ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« ロイロノートの将来性~ICT活用能力の育成 | トップページ | 「教育」のやりにくさを感じる相手は,有望な人間かもしれない »

私が受けていたのは「授業」とは呼べないものだった

 あるICT機器とアプリを活用して学習した中学生が,授業後に記した感想の一例である。

 この生徒は,いったいどのような授業を受けてきたのだろう。

 なぜ,それまで受けてきた授業が授業とは呼べないものだと感じたのだろうか。

 それは,自分の頭で考えていなかったから,というのが理由らしい。

 ICT機器とアプリを活用することで,

 自分の頭で考えて表現できた,と実感させることはそう難しくない。

 ただ,本当に「表現できた」ことが,「頭で考えた結果」なのだろうか。

 はっきりしていることは,それまでの授業の質の低さである。

 生徒を受け身の態勢にしておいた方が,教師の側には都合がよい面もある。

 いちいち自分の独自の意見を発言されて,本筋とは異なる方向ばかりに振り回されると

 最適な学習のペースを維持することが難しくなる。

 教師には,一応のゴールがあり,できるだけ多くの生徒をそこに導いてあげる必要がある。

 ある生徒がちょっとしたことに引っかかって,そこを解決してあげるのにつきっきりになってしまっては,

 他の生徒は置いてきぼりになる。

 しかし,50分の授業の中には,そういう時間が10分でも15分でもあれば,

 一部の子どもたちは突如として主体的な態度で授業に臨んでくるかもしれない。

 50分すべてでICTに頼るような授業は,これも授業ではなくなってしまう。

 生徒が家でやればよいわけだから。

 タイトルで生徒が使った「授業」については,少し他の言葉で補ってあげる必要もあろう。

 もちろん,教師たちにとっては,この言葉を何となく脳裏に起きながら,

 生徒が「よい授業」と呼んでくれる実践を積み重ねていくことが大事である。

 指導力のある教師によるICT機器抜きの授業と,同じ内容の学習で,指導力に課題がある教師による

 ICT機器を活用した授業を比較する機会は設けられないだろうか。

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« ロイロノートの将来性~ICT活用能力の育成 | トップページ | 「教育」のやりにくさを感じる相手は,有望な人間かもしれない »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

ICT教育」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私が受けていたのは「授業」とは呼べないものだった:

« ロイロノートの将来性~ICT活用能力の育成 | トップページ | 「教育」のやりにくさを感じる相手は,有望な人間かもしれない »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より