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後輩を育てる能力のない40代教員

 どこかの記事で,就職氷河期に入社して,同期や後輩の少ない人たちが,

 人材育成の立場になった今,年下の社員の教育ができず,

 とても苦しんでいる,という趣旨のことが紹介されていた。

 学校現場の40代はどうだろう。

 20代,30代の教員への「教育」はできているだろうか。

 できていないとしたら,その原因は何だろうか。

 40代の後半の教師は,「モーレツ」な働き方が当たり前のようにできる(ように思える)。

 それは,自分が若い頃,そういう教師をたくさん職場で見て育ってきたからである。

 今の20代の教師は,そもそも「モーレツ」な働き方というのを望んでいるのだろうか。

 ろくな仕事もたのまれないくせに,文句ばかり言っている教員も少なくなっているだろうが,

 その逆に「どうしてそんなに学校が好きなのですか?家族には関心がないのですか?」

 と思われる教員もどんどん減ってきているのではないだろうか。

 1日16時間も学校にいる教員を見たことがない若い人は,そもそも「モーレツに働く」ということの意味はわからないのではないか。

 「ほどほどの文化」とか,「平均値大好き文化」などと私が呼んでいる,

 可もなく不可もないという仕事ぶりが,今の学校文化の主流になりつつあるのではないか。

 子どもの数が減っており,文科省が「35人学級を目指す」などと息巻かなくても,

 学校の統廃合が進んでいないために,着実に学級の児童生徒数は減少している。

 1学年41人なら,20人と21人の少人数クラスが2つ,自然に出来上がるのが今の制度である。

 クラスの規模が小さくなり,仕事量は減る。

 部活動のさかんな学校とそうでない学校が分かれてくるから,

 それでも負担が小さい学校は増えている。
  
 こういう仕事量が少なくなった学校では,仕事ができる人が少しだけいれば,

 ほとんどのことがうまくまわるようになってきてしまっている。

 そもそも,後輩を「育てる」必要がなくなってしまっているのが,今の学校現場ではないか。

 自分ができていれば,それで事足りてしまう。

 昔の先輩たちというのは,いい意味で,

 「自分が楽になる」ために,若い教師たちにどんどん経験をさせ,失敗もさせるが,仕事を覚えさせ,

 ほどよい「世代交代」を実現させてきた。

 今はどうか。

 いずれ学校を襲う「学校を動かせないことに教師たちが気づいたときのパニック状態」に,どう対処したらよいのだろうか。

 残り5年以内の50代後半の教師たちにも,できるだけ知恵を絞ってもらいたい。


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コメント

 東京に限らず,いい教育環境で子どもを育てたいという親は多いと思います。

 統廃合を進めたい自治体の意向とそういう親の意向がマッチしている過疎地域では,通学距離など問題ではないでしょう。

 小学校1年生から電車通学で1時間かけさせている東京の親と,変わるところはありません。

 便利なところほど,遠くまで子どもを通わせているなんて,皮肉なものですね。

 問題は,統廃合を行えば良い学校になる,すぐにいい教師が育つわけではないということです。

 少人数なのに学力が向上しないところはいくらでもあります。

 学校規模は適正であるべしという日頃からのご意見、それそのものは全くもって正論であって、確かに学校のサイズは大き過ぎても小さ過ぎてもよろしくないです。
 ただ、統廃合でその問題を解決できるという意見には賛成しかねます。それは東京のように便のいい場所でのみ通用することです イナカでは統廃合によって生ずる通学の不便は「少々」などという生やさしいレベルではありません。1学年15人なのに片道10km以上の通学をせねばならない生徒がいるという学校はイナカではザラにあり、しかも通学の足は貧乏自治体が苦労してやって工面しているスクールバスだったりします(路線バスは赤字でロクに走っていません)。
 どうも東京の人にはこういう視点が欠けているように思えます。東京のような(地理的経済的に)恵まれた場所は日本のごく一部なのです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より