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学校ごとに異なる基準で評価してしまっては,入試の判定資料として使えない

 目標に準拠した評価というときの「目標」とは,学習指導要領に示された目標であって,

 学校別に定めた目標ではない。

 学校ごとに異なる目標,異なる基準で学習状況を評価するということはない。

 だから,入試の判定材料として使える資料なのだ。

 入試の判定材料としての評価で,まだ相対評価が生きているところがあるようだが,そういうレベルの自治体があってもおかしくはないのはもちろんである。教師の側に力量がなければ,適正な評価などできるわけがない。

 問題は,こういう課題をどれだけの教師,どれだけの学校が抱えているか,ということである。

 義務教育の中学校では,学習指導要領に準拠した教科書を活用しており,公立高校では,その範囲から問題を出題する。

 指導力の低い教師が集まっているような学校の課題は,

 目の前の生徒がどの程度の学習状況なのかを把握することができないということである。

 それを把握するためには,まず学習指導要領に示された目標なり,内容なりを熟知しなければならない。

 そして,目標を達成するための学習指導の計画を自分で立てなければならない。

 社会科のような教科の場合,教科書を見開き2ページずつ,順番に,教科書会社の指導書の通りに授業しているような教師は,おそらくは目標の実現がかなうような指導はできないだろう。そもそも時間が足りなくなる。

 どんな生徒がどんな地域で生きているのかを考えて,どんな社会の動きがあるかをふまえながら,何を具体的な題材として授業を組み立てていくかは,「教科書主導」であってはならないのだ。

 教科書は「主たる教材」であり,指導計画を考えるのは教師の仕事である。

 だから,目標は同じでも,指導のあり方は異なっていてかまわない。

 ある時間には教師による一斉指導で知識を確実に定着させ,また別の時間ではグループでの意見交換を通して学習内容の理解を深める。

 試験問題の出題の方法も,指導に即したものにすべきであり,授業のときに考えて結論が出たような問題を「思考」の問題として出すことはできないから,中学校一律の定期考査問題というのはあり得ない。

 ただし,他の中学校の問題をもらって,自分の学校の生徒にもやらせてみる,という方法はある。学習内容が本当に理解できているかどうかは,あるはこうやって確かめた方がよいかもしれない。

 でも,授業のときには把握しきれなかった学習状況が,自作の定期考査問題を通して公平に評価できるメリットも忘れてはならない。

 学習指導というものを,塾のワークの一問一答式をただ進めているようなイメージでしかとらえられない指導力欠如の人には通じない話なのかもしれないが。

 高校の側は,学校ごとの入試得点と調査書点の相関をよく把握しているのは明らかである。

 明らかに評価がおかしい中学校の存在を,できればすぐに公開してくれることを望む。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より