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2014年7月

緊張感ゼロのお役所体質の歯止めは「懲戒免職」だけでは無理か

 沖縄が厳しい地域であることは,様々なデータが物語っている。

 そのデータに危機感を感じない引退間際の人間が,県民全体を揺さぶっている。

 日本は,売る方も買う方も,お互いに満足しているんだからいいだろう,なんていう国ではない。

 売る方が本当にそれで満足しているのなら,また話は別にしなければならないだろうが,

 買う方は,自分が卒業証書を渡した人間を顔を覚えているだろうか。

 卒業証書を渡す前の年齢の子どもかどうかも判断できないような人間が,

 教育行政のトップにいる自治体の県民は本当に気の毒なものである。

 別の自治体では,「長すぎる昼休み」の話も話題になっていた。

 足もとは大丈夫なのか。

 日本全国,休息時間に喫煙所に向かう人間が,戻ってくるまでの時間をしっかりカウントしている上司がどのくらいいるだろうか。

 今日は仕事の関係で3時すぎの渋谷の街を移動していたが,

 「タバコ休憩」の人の集団にいくつも出会った。

 それにしても,懲戒を言い渡す側が懲戒を食らうというのは,

 教育の世界に限らず最も恥ずべき行為だろう。

 裁判官や警察官の万引きにも引けを取らない。・・・それ以上の問題が発生していた。

 沖縄は本当に大丈夫なのか。

 霞ヶ関や東京都庁の場合は,そういう幹部たちが家に帰っているかどうかが心配だったが,

 ホテルには泊まらず,タクシーで帰宅するのが一般的だったように思う。

 昔,荒れた学校では

 問題行動を起こす暇をあたえないように,部活動漬けにするという「生活指導法」が存在した。

 今,お役所の人間に犯罪を犯させないようにするために,

 仕事漬けにするという選択肢を考えないといけないのかもしれない。

 やるべき仕事はいくらでもあるはずだろうに。

 公務員が国をつぶすという「崩壊シナリオ」が現実のものになろうとしている。


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島の元教育長の詩集より

 以前にお世話になっていた元教育長さんから詩集をいただいた。

 そこに収録されている『木』というタイトルから一部を抜粋させていただく。

*******************

 木は立っている

 木には自分の匂いがわからない

 木には自分の姿がみえない

 (中略)

 木は話さない

 木は笑わない

 銃で撃たれても「痛い」と言わない

 (中略)

 木は倒されて柱になる

 家具になる

 燃えて火となる

 (後略)

*******************

 ここで詠まれている「木」が,私には行政マンと重なって見えました。

 私が指導主事をつとめていたときは,そこまで自分を殺したつもりはありません(そういういい環境の職場でした)が,

 教育委員会によっては,「滅私奉公」が絶対的に求められていた(いる)かもしれません。

 国の役人もそうです。

 自分の言葉で話せない。

 それがつらい人と,

 それで楽ができてしまうような人は,行政には向いていないのかもしれません。

 先日,ひどい仕事しかできない行政マンのことを書きました。

 そもそも自分の考えを持たない人に,

 自分の考えを殺せ,という必要もありません。

 「木」のようにたくましい行政マンは今後増えていく可能性はあるのでしょうか。

 今日は,娘が百日紅の花を見つけ,喜んでいました。

 つるつるとした木の幹をなでながら・・・・。

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「天空の城」にたどりつくには

 神戸新聞のニュースで,「天空の城」として人気の竹田城を訪れるつもりの観光客が,

 誤って別の駅に向かってしまうという「事件」が相次いでいることが紹介されている。
 
 このような誤りを防ぐことができる人には,どのような能力が備わっているのか。

 このような誤りをしてしまいがちの人には,どのような能力が備わっていないのか。

 小中学校で培われたはずの「地図を見るくせ」「地図を読むくせ」は,忘れ去れてしまったのか。

 それとも,「そんなくせなど身に付けさせてはもらえなかった」のか。

 残念ながら,中学校の教科書として採用されている「地図帳」には,「竹田城跡」は示されていない。

 100万分の1の縮尺では,示しきれない情報なのだろうが,有名な観光地はぜひ掲載してほしいと思う。

 「地図帳」は,書店で購入する年配の方がいるらしい。

 今の地図帳は,昔より大きなサイズになっている。

 字は相変わらず小さいが,史跡などは目立つ表記がなされている。

 小縮尺の地図で,移動のルートや周辺の地域の特色などを確かめながら行動することで,

 「点と線」の旅行から「面」を楽しむ旅行に変化するかもしれない。

 カーナビでルートを示してくれたり,

 声で「竹田城までのルート」と指示すればスマホが答えてくれるような時代になったが,

 適切な縮尺の地図を探して,ピンポイントの観光地だけでなく,

 「ここも行ってみたい」という場所がみつかるような探し方ができるように子どもを育てていきたい。

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私は「~しているつもりはない」と断ることで,免責になると思ったら大間違い

 コミュニケーション能力がない人間というのは,

 自分が言った言葉で,相手がどういう受け止め方をするかには興味がない。

 「バカにしているつもりはない」言葉でも,相手が「バカにされた」気になれば,アウトである。

 それを「バカにされた気になった相手が悪い」とキレる人間が,

 荒れた学校の中学生には多かった。

 いじめも同じである。

 私は,相手をバカにするつもりであだ名をつけたのではない。

 親しみを込めたあだ名だった。それでみんなと仲良くなれたはずだ・・・。

 そういう「考え」をするのは自由なのだが,

 相手が「ひどいあだ名をつけられた」と思ったら,それでアウトである。

 謝ってすむ問題でもなくなってくる。

 それを謝らないどころか,

 「こっちにそのつもりがなかったんだから,私は悪くない」

 などとキレ始める中学生は,どう諭してあげたらよいのだろうか。

 たとえ話をするのが簡単である。

 私があなたをこれから~と呼ぶことにする。

 それは,あなたへの愛着のしるしである。

 それでいいか。

 いや,そんな呼ばれ方は嫌だ。

 私は愛着を感じて呼んでいるんだから,君にどうこう言われる筋合いはない。

 ・・・・・・こういうやりとりで「理解不能」なら,致命的である。

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【検索キーワードより】 上から目線 指摘

 上から目線の相手にどう指摘してあげるのが一番よいのか。

 「おまえは上から目線だ」などと言ってしまえば,

 「おまえこそ上から目線で何だ」と返されてしまい,ただのけんかになってしまう。

 一番よい方法は,褒め殺しである。

 「上から目線」と感じる相手には,決して敵対するような態度はとらない方がよい。

 自分はあくまでも下手に出るのが一番である。

 褒めて,褒めて,褒めまくる。

 認めて,認めて,認め尽くす。

 ただ,責任はあなたがとってくださいね,というスタンスは忘れない。

 相手に対して「上から目線の嫌なやつ」という雰囲気を察知されると,面倒くさいことになる。

 だから,「私はあなたから本当に学ばせていただいています」というスタンスを崩さない。

 謙虚さを相手から引き出すための方法の一つであり,

 こういうのを「コミュニケーション能力」という。

 嫌な気になる相手に,「嫌だ」と言ってしまうのは,

 「コミュニケーション能力」を欠いた人間のすることである。

 思っていることをどんどん言うのが,グローバルスタンダードだと勘違いしている

 横文字かぶれがときどきいるが,

 今まで散々もめ事に巻き込まれてきたのは,自分自身のせいだということに気がついてほしい。

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【検索キーワードより】 受かる気がしない 教員採用試験

 このブログにたどりついた方の検索キーワードの中に,

 タイトルの言葉がありました。

 「受かる気がしない」理由は具体的に挙げることができるのでしょうか。

 「何となく」そう思うのでしょうか。

 私の場合は,もともと高校の教員になりたかった(というより,高校野球の監督になりたかった)

 のですが,採用が東京都全体で「1名」だったので,

 「受かる気がしない」状態で,結局,中学校を受験して採用されることになりました。

 大学院に行く金銭的な余裕もなく,とにかく就職することが優先でした。

 これから,倍率はどんどん下がっていくことでしょう。

 ですから,そのうち「だれでも受かる」状態になっていきます。

 残酷なことですが,そういう状態で「受からない」となると,

 「よっぽど・・・・」ということになります。

 今日もある場所で仕事をしていてそういう話題になったのですが,

 「どうしてこの学生が受かるの?」という場合と,

 「どうしてこの学生が受からないの?」という場合が多いと言います。

 私は教員養成系大学ではなかったので,

 教員になったことを知っているのは一部の先生だけで,

 「へー,そうなの」で終わりだったため,前者だったかどうかは不明ですが。

 もし,「受かる気がしない」理由として,

 面接の時の試験官の目が冷たい,というのが理由でしたら,

 まだ受かる確率は高いかもしれません。

 相手の気持ちが目で分かるという教員として大切な資質・能力を身に付けているということですから。

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「教育」のやりにくさを感じる相手は,有望な人間かもしれない

 教員の多くは,教育改革が実行されても,学習指導要領が改訂されても,

 あまり変わらない日常を送っている・・・・・

 多くの若手教員の感想である。

 「自ら学ぶ意欲」が最も求められているのは,子どもと年齢が離れたベテラン教員だ,

 という声も聞かれる。

 変化に対応できる能力は,かつての教育では身につかなかったのかもしれない。

 しかし,今の若い教員たちは,自らが学んだ教育の成果を出していくときである。

 とはいえ,今の若い人たちには,「教わろう」という気がないように思えたり,

 「覚えが悪い」という気がしてならない,という声もよく聞く。

 「とにかく,知識が乏しい」というのは,

 大学の教員養成(に限ったことではないかもしれないが,私が聞いた範囲)の教員の話である。

 若い人たちは,

 「自ら学び,自ら考える」習慣をつけているはずである。

 そのための教育改革であった。

 しかし・・・・もうすでにおわかりかもしれないが,そういう教育をしなければならなかったのに,

 できていなかった・・・・というより,そういう教育をしなかった・・・・・

 結果が,今の若い人たちではないか,という考え方も成り立つ。

 素直に先輩の言葉から学び取ろうとする態度がついていないのは,

 自主・自立の精神が強くなりすぎたためか,

 それとも,「聞く力」すらついていないためなのか。

 若い世代に期待ができないと,

 「滅亡」という言葉が現実味を帯びてくる。

 ジャック・アタリの『危機とサバイバル』では,

 生き残るための「積極的戦略」が提唱されている。

 1 自己の尊重

 2 緊張感

 3 共感力

 4 強靱さ

 5 独創性

 6 ユビキタス

 7 革命的な思考力

 今,若い世代の「教育」で悩んでいる関係者たちにとって,

 1から7までの項目のうち,自らに欠けているものは何かを自ら感じ取ってみたい。

 なお,7は1のためにある,という円環構造を上の7つはもっていることも頭に入れておきたい。

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私が受けていたのは「授業」とは呼べないものだった

 あるICT機器とアプリを活用して学習した中学生が,授業後に記した感想の一例である。

 この生徒は,いったいどのような授業を受けてきたのだろう。

 なぜ,それまで受けてきた授業が授業とは呼べないものだと感じたのだろうか。

 それは,自分の頭で考えていなかったから,というのが理由らしい。

 ICT機器とアプリを活用することで,

 自分の頭で考えて表現できた,と実感させることはそう難しくない。

 ただ,本当に「表現できた」ことが,「頭で考えた結果」なのだろうか。

 はっきりしていることは,それまでの授業の質の低さである。

 生徒を受け身の態勢にしておいた方が,教師の側には都合がよい面もある。

 いちいち自分の独自の意見を発言されて,本筋とは異なる方向ばかりに振り回されると

 最適な学習のペースを維持することが難しくなる。

 教師には,一応のゴールがあり,できるだけ多くの生徒をそこに導いてあげる必要がある。

 ある生徒がちょっとしたことに引っかかって,そこを解決してあげるのにつきっきりになってしまっては,

 他の生徒は置いてきぼりになる。

 しかし,50分の授業の中には,そういう時間が10分でも15分でもあれば,

 一部の子どもたちは突如として主体的な態度で授業に臨んでくるかもしれない。

 50分すべてでICTに頼るような授業は,これも授業ではなくなってしまう。

 生徒が家でやればよいわけだから。

 タイトルで生徒が使った「授業」については,少し他の言葉で補ってあげる必要もあろう。

 もちろん,教師たちにとっては,この言葉を何となく脳裏に起きながら,

 生徒が「よい授業」と呼んでくれる実践を積み重ねていくことが大事である。

 指導力のある教師によるICT機器抜きの授業と,同じ内容の学習で,指導力に課題がある教師による

 ICT機器を活用した授業を比較する機会は設けられないだろうか。

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ロイロノートの将来性~ICT活用能力の育成

 教育環境の将来性に関心をお持ちの方に。

 30年前に書かれたものとして読んでみても何の違和感もない文章が教育の世界にはごろごろしている。

 それだけ「不易」の大切さを知るきっかけにもなるわけだが,ICT教育というと

 話は別である。

 「~するのが専門家だ」などと偉そうなことばかり羅列され,

 中身のない教育論に飽きた方に,口直しのような情報をご紹介したい。

 ICT活用能力の育成が求められているが,問題になるのは多額の費用の負担をどうするかということ。

 使える機器,ソフトなどが増えてきている実感はあるが,

 たとえばiPadを活用しようとすると,機器に4万円,通信費は年に6万円かかる。

 私立学校ですら,これを保護者に負担させることには相当の勇気がいるだろう。

 孫さんが「教育利用の場合の通信費は年1万円」などという大決断をしてくれれば,

 iPadはあっという間に1人1台の時代が来るような気もするが,

 iPadの価格が下がらないのも痛いところである。

 先日は,ロイロノートという授業支援アプリを体験してみたが,

 とても優れたツールであることがわかった。

 「ロイロノート」で検索していただければ,

 実際に使用している児童や生徒が動画で紹介されているから,すぐに確認できる。

 無料体験も可能である。

 iPadかWindows8.1で使用できる。

 機器の価格さえ下がれば,学校現場で一気に普及しそうなアプリである。

 マウスを使わずに,パワーポイントで作るようなプレゼンがすぐに完成する。

 打ち込んだ文字,カメラで撮った画像,インターネット上の画像,手書きのメモ,

 色をつけた絵なども,あっという間に1枚のカードとなり,カードの角からなぞると

 他のカードにつながる線がでて,発表の流れをすぐに作り出せる。

 最初のカードの端をタップすると,そのうしろにすべてのカードが収納され,

 もう一度タップすると,きれいに並べて表示される。

 子どもが作った作品は教員にすぐに提出することができ,教員の機器では

 その一覧が見えるほか,教員や子どもが作った作品を配布することもできる。

 他人が作ったカードの一部を「ちょうだい」して,自分の作品に取り込んで再構成

 することも容易である。

 パワーポイントの左端に縦に並ぶ各ページのプレビューが,机の上に広げられている

 イメージである。つながりの線はタップすると消え,新たに別の関係(順番)を作り出すのも

 容易である。

 タブレットを使わせたくないときは,生徒の機器をロックすることもできる。

 会社の想定にはないような使い方もいくつか考えられる。

 売り物になるかもしれないのでここでは紹介できないが,各学校にiPadを普及させる起爆剤に

 なるかもしれない。

 今後,新たな実践事例が増えていくことだろう。
 
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平成28年度の学習指導要領全面改定に向けて

 読売新聞のニュースによれば,今回の改定は,グローバル化,幼児教育,小中一貫教育などに対応するもので,平成32年度,つまり2020年に小学校で全面実施する方針らしい(幼稚園は2018年度,中学校は2021年度,高校は2022年度全面実施)。

 この秋に中央教育審議会に諮問され,そこで出される答申に基づいて学習指導要領は改訂されるが,その下敷きとなる内容はすでに決まっているものと考えられる。

 中教審の主なテーマは・・・。

 1 小学校の英語・・・外国語活動は小3に前倒し,小5・小6で正式教科に

 2 高校の日本史必修化

 3 高校で新教科「公共」を導入

 4 伝統的な日本文化に関する教育の充実

 既定路線である。

 さらに,小中一貫に対応するため,学年別に定めている教科内容の弾力化を検討する・・・ということは,中1で学んでいる内容を小6で扱うことも可能となる。

 乱暴なことを言えば,小6の歴史は廃止して,中1から学んでいる通史をじっくり4年間かけて学習することも可能になるかもしれない。個人的には,高校の日本史が必修になったことで,歴史学習の充実度は相当に高められると期待される。もちろん「覚える量を増やす」ことではない。

 「考える絶対量を増やす」ことで,「考えの質も高める」ことに結びつけられる。

 対人関係能力,課題解決力,ICT活用能力などの育成も図られるから,

 画像や映像も用いた「歴史討論会」のような時間も設けられるだろう。


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なぜ部活動の指導を外部の方に任せられないのか

 ある高校の運動部が外部指導員を導入したところ,結局はわずかな期間で問題が噴出し,取りやめになった,ということがあった。

 外部指導員としては,チームを強くするために精一杯のことをしたのだが,
 
 それが学校のチームである以上,すべてが自分の思い通りにいくとは限らない,

 ということが理解できていなかったようである。

 吹奏楽部のような部活なら,学校にこもってひたすら練習してうまくするという方法がとれるが,

 運動部となるとそうはいかない。(もちろん,コンサートにどんどん連れ出す,という学校はあるかもしれない)

 (できれば強豪チームとの)練習試合をバンバン組んで,経験を積むことで上達する面が多い。

 しかし,移動には時間もお金もかかる。

 公立中学校の部活動なのに,年間にして塾の何倍もの費用が必要となるところもある。

 だからお金が出せない家庭の子どもは部活動に入ることすらできない。

 経済的にゆとりがない場合,学校選択が自由にできる地域では,

 お金がかからない中学校を選んで進学することになる。

 冒頭の件で解任された外部指導員は,遠くの学校(自分の知り合いがいる)との練習試合を数多く組んでいた。

 保護者としては,朝が早い,一日の練習時間が長い,夜が遅い,電車賃がやたらとかかる,

 などを不満として(実は選手も不満だった),学校に訴えてきた。

 「部活動の指導を外部に委託する」

 という政策の実現には,様々な「壁」を取り払う必要がある。

 政策の実行にどのくらいの費用がかかるか,試算してみてほしい。

 教員の副業をこの部活動指導については認めることにして,

 そこで人件費を払って済ますなら,外部の何分の1かでできるだろうが・・・。

 とはいえ,莫大な費用である。

 「やっとけ」だけで実質的な指導しない例もあるから,この政策は実現できないだろう。

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私たち家族の「優先席」

 おばあちゃん,お母さん,小学校低学年くらいの女の子,幼稚園年少さんくらいの女の子の4人が,地下鉄で「優先席」に陣取り,一心不乱に?知育グッズを使った「お勉強」をしていました。

 教育関係の仕事をしている自分としては,突っ込みどころ満載の光景。

 本来「優先されるべき人」には一切目もくれず,ひたすら課題に取り組む三世代。

 子どもが「やりたい課題」ではなく,親が「やらせたい課題」に取り組ませる姿勢。

 子どもが「やりたいように」ではなく,親が「やらせたい」ことをペンをもつ手をつかんで「やらせる」姿勢。

 何も,こういう三世代が再生産されていることを嘆くためにこの記事を書いたわけではありません。

 全く同じようなことを,学校教育のプログラムは行っていく仕組みになっていないか。

 その「優先席」に座らせられることが,幸せなのか不幸なのか。

 そもそも今は,「急行」や「特急」ばやりで,

 「少しでも早く先に着いておきたい」という欲望ばかりが満たされる社会になっていないか。

 ジブリ映画『風立ちぬ』では,大地震が発生したとき,主人公は列車に乗っていました。
 
 ~等車と等級が分かれている車両ではなく,連結部分の外に座っていたことにも,メッセージが込められていたのでしょうか。

 結核で亡くなる裕福な家庭の人。

 仕事も食べ物も十分ではないが,生き生きと過ごしている人々。

 移動中も娘の「お勉強」の面倒を見るのが「母親としての重要な役割」と考えている人。

 「家庭の教育も大事」というかけ声はわかるものの,

 「優先席」につくために努力させられている子どもを見るのはつらいものがあります。

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無免許でも教師はできる

 それは教科が保健体育だから,とは限らないだろう。

 無免許でも教師を続けることができていた学校があった。

 「無免許教師」による16年間の勤務実績をどう考えたらよいのか。

 「無免許でも,講師なら立派に授業を受け持つことができる人がいた」ことを証明していたのか。

 免許更新制度がなければ,無免許教師を見つけ出すことができないのか。

 免許がある教師より,免許のない「一般人」の方が,指導が熱心で,上手で,頼もしい,

 なんていうことが「あり得る」ことを,どう考えたらよいのか。

 自動車免許に比べ,教員免許など,取るに足らないようなものなのか。

 免許をもっているのに,「教え方」が下手な人をどうしたら「普通の教師並み」にすることができるのか。

 教育委員会や現場の方々が頭を痛めていていることを望みたい。

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「チームワーク」をスローガンにするような組織の問題点

 「気持ちのよい挨拶をしよう」という標語をつくったり,目標を掲げている学校は,

 それができていない(生徒が大勢いる)ことを宣伝しているようなものである。

 同じように,「チームワークをよくしよう」という目標を掲げるような職場は,

 協調性に欠ける人間に対して,一定数の集団によって圧力をかけているようなものである。

 「チームワークをよくしよう」という合い言葉をつくった人間やグループが,

 「私(たち)の意見に逆らうな」なんていう意識をもっていないかどうか,

 だれがチェックすることができるだろう。

 結果として,「チームワークがよくなる」ような仕事を心がけるべきなのが学校という職場であって,

 「チームワークをよくすること」自体は目標ではない。

 同じ年齢の,教育を受けるべき立場にあるような子ども集団と同じレベルで,

 異なる年齢の,異なる給料の,異なる様々な経験をした,異なる職階の大人が集まっている職場のあり方を考えるのはいかがなものか。

 「チームワークが悪いように見えてもかまわないから,お互いに納得がいくまで自分の考えをぶつけ合おう」という態度とその通りの実践ができれば,教育の質は高くなり,

 そういう教師集団に教育された子どもの諸能力は向上していくことだろう。

 「そのためにやっているということにしている目標」と,

 「そのために本来あるべきである目標」との区別がつくのが大人である。

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「制スマホ」で学校崩壊?

 便利な道具は,どんどん使うべきだ,という「文明絶対主義者」の原理主義は,

 学校のようなすでに制度疲労の限界に近づいているものにとどめを刺す破壊力をもっている。

 スマホは中高生にとってゲーム機であり,通信機であり,落書き帳である。

 スマホを駆使して学力向上し,有名大学に合格した,なんて高校生を生み出そうとやっきになっている業者がいるかもしれないが,実現するとは思えない。

 授業をうけるより,スマホのアプリで「受験サプリ」を受けていた方が効果が高い,

 という「実験結果」は得られるかもしれないが。

 「受験学力」をつけさせるのに,もう「学校のカリキュラム」は「足手まとい」でしかない,

 という時代も来るかもしれない。

 スマホの利用状況について,教師がアンテナをはって,ネットいじめが起きていないか,監視するような役割を担ってからまだ日は浅い。

 そのうち,「スパイ役」の生徒が任命され,網にかかってくる「いじめ・加害者」を捜索するような

 「捜査」が始まるかもしれない。

 教師に対して,こういう仕事だけは課さないようにしていただきたい。

 子どものスマホの利用について,責任をもつべき主体がだれかは明らかである。

 利用状況のすべてが親に筒抜けになるような仕組みがほしいところである。

 どのような機能を何時間ずつ利用していたかというデータだけでもかまなわない。

 こういう仕事を請け負おうとした学校は,考えが甘すぎた。

 これで学校が崩壊したら,本当に気の毒であるが,

 一度与えた「おいしいもの」をとりあげると,子どもはどうなるか,

 子育て経験者ならわかるはずだろう。

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「おかしい人」を決められるのはだれか?

 学習障害やコミュニケーション不全などの問題を抱えている人たちは,

 「グレーゾーン」「~予備軍」などと呼ばれて断定は避けられながらも,

 もうそう呼ばれてしまっている時点で「対象者」となっている。

 ある人から見ればそのものずばりであり,別の人から見たら

 「まだまだその程度なら大丈夫」などと,経験の範囲の広さや程度が評価には影響するものである。

 ようやく「判定項目」が記事から消えた情報提供者は,

 過去の記事やコメントのやりとりへのアクセスを禁じていないために,

 非常に多くの自らの情報を提供しているすばらしい「被評価者」である。

 教育行政の人事担当者はあまりにも多くの教師の犯罪行為に伴う処分を実行しているため,

 教師全体に対する感覚がゆがんでしまいがちである。

 教師自身も,厳しい家庭環境のもとで,学習能力や生活能力の点で厳しい状況にある子どもに多く接しているため,ごくわずかな「兆候」にも強く反応し,過剰な評価を下しがちである。

 ご紹介した情報提供者くらいの多くの「宣伝項目」を収集した上で,

 明確な行動指針に基づいて対応すべきである。

 自分自身が「おかしい人」に当てはまっていないかをチェックする機能を大切にしたい。

 「決めつけるな!」と相手を攻撃している人間自身が一番鋭い「決めつけ」をしている本人であることが多い。

 こうしたブログの世界をながめているとよくわかる。

 自説を守るためには,相手の「態度」にどうこうと注文をつけるのではなく,

 自説が正しい根拠を述べなければならない。

 教師から「態度が悪い」と決めつけられて叱られている子どもほど気の毒なものはない。
 
 隣町の高校に爆破予告のメールを送ったのは,

 「情報」という教科を担当している教師だったというから,

 子どもでも「何を教えていたんだ?」と憤りを感じてしまうだろう。

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ミスをしながら能力を向上させる人たち

 教育実習の3週間は,どのくらいの「ミス」ができたか,

 その「ミス」をどのくらい自分や仲間,指導教諭たちと議論できたかで,

 将来,よき教師になるかどうかが決まってしまうと言ったら・・・もちろん言い過ぎですが,

 そんな心構えを実習生と指導の教師が共有できていたら,すばらしい実習になるでしょうね。

 『日本の身体』(新潮社)の内田樹と平尾剛との対談で,平尾剛が次のような話を紹介してくれています。

*****************

 だからミスはたくさんした方がいい。でも今のスポーツ教育ではミスをやかましく咎めます。パスのタイミングが合うまで10段階の調整が必要だとしたら,二段階目くらいで「こんなに怒られるならパスはやめとこ」って,パスしなくなる。

 そういう指導ではダメじゃないかと考えていた時,ニュージーランドのナショナル・チームのアシスタント・コーチだったロビー・ディーンズが,世界的に名の知れたプレーヤーであるリッチー・マコウについて,彼がチームで一番ミスをする,ミスをするけれども,それ以上にいいプレーをする,・・・・・

*****************

 なぜそれが「ミス」なのか,あるいは「誤り」なのかがわからないで,実習生と教員がけんかをする事態になる場合もあるそうですが,双方に「コミュニケーション能力」が欠如している状況なのですね。

 こういう事態が起こっているとき,双方ともに教師にはそもそも向いていない,ということがわかるという話でもあります。

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新採の教師に脅かされる教育の世界

 タイトルから,どのような「世界」がイメージされたことでしょう。

 私が望んでいるのは,若い力を前に,古くさくて実用性も効用も持たない年配の教師たちがその存在価値を脅かされているような学校現場や教育界です。

 若い人には,子どもにやる気を持たせる力,その気にさせる力があふれている。

 そんな教師たちが学校現場ではどんどん増えてほしい。

 残念ながら,中学校から聞こえてくる声は,それと全く逆のことが多いのです。

 「競争」というと,無条件で「悪」というレッテルを貼りたがる人が,

 10年たっても20年たっても,子どもがやる気を起こすような授業ができない。

 「競争」がなぜ社会には必要なのか。

 こんな「上の上」の話を耳にして,危機感を抱けるようにしてほしいと思います。

 雑誌プレジデント最新号での王貞治の言葉です。

**********************

 野球はある程度の枠の中で戦っています。12球団で決まったルールと寸法で試合をする。お互いに情報を持ち合い,相手の長所も短所も知り抜いている。自分たちのレベルを上げれば,勝率も上がるという世界です。

 一方,ビジネスの世界には枠がない。次から次へと新手が出てくる。正面から挑んでも勝てるとは限りません。僕らの狭い世界とは違います。最後の最後まで勝敗はわからないという意識が強いのかもしれません。

**********************

 若い教師に頑張ってほしいのは,

 「いつまでも抜かれることはない」という安心感にあぐらをかいているベテラン教師の腕が

 もっと上がるようなきっかけをつくってほしいからです。

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指示を鵜呑みにせず,本質を見極めて理解する

 中学生のリーダーを養成する上で,とても重要にしている言葉がこれです。

 中学生のレベルでは,まず「指示をしっかり聞いて,その通りに実行する」ことがベストだと考える子どもが多い。

 しかし,「その通り」に実行しようとすると,必ず失敗する。

 その失敗の経験ができることが,中学生のリーダーの特権です。

 大人でこれをやってしまうと,全財産を失ってしまうか,会社を傾けてしまう可能性もある。

 中学生のうちにできた失敗こそが,その後の財産になるのです。

 もちろん,すべての子どもが「財産」を活用できるようになるとは限りません。

 「その指示はなぜ出されたのか」

 「その指示は,どうすれば出されずにすんだのか」

 まずはその点を十二分に考え,中学生同士で議論を尽くす。

 「どこに問題があるのか。どうすれば解決できるのか。」

 「解決を図っていく上で,何がネックになるのか。」

 多くの場合,中学生は「先生の指示待ち」になっていることこそが「問題」なのです。

 だから,「指示された内容を実行すること」よりも,

 「指示をされないこと」の方が重要だったりする。

 どこに問題の本質があるかを教えてしまう人がときどきいますが,

 生徒がそれを悟るように導いてあげるのが「指導」です。

 「指示」は,「指導」の手段であり,それ自体が目的ではないことを,

 教師の側が理解しておかなければ,中学生は自分の力で成長することができません。

 生活指導の奥深さは,その最前線に常に立っていることで,学ぶことができるはずです。


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パプアニューギニアへのODA

 パプアニューギニアの高校生や先生方が,東日本大震災のときに被災地へ義援金を送ってくれたことをご存じの方はどのくらいいるだろうか。

 パプアニューギニアの人たちにとって,寄付などで集まった350万円というのは,どのくらいのお金なのだろうか。

 日本の1人あたりの国民総所得は4万ドルくらい。パプアニューギニアは1000ドルと少し。

 経済の規模では40倍の開きがある。350万円の40倍・・・・

 日本で高校生と先生が1億4000万円を集めることは可能だろうか。

 本当にありがたいことである。

 パプアニューギニアでも,津波で犠牲になった方がたくさんいる。

 地震による被害も起こりやすい。

 お互いにいつでも助け合えるような関係でありたい。

 今回のODA供与の記事では,6月から日本がパプアニューギニアから液化天然ガスの輸入を開始していることにもふれている。

 両国のつながりは,これからも太くなっていくことが予想される。

 私はパプアニューギニアの教育関係者と会ったことがあるが,

 遠隔地の教育に対する関心が高いようである。

 ネットやICT機器を活用した授業や学習が普及することを望んでいる。

 もしかしたら,日本での普及よりも早い時期に実現できるかもしれない。

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0.2%の差が大騒動に

 県で実施した学力調査の平均正当率で,岡山市が倉敷市に抜かれたことがニュースになっている。

 どちらも県の平均を下回っているようで,倉敷市が浮かれているわけではないことも記事では示されている。

 たった0.2%の差でも,順位をつけるとこうした大きな騒動になる。

 6000人と4500人の平均正当率の差であるが,

 これで岡山市は「課題を洗い出す」などと本気になっている。

 「こんな差には意味はない」

 と吐き捨てるのは簡単な話だが,

 「~市に抜かれた!」などという「衝撃」でも与えないと,授業改善に本気で取り組もうとしないのが,

 行政や学校現場の課題であるのも確かである。

 そもそも,60%を割り込んでいるような学力の状況自体が課題といえるような

 問題なのか,そうではないのか。

 地域間の学力格差とは,何%くらいの開きがあれば,「格差がある」と言えるのか。

 そういうことを分析できる専門家が存在しないのが日本の教育界というところなのだろう。

 0.2%でもどこどこの市には負けたくない,

 こういう発想自体が情けないと笑い飛ばせることができない人が,実は多いのではないか。

 受験という競争をくぐり抜けてきた人たちにとって,1点の重みは半端ではない。

 とはいえ・・・。 

 「倉敷市に抜かれるのは恥だ」とがんばる岡山市の先生の姿は,なかなか想像しにくいものである。

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業務縮小のための調査で何が明らかになるか

 東京都教育委員会は,教員の業務縮小に向けての取り組みを開始するそうである。

 調査モノが大嫌いな教員たちにとって,

 「業務縮小をめざすための調査」に協力するというのは何とも言えない話だろうが,

 私の興味はどこにあるかというと,

 「だれがどの程度,どういう仕事を大変だと思っているのか」という調査結果の方である。

 教員たちはバカではないから,

 「子どものための仕事」を「面倒くさい」と書くようなことはしない。

 優先順位を考えて,「こんな仕事はなくしてほしい」という訴えをするはずである。

 しかし,行政を経験している私から見ると,

 中学校時代に時間をかけていた仕事は,別にやらなくても文句は言われないことばかりだった。

 だから,「何がたいへんなのか」「どんな仕事を減らしたいか」と聞かれても,

 何も答えようがない。

 すべてが「必要だ」と感じる仕事であった。

 「必要だ」と自分が感じるから,1日16時間程度なら普通に働くことができたのだろう。

 謝恩会という場で,保護者と飲食をしなければならないのは避けたい,そのくらいである。

 公務員なのだから,やらなければならない仕事はやらなければならないのだ。

 この手の調査は,ある意味,非常に危険であることを教員たちは気付いているだろうか。

 答え方によっては,自分の仕事の能力をそのまま測定されてしまう道具となる。

 慎重に調査方法を検討すべきであるし,

 実際に調査が始まった場合,教員は慎重に答えるべきだろう。


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保護者を納得させる授業

 学校で授業をつぶして業者テストを実施していた時代を経験している親が増えてきている。

 今は実施されていないが,かつてはそれが当たり前だった。

 学校の定期考査の成績よりも,業者テストという「標準テスト」の信頼性の方が高いというのが私立学校側の言い分である。

 業者テストがあるから,教師も生徒も,そのテストに出そうな問題が解けるように準備する。

 中学校では,まさにそのためだけというような授業がまかり通っていた時代があった。

 教員も,自分が受け持っていたクラスの偏差値の高さを競い合う。

 それで一定の学力が保障されていたのかというと,実はそうではないことがわかっている。

 今でも学校では実施しないが,業者テストの偏差値による高校選びという習慣は残っており,

 結果として,学校にもそういうテストで高得点がとれるような授業を行うことを求める親が多いらしい。

 親の要望とは,

 できるだけノートをたくさんとらせてください。

 できるだけ小テストをたくさん実施してください。

 できるだけたくさんの知識を身に付けさせて下さい・・・・。

 本音は,

 業者テストで高得点がとれるようにして下さい。

 こういう要望のもとで,

 自分の考えをまとめて文章にしたり,発表したり,話し合いをしたりするような授業は

 教師たちも敬遠するようになる。

 子どもたちが,こんなのより,「教え込み」の方が良い,なんて考えをもつようになる。

 こういう悪循環が今でも残っているのが中学校現場の課題である。

 こういう授業を社会科でしてしまっていては,

 観点別学習状況の評価などは一切行うことができない。

 思考力も表現力も磨くことはできない。

 入試が変われば授業が変わるというが,

 入試がなくなるわけではないだろうし,

 入試問題の質が劇的に向上することも考えにくい。

 くだらないテストばかりでも,「志望校に合格したいから」という理由で,

 見かけ上の「学習意欲」が高い生徒はいる。

 評価が本来の目標となる対象を破壊する,最もわかりやすい例である。

 本当の学力がつく授業を実際に受けたことがない保護者には,なかなか想像もつきにくい話かもしれない。

 授業で教師と自分が「議論」した記憶がある人はどのくらいいるだろうか。

 本音でクラスメイトと授業中に「議論」した経験がある人はどのくらいいるだろうか。

 一度も発言をしたことがない(発言による評価を受けたことはない)が,

 成績はよかった,という人は,本来一人もいないのが学校の評価の仕組みなのだが,

 そうでもない状態が見られるのかもしれない。


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評価は何のためにあるのか?

 本日,研修でお話する予定の内容の一つが,

 「評価は何のためにあるのか?」です。

 評価は,生徒の「良さ」を見出して,それを本人に伝えるためにあります。

 授業では,学習指導要領に示された目標が,どのようなかたちで,どの程度,達成できているのかを,

 生徒自身に気付いてもらう活動が「評価」なのです。

 当然,そこには「評価」=「良さの発見」ができる学習活動がなければなりません。
 
 資料を読み取ったり,比較して違いを見出したり,関連性を考えたり・・・・

 そして,それをノートに書いたり,発表したりすることで,教師が「評価」できる対象になるのです。

 たとえば社会科の地理的分野ですと,目標に次のようなものがあります。

>地域調査など具体的な活動を通して地理的事象に対する関心を高め,様々な資料を適切に選択,活用して地理的事象を多面的・多角的に考察し,公正に判断するとともに適切に表現する能力や態度を育てる。

 「地域調査」は現地を歩く=フィールドワークを行うことが基本なのですが,物理的に不可能な場合も想定されます。その場合は,2500分の1程度の縮尺の地図で示された地域の特色を,インターネットの地図をもとに読み取っていくという作業が考えられます。

 JR山手線の大塚駅周辺の地域調査の例を紹介しましょう。

 この地域には,コンビニの数がとても多いという特色があります。

 それはなぜでしょうか。

 大塚駅は窪地のように低くなった場所にあり,道路が放射状に伸びています。

 オフィスがたくさんあります。

 豊島区は,単身世帯の割合が23区でも最も多い地域です。

 外国人の居住者も多いです。

 23区のなかでは,駅前でも商業地の地価が低いのです。

 ファミリーマートの数が目立ちますが,本社がすぐ近く(池袋)にあります。

 JRの駅で,大塚駅と同じように窪地のような場所にあって,道路が放射状に伸びている駅を探してみましょう。

 渋谷駅がそれに該当します。

 渋谷駅の周辺にも,コンビニがたくさんあることがわかります。
 
 ただ,渋谷駅と大塚駅の違いは,渋谷駅のすぐ近くにはコンビニがほとんどないことが特徴です。

 地価が高いことも影響しているのでしょうか。ある程度の距離が離れると,多くのコンビニが見られます。

 分布に関してだけでも,多くのことを発見するチャンスがあります。
 
 区の人口とコンビニの数を比べると,ある程度の相関関係が見いだせますが,

 近似線からはみ出した区が見つかります。

 それが,昼間人口が多い区であることを発見できると,

 実はコンビニ数というは,昼間人口と非常に高い相関関係があることに気付きます。

 ということは,だれが,いつ,どんなものを買うのか,という予想を立てることも可能になるのです。

 その予想が正しいかどうかは,コンビニ店での聞き取り調査で確認できます。

 ・・・・・・

 こんな「学習活動」の中で,

 関心を高めることができたか,

 資料を活用して様々な角度から考えることができたか,

 自分の予想を適切に表現することができたか,

 などを「評価」してあげるわけです。

 いわゆる絶対評価は,このような「学習活動」があってこそ可能になるわけで,

 ただ教師の説明を子どもが聞いてノートに書いているような授業では「評価」は不可能です。

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ブログの「偽表示」問題

 「具体的な指導法を紹介します」とタイトルでうたっておきながら,抽象的なことしか書けない人がいる。

 教育実践がない人間を講師に招いてみても,何の役にも立たないことは研修を受けてきた多くの教師が実感しているところだろう。

 どんな能力が必要か,なんて話を聞いたところで,突然,そういう能力が身につくことはない。

 また,話が具体的でないと,それが本当に役に立つことかどうかもあやしく思えてしまう。

 教師の「発想力」が大事と言いたいのであれば,

 具体例の一つでも挙げてみたらどうか。

 歴史の授業を例にとってみよう。

 近世社会の基礎がつくられていった時代の歴史を学んだ後,

 ぜひ比較しておきたい歴史上の人物がいる。

 織田信長と,だれかを比較する。

 中学生の歴史学習は,多くの場合,「個別事象学習」になってしまっており,

 それぞれの事象の「歴史的な意味や意義」に気づけないまま終わってしまっている。

 だから「歴史の大きな流れ」も実感できず,

 「時代の特色を説明せよ」なんて問われると,何も書けない子どもがたくさん出てきてしまう。

 織田信長の学習を終えたら,その政策の意義を理解できているかどうかを

 確かめるための絶好の人物が一人いる。

 答えをここで書くのはやめておこう。

 正解は一つではない。

 発想力を生かす場面とは,こういうところである。

 新しい国のかたちがある程度,できあがると,信長やその人物が取り組んできたこととは逆の動きが生まれ,見せかけの「安定」がもたらされる。

 歴史がどう「繰り返されているか」を中学生なりに説明できるように指導してあげたい。


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完璧で弊害がないシステムを目指す心の延長線上にあるものは・・・・

 近代社会の特質は,「一病息災」のような発想で「病とうまくつきあう」というスタンスではなくて,

 「病を一掃する」「病を根絶する」という徹底的な姿勢をもつことにあるという話を,

 『国家のツジツマ』(VNC新書)で読みました。

 佐藤健志と中野剛志,二人の「志」の共通点は何か。

 この「弊害根絶主義」「弊害を一切認めない姿勢」に対する反発です。

 どこかのブログのように,

 世の中には,

 弊害だらけのシステムと,

 完璧なシステムの

 二種類しかないと信じてしまっている人がいる。

 若干の弊害はあり,完璧とまではいかないけど,何とかやっていけるシステム

 というあいまいなものは想定に入っていない。

 それくらいの虫を,わざわざ買ってきた薬を浴びせて殺すほどでもないと思っている人間がいても,

 一匹の虫を「殺す」ことへの情熱に燃えている人間にはなかなか声が届かない。

 弊害は生じたものの,それはうまくつきあっていきながら,今の全体の流れを維持するべきだ,

 という主張よりも,

 弊害が出たんだから,一度ゼロからもう一度始めた方がいい,

 なんていう主張の方が通りやすくなっていることに危機意識を持つのが「保守」の立場だということです。

 ゼロから始めたことは,最初はうまくいくかもしれませんが,
 
 やっているうちにかつての弊害以上の大問題が生まれるかもしれない。

 でも,それは「しかたがない」とあきらめやすい性質をもっているのが近代の人間のようです。

 弊害があっても,それでうまくやっていった方が,結果はずっとよかったのに・・・と振り返っても,

 「しかたがない」と言えてしまうことの問題。

 私も少しそういう「保守」の立場から学ばないといけないことが多そうです。


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いつまで続く? せめて評価規準に関する資料を読むべし

 やはり,指導要録は開示して,評価や評定の説明をするための三者面談などを設けるべきかもしれない。

 妄言は続く。

 もし教員採用試験を受ける大学生の妄言なら,この人は絶対に試験に通らない。

 もし教員の妄言なら,免許の更新がかなわないだろう。

 また,指導要録というものを作成した経験がないのだろう。

 「関心・意欲・態度」の評価に関する批判は私もしているが,レベルが低すぎる。

 まずはその評価の観点の趣旨を理解しなければならない。

 私がダメな評価として批判しているのは,

 評価が可能な学習活動(たとえば課題を設定して追究するような活動)や試験問題(資料を読ませて,適切な問題点を発見させるなど)がないのに評価するような人間である。

 考える場面が授業中にないのに,また,その考えを発表する場面がないのに,思考・判断・表現の評価をするような教師を批判しているのである。

 「関心・意欲・態度」の「関心」が,何に向けてのどのような活動によって判断できるかを知らない人間に,「関心」を高めるような授業はできないだろう。だから,教師などさせてはいけないのである。

 「関心・意欲・態度」の「意欲」が,どのような追究活動への意欲かを知らない人間に,この観点の評価などできない。

 「関心・意欲・態度」の「態度」が,「ちゃんと聞いている」「ノートをしっかりとっている」などのことだと思っているような教師は,ただの指導力不足教師である。

 戯れ言はいつまで続くのか。

 そろそろ進路に向けての準備を本格化し,この日曜日には模擬試験を受けようとしている中学生にとっては迷惑以外の何ものでもない戯れ言である。


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学校の評価・評定について無知な人間の言葉に注意!

 先日,ある雑誌を読んでいたら,現在,学校で行われている評価に関する批判が寄せられていたが,よく読んでみると,評価に関する基本的な知識すらもっていないことがわかった。

 それをそのまま載せてしまうという雑誌も雑誌だが,その著者は,非常勤講師であった。

 各学校で盲点になっているのは,非常勤講師がつけている評価・評定である。

 各学校には,評価基準に関する資料が用意されているはずだが,非常勤講師にまでこれが徹底されていないおそれがある。

 評価・評定に課題があれば,これは校長の責任問題になるだろう。

 さて,教育ブログの記事に,学校の評価に関してほとんど無知に近い人間が書いているものがある。

 これを真面目に読む人はいないと思われるが,一応,それが「妄言」であることを根拠付きで示しておく。

 まず,「絶対評価」というのは,俗称であることを認識しておいていただきたい。

 正しくは,「目標に準拠した評価」という。

 だから,評価のための規準は,各学校の教師が勝手に定めるものではない。

 「目標に準拠した評価」の「目標」とは,学習指導要領に示された目標のことである。

 少し長く表現すると,

 「学習指導要領に示す目標に照らしてその実現状況を評価する」のが「絶対評価」である。

 学習指導要領には,目標だけでなく,内容も示されている。

 目標に準拠した評価は,これらの内容をどの程度,習得したり,活用する力がついたかを

 観点別にみてつけていくわけである。

 社会科であれば,「社会的事象への関心・意欲・態度」,「社会的な思考・判断・表現」,

「資料活用の技能」,「社会的事象についての知識・理解」の4観点について評価する。

 「社会的事象への関心・意欲・態度」では,たとえば近世の日本の学習であれば,

 幕府の藩による支配の確立がどのようになされたかを意欲的に追究して,

 近世の特色としてとらえようとしていたかどうかを判断する。課題の追究段階や,

 特色に関する記述の実態から,その学習状況が「十分満足」なのか,「おおむね満足」なのか,

 「努力を要する」段階なのか,といった判断をするのである。順番に,A,B,Cで記録される。

 学校によって,学習活動自体には違いがあるから,具体的な評価の基準は異なるため,

 それを説明するための資料が用意されている。

 こういう評価は,相対評価からいわゆる「絶対評価」に変わる以前も,

 指導要録につけていたはずである。

 ただ指導要録は,担任をもたないと作成する機会がない。

 そういう人間が妄言を書いているのだと想像できる。


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教員のわかりやすい「指導力不足」状態

 ネットで調べると,愛媛県がわかりやすい「指導力不足教員の具体的な事象」を紹介してくれている。
 
 問題の要因とセットにして,私なりに「指導力不足」とはどのような状態なのかを紹介する。

○教科書レベルの知識もないので,児童生徒からの質問に答えられない。

○教科書レベルの知識があやふやなので,授業で教える内容に間違いが多い。

○児童生徒の理解度への関心がないので,授業中,発問などを行わず,ただひらすら説明だけに終始する。

○同じように,ただひたすら,板書だけに終始し,児童生徒に目を向けようともしない。

○授業に参加せず,教師の後ろで走り回ったり,集まって遊んだりしている児童生徒を放置している。
  他の児童生徒の学習の障害になっているのにもかかわらず,指導しようとしない。

○児童生徒とのコミュニケーションがとれないため,問題行動等を目にしても,その場で注意や指導ができない。

○児童生徒の指導において,公平性を欠き,一部には極端に甘く,他方には極端に厳しくするなどの課題がある。

○同僚に相談したり,上司に報告したりする職場でのコミュニケーション能力を欠き,学年や学校の分掌の業務の進行が滞ったり,誤りが多かったりする。

○保護者や地域の人との連携が円滑に進められず,たえず苦情を受けている。

 ・・・・まだまだ続きますが,これくらいにしておきましょう。

 ああ,こういう人はいたな・・・と心当たりのある方もいらっしゃるのでは?


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教育委員会の質の低下を実感する羽目に陥った

 研修の講師の仕事が増えてしまっているが,今までにない経験をすることになった。

 研修に行く前に,こんな経験したくないと思わされる出来事であった。

 基本的に私は出張が嫌いである。

 「講師として呼ばれるのが誇りだ」なんて粋がっている連中と同じにしてほしくはない。

 自分の学校の仕事で本当はいっぱいいっぱいである。

 どうしても断れない人から話が来たときだけ,引き受けることにしているが,

 それもそろそろやめにしたくなってきた。

 今度の仕事は,本当にやめたくなったが,すでに案内が通知されてしまっているそうで,断るにも断れない。

 研修の話が来たとき,とりあえず引き受けるという返事はしたが,

 その後,何ヶ月も音沙汰がなかったので,もうあの話はなくなったのかと思っていた。

 しかし,研修の1週間前になって,「研修の資料を1週間前までに出せ」という指示書と,

 研修を周知した通知文が送られてきた。「写し」ではなく,原本である。

 手紙だけである。

 私は都道府県教育委員会の仕事しかしていなかったので,

 市区町村教育委員会がどの程度の仕事ができているのか知らないが,

 こんな話は論外である。

 指導主事の質が下がったどころの話ではない。

 もはや指導力不足教員に研修に関する事務をさせているとしか考えられない仕事の杜撰さである。

 自治体の名前は出さないが,他県の人でも知っているような名前である。

 単なるミス(発送遅れ)ではすまされない。

 期限までに出せという指示をこちらが守れない。

 通知文に記された学校名の漢字が誤っている。

 電話での連絡も何もない。

 気の毒だが,この私の怒りのトバッチリを受けるのは,研修を受ける先生方である。

 「あなたが思考・判断・表現の観点の評価で,~についてA(十分満足)と判定している生徒の解答例をいくつか挙げて下さい」なんていう質問を連発する予定である。

 研修には,「講義・演習」とあるから,「講義1:演習9」でも文句は言えないだろう。

 その方が研修の効果は絶大である。

 私が研修を受けに来てくれた先生方の「評価力」の評価をその場で実行できる。

 自信を失う人がいるかもしれないが,「適正な評価・評定が実行できていなかった」事実が判明したことを,学校に持ち帰って校長に報告していただく。

 2時間弱の研修だが,報告書はレポート用紙で10枚くらい必要な内容になるかもしれない。

 こういう厳しい研修が受けられる先生方を幸せだと思ってくれる自治体であることを望んでいる。


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良い学校の条件と良い学校に通わせる良い親の条件

 先日,私の母校(高校)の学校説明会でお話いただいた内容で印象に残っているのは,

 子どもが「塾に行かされないですんだので,勉強が好きなだけできた,いい高校生活だった」と言っているという保護者の話です。

 まさに自分もそうでした。

 高校時代はそれなりにたくさんの本が読めましたし,何よりも部活動を思う存分できました。

 私もそのお子さんも同じ大学に進学し,同じように運動会(体育会)でスポーツをしながら,

 大学の勉強も充実させることができました。

 それはよい高校生活があってのことです。

 よい高校を選びたいものです。

 そして,「塾に通わせる」という選択肢をとらないいい親に恵まれたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より