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「荒れている中学校」が公開している学校評価等からわかること

 先日,研究会に参加していた元同僚から,「荒れている中学校」の話を耳にした。

 「なるほど」と思える学校(昔から「荒れている」というイメージがつきまとっているところ)もあれば,

 「そこが荒れているの?」と意外な思いをするところもある。

 「荒れている学校」には,いくつかの共通点がある。
 
 その一つは,教員の異動が多いということ。

 わずか3年ほどで異動する教員が多い学校は,

 教員が異動したいと希望しているか,

 管理職が教員を異動させたいと希望しているかのどちらかであり,

 日本ではどちらかというと前者が多いのが一般的であった。

 該当の中学校の「学校だより」から,異動の状況を見てみると,

 3年で異動した教員が多く,中には1年で異動した教員もいた。

 学校評価の「生徒による授業アンケート」の結果を見ると,

 特定の教科の(教員の)評価が思わしくなく,

 1年で異動した教員が教えている教科であることがわかった。

 因果関係はわからないが,予測は可能なことである。

 ちなみに,転入した教員は初任者を除いてすべてが同じ自治体の学校から異動している。

 立て直しを教育委員会が図ろうとしているのであれば,

 「選りすぐり」が集められたのかもしれない。

 学校評価で,保護者からのアンケートの結果も見てみた。

 「生徒がよく挨拶をし,服装や頭髪などに気を使い,交換(ママ)が持てる。」

 公開しているデータに誤字が含まれているのは言語道断だが,

 (学校評価を教育委員会が見ていないのも明白。指導主事は仕事をせよ。)

 注目したいのは,「好感がもてない」という回答の割合が40%もあることである。

 「学校はよいこと,よくないことをきちんと指導し,学校のルールを守らせている」

 の回答も,「守らせていない」が40%近くである。

 改めて,生徒の授業アンケート結果に目を向けると,

 質問項目は,全教科について,

>わかりやすいか

>進む速さはちょうど良いか

>授業のルールは守られているか

>興味が持てる内容か

>わからないことを質問できるか

>全般的に満足できるか

 が問われている。

 ある教科の,特定の学年の結果だけが思わしくない。

 特に,「授業のルールが守られていない」が突出していて,7割近くに至っている。

 ちなみに,ほかの教科は,1割未満のところもあるし,多くても3割程度であった。

 中学校では「学級崩壊」は起こりにくいが,これは「授業崩壊」である。

 学校が「荒れる」原因の一つに,この「授業崩壊」がある。

 学級担任が悪い,ということではない。

 ほかの教科ではきちんと授業が成立しているのに,特定の教員のときだけ,

 崩壊する。

 非常勤講師が授業を担当している可能性もあるので,1年で異動した教員との関係は予想でしかないが,

 「惨状」が公開されているのは,今の時代らしい。

 この中学校の場合,もう一つ,予想できるのは,

 「力のある教師が(教科を担当する教師も含めて),中3に偏っている」ことである。

 これも荒れている学校で多く見られる現象である。

 進路をひかえた中3に「人的資源」を投入する。

 だから,必然的に中1がおそろかになる。

 授業のアンケートの結果からも,中1が全体として悪い数字が目立つ。

 これは,地域の小学校が荒れていたときにも見られる現象であり,一概に中学校教師の力量の問題だとは言えないが。

 ちなみに,この中1は121人で4クラスである。

 学校側も必死だっただろう。

 あと1人,生徒が転出してしまうと,3クラスになってしまう。

 教員の数も減らされるし,1クラス40人学級となる。

 2年以降も緊張状態?は続く。学校にとって,死活問題である。

 「荒れた学校」という地域での評判は,学校選択を実施している地域では,「生徒数の減少」という結果を招く。

 気の毒なことに,近くに「人気の高い」中学校がある。

 学校として,危機感の共有が前進のエネルギーに向かえるかどうかが問われている。

 
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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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    「楽毅」第四巻より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より