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ICT教育も,主体は児童生徒であることを忘れずに

 実際のところ,教師がコンピュータを使うよりも,子どもに使わせたが話は早いし,より効果的な教育活動となる。

 教室で教師一人がコンピュータをのろのろと操作して,子どもは目と耳だけで情報を追いかけている場面を見かけることがある。

 子どもはその場だけ,分かったような気になるが,自分で頭を使ったり,苦労したりしていないので,すぐに忘れてしまうのである。

 プレゼンソフトの場合,子どもの反応によってコースウェアの進行方向を変えないといけないから,何通りもの「ルート」をつくっておく必要がある。実際には100個つくっておいたリンクの2個しか使わないということもある。

 こういう無駄な労力を使っていたのは,私の場合は20年前のことである。

 数年前からは,中学生のICT活用能力を高めるため,授業支援ソフトを活用して,PC室で学習する時間を年間計画に組み込んである。

 教員機にはディスプレイが2つあり,1つは自分の画面,もう一つは,生徒たちのPCを操作するための画面になっている。

 生徒が個別に調査したり,情報を編集しているときは,生徒全員の作業画面を見ながら,進行状況をチェックしている。

 この画面は,プロジェクタで大型スクリーンに映すこともできる。

 ある生徒がいい情報を入手した場合や,優れた作品を完成させた場合に,その生徒の画面をほかのすべての生徒の画面に転送することもできる。

 そこで生徒に操作させながら,説明してもらうこともある。

 教師画面を生徒に一斉送信して説明する場合もあるが,それなら教室で授業するのとかわりがない。

 授業の導入,途中の段階,まとめの段階でアンケート機能を使うと,子どもの理解度や興味関心の方向性を確かめることができる。

 全員が回答を終えると,瞬時にグラフ等で結果を示すことができるので,自分とほかの生徒の考えの違いに気づくこともできる。

 今のところ,採点の機能はないが,小テストを実施して,全体の理解度をチェックすることもできる。

 ある程度,教師の方で作成した文章のデータを教材として配布して,そこに意見を書き込んでもらったものをプリントし,提出させることもある。

 授業全体への意見や感想は,アンケートで打ち込むと,そのままエクセルのデータとして生徒に返すこともできる。

 この意見文集・感想文集というのはかなり読み応えがあり,一斉授業で一人ずつ発表して,それを39人が聞く,の繰り返しをするような時間のロスがない。

 ICT教育が授業の質を変えるというのは,教師の指導技術の向上という面も大事だが,

 そんなことはもう20年も前に,できる人はできるができない人はできないことがわかってしまっている。

 今も同様だろう。そもそもPC室は学校に1つだけあるのが普通だから,上に紹介した授業をすべての教師が行うことはできない。

 それよりも,児童生徒がICT機器に慣れ,それを使いこなすことを教えるのが教師の役割である。

 プレゼンづくりに精を出すのもよいが,それよりももっと児童生徒に作品をつくらせ,発表させ,批評し合い,さらに作品の質を向上させる,そういうPDCAサイクルを短い時間で実現するような教育が求められている。

 時代に乗り遅れないように。

 できるだけ早めに,実践している学校を訪問して,無理・ムラ・無駄のないICT教育に慣れていってほしい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より