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先生と目が合っているだけで「いい子」になれると思ったら大間違いですよ

 目は,口以上にものを「語る」ことができます。

 「先生に気に入られるように,授業中は目と顔を向けておく」なんていう心構え?で授業を受けてはいけません。

 すぐにばれます。

 授業に集中できずに,大切な部分の内容を聞き損ねて理解度が下がる子どもへのアドバイスとして,

 「先生に目を顔を常に向けておく」と教えてあげることには賛成です。

 しかし,その目的を先生に「気に入られるため」「いい子だと思ってもらうため」なんて示すことは,

 およそ「教育的」とは言えません。

 先生という人間は,それほどバカではないのです。

 別に授業に限らず,ほとんどの生徒は「いい子」なのです。

 この世に「普通の子」なんていう意味不明の存在はいません。

 「いい子」ばかりです。

 「いい子」でも,授業中に眠くなれば,うとうとするし,話を聞き漏らすことがあります。

 日常的な人間関係から,そんな状態になったとき,先生から

 「ああ,今日は疲れているんだな」と同情されるような人間でありたいものですね。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より