ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 岡山県の「学校応援事業」は愚の骨頂か,新しい時代の教育の流れか | トップページ | 総合的な学習の時間の意義がまだ知られていない »

「体罰効果教育」に頼ってきたツケは3年で返済せよ

 体罰で生徒を思い通りに動かす「体罰効果教育」を放棄したばかりの学校では,

 しばらくお子様たちによる挑発行為が続くだろう。

 今まで教師による暴力行為,犯罪行為を続けていたツケは,そう簡単に返せるわけではない。

 そうは言っても,いつまでも無秩序な状態を放置するわけにもいかない。

 スポーツしか特色がない高校の場合は,要求すべき秩序の水準を10分の1くらいに落として,まずは無難に過ごそうと思っている教師がいるかもしれないが,そういう高校は

 半永久的に荒れたまま,まともな学校になれないで(統廃合で)消えていく運命になるだろう。

 学校を変えるには,3年かかる。

 逆に言えば,3年で学校は変えられる。

 何が学校という場で求めるべき姿なのか,当たり前のことを,当たり前に,

 教師と生徒が追究するのである。

 もっと生徒が学校を動かせる学校に変えていくのである。 

 教師がもつべきものは,毅然とした態度と,生徒を見捨てない根気強さである。

 行政がもつべき態度は,毅然とした態度と,いつでも学校や犯罪教師を切り捨てる決断力である。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« 岡山県の「学校応援事業」は愚の骨頂か,新しい時代の教育の流れか | トップページ | 総合的な学習の時間の意義がまだ知られていない »

教育」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

道徳」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

コメント

生徒の挑発行為には、暴力封じられてもう支配されるつもりは無いという宣言であろうと思われる。
支配をやめる事が先決だろう。暴力で思いのままにさせられることにまっぴらだといっているのだろう。
支配をやめる、そして面白いことを先生が始めたらほっておけばよい、いままで支配=指導と勘違いしてきたことを認め、本物の指導をすること、3年で変われる先生が本当にいるのだろうかかなり疑問がある。指導するには、到達目標をきちんと言葉で伝えなかればならない。部活の指導??でやたら声が小さいなどのどうでもいい事ばかり大声で行っていた人に正しい指導ができるとは思えない。
音楽の指導で心を込めてなんてくだらない指導しかできなかった人が3年で変われるはずが無い。

体罰で支配してきた先生はおそらく生徒から軽蔑され、馬鹿にされている、それは指導力がほんとにないからだ。だから暴力禁止になればそういうくだらない人間の言う事はすべてマイナスのイメージしか持たない。生徒が全部入れ替えあるのに3年、でもマイナスのイメージはどこまで行ってもかわらないだろう。3年で他校に転属になればいったんリセットされるかもしれない、しかしそこでもくだらない支配をしているかぎり同じ事を繰り返す。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「体罰効果教育」に頼ってきたツケは3年で返済せよ:

« 岡山県の「学校応援事業」は愚の骨頂か,新しい時代の教育の流れか | トップページ | 総合的な学習の時間の意義がまだ知られていない »

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より