名相関図」を作成している人もいるかもしれないが,

 報道されない「末端」ではどういうことになっているかに興味がある。

 水をかぶっても報道されない人は,ネットに写真をアップしてアピールする。

 それを報道に使うところもでてくる。

 今は「証拠」を要求し,それが簡単に示せる世の中になっている。

 指名された安倍首相には,一言,こういう問題にもふれてほしいような気がする。

 いじめは,大勢の人間の「ノリ」で始まるものも多いことを忘れてはならない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「コの字」型の座席配置は廃止しよう!~常に「さらし者」になっている子どもがいる

 教師が気付かないように目くばせをする子どもたち。

 「コの字」型に座席を配置している学級を参観するときに,時々出くわす場面である。

 ここで「コの字」型座席配置が生まれた経緯を説明するゆとりはないが,

 歴史の本には大正時代に流行った教育を紹介する写真で確認できるものもある。

 平成25年に日光市教育委員会が出した「コミュニケーション活動を重視した授業づくり」

 の中に,「学び合いを推進するには!」というコーナーで

 「コの字型の座席配置にし,全体での学び合いを推進する」事例が紹介されている。

 コの字型の座席配置の意義は,

>発表している人の顔が見え,学び合いに適しています。学び合いにおいて重要なのは,お互いの発言をきちんと受け止め合うことです。たとえ,一人の子どもが教師に顔を向けて発表しても,他の子どもがその顔を見ることができます。

 実際に席に座ってみるとわかることだが,発表している子どもの顔を正面から見ることができるのは,コの字型にしてみたところで,教師だけである。

 前の方の子どもは比較的,発表者の子どもの顔が見えやすくなるが,それは普通の座り方をしているときでも振り返れば見ることができる。

 ここで説明されていることから伝わってくるのは,「話している人の方を向いて聞く」ことの大切さだが,

 そういう「形式上」のことと,「お互いの発言をきちんと受け止め合う」という内面的なものは,同じレベルの話ではない。
 
 他の子どもが話している内容にかかわる重要な資料を目で追いながら,耳で話を聞く,というたいへん立派な態度も否定されることになる。

 そもそも「コの字型」と呼ぶように,形で何かを操作しようとする考え方は,小学校に代表的な浅い教育観である。

 授業参観すれば,その弊害をいくらでも指摘することができる。

 向かい合わせで授業と関係ないことのやりとりを目でする子どもたち。

 授業が理解できていない子どもを見ながら,優越感にひたっている子どもたち。

 逆から見れば,いつ,自分の反応で笑われないかとびくびくしている子どもたち。

 全く意見が言えない状態のまま,常に「さらし者」にされ続けている子どもたち。

 一斉指導の場面で子どもを向かい合わせにしてみたところで,

 簡単に「学び合い」などは始まらない。

 本当に「学び」が始まってしまったら,それこそ収拾がつくなくなることはだれでも想像できるだろう。

 だから,本当は言いたいことも言えないまま子どもは我慢するのである。

 「コの字型」座席配置の最大の課題である。

 教師から発言権が与えられるまで,何も言えない状態になるのはコの字型でなくても同じだが,

 今,目の前に「それはおかしい!」と反論したい相手がいても,何もできないというストレスを抱くのが

 コの字型の問題である。

 参観している教師たちは,「言いたいことがあってうずうずしている」子どもがたくさん待たされていることに,

 さほどストレスを感じていないらしい。

 みんな,学習意欲にあふれていていいな,などとのんきに見ている。

 「全体での学び合い」なんていう言葉を軽々しく使うのも考えものだということが,わからないのだろうか。

 一度,国会の本会議をコの字型でやってみたらどうか。

 全体の学び合いの前に,4人程度の少人数でのやりとりがあり,それぞれの代表者がコの字型の中心で

 代表の立場で議論し,他の子どもがだれの意見が最も説得力があったかをジャッジする,というような

 方法をとってもよいかもしれないが,これも,別にコの字型でやる特別なメリットはない。

 コの字型の授業のデメリットは,横方向にある黒板のメモをとらなければならない,というものもある。

 コミュニケーション活動を授業で重視するのも大事だが,

 まずは授業以外の場面での公的なコミュニケーション活動をさかんにすべきである。

 そうすれば,授業で「話し合い活動をさせてみようとしたが,話し合いが始まらない」なんていう

 時間の無駄もなくすことができる。

 上で紹介した資料の2ページ目に,

>すべての子どもが参加し学びを実感できる授業のイメージ

 が紹介されているが,これはとても参考になる。

 最も重要なのは,「全体」の場面ではなく,「個」の場面である。

 コミュニケーションを重視するのは,「個」の力を伸ばすためである。

 「みんなで楽しくおしゃべりする時間を増やすため」ではない。

 特に,まとめの段階で「個」としてどうなったかが評価できないと,

 お話にならない。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

個人レッスンレベルの「基礎・基本」イメージでは,学校の先生にはなれない

 小学校に実技教科だけを担当する教師がいた。

 子どもながらに,担任を持たせることができない先生なのだろうなということは薄々感づいていた。

 中学校の教師は,特定の教科を専門的に指導する。

 それでも,いい先生とよくない先生の違いは明白だった。

 生活指導で苦労があるような学校だと,

 担任がもてる先生ともたせられない先生がいることもわかった。

 教員として採用されることをめざして努力している人たちには,

 自分がどのような位置に立てそうなのかをまず把握できるようにしてほしい。

 一連の記事で明らかなように,

 学校という40人の子どもたちを相手にして学習指導を行ったり,

 200人の生徒を相手にして生活指導を行ったりする場で,

 そういう話をいくら口にしたとしても,何も伝わらないだろうなと思えることしか書けない人がいる。

 こういう人は,個人を相手にしたレッスンはできるかもしれないから,

 めざす職業を変更した方がよい。

 40人を相手にして,授業ができるのか,

 そういう授業のイメージを「指導案」というかたちできちんと表現できるのか,

 教員採用試験では,そこを見て判断しようとしている。

 なぜなら,そういう指導ができない教師が大勢いることが,

 「主権者」たちの声から「公の情報」「周知の事実」になってしまったからである。

 イメージがもてない人がいるかもしれないが,

 1人の子どもを相手に話をすることはできても,大人数を相手にはできない人というのが存在する。

 授業参観をすると,一目瞭然である。授業として成立していないのだから。

 最悪なのは,だれも聞いていないのに,お構いなしで,一人で話している人までいる。

 話が伝わっていないこと自体に気付いていないのは驚きだが,

 そもそも,そういう事実はない,という妄想を抱いていることによって,

 自分が教師でいられることの根拠としているらしいのだ。

 「子どもに言葉が伝わっていないことを認めた」時点で「終わる」ことに,

 薄々気づいてはいるのだろう。

 こういう指導力不足教師の共通点は,人の話を聞かないことである。

 「客観的な話」という言葉の意味が伝わっていかない。

 Aくんも,Bくんも,Cさんも,Dさんも,E先生も・・・・全員に聞き取った結果,こういう事実があるらしい,

 それが「客観的な話」だ,という会話が成立しない。

 国語力の問題かと考えたこともあったが,そうではないようだ。

 自分自身が使っている「客観的」という言葉の文脈は成立している場合がある。

 ただ,自分の認識と異なる「客観的事実」を他人から告げられると,

 そこで思考停止になってしまう。

 そして,「あいつの頭はおかしい」とか,「性格が悪い」など,相手の人格攻撃を始める。

 こういう指導力不足教師は,典型的な事例だから,教師の多くは経験済みのことだろう。

 教員採用試験の新しい形を提案したい。

 面接官は,40人とする。

 面接時間は1人5分と決める。

 子どもも,大人も,高齢者も,臨時面接官として採用する。

 そして,あるテーマで「話し合い活動」を行ってもらう,という授業の導入だけしてもらう。

 テーマは,数十種類を用意しておき,その場でくじを引いて決める。

 この面接試験で,まず5分の1くらいにしぼる。

 (ただし,どこかの自治体のように倍率が5倍以下だと,これもできない)

 そして,今度は重要な授業の展開部で,個に応じた指導の場面を用意する。

 当たり前の話だが,自分の採用してもらいたい学校に通っている年齢の子どもを

 ターゲットとした指導が必要なのだが,高齢者に話をもっていくなど,

 信じられない行動をとる人がでてくる。これも不採用にできる。

 どうにかして,採用後に不適格性に気付く,という事態を起こさないようにしてほしい。

 学校の教師として指導を行いたいのであれば,集団としての子どもたちに教えること・・・・

 主体性や積極性,チャレンジ精神だけでなく,

 協調性や柔軟性,責任感・使命感を育てるという

 「使命感の基礎・基本」をまずは固めていくべきであろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

完成品を見せる目的は,「目標に向かう意欲」を高めること

 私が他のブログで紹介している社会科の生徒作品は,もちろん生徒たちにも自由に見てもらっている。

 毎年,新しいタイプの作品をつくってもらっているので,簡単に「マネ」はできない。

 中学生ならではのセンスの良さにいつも舌を巻いている。
 
 基礎・基本を固めていく途中の段階では,それなりの「理解」も,あやしい「認識」も,

 明らかな「誤解」もたくさん混じっている。それは,相当のレベルの段階までいかないと,

 自分では整理できないくらい,人間の「脳」というのは複雑な情報処理を勝手にやってしまう。

 常に脳は働いているから,今,自分の脳はどういう働きをして,こういう結果をもたらした,ということを

 一度に言葉にしていくことはできない。私は今,これを書きながら,明日の予定も考えている。

 こういうことができる「脳」には,意外な「ひらめき」をもたらしてくれる期待感を常に抱いている。

 基礎・基本が明瞭なもので,すべて言葉にできるなら,すでにだれかがやり終えているはずである。

 そして,その言葉通りにだれもができるのなら,学校の教師など,本当に何の苦労もいらない。

 イチローの打撃フォームをマネしている小学生や中学生がときどきいるが,

 打てないのを見て少し気の毒になる。

 イチローがバッティングセンターで打ったボールの数を知っているだろうか。

 「応用編」の頂点にいる人間のマネをして,「これでいいのだ」と思ってしまう愚かさ。

 基礎・基本・・・・特に実技教科でいうところの様々な基礎的・基本的な技能は,

 練習をしながら身についていくものである。

 あるとき,ある段階で,その人間が「これが基本だ」ということに気づいたとして,

 それを初めての子どもに「これが基本だからこの通りにやってみて」と言っても,なかなかできるようにはならない。

 (もちろん,できるようになる場合もある)

 基礎・基本には,ある程度の積み重ね,反復練習が必要だということについては,

 まだ「百ます計算」などをしている人にも納得できることだろう。

 (お願いだから,「百ます計算」を大量に家でやらせることだけはやめてほしい。学校でもほかのことをしてほしいが,家ではなおさら,もっと充実した時間を過ごさせたい)

 基礎・基本などシンプルなものだ,ただ練習さえすればいい,というのも考えものだが,

 「練習が大事」という「基本姿勢」は間違っていない。

 でも,「基本練習」と聞けば,たいていの人は「嫌な思い」を抱くだろう。

 「つまらない練習」の代名詞だからだ。

 だから,時には,イチローの打撃のマネをさせてみてもいい。

 もちろん,「時には」である。

 最高のバッティング技術を動画で見せて,「マネをしてみろ」と言ってみる。

 でも,できない。当たり前である。

 「そういうことができるようになりたい」と思わせるようにすること,

 「そういうことができるようになるためには,~をしなければならない」と実感させることが

 大事なのである。

 完成品を見せる目的は,その通りにすぐさせることではない。

 そうなりたいと思わせることが大事なのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

完成品を見せても,同じようにはできないことがわからない人がいる不思議

 ある小学校は研究のために訪れる教師が多くて大人気で,それこそ小学生を相手にする時間はあるのかと思うほど教師は忙しく執筆活動に精を出している。

 私もときどき研究会に顔を出すのだが,気になるのは参観に来ている先生方の視線の先である。

 多くの先生方の視線の先に,子どもはいない。

 教室の後ろから授業を見るという,最も悪い場所から参観する人はそれしかできないのだが,

 何を見に来ているのかと言えば,教師がどのようにふるまい,どのような言葉をかけ,

 どのような板書をつくるのか,といった「教師目当て」のところが正直なところだろう。

 子どもは優秀であるに決まっている(という誤解も何とかしてほしいが)。

 私はあのような教師になりたい。あの教師から学びたい。

 そういう気持ちはわからないでもないが,その授業を参観して,同じような授業ができるかといったら,

 そんなことはないだろう。

 子どもから学ぶ姿勢がもっとほしい。

 それこそが教育の基礎・基本だからである。

 自分は優秀な教師のように授業をしているのに,子どもはできるようにならない。それは・・・

 「だって子どもが違うから」というのは,最低の教師の言葉で,

 なぜ「完成品を見ても,同じようにできるようにならないか」がわからないから,

 自分も同じように,「完成品を見せて,同じようにさせようとする」という発想しかできない。

 もしそういう教育が可能なら,そこに教師など必要ない。

 最もその道の技術が秀でている人の動画をすべての学校の子どもに見せればよいのだ。

 そして,「これが基礎・基本だ」などというテロップをはめ込んでおけばよい。

 できない人は,「どうしてこんなふうにできるのか」という疑問をもつはずなのに,

 それを追究することができない教師に,

 子どもを教育することはできない。

 なぜ教師は,その場に必要なのか。

 それは,「こうやれ」と指示しても,その通りにできないのが普通の子どもだからである。

 子どもによって,できるようになる時間も違う。できるようになる程度も違う。

 それぞれの段階に応じたきめの細かいアドバイスをしなければならない。

 優れた教師の授業を参観していると,ある子にはわかるが別の子にはわからない指示をすることがある。

 それは,別の子に対して必要な指示ではないとわかっているからである。

 指導力に課題のある教師の授業を参観すると,わかっている子に繰り返すまでもない指示を出したり,

 その生徒にその指示をしたところで何も改善しないことが明白であるような場面に遭遇する。

 個に応じた指導をするという姿勢が教育の基礎・基本であることがわからない人がいる。

 何だか自分が高いレベルのところにいて,子どもを見下ろす,見下すような指導を平気で行ってしまう人たち。

 そういう教師は,もっと優れた教師の「本当に優れた部分」に気付かなければならない。
 
 基礎・基本を子どもが身につけていくプロセスにもっと目を向けていくべきである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

何のために「基礎・基本」を語ることが重要なのか?

 それは,誤解を解くためであり,他人の人格を否定することではありません。

 正しい教育への理解を深めようとする努力に,「あたまがおかしい人」とかいう言葉を投げつけるのは最低の行為であり,このブログも参加している「ぶろぐ村」の精神に反していることは言うまでもありません。

 繰り返しになりますが,「基礎・基本」とは,様々な難易度の学習を展開していくうえでの,あるいは実社会で想定外の場面への対応もできるようになるための「土台」となるものです。

 この「土台」がしっかりとできていないために,「応用」ができなくなる,という話は簡単に理解していただけるものと思います。

 しかし,多くの方が抱いている誤解というのは,

 「基礎・基本」とはだれでも簡単に身につけることができるもの,シンプルなもの,頭を使わなくてもできるもの,

 というもので,ここが「基礎・基本」に対する考え方,もっと言えば,学習に対する考え方の
 
 「基礎・基本」が身についていない証拠なのです。

 こういう人に教科の学習の指導を任せると,

 「この子たちは基礎・基本が身についていないからできないのだ」と

 前の段階の教育に文句を垂れるパターンの最低の教育になっていきます。

 社会科の歴史の授業のことを考えてみましょう。

 鎌倉で初めて幕府を開いた人物はだれですか?という質問には,簡単に答えられます。

 しかし,源頼朝はどのようなことをした人物ですか?という質問に,どのような答えを教師は期待するでしょうか。

 知識が多いことをもって「基礎・基本ができている」と考える教師は,

 いくつかの答えを聞くだけで満足して,そこから先は自分の話したいこと,

 子どもが知ってなさそうなことを話して,仕事をした気になってしまいます。

 「基礎・基本」を育てるための授業は,それではいけません。

 たとえ「源頼朝」という人物名を忘れてしまっている子どもがいたとしても,

 「初めての武士らしい政権を立てたこと」や,その政権が「将軍と武士=御家人との主従関係によって成り立っている」ことが理解できていれば,歴史を大きな流れの理解には役立ちます。

 歴史上の人物名を必死に覚えるより,どのような歴史の流れ,社会の動きがあったのか,ということに頭を働かせるようにするのが中学校の歴史学習です。

 小学校段階と中学校段階では,当然,歴史の学習についての「基礎・基本」の質が変わってきます。

 年表に出ているようなことを暗記していれば,「基本」が身についている,と思ったら大間違いです。

 そもそも「鎌倉幕府」という用語が,いつから使われるようになったものか,ご存知でしょうか。

 そういう用語を使う目的は何でしょうか。

 歴史学の学習と,歴史学習とは何が異なっているのでしょうか。

 小学校や中学校の学習の目標が,教師によってまちまちにならないように,おおまかに定めているのが学習指導要領です。

 ただ,教育基本法でも示された目標があり,その能力を育てるために,教師はあらゆる場面で子どもの「基礎・基本」を鍛える努力をしなければなりません。

 源頼朝はどのようなことをした人物ですか?という質問ではなく,

 どのようなことをしなかった人物ですか?という質問を投げかけてあげると,

 子どもは「質問の意図」を考えてくれるような人間に育っていきます。

 「質問の意図」とは,単純な知識の再生を求めることではなく,自分たちがもっている知識を活用して,

 「考える」こと,「意味を探る」ことを求められているのだと実感してくれるようになります。

 こういう経験に乏しい生徒たちには,「追究心」「自ら学ぶ意欲」は育ちにくいのです。

 「基礎・基本はシンプルだ」などと言って,たった一つの「具体的な事例」を挙げることが,自分の主張の論拠になるわけがないことは,小学生でもわかります。

 「この動物は,象です。なぜなら,鼻が長いからです」と言ってみても何も始まらないわけです。

 「基礎・基本はシンプルだ」などという言い方自体が「決めつけ」であり,思考停止状態を最もよく表している言葉です。

 禅では,そういう境地に至るまでに,ありとあらゆる「実践」を繰り返しますが,

 結論をいきなり示してそれで終わり,という「教育」など存在しません。

 蛇足ですが,「基礎・基本」と「応用」の違いは,どのようなことをしようとするかによって,変わってきます。

 ですから,両者の「線引き」はできないのです。

 「基礎・基本」と「応用」の関係は,グラデーションで示すのがよいでしょう。

 そういうふうに「基礎・基本」と「応用」の関係が示せるということは,誤解状態から完全に抜け切れないというわけではないことを表しています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

松井秀喜が長嶋茂雄から受け継いだ基礎・基本

 松井秀喜は長嶋茂雄から,どのようなバッティング技術を教わったのだろうか。

 「専門家」が「専門家」を教える世界はレベルが高すぎて,想像もできない。

 しかし,素人ながらもわかることは,

 「野球に対するひたむきな態度,真摯な姿勢」が備わっていた松井秀喜に,

 長嶋茂雄という「野球人」がさらなる磨きをかけたことは間違いないと思われる。

 現代の教師に求められているのは,まさにこのような「態度」「姿勢」の面である。

 その真逆な事例が事件があるたびに報道されてしまうので,

 教員を取り巻く環境は悪化の一途をたどっている。

 「教員にはなりたくない学生が多い」教員養成系の大学は,すぐにつぶれてかまわない,

 と言いたくなるほどの停滞ぶりである。

 私の恩師がよく口にしていた言葉がある。

 よい教師は,よい生徒が育てる,という言葉の意味がお分かりだろうか。

 もう一つ,大事なことがある。

 よい教師は,よい教師が育てる,というのが私の最も言いたいことである。

 教師の思い通りにならない生徒によっても,教師は育てられる。

 しかし,ろくでもない教師に育てられた生徒,あるいは教員が,

 本当に「よい教師」になるのは難しいだろう。

 最も大切な部分は,

 小手先の技術などではない。

 仕事に向かう姿勢である。

 これは,どんな職業でも共通して言えることだと思われる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「基礎・基本」の奥深さを追究できる教師に!

 「基礎・基本」というと,問題集でいう「基本問題」「応用問題」の「基本」のように,

 「易しい」「だれでもできる」ようなイメージを持っている人が多いかもしれないが,

 そう単純な話ではない。

 学習指導でも,部活動の指導でも,

 多くの場合は「専門家」が教える。

 ただ,「プロ並みに専門性が高い」ことを「教える条件」にしてしまうと,

 そもそも小学校の教師は何も教えられなくなってしまうおそれがある。

 そして,ここが「教育」の面白いところなのだが,

 「自分の専門性が高い」ことと,「指導力がある」こととは,必ずしも一致しないということである。

 ある競技を専門的に行ってきた体育の教師が,

 別の競技の指導が全然できない,というのはもちろん困る。

 しかし,別の競技の指導の方が,うまくいく,という面白い現象が起こることがある。

 それこそが「教育」の力である。

 「専門家」というのは,「その道を自分が突き進む」のは一流なのかもしれないが,

 「その道に他人を導く」というのは,別の能力なり,動機なり,使命感なりが大切なのである。

 むしろ,自分も苦手だった分野の方が,

 どこでつまずきやすいか,どこが面白いところか,自分自身で気付けるポイントはどこか,

 などが見えやすくなる。

 子どもたちの,「何がどこまでできるようになったか」が見えるようになる。

 自分が専門的にやってきたことだと,

 「何がどうしてできないか」の方ばかりに目がいってしまい,

 指導内容も

 「ここがこうだめだから,できないのだ,ここはこうしろ,それが基礎・基本だ」

 などとやってしまう。これが「強制の教育」である。

 しかし,「できない理由」を指摘してみたところで,簡単にできるようにならないことは,

 本当は自分がよくわかっているはずである。

 教師としてふさわしい人は,そういう強制することが自分の仕事だ,なんていう意識をもたずに,

 子どもが基礎・基本を固めていく過程に目がいく。

 今日は,ここまでできるようになった。次は,ここができるようになろう。

 学習の過程に意味を見出し,励まし,先の見通しをもたせるようにする。

 それが「指導」である。

 「あなたはここができない」という言葉は,「指導」ではなく,ただの「説明」である。

 「私はここができない」という理解をさせ,

 「こういうことができるようになりたい」と意欲をもたせ,

 「こういうことをしたい」と言わせるのが「指導」である。

 「基礎・基本」はすべて言葉で説明できる,なんていうレベルの教員に,「指導」はできない。

 大げさな話,理想を高く掲げれば,高校くらいまでにやっている勉強など,すべてが「基礎・基本」である。

 教師がただひたすらしゃべっている授業を受ければ,「基礎・基本」は身につくのか?

 大間違いである。

 大事なのは,「ここだけ,これができるようになればよい」なんていう発想を教師が超えることである。

 ましてや,「強制が基礎・基本の基本だ」なんていう教師になってはならない。

 専門家に,「いまのような力の基礎・基本はどのように培われたのですか」と聞いて,

 「すべて,強制されたおかげです」なんて答える人に教わりたいと思うか?

 「形成的評価」の機能について答えさせると,教師の資質・能力はある程度わかる。

 基礎的・基本的な知識や技能の習得の過程に,

 どれだけ思考・判断・表現の場面を設けたか,どれだけ

 自ら課題を設定し,追究する意欲を高められたか,

 そこが教師の指導力を評価するポイントである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

警察を学校に入れることの最大のメリット

 埼玉県の「中学校」と「警察」の関係が話題になっている。

 尾木ママは反対派としてのコメントを出しているようだが,

 「すぐに警察を呼ぶ」ことの最大のメリットを知っておいてほしい。

 教員が「胸倉をつかまれた」,

 「生徒が言うことをきかなくなった」くらいでどうして警察を呼ぶのか?

 と30年前の学校だったら多くの教師はみんな思っただろう。

 昔は,教師の側には教師なりのメンツがあった。

 今は,そんなメンツだけで生きていける時代ではなくなったのである。

 私が指摘したい最大のメリットは,

 教師による体罰(暴行)を防ぐことができる,ということだ。

 教師の側が警察を呼べるということは,

 生徒の側も110番できるということを意味する。

 体罰は「現行犯逮捕」も可能になるということである。

 女子バレーボールなどの大会には,警察署に頼んでおいて,

 覆面警官を常置してみるといい。

 今後の課題は,問題を起こす子どもたちが,

 学校よりも警察を信頼するようになっていくことである。

 学校の先生より,警察官の方が話を聞いてくれる,という「噂」が広がるのも遠い先の話ではないだろう。

 尾木ママは,そういうことを心配しているのだろう。

 しかし,部活動の指導の現場を中心とした「警察官によるパトロール」は,

 体罰根絶には絶大な効果を発揮するだろう。

 尾木ママの使う言葉のいやらしさは,

 警察に「権力」という言葉をくっつける点である。

 「権力」=悪というイメージは,そろそろ払拭していかなければならない。

 「権力」を上手にコントロールできない国民から,そろそろ「卒業」しなければならないからである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「爆破予告」と「教務主任」という仕事

 日々,教員の人間性が疑われ,公教育や公務員の信頼性を損ねる出来事が次々に報道される。

 「本当にやるつもりではなかった」かもしれないが,

 「爆破予告」によってどれだけの人を不安に陥れることになるのか,

 そもそも役所の人間は教育関係者ばかりではないこと,

 住民の基本的な支援やサービスに支障をきたすことになる事態を想定できなかったのか,

 小学校の教師がやったことの影響力は大きい。

 こういう犯罪行為は許されないが,

 教師が「土曜授業はいやだ」と思う気持ちはわからないでもない人は多いだろう。

 勤務日の振り替えがなかなか難しいのが教員という仕事の特徴である。

 今回の「爆破予告」が「教務主任」という立場の中堅教師によって行われたことの意味は,

 知っておいていただけるとよいかもしれない。あくまでも私の想像だが,

 なるほどそうかもしれないな,と思っていただけるかもしれない。

 教務主任の一番重要な仕事は,日々の教育課程の管理である。

 その中心は,アルバイト経験者なら「シフトの割り振り」と言えばお分かりになるだろうか。

 簡単に言えば児童,生徒の「出欠席の管理」や教師たちの「時間割の管理」である。

 しかし,小学校という場所は,体育館やプールなど,調整が必要なところ以外の時間割は,

 各担任が勝手につくることができるから,中学校や高校などに比べるとはるかに楽である。

 私は教員数数十名の中学校で時間割をつくったことがあるが,まさに「パズル」そのものである。

 パソコンソフトを使っても完璧にコマを埋めるのは難しく,最後は手作業で

 「全時間うまる」まで徹夜で悪戦苦闘する。こういうストレスは小学校教師にはないだろう。

 問題は,土曜授業などの実施の際に,校長・副校長と一般教員の間にはさまって,

 いろいろな調整をしなければならない,「板挟み」職であるということである。

 校長や副校長は早い話が人事権もない中途半端な中間管理職なのだが,
 
 実際の調整は教務主任(普通は「主幹」という職の教員がつとめる)が行うため,

 不満のはけ口にもなりやすいということだ。

 今回の「爆破予告」の「理由」ははっきりしている。

 「土曜授業をやめろ」である。

 ただ,本人が嫌だっただけかもしれないが,

 自分も嫌なことを,人と一緒にやらなければならない仕事は,普通の人でもつらいものだろう。

 日本の教師の中には,「公務員」というものの意味がわかっていない人がいるから,

 上司の命令でも平気で「嫌だ」という。本当にやらなかったら懲戒処分になるから,

 「嫌々ながらもやる」のが多くの公務員である。

 ただでさえ教育の成果なり効果なりが疑問視されているところに,

 ますます「やる気のない人たちのやる気のなさに拍車をかけるような施策」を実施せざるを得なかった

 教育委員会の判断もつらいところがあっただろう。

 特に,土曜授業を実施して成果が上がっている(あるいは上がったことにしている)地域が近くにあると,

 最悪である。

 「どうして同じ公立の学校なのに,うちではやらないのか」

 という「納税者」の意見に抵抗するのは難しい。

 横道に逸れてしまった。

 バスの手配ができなかったJTBの社員の問題とは少し違う点もあるが,

 とりあえず,すぐに犯人が見つかってよかった。

 さもないと,

 「暑くていやだから運動会を中止にしろ,中止にしないと・・・・」

 という脅迫事件がすぐに起こってしまうようになるかもしれない。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

高校「近現代史」創設の面白さと難しさ

 日本史と世界史を融合した,「近現代史」の創設は,とても面白いアイデアである。

 しかし,実現は難しいだろう。それを専門とする大学の先生が歴史系にはいないからである。

 今まで通りでいけば,「教科書が書ける人がいない」ということである。

 井沢元彦などは何百回となく?繰り返し書いているが,

 これを機会に,「歴史の専門家ではない人」に,教科書の執筆や編集を任せてつくってもらいたい。

 各時代,各時期の専門家が書いたものを継ぎ足したような教科書は読むのがつらい。

 「史実に則して考えて,問題はないか」のチェック・・・・今は文科省の教科書調査官がやっている仕事だが,こういうのを大学の先生がやればよい。

 実際に,そういう教科ができて,面白い教科書ができたら,もう,授業は受ける必要はないかもしれない,というくらい,高校の歴史の教科書はつまらないものになっている。ただの大学受験やセンター試験用の参考書にすぎない。

 歴史の読み物はいいものが多い一方で,教科書はひどすぎる。

 倉山満はそういう趣旨の本まで出しているが,もはや高校に「検定教科書」は必要なのかとも思えてくる。

 一橋大学を始め,日本史の問題など,メッセージ性も込められた面白いものが多い大学が増えるといい。

 入りたい大学の,それらしい歴史観をもっていけばよいだけである。

 どうでもいい知識ばかりを問うて受験生をふるいにかけているだけの私立大学の問題など,全くの不要物である。

 どれだけ不要物かは,大学に入ってからの教育を考えればすぐにわかるはずである。

 ただ,もし,教科として成立した場合,困るのは教師である。

 学習指導要領が出て,教科書は今のままで,こういう学習をするように,

 と言われるのが一番困るだろう。

 しかし,教師が困る状態をつくることが,最も日本の教育水準を上げる近道の方法となるだろう。

 教師が学び,力量を高める動機付けとして,最も有効的なものがこうした

 「自分のさまざまな知識を比較,関連付け,総合・統合して,新しい枠組みの歴史像をつくること」

 で魅力を感じさせるような施策である。

 問題は,魅力を感じることができる地理歴史科の教師が何%くらいいるかだ。

 そういう学習の必要性が実感できるような職場にいないことが最大の問題である。

 社会人採用をバンバン増やして,歴史や社会の本質を見抜けるような「考え方」を身に付けさせてくれる高校・・・と聞いただけでも魅力を感じる。

 日本史と世界史を融合した「近現代史」・・・・私の予想では,限りなく「日本史」に近いものになるだろう・・・・

 ただ,避けてほしいのは,「愛国心を高める」ことだけを目的としたような教科づくりである。

 「国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者」をめざして教育した小学校・中学校の先にあるものが,

 「○○を中心とした国際社会に生きる,平和を乱す国には断固とした措置をとることに同意してくれる国民づくり」

 であるのは怖い。自分から平和を乱している人たちをよく観察できる国民の基礎づくりは怠らないようにしておきたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

始まらない話をしている,終わっている人たち

 世の中には,「こんな人とどうして関わり合う必要があるのだろう」という人といつまでも関わり合って,

 「この人,本当にダメな人だな」と言い続ける人がいる。

 私など,その典型である。

 ある人から見れば,自分が「こんな最低な人よりまし」という優越感に浸りたいのだな,

 と見えてしまうかもしれないが,私の場合は,

 「あなたが最低な人と思っているより自分が最低であることに,早く気付いてほしい」

 という願いも持っている。

 端から見れば,「そんなに嫌なら完全にサヨナラすればよいのに」と思ってしまうが,

 私は「嫌ではない」のだ。

 もしそういうことを「嫌がる」人間だったら,教師や医師,弁護士,裁判官などには向かないだろう。

 本当に毎日,「こいつ,大丈夫か?」という人間に出合う。

 教師の場合,医師などより恵まれているのは,

 すごく健康的で,知性的で,冒険的な人間たちの方がふれ合う数としては多いことである。

 「愚痴を言うこと」だけが自分の(その最低よりは上という)立ち位置を示せるという人の場合は,
 
 「とんでもない人」でも,とても「欠かせない人」になる。

 教師にとっては,決して「欠かせない人」にはならない。

 しかし,「そういう人」なら,「何とかしなければならない」というのが仕事なのである。

 それを,性格がどうとか,頭の中がどうとか言っても何も始まらない。

 そう。何も始まらないことを書いてもどうしようもないのである。
 
 私は,性格とか,頭の構造とかは,「何とかなる」ものだと考えている。

 そうでないと,教師などはやっていられない。

 「あいつ,終わっているな」などと心で言うことはあるが,

 「本当に終わった」とは考えないのが教師であり,

 「本当に終わった」と考えているのが「終わっている」人間である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

超スローボール論争?に学んだこと~「見慣れていないもの」に遭遇すると抵抗したくなる人の「基礎・基本」

 高校野球の試合での「超スローボール」が話題となった。

 批判した元アナウンサーが火達磨にされたそうだが,

 「見慣れていないもの」に異常な反応をする・・・多くは否定的な反応をするのは頭がかちかちに固まったお年寄りに多い。

 最近の困った問題は,こういう「かちかち頭」が若い世代にも広がっていることにあるだろう。

 若い教師が,「かちかち頭」の教師の授業をまねしてみたところで,何も始まらない。

 さて,話題は野球に戻して,

 「スローボールは許せない」なんていう反応も理解できなくはないが,

 私は野球のピッチャー経験もあるから,ダルビッシュ投手の言葉・・・・

 「スローボールは難しい球」という指摘の方に共感できる。

 一方,打者としてスローボールを投げられた経験からも,

 「嫌な球」であるという実感もある。

 まず,その球を打ちにいくことはない。

 ボールが来るまでに普段よりすごく長い時間・・・・この「長さ」の感覚も,半端ではない・・・・

 を感じて,多くの場合,いろんなことを「考えてしまう」結果に陥る。

 打者として一番やってはいけないのは,「考えすぎること」である。

 次の球で,集中力を維持することが,難しくなる。

 だから,作戦上も,ムダな球ではない。

 しかし,投手の側として,山なりのボールになると,ストライクをとることはほとんど不可能になる。

 だから,これは「遅延行為に近い」という極論まで成り立つかもしれない。

 野球に詳しくない方は,「敬遠」という作戦でピッチャーが投げる4球の時間がムダに感じられるかもしれないが,

 かつて,敬遠のボールを暴投して,サヨナラのランナーをホームに走らせたピッチャーもいた。

 敬遠のボールに飛びついて打って,サヨナラヒットにした打者もいた。

 小林投手とか新庄選手とか,野球通なら当然知っていることである。

 金子投手の,敬遠での怒りの150キロ連投,という映像も公開されている。

 松井選手は甲子園での全打席敬遠中,何を考えていたのだろうか。

 あらゆる場面に,ドラマがあるのだ。

 「あまりない状況におかれたとき」に,どのような反応ができるかは,

 その人の生き方の「基礎・基本」にあらわれる。

 教育現場でも同じである。

 泣き言,恨み言ばかりを連ねる「お年寄り」にはなりなくない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

「鉄人」に学んだこと~基礎・基本といっても,「答はこれしかない」という「知識・技能」はない

 世の中では,「基礎・基本」に関する固定観念が強烈である。

 特に「年寄り世代」から,それは「基本にのっとっていないからダメだ」みたいな発言が出される。

 昔,プロ野球で「鉄人」と呼ばれていた選手から,

 こんな話を聞いたことがある。

 コーチによって,若い選手はダメにされるケースが多い。

 自分もそうだった。
 
 基本はこっちだ。おまえのやり方じゃない。

 基礎ができてない。なんていう言い方で批判される。

 教科書に出ているようなことが,できてないじゃないか。・・・・・

 結果,フォームはくずれ,打てる球も打てなくなる。

 イチロー選手も,似たような経験をしたようだが,

 みんな,「結果」で自分なりの方法で「基礎・基本」の正しさを示したのである。

 「~できないのは,~だからだ」といのが,

 テクニカル的に当たっている場合ももちろんあるだろうが,

 そこで禁止してしまうことが,他の能力も消すことに,人間はもっと敏感になるべきだろう。

 特に小学校では,もっと伸び伸び教育をしてほしい。

 できない理由を探しても,実りはない。

 教師も自分のどこが課題かを考える。「基本的な技」が身についていないことを知る。

 そして,それが身についている人の授業を見る。真似をする。できない。

 自分の教育スタイルをそのまま,自分にあてはめてやってみて,ダメだということが

 明らかになっているという事実に気づけない。 

 「信仰」することになった特定の「技」なり「型」に子どもをはめこんで,結果,

 「活用力」のない子どもとして中学校に送り込まされてくる。

 基礎・基本のなかで最も重要なのは,

 「自分なりの力の尽くし方」を知っているということである。

 それを教えるために,1人で40人をまる1日めんどうみるのだ。

 中学校との最大の違いである。

 個性に応じた教育がしやすい。

 それなのに,個性的ではない,型にはまった授業に魅力を感じてしまう。

 考え方の「基礎・基本」ができていない,最も典型的な例である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「禅」から学んでほしいこと~基礎・基本の「知識」を甘く見てはいけない

 「知識」というのは,「単なる暗記で身につくもの」,「書き換えが容易なもの」であるという

 固定観念をもっている人は多い。

 それは,そういうレベルの「知識」しか体得していないから,という面も表している。
 
 中学生というのは,とにかく「何世紀」という時代の表し方のイメージが苦手である。

 西暦1年から順番に考えていけば,1901年は20世紀だ,ということが分かるはずだが,

 急に8世紀の末と言われても,ピンとこない。
 
 それは,「8世紀の末にどういうことがあった」という知識に乏しいこともさることながら,

 そもそもそういう言い表し方を自分からする機会がないというのが一番「活用できない」理由だろう。

 「知識」とは,単純に「知っていること」を示す概念ではないこと,

 そして「技能」とは,「こうすればいいんだよ」「こうしてはいけないんだよ」と

 言葉で伝えればみんな身につくというものではないことを,まずはしっかりと実感していかなければならない。

 だから,

 教師の「学習指導の基本」は,

 自分がまず「そういう教え方ではできるようにはない」ということを実感するのが重要なのである。

 「左ピッチャーのカーブのファールの仕方」という技能を,

 野球経験のない人に言葉で教えようとしてみても,意味はないのだ。

 玄人的な,「ここはこうするのがうまくいくコツだ」なんていうのをすぐに教えたがる人,

 知りたがる人がいるが,これではいつになっても「指導力」は身につかないばかりか,

 子どもが知識や技能を習得するのも困難になってしまうだろう。

 今,改めて鈴木大拙著『禅と日本文化』を読み返しているが,

 「禅」の基本は,教育の基本と通じる点がある。

 しかし,「禅」の基本とは全く逆のことが平気で行われているのが教育現場である。

 たとえば,教育を見る視点について,あまりにも「教師の技」に偏りすぎているのが小学校の教師の問題である。

 雑誌や本の類をタイトルから見るだけで,そんな傾向はすぐ分かる。

 自分の技よりも,まずは小学生に基礎・基本となる「知識」や「技能」を身に付けさせてあげてほしい。

 5年生の社会科の授業で,地図帳を活用できるようになる小学生が少ないことが,中学校で借金生活から始まる大きな原因の一つである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

基礎・基本は「知識」だけではないことに注意!

 教員採用試験の面接試験で聞かれたら絶対に答えられないといけない質問の一つが,

>学力の3要素は?

 です。

 解答は,

① 「基礎的・基本的な知識・技能の習得」

② 「これらを活用して課題を解決するための思考力・判断力・表現力など」

③ 「主体的に学習に取り組む態度」

 の3つになります。

 少しレベルが高くなりますが,

>「学力の3要素」という言葉を初めて使ったのはどこ?

 と聞かれたら?

 さらに,何を重視すべきと考えられていたところからの提言か?

 中央教育審議会初等中等教育分科会の教育課程部会内に設置されたワーキンググループがありました。

 文書名は,

 「児童生徒の学習評価の在り方に関するワーキンググループにおける審議のまとめ」(平成22 年3 月)

 です。経緯はこのグループ名からわかります。

 残念ながら,観点別学習状況の評価の変更までたどりついていませんが,

 できれば早い時期に「前言撤回」で自分が優位に立てる人間がトップになって着手してもらいたいものです。

 さて,誤解されやすいのが,

 ①の「基礎的・基本的な知識・技能の習得」で,

 ここには「知識・理解」の「基礎・基本」ではなく,

 「資料活用の技能と表現」の「基礎・基本」も含まれています。

 ですから,教師が話をしてばかりいて,

 「ここをおさえておけば(だいたい教科書の太文字部分だったりする)いいだろう」

 なんていう態度でいると,習得できないのが「技能」なのです。

 ③の「主体的に学習に取り組む態度」なんて評価はできないから,

 説明だけで時間のほとんどを費やした方が,「授業が進む」と考えている教師の場合は,

 間違いなく②「課題を解決するための思考力・判断力・表現力」の評価はできません。

 なぜなら,それを評価できるような場面が授業にないのですから。

 まだ授業の「基礎・基本」の概念が理解されていないのが学校現場の課題です。

 授業の指導はどんなに待っていても変えられない。

 だから,評価から変えていく。

 そのためにも早く見直すべきなのが,観点別学習状況の評価です。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

LINEの経営戦略を社会科の教材に

 LINEの経営戦略から,

 学校でどのようなことを学ぶことに意義があるのかを生徒に実感させることができる教材をつくることができます。

 読書編で紹介した内容です。

 携帯電話の使い方で,

 日本と共通点がある世界の国々,人々がいること。

 宗教は違っていても,

 「話好き」「コミュニケーション好き」の人々がいること。

 その人々が,世界のどのような地域にいるか,ということ。

 LINEの利用者が企業の狙い通りにいくと,

 最終的に,どの国の人々の利用が増えるか,ということ。

 調べたり,考えたりする材料が豊富です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「私たちの自治体では,教育学部出身の人は教員に採用しません」という日が来る?

 ゆとり世代の採用が始まり,教育現場に立つ人が増えているが,

 あちらこちらで聞くことが増えているのが,教師としての

 「教科の専門的教養」が不足しているという「小言」である。

 たとえば,中学校や高校で社会科,地歴科,公民科を指導しようとするとき,

 「私はアメリカ史が専門でした」「私は経済が専門でした」という人が,

 「日本の地理が教えにくい」「古代の政治史に関する話のネタがない」という悩みを抱えているようなことは

 昔からよく聞かれていた。

 しかし,そもそも「教育行政」とか「教育心理学」を専門に大学で学んだ人たちは,

 社会科の教科指導に役立つ専門的な学問の研究や調査をしたことがない・・・・・・・

 分かりやすい話,そういう内容の論文を書いたことがないわけである。

 たとえば社会科や地歴科,公民科の教員免許は,いろんな学部の人がとることができる。

 だから,ヨーロッパ中世史について,高校のときくらいの知識しかなくても,

 高校の教員にはなれてしまうのである。

 今,学校現場では,そもそもこういう「教科の専門的指導」に関して,

 特に秀でた人を採用しよう,という意図はあまり感じられない。

 そんな「専門家」より,入試対策が上手な「塾や予備校のように教える専門家」を求めている学校の方が多いかもしれない。

 したがって,タイトルのような状況が生まれることは,今後も永久に訪れないかもしれないが,

 先日,「うちの学校の先生は,子どもに間違った知識を教えている」という苦情を耳しているという大学の先生の話を聞いた。

 又聞きの話だが,たとえば私が授業参観した子どもの担任教師も,

 その近隣の学校で開いていた公開授業での教師も,

 指導主事時代に参観した高校や中学の教師も,

 かなり知識としては怪しげな状態のままで授業を行っていることがよくわかる場面に遭遇している。

 教員免許がだれでもとれるような状況であること自体が問題だという面もあろうが,

 「それでもまだ日本の教師は優秀だ」

 などと開き直っている人間がいることを考えると,

 本気で「学力向上」を目指している人はこの国にいるのか?と疑問に思ってしまう。

 学校は「学力工場」体制を維持する,という路線でいくなら,

 もっと「合理化」につとめるべきだろう・・・・人間の教育はやめる,というのなら。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

集中していない子どものおかげで集中できてしまう教師,集中している子どものおかげで集中できなくなってしまう教師

 人間は目の前の大きな課題に直面し,その問題解決に集中すると,周りが見えない状態になる。

 音すら聞こえない(話しかけても答えない)状態になることもある。

 複雑な情報の処理に邪魔が入らないように,「閉ざした世界」に入るわけである。

 これは,「個」だけの問題ではなく,「グループ」になる場合もあるし,広く見れば「地域全体」「国民全体」になる場合もある。

 何かとてつもない優れた成果を生むきっかけになる場合もあれば,

 全く逆に,大変な結果を招くようになる場合もある。

 だから,そういう「閉ざされた世界」を外から見ている立場の人間,

 たとえば指導力のない教師や家庭で小言しか言えない親のような人間にとっては,

 本当に気が気でなくなる。

 自分の方は集中できなくなる。

 逆に,子どもが集中できなくなっている場合に,

 自分の出番だという意気込みで,はつらつとする人もいる。

 「閉ざされた世界」を外から操作しようとするリーダーシップは,

 リーガルコードを中心にして動く国や地域では歓迎されるかもしれないが,

 モラルコードを中心にした国や地域では,完全に「よそ者」扱いされてしまう。

 同じ土俵の上で,同じように集中し,ただし,流れが一方通行になったり,

 勢いがよくなりすぎたりしたときに,一度,立ち止まらせるような存在に,

 教師や親はなるべきである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

経験値を生かそうとする指導が陥りやすい「学力工場」学級

 教員はある程度の経験を積むと,その経験が生かせるような方向にもっていこうとする傾向が出てきます。

 このうち,あくまでも教師自身が「自分の経験が発揮できる」局面づくりをしてしまって,

 子どもの成長を阻害するようなものは,あまりいただけません。

 教師にとって都合のよい環境づくりと,

 「子どもにとって最良の学習環境づくり」は,別の話として考えるべきです。

 経験のない教師は,そういう局面づくりが得意な教師をまねしようとして,

 本や雑誌を買ったり,研究会に出て「技を盗もう」としますが,

 それで「うまくいった」という自覚がある人は少数派でしょう。

 いくらかの自己流のアレンジがあったり,

 本来は最も大切な,子どもの現状を見ながら対応を変えたりできるのが,

 大事な「指導力」なのです。

 忘れてはならないのは冒頭の5行分の話で,

 教師がとても調子よく学級をコントロールしている様子を見かけることがあります。

 子どもたちが,教師がつくったルーティーンを黙々とこなす,工場のような光景を見たことはないでしょうか。

 百マス計算から入って,・・・・して,・・・・して,時間が来たから,・・・・に変えて・・・・

 子どもが規則正しい動きをする。

 時代錯誤以外のなにものでもないのに・・・。

 こういうのを向上させるべき「学力」だと誤解した人たちが,

 どれだけ真似をしてきたか。

 「学力工場」では,人間は育たないんですよ。

 教師という現場監督は,とても生き生きしている。

 生活指導の面でも,「工場の現場監督」らしさを発揮する人がいる。

 「問題が起こらないこと」を自慢している。

 「問題は起こらないこと」はもちろん悪いことではありませんが,

 学校で大切なのは,「問題を解決できる人に育てる」ことですからね。

 中学校では,いつ,どんなタイミングで,どのようなタイプの問題が発生するか,

 学校によって多少は違ってくるかもしれませんが,

 背景が似ていれば,当然起こってくる結果も似てくるので,予想できるようになります。

 指導力のある教師というのは,事前に問題が発生することを防止しないという選択肢をとることがある。

 もちろん,いじめ等の人権侵害は防止する義務があります。

 しかし,リーダーシップを育む中で,通過してほしい「つらい経験」はいくつもある。

 子どもの成長にとってよりよい局面を教師が作り出していくことが求められているのです。

 教育で大切なのは,自分ではなく,子どもの「経験値」を高めていくことです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

頭の下げ方は,学校で教えています

 本日,ある記者会見の様子をTVで見たが,

 「頭の下げ方」が間違っていたのが気になった。

 あれでは「謝罪」にならないし,「挨拶」としてしのお辞儀としてみても,

 相手に失礼な態度と見なされる。

 頭を下げた後,きょろきょろ目を動かしたり,頭を左右にふったりしてはならない。

 大切なのは,頭を上げる時である。

 「頭を下げる」という言い方をするから,

 「下げたからいいだろう」という考え方をしてしまう,「反省」していない人間がいる。

 「頭を下げる」動作の後,

 当然,「頭を元に戻す」動作が続く。

 このとき,顔が(目が)正面を向いて,しっかりと静止することが重要である。

 卒業証書を受け取るときなどは,きちんとできるはずだ。

 TVというメディアは,非常に影響力が大きい。

 SNSとは「視聴者」数のケタが違いすぎる。

 私の個人的な感想は,

 「この人,反省していないな」というものだった。

 まさに記者会見は逆効果なものになってしまった。

 それは,内容がそういうものだったから,という見方ももちろんあろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

教員採用試験合格を目指して~目標をもう一つ,加えておく戦略

 首都圏の指導主事の先生に聞いたある話から,

 改めて紹介したい,教員採用試験必勝法がある。

 今,一部の都道府県教育委員会が頭を痛めている問題は,

 「管理職」不足である。

 ある県では,管理職試験の倍率が,ある県立高校の入試倍率よりも低いと揶揄されている状況のようだ。

 採用段階から,「将来は学校経営をしたい」という意欲をもっている人を狙ってくる可能性もある,という話である。

 昔なら,「そんなことは,まともな教員になってから言え」と一蹴されるような話が,

 今は,公募校長のように,教員でなくても管理職ができる時代である。

 というより,むしろ「経営のプロ」の人材の方が求められている時代である。

 採用試験のための教育法規の学習は,

 特に教育課程の管理や教員の管理に関することを中心に,しっかりやっておき,

 できれば教育管理職試験用のテキストで教員採用試験も準備しておくのがよい。

 県によっては,教育法規の知識がろくについていない教員も管理職として任用しなければならない状況に陥っているから,知識は完璧でなくてもいい。

 経営についての学習をしているという意欲が伝わればよいのだ。

 できれば,地元の学校の教育計画や学校評価結果,学校経営の自己評価などがHPで公開されているから,

 いくつか「これはすばらしい」と感じるものを見ておき,

 その知識を面接のときの武器にできるとよいだろう。

 また,企業の管理職が読んでいそうな本に目を通しておき,

 「これからの時代に必要な学校のリーダーシップ」などについて,簡単な文章が書けるようにしておくのもよい。

 自分のタイプをしっかり見極めて,

 日本らしい「調整型」のリーダーを目指していると言ってもよいし,

 新しい企画をどんどん考え,発信していく「改革推進型」のリーダーを目指してもよい。

 妄想は自由である。

 「学校(経営)の将来を任せられる人材」という目で,採用する側は見てくると思って準備をする。

 特に管理職になる人が少ない女性の場合,不安に思われている方がいるかもしれない。

 しかし,今の時代,女性こそチャンスである。

 女性の管理職の割合を高めることが,「進んだ自治体」であることをアピールする材料になっている。

 逆に,女性も含めて,「どうしても管理職になど,なりたくない」という人はどうするか。

 「ずっと,子どもといたい」という欲求をどうするか。

 それこそ,教員になってから,考えてほしい。

 まずは,どのような人材が求められているかを知り,選考の戦いに勝つことを考えなければならない。

 心にもない記事だが,実際,その通りかもしれないし,

 あるいは逆に,もっと高い見識のある自治体もあるかもしれない。

 最終的な戦略は,あくまでもご自分で決定していただきたい。

 なお,面接官には「いじわる」がいる。

 どんな発言にもネガティブにつっこんでくる人がいたとしたら,逆にチャンスと受け止めてほしい。

 常に謙虚な姿勢を崩さず,慌てたり,ひるんだりしてはならない。

 喧嘩を売って,相手が調子に乗ってきたところを,謙虚に切り返す,というのが,

 面接における高等戦術である。

 その材料として,いい突っ込みをされそうな「管理職を目指す志をもつ」ことは,悪くはないと思われる。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

ミッドウェー海戦と市和歌山高校の敗戦の共通点

 高校野球では,まさかの幕切れというのがときどき起こる。

 3塁ランナーがホームベースを踏んだ瞬間に負けになるのがわかっていながら,

 守備の巧い2塁手が1アウトで1塁に送球してしまった。

 作戦上,ダブルプレーがとれるゴロの場合,2塁に送球するという選択肢もあったことが,

 不意のイレギュラーに判断力が失われ,本来はあり得ない1塁送球というミスを生んだ原因だと考えられる。

 この出来事をスポーツニュースで知って,

 すぐに頭に浮かんだのが,日本のミッドウェー海戦での大敗北である。

 土壇場の大事な場面では,狙いを一つに絞るというのは鉄則なのだが,

 高校野球の場合,守備に自信があったために,「2つのうち,いける方でいく」という贅沢な作戦をとってしまった。

 もちろんダブルプレーを狙っても,1塁がセーフになれば試合終了だが,

 結果として,「2つのうちのどちらでもない行動」をとってしまったのが,大ショックを生んだのだ。

 ミッドウェー海戦において,空母の中で爆弾の積み替え作業を行っていた人たちは,どんな気持ちで爆撃を受けていたのだろう。

 指揮官の判断ミスを呪っていたのだろうか。

 上官の命令には絶対服従だった人々は,最期に何を悟ったのだろう。

 どちらもミスした側には残酷な結末が待っていた。

 高校生には,今回のミスから学んだ教訓を生かすことができるこれからの人生が待っている。

 国の指導者には,

 こういうタイプのミスを犯してくれるな,と切に願う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

シリーズ「課題追究型道徳」(その3) 先生方は仕事を誠実に実行して,その結果に責任を持っていますか?

 公務員である先生方は,憲法を遵守する義務があり,全体の奉仕者として,

 人権を尊重され,常に職務に専念していらっしゃることと存じます。

 私たち中学生には,自ら考え,判断し,実行し,自己の行為の結果に責任をもつことが基本だといつもおっしゃっています。

 深く考えずに付和雷同したり,責任を他人に転嫁したりするのではなく,

 自らの規範意識を高め,自らを律することができなければならないと。

 しかし,私たち中学生には,疑問があります。

 私たち自身に関することと,先生方に関することです。

 私たちが,自ら考え,判断し,実行できることは,どのくらいあるでしょうか。

 やらなければならないことがいっぱいで,それをこなすのが精一杯であるのが現状です。

 先生方も,それは同じなのではないでしょうか。

 私たちの生活のあり方,そして学力は,先生方にとって,

 「満足のいく結果があり,十分に責任を果たしている」とは言えないような状況が続いていると思います。

 それでもあきらめずに,熱心なご指導を続けていただいています。

 しかし,先生方には,

 自分で考え,自分の意志で決定できるものとは,先生方の場合,どんな仕事のどのような内容を指すのでしょうか。

 あまり自主的に補習の時間を設けてくれる先生とか,

 日曜日にも勉強を教えてくれる先生はいません。

 部活動の引率はいつもやってくれるのに。

 やはり勉強をみることより,部活動で学校が勝つことの方が大事なのでしょうか。

 私たちが「責任ある行動」として求められていることと,

 先生方が求められていることは,あらかじめ決められていることが多いのではないですか。

 もっと中学生や,先生方が,自己の尊厳に気付き,何が正しく,何が誤りであるかを

 自ら判断できる場や機会が必要なのではないでしょうか。

 過ごしやすい学校生活,より学力を高めるための学校の授業のあり方,放課後の有意義な時間の使い方,

 これらのことについて,もっと私たち生徒の声を聞いて実現させてくれるような学校にできないものでしょうか。

 そういう点からすると,道徳の時間よりも,特別活動の時間をたくさん確保してくれることの方が,

 私たちの生活がより自律的なものになっていくと考えられるのですが,いかがでしょうか。

 文部科学省の役人の方の答ではなく,私は先生の心の声が聞きたいのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

教科の学習を好きにさせるのが教師の役割,嫌いにさせる教師が果たすべき責任

 教師の果たすべき役割を自覚している人に,教師になってほしい。

 教科の指導が苦手な人は,その教科の指導方法を研究するべきである。

 しかし,小学校の研究会に参加してみると,

 指導が好きな教科,指導が得意な教科の分科会に参加している教師が多いことがわかる。

 気持ちは分からないでもないが,本来は逆であるべきだろう。

 中学校の教師を長くやっていると,ときどき特定の教科に対する忌避感が強い生徒を見かけることがある。

 わかりやすいのは,特定の教科の成績だけ悪い場合だが,

 そうではなく,すべての教科の成績が振るわない生徒の中に,

 特定の教科への忌避感が原因となって,他のすべての学習に身が入らない,という傾向を見ることもある。

 原因は,言うまでもなく小学校時代の「トラウマ」である。

 たった一つだけ,すぐにでもできる小学校での対処法がある。

 一度だけでもいいから,違う担任の先生の,最も指導を得意とする教科の授業を受けさせてあげてほしい。

 子どもは,先生が好きになるというより,

 その教科の学習に思いもよらないおもしろさを感じてくれる可能性が高くなる。

 どの学年でも変わりはないと思うが,

 授業というのは,生き生きしている人から学ぶのが一番効果的である。

 本当に残酷な話だが,自分が最も苦手とする教科の普段の授業の様子をビデオに撮ってもらって,

 それを人気の高い予備校講師の授業の様子を比較してみるといい。

 動画サイトにいくらでもある。

 どっちの人の授業を受けたいか,そんな質問を子どもにするまでもない。

 選択肢のない子どもたちが望むべきことは一つしかない。

 担任の先生に頑張ってもらうしかないのである。

 さもなくば,上に挙げたように,一度,本当に楽しい授業の体験をさせてあげてほしい。

 もしそういう体験をさせるとなったら,

 実は一人の先生に,すべての教科が該当する,なんてこともあり得るかもしれないのだが・・・・。

 一つだけやってはいけないことがある。

 「授業が上手」という定評をもっていても,

 子どもを「調教」しているタイプの教師の授業だけは,

 ふれさせてはいけない,ということである。

 動物園のような光景を小学校で見るのは本当におぞましい限りだ。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

反省のしるしが「丸坊主」は・・・あまりにも時代錯誤

 「丸坊主」を「悪いことを反省するかたち」の代名詞にしてしまうのは,

 今,頑張っている高校球児たちにも,申し訳がない。

 たまに,大会前だけかっこつけて丸坊主にする弱小野球部があるが,

 これも気合いを入れるならもっと前から,別のかたちで表現すべきであり,

 「本物」に対して失礼である。

 択捉島に在住されていた方で,戦後,島に入ってきたソ連人にしばらく部屋を貸していた人のインタビューを聞いたことがあるが,この女性は,父親が無理矢理(男の子に見せようとして?),床屋で髪を短く切ってしまったことが,いまだに強い心の傷になっているということであった。

 島を追い出され,収容所に入れられるまでは,ソ連人のある家族とはそれなりに仲良く過ごせていたそうで,

 一番のショックだったのが「髪の毛」という話が印象的だった。

 「丸坊主」は,「恥ずかしい頭髪」=「辱めを自ら受け止めるスタイル」というニュアンスがあるから,
 
 「反省の印」になるのだろうが,

 繰り返し言いたいことは,それはもともとそういう髪型の人に対して失礼だということである。

 中学生と,どのような関係を結ぼうとしたのか?

 今時,中学生に「死ね」とか「うざい」とか「消えろ」なんていう言葉を浴びせられていちいち怒る教師もいない。

 ましてや,「おまえが・・・」などというお返しもしない。

 そういう中学生の気持ちが分かる人間が,教師という職業に就いているのである。

 こういう今の日本で,

 「政治主導」なんていう国の動かし方がまともにできるとは思えない。

 もちろん,今の「役人主導」型も問題は多い。

 今回のような「謝罪劇」が表になる前に,

 実際の「やりとり」自体が完全にオープンで進んでいき,

 そこに他の政党の議員も入ってきたり,異論が述べられる中学生が入ってきたりして,

 何とか,民主政治の「それらしさ」を味わうことができるのだろう。

 報道では,いつもいつも,「これではダメだな」という「がっかり案件」が紹介される。

 これだけ失望し続けながら,未来に明るい希望をもてる子どもを育てるのは至難の業である。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

『ジョバンニの島』,カナダ映画祭での最優秀賞受賞に拍手!

 終戦直後の色丹島で暮らす幼い兄弟の物語を描いたアニメ映画『ジョバンニの島』が,

 海外で高い評価を得ているようです。

 ニュースをさかのぼると,フランスでも審査員特別賞を受賞したり,

 モスクワでも一般上映されたりと,

 現在では北方領土問題として政治・外交上の課題になっている島を舞台にしたアニメ映画で,

 家族愛や平和の大切さを共有できるすばらしい文化交流ができているようです。

 中学校のほとんどの歴史教科書では,

 原爆が投下され,ポツダム宣言を受諾し,はい,戦争終わり,というストーリーになっているのですが,

 1945年の8月末から9月はじめに北方領土で起こった出来事についても,

 しっかりと記述してもらうきっかけになるかもしれません。

 歴史的事実を知ることが,解釈したり意見をもったりする前の段階として重要なことです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

高校入試で,採点の誤り以外に,「分かってしまってはまずいもの」

 入試における採点誤りは,「誤り」であって,「故意による不正」ではない。

 「誤り」がないかどうかの点検は,何重ものチェックを行っていたはずで,

 それでも「誤り」が見つけられないような場合は,・・・・機械にやらせるしかない,

 というのが東京都の判断となった。

 機械は絶対に誤らないか,という問題も残るが,実は,もう一つ,重大なものの「チェック」は

 「チェック」されないまま,放置されている。

 それは,「内申点」である。

 東京都の場合は,平成28年度の入試から,

 すべての高校で入試得点と内申点の比率を7:3にすることになった。

 かねてより内申点と学力との相関に疑問があり,より「正しい力」を図るための方法をとった,

 ということだろう。

 「内申点」の付け方は,学校によっても異なり,教師によっても異なる。

 この「付け方」に課題があることがばれてしまうと,

 そもそも「入試の結果」自体をなかったことにしなければならない。

 絶対にばれてはいけないことなのである。

 「内申点」は,高校側としては,「適正なものとして扱う」のが原則である。

 まるで,あの研究者たちの論文みたいなものである。

 しかし,あっちの世界では,「パンドラの箱」を開けてしまった人物がいる。

 学生だけでなく,教授たちの論文がチェックされると,それこそ収拾がつかない結果になるので,

 「このへんで打ち切り」にしたい人間はたくさんいたはずだが,

 それではすまされない事態となった。

 内申点の場合,特に難しい話ではなく,

 Aという中学校なら5がとれたはずの生徒が,Bという中学校に在籍していたために4になっていた。

 そのためにX高校に不合格になった・・・・・たったこれだけのことを「証明」することは,

 決して難しいことではない。

 もしこういう「不適当な評価」によって,合格者と不合格者が分かれた場合,だれがどのような責任をとるのか。

 Bという中学校が悪いのではなくて,Aという中学校の評価が甘いことが原因だ,という「責め方」が常道だろうが,

 それを言い出すと,中学校数×教科数(9)だけのチェックが必要となる。

 原因は,5や4という評定の意味がものすごくアバウトなモノであり,

 だれも厳密な基準を決められないことにあるのは明らかである。

 問題をもっといい加減なものにしているのは,

 もともと4観点(国語は5観点)の評価を別々につけ,それをまとめたものが

 1,2,3,4,5の評定だということだ。

 厳密にできるはずがない。

 そもそも学習指導要領に示された内容を学習させていないで,評価をつけていたら,なおさらである。

 だれもこれをチェックしようとはしない。

 チェックしたら,大変なことになることが分かっているからである。

 日本という国の「教育」とか「学問」というものは,「そういうタイプのモノ」なのである。

 リーガルコードの世界の人には,全く理解することはできないだろう。

 モラルコードの世界の日本では,不正は「なかったこととしてふるまう」のが「大人の世界のルール」なのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

試験の採点場面でわかる教師の「教育への誠意と熱意」

 教師になってしまうと,一人で責任をもって行う仕事が多いことに気付くだろう。

 そのうちの一つが,「試験問題づくり」と「試験の採点」,そして「評価」の仕事である。

 もし,「試験の採点」が面倒くさい,などという教師がいたら,

 教科教育や一人一人の生徒へのきめの細かい指導などへの意欲や熱意が乏しい人間だと思っていいだろう。

 すべての教師がやっているとは思わないが,

 採点をするとき,授業での能力の発揮具合,ノートの状態,過去の成績などを念頭におき,

 生徒一人一人の顔を思い浮かべながら,

 今回のテストではどこがどの程度まで理解できていたのか,

 という関心を持ちながら,○や×,コメントをそえて△にし,減点したりしている。

 ただ合計点だけわかればいい,なんていう教師は少数派だろう。

 真剣に解いてくれた生徒一人一人への,

 教師としての誠意の見せ所が,「採点」の仕事をする場である。

 採点しながら,返却時の場面を想定し,だれにどのような言葉を返すべきか,を考える。

 どう励ましてあげたら,次の試験でがんばってくれるか。

 どういうコメントをつけてあげたら,減点に納得してくれるか。

 たった2~3秒のやりとりのなかで,大事なものを伝えるための準備をするのが

 「採点」をする時間である。

 思い返せば,そうやって試験は採点しているんですよ,と

 話してくれた先生が,小学校にも中学校にもいた記憶がある。

 そういう先生のためにも,試験では常に満点をとりたい・・・・・・
 
 そう,自分のためではなく,教えてくれた先生のために,満点をとってあげたい・・・・

 と思う自分がいたのを思い出した。

 先生の仕事への熱意は,次世代の先生も育てていたのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

教員の夏期休業中の勤務について

 教員が「公務員」として適格か失格かがわかりやすい指標がある。

 「教育者」には,塾の先生でもなれる。親にもなれる。

 しかし,「公務員」としての先生には,守るべきものがある。

 その自覚があるかないかが,「夏休み」観でわかる。

 子ども向けの「夏休みの生活記録」を,教員向けにも実施した方がよいかもしれない,という実態もある。

 20年から30年以上前は,夏期休業中の勤務の管理はよほどいい加減だったのだろう。

 あるいは,現在でも「管理職不在」の自治体では,同じような事態が続いているのかも知れない。

 国民の「不満」だけではなく,そのために様々な事件や事故が起こってきたのだから,

 法令に基づいて管理を徹底するよう,教育委員会がカリカリするのは当然のことである。

 教員は普段は忙しいから,

 長期休業中に,その分の鋭気を養う,という面は当然あるのだが,

 「自宅で研修」などが安易に認められるべきではないことは,だれが考えてもわかる。

 「自由な研究の時間」は,当然,認められるべきである。

 しかし,学校以外でそれを行いたいなら,学校内ではできないという根拠が必要である。

 「自由」には「義務」や「責任」が伴うべきであるという,

 道徳教育の内容以前の課題意識が希薄な人間が,教員の中に紛れ込んでいるのは事実だろう。

 小学校の教師の場合は,学校に子どもが来る期間が限られているから,

 そういう過ごし方が不可能なわけではないが,

 普段が忙しいからこそ,

 この期間にしかできない仕事も山のようにある。

 中学校の教師の場合は,部活動の指導があるから,「休暇」を消化しきれないほど,

 学校に勤務することになる。

 ただ中学校に出てきて,パソコンを前に仕事をしているふりをしていた経験のある人間もいるだろう。

 厳密な意味からすれば,これは職務専念義務を果たしていないと言えるが,

 そこまで厳しく管理することはできない。

 勤務時間中にパチンコをしていて,駐車していた自家用車から生徒の成績データが入ったメモリを
盗まれる,という事件があったが,こういうことが起こらないようにするためには,

 何もしていなくても中学校にいさせるべきという話になってしまう。

 問題行動を起こさせるより,部活動で締め上げている方がましだ,という論理と同じである。

 「もっと教師に自由を」と偉そうなことを言う前に,

 まずは自分が「公務員」であること,

 国民の税金で食べさせてもらっている人間であることを自覚すべきである。

 道徳を特別の教科にする理由は,教師をもっとまともな人間に育てるためだ,

 という考え方があることに,抵抗できない現状を何とかしてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

来年2月の東京都立高校入試の一部にマークシート方式導入へ

 最新ニュースです。

 本日,午後5時から午後7時まで検討のための会議が開かれていて,

 午後10時に報道発表,というスピード感には,私も驚きを隠せません。

 予算化の目処もたったということでしょう。

 次に知りたい情報は,導入する高校はどこか,という点です。

 導入した高校で成功すれば,再来年の入試では全校でマークシート方式にするとか。

 さて,慌てているのは,

 「そっくり模試」などを実施している業者でしょうかね。

 問題がそっくりでも,解答の記入方法が違ってしまっていては,

 入試の練習にはなりません。

 こちらも対応力の勝負ということになるでしょう。

 中学校側からすると,

 マークシートに慣れていない中学生に,慣れさせるための訓練が必要になるかもしれません。

 せっかく正しい選択肢が選べていたのに,塗り方が悪かったために0点,などというケースも出てくるでしょう。

 最悪なのは,受検番号のマークミスです。

 さすがにここには人間の目でチェックを入れないといけないかもしれません。

 また,マークシートを読み込む機械のトラブルなどあってはいけませんから,

 高校の先生はデータ読み込みのシミュレーションもこなさないといけない。

 すべてがマークシートというわけではないので,

 結局,「二度手間になる」という部分もあるでしょう。

 手で採点した分と,マークシートで採点した分の合計を間違えたら,また大変。

 機械のトラブルって,

 センター試験のリスニングのときにもよく起こっているように,

 採点のときに「読み取り機がこわれた」なんてことになると,また大変。

 これから,起こりうる様々なトラブルを見越して,

 分厚い「災害シミュレーション」みたいな資料ができあがることでしょう。

 センター試験のを真似することになるでしょうから,

 きっと,読むのが非常に大変になることでしょうね・・・・。


 ところで,こういう動きが出た一番の理由は,高校の先生による

 「採点間違い」問題でした。

 採点の間違いをなくす一番よい方法は,

 最低でも1日か2日は,授業をなし(高校生は自宅学習)にして,

 入試業務に全員が集中できるようにすることだと思うのですが・・・・

 もう,決定したことのようなので・・・・。

 他の県は,来年2月に東京都が実施して,その経緯を聞き取ってから,

 やり方を決めよう,とするのでしょうか。一部の県ではそういう動きが見られるかもしれませんが,

 ・・・・実は,マークシートへの導入がしやすい選択肢ばかりの入試問題をつくっているのは

 東京都だけだったりして・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

シリーズ「課題追究型道徳」(その2) 先生方は目標達成のためにどれくらい強い意志を持っていますか?

 シリーズ2回目からは,中学生としての目線から記していきます。

 私たち中学生は,学校生活や学習など様々な場面で「目標」を設定し,

 その実現に向けての努力をしています。

 先生方には,どのような「目標」や「希望」があるのでしょうか。

 まず,先生方に,いつ頃まで,どんな目標が達成されるまで,

 この学校で勤務されることを希望されているか,お聞きしてみたいと思います。

 というのは,とても短いサイクルで学校をかわられている先生方もいるからです。

 何か事情があるのでしょか。

 「長く勤めたくない」理由があるのでしょうか。

 私たち中学生の場合は,
 
 小さな目標でも,達成されるとうれしくなります。

 それを先生に褒められたり,友達から認められると,ますますやる気がでてきます。

 先生方には,そういう経験がおありなのでしょうか。

 校長先生は,先生方を褒めて下さるのですか。

 それとも,「強い意志」というのは,褒められたりおだてられたりしてでなく,

 あくまでも自分自身による,くじけない心によって,

 自らの行動を支えていくことが大事なのでしょうか。

 先生方の中には,私たち生徒が思い通りに動かないと,

 感情を爆発させてしまう方がいらっしゃいますが,

 障害や困難に直面したときに,そういう態度をとることが

 理想を実現させるために効果的と言えるのでしょうか。

 もっと,いろいろお聞きしたいのですが,

 なかなか成長しない私たちを,あきらめることなく,

 どうか根気強くご指導していただきたいと願っております。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

シリーズ「課題追究型道徳」(その1) 先生方の心身は健康ですか?

 中教審の道徳専門部会が,道徳の教科化への骨子案を公表した,ということで,

 将来のために,

 現行の学習指導要領における「道徳の内容」に則して,

 中学生に課題追究型の研究をしてもらうことにしましょう。

 調査対象は,中学校の先生です。卒業した小学校の先生でもかまいません。

 まず,その1は,先生方に,

>望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活

 を送っているかどうか,調査してみましょう。

 まず,気力と活力に満ちあふれ,充実した教師生活を送っている先生にインタビューです。

 どのような生活習慣を身に付けたことで,そういう豊かな生活が送れるようになったのでしょうか。

 一方で,精神的に打たれ強そうな先生にインタビューです。

 先生は,心身を鍛えるために,どのようなトレーニングを積んでいらっしゃるのでしょうか。

 健康に自信のある先生は多いかもしれませんが,健康診断の結果はどうなのでしょう。

 プライバシーを傷つけないように,気をつけて調査しましょう。

 「節制」という言葉については,大人になってからは,どのような「衝動」「誘惑」が増えてくるのか,

 聞いてみましょう。

 そういう「衝動」「誘惑」に打ち勝つコツはあるのでしょうか。

 さて,それでは,文章で先生方の総合的な評価をしてみましょう。

 点数化はできませんが,もし何かの指標をつくって,順位づけができるようになると,

 道徳の評価の「点数化」も夢ではないかもしれません。

 45点とか,89点とかいう数字ではなく,

 A,B,Cの3段階くらいで。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

「ノリ」よりも「間」の大切さを教えてあげよう

 人はだまっているとき,必死に頭をはたらかせている。

 そういう感覚が乏しいように思えるのが

 小学校の授業と

 テレビ番組

 です。

 皮肉なことに,ある有名な小学校の教師は,テレビのクイズ番組の問題をつくって提供していました。

 茂木健一郎が『未来を変える議論をしよう』(ポプラ社)で書いていることですが,

 テレビというのは,

 ある人が質問を投げかけたのに対し,

 出演者がだまってしまうような場面はみんなカットしてしまうといいます。

 ノリやテンポを大事にするからです。

 ですから,テレビを見ていると,

 10秒ぐらい,うーん,と考えているような場面は絶対に出てきません。

 「放送事故」扱いになってしまいます。

 たった10秒ですよ。

 しかし,10秒なんて,「人がだまるにしては,異常な長さだ」と感じてしまうのは,

 テレビ番組を見ている人と,小学校の授業を見ている人ではないですか。

 ノリばかりが重視され,「間」が重視されない社会では,

 「思考力」なんて育ちません。

 人は,話をしているときの方が,話すことに脳が支配されてしまい,ほかのことをしないと言います。

 じっと考えるような時間,

 それ(「間」)を楽しむ文化が,相撲や野球をはじめ,スポーツ観戦の場でもあったはずです。

 小学生にも,もっとだまらせる時間を増やしてあげたいものです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

全体像が見えていない人には伝わらない話

 子どもが様々な能力を発揮している様子を実際に見て知っている人と,

 そうでない人とでは,子どもの「能力」に対する期待度が全く異なってきます。

 子どもには,できそうでできないことがたくさんある一方,

 できなさそうでできてしまうこともたくさんある。

 このことに関する知識や経験がないことによって,

 逆のとらえ方をして,指導上,「うまくいかない」と嘆く人が多いのです。

 「できない,できない」と言っていることが,

 「できなくて当たり前」だったり,

 「そんなことできるわけないからやらせない」と言っていることが,

 それができる実感をもつことで生徒が伸びるはず(なのに伸びない)であったり。

 学習指導でも同じようなことです。

 教師がその答を思い浮かべられないからと言って,

 子どもが答えられないとは限らない。

 歴史の学習で,「古代の日本はいつごろから『古代らしさ』を失い始めたのか?」

 という問いを投げかけたとき,歴史の知識が乏しい社会科の教師の場合,

 自分なりに納得できる答がなかなか見当たらない。

 しかし,歴史に詳しくない生徒の方がさらっと答えられてしまったりする。

 この問いは,正解が予めあるわけではなくて,生徒の答を吟味しながら,

 生徒なりの「古代」という時代の特色や『古代らしさ』というものへの認識を様々な面から検討し,

 追究していけるという価値をもつものです。

 子どもが知識を獲得するプロセスというのは,どういうかたちが理想的なのか。

 先生が正解を用意してあり,それをそっくり物まねできるようにすることが

 「知識の獲得のプロセス」ではないことは,教育に身をおく人ならわかることでしょう。

 良い教師になるには,自分自身がいいかたちで知識を獲得してきたプロセスをもち,

 その価値を認識している必要があります。

 そこを,面接ではつついてくるのです。

 「この人は,子どもに考える習慣をつけさせられるかどうか」

 という目で見てくるのです。

 よく学ぶ人が,よく学ぶことを教えられる。

 よく学べない人は,教えられるということしか教えられない。

 教育の場では,負の連鎖をつくってはいけません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

高校入試がマークシート方式になったら

 採点間違いが多いから,制度を変えよう,

 という何とも情けない話し合いを開始しているようですが,

 マークシート方式はセンター試験では当たり前。

 センター試験対策をしている高校の先生には抵抗感というか,

 違和感は少ないかもしれません。

 しかし,中学校の教師の立場としては,とても微妙です。

 たとえば私の定期考査問題では,選択肢を選ぶ問題は全体の2割程度しかありません。

 短い用語を答えるのが2割,1文程度で答えるのが3割,まとまった文章で答えるものが3割,

 といった割り振りで,学習の評価をしています。

 マークシート方式にするということは,今でもそうですが,

 ほとんどは選択式で,書く問題の比重が増えるということはないかもしれません。

 わざわざマークシートにしたのに,採点作業はもっとたいへんになるなんて,

 あり得ませんからね。

 繰り返しますが,東京でも大阪でも,対応したいのは「採点ミス」の問題です。

 想定される損害賠償額よりも,マークシートリーダー等の整備にかかる費用の方が低ければ,

 GOサインが出る確率が増すことになるでしょう。

 こういう制度の変更によって,大きく変化するかもしれないのが,

 じゃあ,高校の定期試験も,マークシート方式でやれば,採点の手間が減っていいじゃないか,

 という高校での学習評価の話。

 ますます,「思考力・判断力・表現力を問おう」なんていう意欲が減退していく。

 学力向上の成果をはかるという方向性より,

 ミスを減らして問題への対処のエネルギーを減らす,という方向性を優先しているうちは,

 あまり偉そうなことは言えないですね。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

【検索キーワードより】 私語の撃退

 大学の先生でしょうか。

 「撃退 私語」という検索でこちらのブログに入られた方がいらっしゃいました。

 大きな講堂か何かで講義をしなければならない方の場合は,

 なかなか対策は難しいでしょうね。

 ある大学の教職担当の先生に,

 「授業をやりながら,教師に向いている学生か,向いていない学生かの区別はつきますか?」

 と質問したら,「数が多すぎて分からない」という

 答になっているかいないか分からないような的を射ない言葉が返ってきました。

 こういうのは,少なくとも小学校,中学校,高校の「授業」とは全く違った世界の話ですね。

 40人程度を相手に授業をしているとき,

 「私語」への対応は簡単です。

 「私語」をしている人の邪魔をすればよいのです。

 こちらから話しかける。

 それを授業開きのときのルールとして教えておく。

 何か授業中に話したくなったとき,

 遠慮せずに,手を挙げて話しかけてきて下さい。

 もし遠慮して,ひそひそと隣に聞いたりしたときは,

 すかさず,「何が聞きたいの?」と反応してあげます,と。

 調べる人も同様です。

 スマホを取り出したりしたら,何を調べようとしているのか,

 すかさず聞く。できれば私が答えてあげます,と。

 授業者は,つねに授業を受けている人間の理解度,

 興味・関心の度合い,疑問点などに注意を払って授業を展開するものです。

 大学の先生のなかには,

 授業をやりながら,学生と話はしたくない,という人もいるようで。

 そんな授業を受けている大学からは,まともな教師は育ちません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ 

何人の教師に救われてきたことか

 子どもが困っている。

 ある教師の怒りを鎮めることができずに。

 助言をしてあげる。

 子どもが新たな一歩を踏み出せるようになる。

 教師には,それぞれに持ち味がある。

 怒っている方の立場が似合う人がいる。

 助言をする立場しかできない人もいる。

 いつもは助言する立場なのに,怒る側にまわれる人もいる。

 教師集団にとって大切なことは,

 両方の立場の人間がいて,

 子どもたちがいつでも「切り札」を使えるようにしておくことである。

 もちろん,「切り札」は行き詰まったときにきるものである。

 やすやすときってはいけない。

 そういう「頃合い」を見切ることも教師集団にとっては大切である。

 子どもとの駆け引き。

 教師との駆け引き。

 それができる環境にいたことを感謝したい。

 そういう環境をつくる重要な資源になっている。

 これまで,どのくらいの教師に救われてきたか,

 私が知らないものも多いだろう。

 これから,どのくらいの教師と子どもを救えるかわからないが,

 そういう場面が全く訪れない関係には陥りたくない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

グローバル人材と最近の教師の共通点

 グローバル人材に求められるコミュニケーション能力というと,

 「自分の考えを堂々と述べる」ことに主眼が置かれており,

 個人への評価も基本的には「その人がどういう発信ができたか」を規準して行われます。

 教育の場では,自分の立場をああだこうだ言うよりも,相手の立場を尊重することを重視する場合もある。

 しかし,「グローバル人材」の教科書を書いている人によれば,

>グローバル人材は人の心を読む習慣がない

 といいます。

 勝手に人の心を読んで,必要のない助言をする・・・・

 「おせっかいをやく」ことがない,そうです。

 この話を読んで,すぐに思い浮かんだのが,

>最近の教師は,お互いに教え合うことをしなくなった

 という現場からの愚痴です。

 それを個人の人事考課(業績評価)と結びつけて考える人がいるようですが,

 評価の項目に,「お互いに教え合うこと」をおいておけば,

 むしろどんどん広がっていくはずの習慣です。

 それでも,若い教師はベテラン教師に質問しなくなり,

 ベテラン教師は若い教師に助言をしなくなった・・・・。

 自分で困っていることは,自分で解決する・・・・

 これは,グローバル人材としては当然のように求められる資質であり,

 勝手に教えようとしないというのも同様。

 つまり,学校現場の職場はグローバル企業と同じ状態になっているわけです。

 一方,異なっている面も当然あります。

 グローバル企業では,上司の言葉を鵜呑みにせず,疑ってかかる,

 という態度が求められているそうです。

 積極的に上司に意見を言えと。

 学校現場の場合,もしそういう若い教師がいたら,どうなるのでしょう。

 こういう若い教師を受け止める度量のある管理職はどのくらいいるでしょうか。

 学校の管理職には,教育委員会がバックにあり,そのバックには文部科学省がある。

 単体で存亡の危機と闘っているグローバル企業とは

 全く異なった背景があるのは当然ですが,

 つぶれる心配がないのであれば,どんどん言いたいことを言う,というのも

 可能な職場であるはずなんですけどね。

 もちろん,すぐに異動させられる,というリスクも背負うことになりますが。

 情報を鵜呑みにしない,

 という態度が求められるのは,実は

 教育委員会であり,

 文部科学省なのですが,

 「この情報,本当は間違っているんじゃないか」という態度がとれないという

 弱点も行政は持っています。

 「履修したことにしているようだ」なんて言葉は,公式には絶対にできない。

 論文における不正行為のように,

 正しい情報を発信しているかどうかをチェックする機能を果たすべきなのが,

 教育委員会なのですが・・・・。

 「勝ち抜く」とか「生き残る」とかいう行動原理のない組織を改革するのは,

 本当に難しいことかもしれません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

東京の「室町」で見た,暑さを忘れるほどの「ショッピング意欲」

 教師は社会を知らないと皮肉られることが多いですが,

 それはもちろん教師に限ったことではなく,たとえば今,東京のまちがどのように変化しようとしているのか,

 現地を歩いたことがある人でないとわからないことが多いでしょう。

 東京に「室町」という言葉が入った地名があるのをご存じの方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。

 東京都中央区に「日本橋室町」という場所があります。

 今日はコレド室町に出向いたのですが,この暑さのなか,大勢の人でごった返していました。

 日本橋と言えば,三越,三越と言えば,三井越後屋・・・・江戸時代に日本橋で生まれた呉服店。

 日本橋室町には三井不動産の本社がありますが,

 この会社が,

>残しながら、蘇らせながら、創っていく

 をコンセプトに,日本橋地域の活性化と新たな魅力を創造するプロジェクトを実行中です。

 「日本橋再生計画」に沿って,日本橋も大きく変わろうとしていますが,

 「残す」「蘇らせる」というキーワードは,

 ぜひとも教育の世界でも使ってほしいものです。

 教育の世界で,これからも「残す」べきものは何なのか。

 そして,すでに「失われた」可能性もある,「蘇らせる」べきものとは何なのか。

 私が一教師として危惧していることは,

 学校の先生は忙しい,忙しすぎる,などという声が高まって,

 本来,すべき仕事をどんどん失っていってしまうことです。

 公設民営化の流れなどは,そういう動きを助長させかねません。

 教師は「忙しさ」のなかに本当の「充実感」を覚えており,

 それが子どもに伝わることで,本当によい関係が築けているのです。

 やることが限られて,さっさと家に帰るような教師が増えれば増えるほど,

 学校という社会で育まれてきたことがどんどん消滅していきます。

 そういう経験をしてきた親世代が,失われつつある今の学校に背を向けるのも

 時間の問題かもしれません。

 買い物に夢中で暑さを忘れてしまっているかのように見える人たちは幸せそうでしたが,

 学校の未来を想像することで寒気をおぼえるというのは悲しいことです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

グローバル人材の育成を語る人材の不足

 海外の勤務の経験を語っていただくコーナーを設けたところ,

 大きく分けて二つのタイプの講師がいることがわかった。

 一つは,残念なことながら,

 その方が特別な経験をされたようには感じることができず,

 別に経験がなくても話せそうな(それは教師ならとてもよくわかる感覚なのです)ことばかりを

 話していたり,

 海外勤務によって特に優れた能力を培われたようにも思えない人。

 もう一つが,本当に貴重な「その人からでないと聞けなかったであろう」情報を伝えてくれる人。

 あるグローバル人材育成の本に,こんな内容が紹介されていた。

 >会議のときは,ひそひそ話をしてはならない。

 これ,中学校の道徳の時間に習うような話でしょう。

 いいえ,家庭での教育で身についているはずの力でしょうね。

 ある研修会で,グローバル人材育成の必要性についてお話をうかがいましたが,

 話をしている人が,どうも「グローバル化」の意味をわかっていないように

 (分かっている範囲は,文部科学省が必要だと考えている,という程度のように)

 思えてならないことがありました。

 日本には,グローバル人材の育成が大切だということを実感を込めて話せる人がどのくらいいるのでしょうか。

 そして,その話を聞いて,本気で育成に努めようという気になる人が,どのくらいいるのでしょうか。

 さらに,本当にそういう人材を目指して学習に励む子どもは,何%くらい現れてくるのでしょうか。

 どこから手をつけていけばいいのでしょうかね。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より