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2014年6月

中学校及び教科ごとの内申(調査書)の格差を考えるための資料

 中学校によって,教師によって,評定の付け方がまちまちだと,

 入試の合否判定の資料としての信頼性を欠くことになる。

 それを防ぐために実施されているのが,すべての中学校のすべての生徒の教科別の評定を教育委員会に提出させ,各教科で5~1の生徒がそれぞれ何%であるかを公開している仕組みである。

 中学校に評定の資料を提出させることによって,そもそも各高校に出されている調査書の数字が正しいものであるかどうかも,教育委員会に提出される「原本」と生徒が受検する高校に出しているものとが一致しているかどうかを調べることで確認するという作業も行っている。

 高校入試はほとんどの中学生にとって,人生でたった一度の経験であり,ここに作業上の「誤り」があってはならない。

 今回,採点間違い(チェック漏れ)という重大問題が発覚したが,調査書点の処理も決して誤ってはならない業務である。

 業者や高校側は,模擬テストや入試問題の得点と評定の相関がとれるから,どの中学校に課題がある(可能性が高い)か,どの教師の評定に課題がある(可能性が高い)かを知っている。

 教育委員会レベルでは,たとえば評定に1と2が全くない教科がある中学校や,逆に「5」の生徒が異常に多い中学校などを問題にする場合がある。

 したがって,評定で「ずる」はしにくいのが現在の入試制度である。

 以前は,ある自治体に関係のある議員が,「うちの区よりあっちの区の方が評定が甘い」などと問題にしていたことがあったが,基本的に

 目標に準拠した評価に基づいての評定をしていることになっているので,その「甘さ」を立証するのは難しい。

 授業参観を「適正な指導や評価をしているかどうかの調査」の対象としてやられたら,授業者はさぞやりにくいだろう。

 評価という行為は,評価される人間の活動を破壊することがあるのは一般企業でも同じだが,

 上記のような「歯止め制度」があることも知っておいていただきたい。


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学校ごとに異なる基準で評価してしまっては,入試の判定資料として使えない

 目標に準拠した評価というときの「目標」とは,学習指導要領に示された目標であって,

 学校別に定めた目標ではない。

 学校ごとに異なる目標,異なる基準で学習状況を評価するということはない。

 だから,入試の判定材料として使える資料なのだ。

 入試の判定材料としての評価で,まだ相対評価が生きているところがあるようだが,そういうレベルの自治体があってもおかしくはないのはもちろんである。教師の側に力量がなければ,適正な評価などできるわけがない。

 問題は,こういう課題をどれだけの教師,どれだけの学校が抱えているか,ということである。

 義務教育の中学校では,学習指導要領に準拠した教科書を活用しており,公立高校では,その範囲から問題を出題する。

 指導力の低い教師が集まっているような学校の課題は,

 目の前の生徒がどの程度の学習状況なのかを把握することができないということである。

 それを把握するためには,まず学習指導要領に示された目標なり,内容なりを熟知しなければならない。

 そして,目標を達成するための学習指導の計画を自分で立てなければならない。

 社会科のような教科の場合,教科書を見開き2ページずつ,順番に,教科書会社の指導書の通りに授業しているような教師は,おそらくは目標の実現がかなうような指導はできないだろう。そもそも時間が足りなくなる。

 どんな生徒がどんな地域で生きているのかを考えて,どんな社会の動きがあるかをふまえながら,何を具体的な題材として授業を組み立てていくかは,「教科書主導」であってはならないのだ。

 教科書は「主たる教材」であり,指導計画を考えるのは教師の仕事である。

 だから,目標は同じでも,指導のあり方は異なっていてかまわない。

 ある時間には教師による一斉指導で知識を確実に定着させ,また別の時間ではグループでの意見交換を通して学習内容の理解を深める。

 試験問題の出題の方法も,指導に即したものにすべきであり,授業のときに考えて結論が出たような問題を「思考」の問題として出すことはできないから,中学校一律の定期考査問題というのはあり得ない。

 ただし,他の中学校の問題をもらって,自分の学校の生徒にもやらせてみる,という方法はある。学習内容が本当に理解できているかどうかは,あるはこうやって確かめた方がよいかもしれない。

 でも,授業のときには把握しきれなかった学習状況が,自作の定期考査問題を通して公平に評価できるメリットも忘れてはならない。

 学習指導というものを,塾のワークの一問一答式をただ進めているようなイメージでしかとらえられない指導力欠如の人には通じない話なのかもしれないが。

 高校の側は,学校ごとの入試得点と調査書点の相関をよく把握しているのは明らかである。

 明らかに評価がおかしい中学校の存在を,できればすぐに公開してくれることを望む。


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いかがわしい受験情報に惑わされないように!

 まず,「内申書」とは俗称であり,「調査書」と呼ぶのが正しいことをご承知おきください。

 調査書に記載される「成績」は,観点別学習状況の評価のA~Cと,それを総合した評定の1~5です。

 観点別学習状況の評価の観点は,国語だけ5つあり,そのほかの教科は4つずつです。

 観点別学習状況の評価をつける上で,各学校では単元や時間ごとの評価基準を公開しています。

 ですから,どうして観点別学習状況の評価でAがついたのか,Bしかとれなかったのか,など,

 中学校側は生徒や親にくわしく説明することができます。

 学習の評価は,学習指導要領に示された目標に準拠した評価です。

 教師が勝手に定めたものではありません。学校全体できちんと目標・評価基準・評価方法は管理されています。

 特に注意が必要な「思考・判断・表現」の評価については,ペーパーテストに限らず,レポートや発表等の「表現されたもの」をもとに評価していますから,もし「どうしてこれだけのことが表現できていてBなのか」という質問にも答えられるようになっています。

 ペーパーテストでも,採点基準があいまいになるような問題は出題されることはありません。

 テストを返却するときに,詳しい採点基準が生徒に説明されます。

 減点された理由がわからない生徒は,すぐに教室で質問して,確かめるのが普通です。

 ただ,すべての生徒がすべての観点の評価について質問にこられると対応だけで膨大な時間がかかりますから,生徒や保護者の側も,遠慮なくどんどん聞ける,という状況にはありません。

 そもそも,「想定よりも高い評価・評定」がついた場合には,わざわざ理由を聞かないのが普通です。

 教師の側は,ボーダーの少し下に位置する生徒についてだけ,理由を用意している人が多いでしょう。

 基本的に,「教師のきまぐれ」で評価がつくことはありません。

 「説明責任が果たせる」ことを大前提に評価・評定がつけられることだけは,ご理解下さい。

 問題は,評価・評定のインフレ傾向です。

 これを高校側は問題にして,基準を上げたりしていますが,それが原因になってさらにインフレに拍車がかかる,

 というのが実態です。

 都立高校の場合,推薦入試にしろ,一般入試にしろ,調査書点と他の合否材料の比率はあらかじめ公開されています。推薦入試の場合は,「評定」ではなく,「観点別学習状況の評価」を点数化して入試得点に組み入れるところがあります。AとBとでは,点数にかなり開きがありますから,Aをとると圧倒的に有利です。

 各学校は,「求める生徒像」を公開し,それに合っていると考えられる生徒が選べるような仕組みをそれぞれ考えて示しています。1年前とは変わっている場合もあるので,最新の情報をきちんとチェックできるようにして下さい。

 ほとんど現場の実態を知らないで,HPを見ればわかるのにそういう基本的な労力もかけずにいい加減な情報を垂れ流している人がいるので,注意しましょう。

 相対評価が姿を消したのは,もう一昔も前の話です。


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荒れている学校ベスト10 (ワースト10?)

 ときどきおもしろい検索語から来訪される方がある。

 今回,「荒れている学校ベスト10」から入られた方がいらっしゃった。

 私が勤務した2校目の中学校は,地域内で余裕の「ワースト10」だった。

 その状況なり原因なりについて,私が聞いたり感じたりしたことを記してみる。

1 体育の教師が,チャイムがなってもしばらく(20分程度)授業の場所に現れず,それまで生徒は遊んでいた。

2 突然,欠勤をする教師が多く,そのために映画のソフトを学校が買い入れ,あいてしまった時間は映画の鑑賞会を行っていた。

3 危ないので,理科の実験は行ったことがなかった。

4 問題行動があったとき,音楽の教師をすぐ救えるように,音楽室を職員室の隣にした(音楽室は防音になっていない)。

5 部活動の指導ができる教師がほとんどいなかった。

6 学校が荒れていることを保護者がほとんど知らなかった。

7 定期考査をするときは,監督が必ず2人以上は必要だった。

8 授業中に抜け出す生徒が10名以上いた。

9 管理職と教員がいつも喧嘩していた。

10 教師は勤務時間をよく守っていた。

 こんな学校だったが,4を除いて,すべて1年間で改善できた。

 10だけ,「改悪」になってしまったのかもしれないが。

 少し時間がかかったが,本当の意味での「ベスト10」になっていった。

 子どもが悪いから学校が荒れるのではないことがよくおわかりいただける事例だと思われる。


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「人気者」への妬み・嫉みを「恥」と感じられるかどうか

 自分より「上」の人間の足を引っ張ることしか考えていない人間が散見される。

 地位が上,名声が上,収入が上,容姿が上,成績が上,学歴が上,住まいの広さが上,「ポイント」が上,・・・・・

 人と人は,比べてみればきりがないが,ふだんはそんなことには興味をもたずに生活しているのが一般的である。

 しかし,楽しみがブログしかないような生活になってしまうと,

 何かと「上」が気になって仕方がなくなるという人間がいる。

 政治が悪い,儲けている企業が悪い,教育政策が悪い,

 コンクールで負けたら,審査員が悪い・・・・・

 自分には手の届かないところにあるものに,漠然と不安をぶつけてみても,何も始まらない。
 
 ブログに書いたところで,何がどう変わるというものでもない。

 学校現場における「授業」の問題についても,
 
 教師の「忙しさ」についても同じような話と思われるかもしれないが,

 「実際にはどうなっているのだろう」

 「現実的にはどうなのか」

 という疑問を抱いていただけるだけでこちらとしては満足である。

 現役の教師だったり,教師を退職した人間の中には,

 世間の常識が通用しない人がいる。

 「若いときから先生,先生と呼ばれて・・・」などという人がいるかもしれないが,

 先生になる前から常識を身に付けていないから,

 結局,常識を知らないまま歳をとっているということで,

 常識を身に付けて教育現場に入った人たちはとてもまともな人間なのである。

 学校現場で「常識を失う」わけではない。

 ただ,もともともっていた「常識を見失う」ことはある。

 そうはならないように,「見苦しい話」「恥ずかしい話」だけはしないように心がけておきたい。


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かっこ悪いところを指摘されても,いちいち反応しないのが大人

 教師のなかには,生徒になめられることだけは許されないと心に決めている?人がいる。

 生徒からしたら,単なる親しみの表現にすぎないのに,過剰反応する大人もいるということは,

 それはそれはよい経験になる。

 少し大人びた生徒から見れば,

 「それだけのことでどうしてそこまで反応するのだろう」と,

 「子どもっぽい大人」という「評価」を下されることになる。

 大人と大人の関係でも同様である。

 「なめられた」と思うと過剰に反応するのがそっち系の人たちの特徴である。

 もちろんそっち系の人たちのメンツも多文化理解ということで大切にしたいとは思うが,

 1に対して100まで返そうとするのはやり過ぎである。

 教師の「100」のしつこさに困らされた経験のある人もいるだろう。
 
 こういう教師を指導力不足教員に認定してしまうと,「教育」「更正」にあたる関係者は地獄である。

 もっとダメなものはダメと言い合える環境を整えないと,

 「倍返し」どころか「100返し」人間がこれからも増えることになるだろう。

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「学校の成績(評定)」の意味が分かっていない方々へ

 時計が大昔に止まってしまったままの人がいるようで,困りものである。

 学校の成績(評定)が,3から4に上がったとする。

 相対評価の時代は,必ずしも4に上がったからといって,その生徒の能力が向上したとは言えなかった。

 成績が上の子どもたちが下がってくれば,自分に変化がなくても,「相対評価」は上がるからである。

 しかし,今は,「目標に準拠した評価」=「絶対評価」になった。

 しかも,「観点別学習状況の評価」に基づいている。

 テストの得点だけで「成績(評定)」が決まるのではない。

 関心・意欲・態度の面から見て,学習状況がどれくらいよくなっているのか,

 思考・判断・表現の面から見て,基礎的な知識・技能がどれだけ活用できるようになっているのか,

 ペーパーテストだけからは判断できないことも,

 レポートや授業での発言,ノートの記録,グループでの活動状況などを

 総合的にみることによって出されるのが

 「成績(評定)」である。

 だから,「自分もがんばったけど,みんなもがんばったから成績は上がらなかった」

 などという相対評価の時代の「言い訳」は通用しなくなった。

 「おおむね満足できる学習状況でしたよ」という「判定」が「3」である。

 それに対して,「十分満足できる学習状況でしたよ」という「判定」が「4」である。

 「5」をとるためには,「十分満足できる学習状況の中でも,特に優れた面がありました」という判断が下されなければならない。

 とてもシビアな数字が,「成績(評定)」なのである。

 問題にしなければならないのは,「おおむね満足」と「十分満足」とでは,どこがどの程度,違っているのか,という素直な疑問である。

 40人の生徒がいて,みんな5になる,というのも不可能ではないと言えてしまうのが

 絶対評価であるが,授業を少しでも参観してみれば,そもそもこの

 観点別学習状況の評価自体の「不可能性」「不適切性」が明らかになる。

 「成績(評定)」については,そこを問題にしないといけない。

 しかし,お役所に楯突けない哀れな大学教授たちは,一律,口をつぐんでいる。

 自分たち自身の評価にこれが導入されるようになってから反対しても遅い。

 軍部に刃向かえないで日本を滅ぼしかけた人たちと同じだと早めに気づいてほしい。


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「労働している」という実感のない教育という「お仕事」

 OECDの調査に関して,日本の教師が「働きすぎている」という印象を与えるデータが公開されているが,

 教師の多くは「労働している」という実感をあまりもっていないのではないかと私は考えている。

 「勤務時間」とか「労働時間」とかいう言葉を耳にしても,あまりピンと来ない。

 そもそも勤務時間の前に子どもが学校に来られるようにしているし,

 放課後も同様に,勤務時間後も子どもは学校にいられるのである。

 日本で「勤務時間」を意識しているのは,定時制のある高校の全日制の教師たちだけではないか。

 こんなことを書くと叱られるかもしれないが,

 自分はもちろんだが,そういう人たちが「日本の公立学校の教師」であると,私は感じてきた。

 こういう報道があるメリットは,

 「そんなにたいへんな仕事なら,教師になるのはやめよう」

 と思って,教師になる希望を捨ててくれる人が増えることである。
 
 ぜひ,そういう人は教師にならないでほしいと思う。

 「どれだけブラックなの」と思われるかもしれないが,

 自分たちがやっていることが「労働だ」なんていう意識ではなく,

 「ただの生き甲斐だ」と思っている教師によって,学校は成り立っているのである。

 「部活の指導が生き甲斐だ」というタイプの教師には困らされるものの,子どもは大喜びである。

 データでは,「校外の研修を受ける人が少ない」という結果も出ているようだが,
 
 ぜひともクロス集計をしてみてほしい。

 「勤務時間が長いから,校外の研修を受けられない」のではないことが明らかになるのではないか。

 きっと,「勤務時間が長い」人ほど,校外の研修も積極的に受けているのではないか。

 「事務的な仕事が増えた」のは,単純に考えて,

 くだらない「観点別評価」などを導入したことが大きい。

 評価に力を入れて,指導に力を入れない教師がどれだけ増えたことか。

 本末転倒もいいところである。

 「長い勤務時間」の中で,ただおしゃべりに興じているだけの人間はいないか。

 OECDでは,教師の労働の質を調査する手法を開発して,どんどん調べてほしい。

 あと,「自信がない」という「へりくだった反応」をするという,

 日本人特有の低い自己評価が生まれる文化的背景も踏まえた分析もお願いしたい。


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教育の世界で最も醜いこと

 きれいごとが言えるようになったら,「立派な大人」である。

 この「  」の意味がわからない人がごくわずかだがいるらしい。

 道徳の授業が大嫌いな小中学生は,心の中で,

 「あなたにそれを言う資格があるのか」と訴えている。

 「私にこれを言う資格はないのだが」という自覚のある教師には,

 不思議とそういう嫌悪感を感じないのが小中学生の「優秀」なところである。

 「これは自慢するつもりではないのだが」などとことわって

 平気で自慢話ができるようになるのは,「立派な老人」である。

 読み手とか,聞き手とかを本当に軽く見ている言葉を感じることができる人は多いと思う。

 「立派な老人」の醜い言葉には,もちろん大切なメッセージが含まれている。

 「私のようにはなるな」というのが,最も重要なメッセージである。

 小中学生は,こういう視点で大人の文章を読めれば,

 「立派な大人」ではなく,もうすでに立派な人間に成長したと言える。

 ブログを公表する「見返り」は,ポイントだったり,いいね!だったり,よいしょコメントだったりする。

 これ以上ないほど醜いのはその自作自演であり,その代表的な例が

 道徳という時間であり,そこでたくさん繰り広げられている数々の自作自演を肌で感じることができるのが小中学校の現場である。

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40人という規模でも一致団結して動ける日本の小中学生の強さ

 1000人規模の集団が,毎朝,集会で整然と並び,挨拶できる学校がアジアにあることを知っている。

 やろうと思えば,日本の小中学校でも可能だが,規模が小さくなってしまっているので,

 実際に試してみることができる学校はごくわずかになってしまった。

 200~300人規模の集団で登山の隊列をつくると,最初と最後の時間差はどのくらいになるか,ご存じだろうか。

 こういうことを実際の指導で肌身にしみこませている学校もある。

 40人がそれぞれ勝手な行動をせず,一つの目標に向かってこつこつと努力しているような姿を見ることができる国はいくつあるだろうか。

 少人数しか経験したことがない地域の学校の子どもが,大規模校との交流を行うと,

 最も戸惑うのがこの「人数の壁」である。

 だれの指図も受けずに,そこにいる100人が一斉にゴミを拾ったりできる国はいくつくらいあるだろうか。

 集団を動かす指導には,コツがいる。

 子どもに集団をコントロールさせる指導をするにも,コツがいる。

 こういうことができなくなって,やむを得ず,少人数にばかり逃げるようになる中学校があるのを知っている。

 そこはなかなか立ち直れないでいる。

 学校を立て直すには,原点に戻るしかない。

 少子化が進む中,統廃合を進めないと,私のここまでの話は完全に異次元の内容となっていく。

 1クラスしかない学年のある小中学校が,全国でどれくらいあるかご存じだろうか。

 35人学級がどうとか言っている間に,極小規模の中で,

 「大集団」の体験が一切できずに成長していく子どもがどんどん増えている。

 いつかはここが「かつての日本」ではなくなるのは明らかだが,

 どういう方向に舵を切っていくかというビジョンがどこにもない。

 もはや,10年後の「惨状」を予想することすら困難な変化の激しい時代である。

 少人数指導のもとで「プレゼン能力」を鍛えられた生徒と,

 部活動邁進型や行事専念型という従来型の生徒と,どちらの「生きる力」が勝っているか,

 どちらの「プレゼン力」が勝っているか,どちらの生徒の「説得力」が高いか。

 競ってみても意味はないが,環境を子どもに自由に選択させた上でやってみたらどうなるか,

 興味のあるところである。

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私が知った「ヤジ文化」

 私が日本の本格的な「ヤジ文化」に接したのは,高校や大学での野球の試合が最初だった。

 学校名を出して恐縮だが,最も汚いヤジを飛ばしてきたのは麻布高校である。

 球児の名誉のために正確に表現すると,それは観客席から飛んできた。

 背の低い選手に対しては,「チビ!チビ!」の大連呼が起こった。

 あとはおぞましくてここに書くのをはばかられる。

 最近は高校野球も品位を重んじるようになったが,観客席のヤジまでは統制できない。

 日本の代表的な「ヤジ」は,国会中継でも体験できる。

 直接的には体験できていないが,昔,学校には職員会議での管理職に対するヤジがひどかったところがあるらしい。

 今もそういうところがあるかどうかはわからない。

 聞こえないようにボソッと言うのは「ヤジ」ではない。

 そういうヤジにまいってしまった管理職の話を聞いたとき,そんな職業にはつくまいと思っていたのだが,

 結果はこの通りである。

 さて,海外のメディアにまで取り上げられるようになった,

 都議のヤジであるが,

 これは個人的にはその場で注意を与えなかった議長なり,抗議しなかった当事者なりにも

 「どうして」と言いたい。

 問題の声がじわじわ上がってから,ようやく動き出す,なんていうのは

 学校現場の生活指導で言えば最低の対応である。

 今回のヤジは,

 「生活指導」の対象である。

 「道徳」の時間の復習を始めなければならないタイミングであった。

 私は,議員という仕事の実態もよく知っている。

 だから,「隠す」ことに全力投球をしていることもよくわかる。

 「その場で何とかすべき」など今頃言っても遅いわけであるが,

 それはその場にいた人たち全員が反省すべき問題だと思ってほしい。
 
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地理の問題~○○○鉄道を救え!~

 日経ビジネス6月16日号に掲載されていた話題である。

 ある鉄道会社が,経営難で苦しんでいる。

 SLに乗車する観光客からの収入が全体の9割以上を占めるこの会社の苦境をつくったのは,

 2012年4月の高速ツアーバス事故をきっかけに,2013年8月に国土交通省が決めた新基準である。

 高速道路を利用するツアーバスで,1人の運転手が1日に走行できる上限距離が

 昼間で500km,夜間で400kmとなった。従来の上限は670kmだった。

 これによって,東京からの日帰りツアー客を呼べなくなってしまったのだ。

 「ある鉄道会社」とは,どこのことか。

 地図をもとに,探してみていただきたい。

 終着駅のある自治体に,危機感がないのが痛すぎる。

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さすがに衆議院議員にはダメ出しをできない

 職業的なクセというのは,どこに行っても体から抜けないものである。

 先日の衆議院議員の会合で一番気になったのは,

 議員の「話し方」「声の張り」の課題である。

 政治家っぽくないところが,人気の秘訣なのかもしれないが,

 もう少しどうにかしてほしいとは・・・・さすがに言えない。

 中学生だったら,すぐにでも改善させるべく声をかけるが,そういうことができないもどかしさを味わうのが

 「外界」というところである。

 学校という「特別区」の中では,教師というのは好きなだけ「教える」場面があるが,

 「区域外」では役に立たない。

 とても誠実そうな人だし,実務に関しては本当に頼れそうな議員だから,

 「もったいなさ」感が余計につのる。

 一方で,話し方で人を虜にするような議員というのも,想像するとこわい。

 自分の頭で考えられる国民が,自分の頭で考えて話している政治家を選べる民主主義の国でありたい。

 どこかの都道府県の議会で「道徳の成績」が最低の議員がヤジを飛ばしたことが問題になっている。

 小泉ジュニアはいつも口にしている。

 「議員はたった一言の失言で,すべてを失う」


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「政治」が身近になる時代は来るか?

 今日は,高校の野球部の先輩とお会いするために,ある衆議院議員が主催していた会合に出席してきた。

 財務大臣も経験されたその先輩は,高齢により政界を引退されたとはいえ,頭脳の方は明晰そのものである。

 日本というのは,こういう「頭脳」をずっと大切にしてきた国であるが,

 組織によっては,それが弊害になることもあろう。

 しかし,組織がまだ発展途上のところにとっては,非常に重要な役割を果たし続けるに違いない。

 30~40歳の隔たりがある人たちと,当たり前のように話ができる社会を持続させていきたい。
 
 ところで,政治の世界は一般の人から見るとかなり隔たりがある。

 私の叔父は国会議員の私設秘書をしていたが,冠婚葬祭関係だけでもやたらと出費が多かったことを知っている。こんな程度の「実感」しかないのが一般人だろう。

 永田町近辺は,人が少ない代わりに警官やら記者やらが目立つ。

 しかし,会合に参加していた人たちは様々な仕事の方のようで,若い人も多かった。

 シルバー民主主義のこの国の希望は何だろうか。

 先輩の言葉で印象的だったのは,

 「決める」プロセスに関する話である。

 民主主義は,民主主義的でない民主主義ばかりかと思っていたが,そうでもなかった。

 「政治」が身近になることで,何が変わるのか。

 他人事として社会の動きをながめているような若者たちに通じる言葉が話せる人は登場するのか。

 芸人たちがこぞって政界に進出するような時代が来るのか。

 未来はわからないが,よい勉強になった。

 学校教育における社会科の役割も少し考え直すきっかけになったのがうれしい。


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選手に好かれる監督 教員に好かれる校長

 部下に好かれる上司,国民に好かれる総理大臣・・・・・

 そもそもその立場になれる人はまれだから,選手や教員,部下や国民という立場から語られる内容となる。

 もしブラジル・クロアチア戦のあの「判定」が,ワールドカップの優勝決定戦で,ブラジルの反則としてとられたら,どうなっただろう。

 そもそも,そういう判定が下せる審判員がいるだろうか,という疑問はおいておく。

 サッカーに限らず,審判の判定が試合の流れを変えたり,勝敗を左右したりすることがあるのは,よく知られている。

 今日の話題の対象としたいのは,サッカーで言えば監督のことである。

 クロアチアの監督の猛抗議には,

 「選手を守るため」

 「チームの士気を下げないため」

 というねらいがあったとも言われている。

 判定の基準については,事前に説明があった,という情報もある。

 監督には,選手交代などで試合の流れをコントロールするような,選手とは別の重要な役割があることは言うまでもない。

 しかし,審判の判定への抗議のスタイルや「激しさ」には,人によって違いがある。

 どういう監督が選手に好かれるかと言ったら,こういうとき,激しく抗議する人だろうと言うことは想像できる。

 これを,企業の上司や学校の校長,総理大臣という立場の人に置き換えて考えてみたらどうだろう。

 体を張って,自分の首をかけて,部下を守ってくれる上司は,現実の企業社会にはどのくらいいるのだろう。

 その上司の行動のしかたによっては,企業全体を傾けることになる恐れもあることは忘れてはならない。

 総理大臣という立場の人間の行動で考えてみたらよくわかるはずである。

 ある出来事で「動いた」ら,別の同じ程度かそれ以上の出来事では「必ず動く」ことが要求されるだろう。

 学校の校長という立場の人間ならどうだろう。

 教育委員会や文部科学省の要求に,抵抗できるだろうか。

 そもそも,抵抗そのものを封じられている存在であるのが,公務員である。

 組織の外部に対するトップの抵抗力の強弱が,その組織内部の結束力の強弱と密接な関係にある,

 なんていうことを言うつもりはない。

 しかし,「何でも好きなことをしてもいい。教育委員会には私がうまくごまかしておく」

 という教員に好かれるタイプの校長が,幅をきかせている学校はどのくらいあるのだろう。

 都立高校の入試の業務の実態をここで取り上げるつもりはない。

 「好かれること」を上司などの「必須の要件」などと考えること自体が必要なことなのかどうか。

 「休養」に入った西武の伊原監督は,どんなことを今,考えているだろうか。


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マネジメントが機能しだしたとき,何が終わるのか?

 それだけよいマネジメントができるようになるチャンスがあるということである。

 「自分と同じか下の年代が少ない」という40歳代のリーダーの「マネジメント力」は,

 あるいは「本物」の「マネジメント力」に育っていくかもしれない。

 もはや,体育会系のノリが通用する世界は非常に狭まってきている。

 体育の教師すら体育会系ではなくなってきている現場の環境は,とても厳しい。

 「話が通じない」ことを前提としたコミュニケーションは,それだけ

 言葉を選ぶようになるし,方法も考えるようになる。

 あと10年もすれば,過去の遺物のような教師は完全に姿を消すことになるだろう。

 昔は,下手なマネジメント本を読んでいるような人間の方がマネジメント力がないのが

 当たり前だった。

 今では,むしろ,マネジメントの教科書通りの方がうまくいくかもしれない。

 教育委員会を動かす中心は,当分の間,30歳代まで下がることはないだろうが,

 そういう時代になってこそ,組織としてまともに動き出すようになるかもしれない。

 そして,日本の良き教育の伝統は,二度と戻ってこれなくなる程度まで,

 消え去ってくのだろう。

 そもそも,「組織」という言葉を使わないと表現できないような「集合体」になってしまったのは,いつからだろう。

 日本には近代に入るまで,「自然」を表す言葉がなかった国であることを忘れてはならない。


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結局,自分は必要とされない存在だということ

 子どもを励ますことは,なかなか子どもにはできないことがある。

 大人には,少しだけ長く人生を過ごしている分,子どもを励ますゆとりがある。

 子どもも,大人を励ますことはできる。

 こう考えると,子どもより大人の方が,恵まれた存在である。

 大人には,自分が必要とされていない存在であることに気づくゆとりがある。

 子どもにそういうことを気づかせる環境というのは酷いものである。

 自分で自分が必要とされていない人間の典型であることを示し続けている人がいるが,

 そのことに自分自身が気づいているかどうかは微妙なところである。

 すでに現場を去っているのなら,子どもに実害は及ばない。

 校長の仕事で最も難しいのは,

 仕事をさせにくい教員に何もさせないですませることである。

 担任をもたせずに,学年主任をやらせるという手段が昔からとられているが,

 学年の教員たちはたまったものではない。しかし,最悪の事態は防ぐことができる。

 校長には,教員を守るより先に,子どもを守る義務がある。

 何をさせるかよりも,どうやって何もさせないですむかを考えなければならない。

 仕事が増えれば文句を言い,仕事がなければないで文句を言う。

 こういう教員は,自分が必要とされない存在であることには絶対に気づこうとしない。

 逆に,自分が必要とされていることを過剰にPRするクセがある。

 そんなこと,だれが聞いても何の意味もないのに。

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校長の「よそ者」感を払拭するためには

 どうしても,異動のサイクルが早い校長や副校長のような管理職は,

 現場の教師たちからすると「よそ者」感が強くなる。

 特に校長は出張が多かったり,校長室に閉じこもって

 いるのかいないのか分からなかったりすることが多いから,

 余計に「仲間意識」を感じにくい存在となる。

 校長に対して「仲間意識」などとは不謹慎だ,

 と言われるかもしれないが,この国の公立学校の管理職にとって

 「偉さ」などは何の役にも立たず,

 「どれだけ教員たちや児童生徒に近い存在か」で評価されるのが一般的である。

 飲み会や打ち上げで教員たちをねぎらう程度では,「仲間」として見てもらえない悲しい現実がある。

 やたらと児童生徒への接近を試みる勘違い管理職もいるが,

 これは教員からはますます白い目で見られる原因となる。

 「リーダー」という呼ばれ方が最もしっくりこないのが,日本の場合,

 学校という場を統括しなければならない教育管理職の宿命である。

 では,校長とはどうあるべきか。

 校長経験者が,あれこれと書いているが,自分で書いてはだめである。

 優秀な副校長・・・もうすぐ校長になるべき人物が,「校長とはどうあるべきか」を

 しっかりと表現していかなければならない。

 校長の「よそ者」感を払拭するためには,

 「校長のあるべき姿」を現場の教員感覚で校長に伝えるミドルマネジメントが絶対的に必要である。

 問題は,「あるべき姿」と「今の姿」がずれている場合だが,

 ずれを修正しない校長は,永遠に「よそ者」で居続けるしかない。

 別に,「よそ者」のままでも,何の問題もなかったのがこれまでの学校の姿である。

 そもそも「よそ者」感を払拭したいと願っている管理職や現場の教員がいるかどうかも疑わしい。

 そんな組織に何を期待しても無駄であろう。

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「レベル2」「レベル3」と呼ばれる子どもたちの「目標」とは

 「軽度の暴言」と「軽度ではすまされない暴言」の違いは何だろうか。

 具体的な「暴言集」も編纂され,公開されることになるのだろう。

 荒れる子どもは今後,「レベル2」とか「レベル3」などと呼ばれる。

 「レベル4」に達すると,「校外で指導」ということになり,「排除」に成功するが,校内の指導より何倍も労力がかかるようになる。

 生徒の問題行動について,学校内で対応の「軽重」を決めるために,

 問題行動事態の「軽重」を確定させる必要があり,

 延々と議論する場合がある。

 「あれと比べると重い」とか,「繰り返しているので軽いとは言えない」とか,

 質と量とがごっちゃになりながら,教師たちは

 「公正な裁き」を下そうと努力する。

 その間に,少々まともな教師は,どのような話しかけをその生徒にするか,

 何に対してどのように取り組ませるか,どんな目標をどのように立てさせるか,

 前例ではなく,その生徒の過去と現在を見据えながら,未来を考えていく。

 しかし実際の子どもたちは,多分に教師の感情によって流されていく。

 教師の感情が,子どもを荒れさせる原因になることがある。

 人口第三の都市が,「教育の廃墟」になる日は近いのか。


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教育を放棄したどこかの自治体の「問題生徒隔離政策」

 特に説明する必要もなさそうな愚策である。
 
 荒れる子どもだけが集められて生活する場で,何ができるというのだろう。

 荒れる子どものことが本当に理解できる存在は,

 「経験豊富な教員」ではない。

 子どもを支えているのは,教師ではないのだ。

 学校という制度そのものを否定してしまったその自治体に,

 「教育の未来」はない。

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大津市教育委員会前教育長の無念

 「だめな教育委員会」の名を世に知らしめた大津市。

 暴漢に襲われた澤村教育長(当時)の後任には,何番目かの候補者だった富田氏が就いていた。

 その富田氏も,市長と対立して改革の現場を去ることになった・・・・。

 日経ビジネスの6月2月号で知ったことである。

 ブログのタイトルからもご想像できる通り,私は日経ビジネスでは

 『敗軍の将,兵を語る』というコーナーに目を配っている。

 失敗の本質がどこにあるか,その分析が経営の現場では進んでいると思うが,

 お役所となるとなかなかうまくはいかない。

 議論をしても,全くかみあわず,「これが民意だ」なんていわれると,

 そもそも「公立学校の現状は民意に添っているのか」という問題にも行き当たってしまい,

 手も足もでなくなる。

 首長の声がすぐに反映される仕組みにすれば,富田氏のようなことになる,

 といった図式で考えれば,教育委員会改革に反対の立場の人たちにとっては

 とても「都合のよい記事」である。

 予算の機動的な運用はとても重要だと思うが,

 現場の準備が整う前にお金と人をつけてしまうと,

 さらに現場の教育力は劣化する。

 それが学校を見てよく理解できていたのが富田氏であるが,

 いかにも,「教育長」がただの飾りに過ぎないことがよくわかる動きであった。

 杉並の藤原氏が校長ではなく,教育長になっていたとしても,何の変わりもないだろう。

 私は,民主党が政権をとっていたときに,

 どこかの「公務員天国」の自治体のように,「教師天国」が生まれてしまう危惧を抱いていた。

 しかし,何も変わらなかった。

 変える能力が全くなかったこともわかった。

 教育は票には結びつかない。

 行動力を売りにしている政治家は,「すばやさ」だけが勝負となる。

 4年以内に入れ替わるかもしれない人間によって,短期間にあっちこっちと方針が揺れ動くばかりとなる。

 これは,少しでも有利な天下り先を探そうとしている役所の体質にも似ている。

 財務省の顔色をうかがって,とれそうなところだけから予算をとる方針は,本当に見苦しい。

 やる気のあるところにお金をばらまいて,何かしたことにしようとしているが,

 そこで役所からやってきている人間が動かしているとしたら,

 結局は自己完結型の「お試し」に過ぎないで終わってしまう。

 それが今までどれほど繰り返されてきたか,現場を去った方々は痛いほど感じているはずである。

 「昔の方がましだった」という声をあちこちで聞く。

 お金はなくても,できることがある。

 たったそれだけのことだが,お金で人を動かそうとしている人間がいる限り,

 日本の教育は教室と事務室が分離したまま,何も変わらないままなのだろう。


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先生と目が合っているだけで「いい子」になれると思ったら大間違いですよ

 目は,口以上にものを「語る」ことができます。

 「先生に気に入られるように,授業中は目と顔を向けておく」なんていう心構え?で授業を受けてはいけません。

 すぐにばれます。

 授業に集中できずに,大切な部分の内容を聞き損ねて理解度が下がる子どもへのアドバイスとして,

 「先生に目を顔を常に向けておく」と教えてあげることには賛成です。

 しかし,その目的を先生に「気に入られるため」「いい子だと思ってもらうため」なんて示すことは,

 およそ「教育的」とは言えません。

 先生という人間は,それほどバカではないのです。

 別に授業に限らず,ほとんどの生徒は「いい子」なのです。

 この世に「普通の子」なんていう意味不明の存在はいません。

 「いい子」ばかりです。

 「いい子」でも,授業中に眠くなれば,うとうとするし,話を聞き漏らすことがあります。

 日常的な人間関係から,そんな状態になったとき,先生から

 「ああ,今日は疲れているんだな」と同情されるような人間でありたいものですね。


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教師とはそもそもどうあるべきものか~反転授業導入の議論から見えてくるもの

 マイケル・サンデルの白熱教室 「これからの学校の話をしよう」をTVで見ました。

 反転授業の導入に関する議論でしたが,その成果は,「教師はどうあるべきか」という問題意識を高めることにありました。

 このような,「問題を問題として認識する能力を高めること」が,教師としてあるべき資質であり,

 その点についてはサンデル教授はたいへん優れています。

 日本に限らないことだと思いますが,教育現場では常に「正解」が求められ続けます。

 このTVでの議論でも,

 「じゃあ,反転授業を広めるべきなのか,どうなのか」と結論を求めたがる人はいると思います。

 結論は簡単にはでないこと・・・・賛成も反対もあることは,明らかな話題であるわけで,

 反転授業を導入したときに起こりうるのは,「大きな失敗」です。

 しかし,導入しなければ,「導入したときの失敗」は起こりえない。

 教育の失敗をゼロにしたい人は,こういう改革には反対するでしょう。

 藤原さんの意見は,現場の経験から,

 教師だけでなく子どもの能力が高くないことがわかっているから,

 反転授業を推進したい側についていることがよくわかりました。

 私は,だれかが番組で発言していたのと同じで,

 反転授業の推進によって,教師の質,教育の質は格段に落ちていくものと考えています。

 ただ,一度,どん底までその質が落ちることを経験するのも,

 「本当の教育改革」を起こすための一つの方法であるかもしれません。

 日本人は,絶対的な危機が訪れない限り,重たい腰を上げないという特殊な国民であると考えています。

 一部の子どもは犠牲になりますが,一度,大失敗を経験しない限り,

 「教師の質」「教育の質」を高く維持することの重要性に気づいてもらえないのが日本なのかもしれません。


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後輩を育てる能力のない40代教員

 どこかの記事で,就職氷河期に入社して,同期や後輩の少ない人たちが,

 人材育成の立場になった今,年下の社員の教育ができず,

 とても苦しんでいる,という趣旨のことが紹介されていた。

 学校現場の40代はどうだろう。

 20代,30代の教員への「教育」はできているだろうか。

 できていないとしたら,その原因は何だろうか。

 40代の後半の教師は,「モーレツ」な働き方が当たり前のようにできる(ように思える)。

 それは,自分が若い頃,そういう教師をたくさん職場で見て育ってきたからである。

 今の20代の教師は,そもそも「モーレツ」な働き方というのを望んでいるのだろうか。

 ろくな仕事もたのまれないくせに,文句ばかり言っている教員も少なくなっているだろうが,

 その逆に「どうしてそんなに学校が好きなのですか?家族には関心がないのですか?」

 と思われる教員もどんどん減ってきているのではないだろうか。

 1日16時間も学校にいる教員を見たことがない若い人は,そもそも「モーレツに働く」ということの意味はわからないのではないか。

 「ほどほどの文化」とか,「平均値大好き文化」などと私が呼んでいる,

 可もなく不可もないという仕事ぶりが,今の学校文化の主流になりつつあるのではないか。

 子どもの数が減っており,文科省が「35人学級を目指す」などと息巻かなくても,

 学校の統廃合が進んでいないために,着実に学級の児童生徒数は減少している。

 1学年41人なら,20人と21人の少人数クラスが2つ,自然に出来上がるのが今の制度である。

 クラスの規模が小さくなり,仕事量は減る。

 部活動のさかんな学校とそうでない学校が分かれてくるから,

 それでも負担が小さい学校は増えている。
  
 こういう仕事量が少なくなった学校では,仕事ができる人が少しだけいれば,

 ほとんどのことがうまくまわるようになってきてしまっている。

 そもそも,後輩を「育てる」必要がなくなってしまっているのが,今の学校現場ではないか。

 自分ができていれば,それで事足りてしまう。

 昔の先輩たちというのは,いい意味で,

 「自分が楽になる」ために,若い教師たちにどんどん経験をさせ,失敗もさせるが,仕事を覚えさせ,

 ほどよい「世代交代」を実現させてきた。

 今はどうか。

 いずれ学校を襲う「学校を動かせないことに教師たちが気づいたときのパニック状態」に,どう対処したらよいのだろうか。

 残り5年以内の50代後半の教師たちにも,できるだけ知恵を絞ってもらいたい。


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教員の「若さ」と「幼さ」の違い

 自分が歳をとったせいで,そうなったのであれば,問題はない。

 ただ,私はまだ40代の後半である。それでもう「老い」の領域に入ってきたのだろうか。

 教育実習生や採用間もない若い先生方を見て,

 「若さ」よりも「幼さ」を感じることの方が多くなった。

 見た目の印象もそうだが,

 話の語彙,発話の癖,子どもへの指示の出し方など,

 中学生の方がよほど大人らしい,と思えてしまうような場面にふれて驚くことが増えた。

 「若さ」を通り越して「幼い」と感じてしまう理由は何だろうか。

 その人たちのライフヒストリーをひもとく機会を与えてもらえば,

 何か共通した特徴が見えてくるかもしれない。

 「幼い」教師たちは,その後,成長していけるのだろうか。

 そうやってふり返ってみれば,「幼い」まま,定年を迎えてしまったような教師たちも目に浮かんでくる。

 「若さ」は永遠ではないが,

 「幼さ」は何かのきっかけがないと,永久に残ってしまうものなのかもしれない。


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ゲームから隔離するための義務教育5歳開始

 人間の言語能力の基礎は,5歳までに出来上がるという。

 ということは,親がどの程度,どういうかたちで子どもに接してきたかで,

 人間の言語能力の基礎が決まってしまうということである。

 親が二人とも長時間の仕事につかなければならないような子ども,

 仕事についていないが,育児に興味がない親の子どもは,

 残念ながら,言語能力の基礎が出来上がらない状態で小学校に入学することになる。

 「言葉が通じない小1問題」は,特に若い教師たちを中心に悩みの種になっているようである。

 義務教育を5歳開始にすることで,「最後のチャンス」が子どもに与えられることになる。

 「教育」は何もしなくても,

 とりあえず「ゲーム」から子どもを隔離して,

 人間との対話の機会を子どもに与えることで,言語能力の基礎は飛躍的によく固められるようになることが期待できる。

 できるだけ長時間,「預かってもらえる義務教育」を親たちは待望していることだろう。

 小中学校の「言語活動の充実」を実現させるために欠かせない条件が,

 ようやく整うことになりそうである。


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日露戦争の意味と学校評価の意義

 日露戦史の編纂者に司馬遼太郎が聞き取り調査を行った結果を読むと,

 「勝った側の記録」「勝った側の歴史」の問題性を再確認することができます。

 日本人に限った話ではないと思いますが,

 「買った人間」はおごります。

 その反省を『平家物語』では語っているようですが,その歴史は繰り返します。

 日露戦史では,すみからすみまで「自慢話」で満たされている。

 司馬遼太郎は図版がとても参考になったと一応のフォローはしていますが,

 文章には読む値打ちがない。

 一方のロシア側では,だれがどこでどんな失敗をしでかしたのかが追及され,

 記録が残っている。「負けた側」には,戦争を冷静に分析するための資料が残るのです。

 後世で役に立つ「歴史」「記録」とは何でしょう。

 日露戦争には,勝ったが故の,次の負けを用意する意味があったと考えることができます。

 学校教育について考えるとどうでしょう。

 落ち着いた学校,部活がさかんで大会成績もよく,人気が高い学校に,

 日露戦争後に作られた戦史のような「学校評価」は見られないでしょうか。

 私がこのブログを続けている理由は,

 人気が高い学校こそ,冷静で緻密な評価が必要だということを伝えたいから,ということもありますが,

 問題のある学校に,日露戦争で敗れたロシアがしたような「責任追及」の習慣がないこと,

 やろうとしてもできないことへの危惧を伝えたい気持ちの方が大きいのです。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より