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指導力不足の教員に不足しているものとは?

 指導力のある教師と指導力不足と見られてしまう教師との違いは,

 子どもに情報を伝える場面からも明らかになってしまう。

 全く同じ内容を一字一句変えずに伝えたとしても,

 実際に子どもに「伝わっている」ことには雲泥の差がある。

 これは,動画を配信するなら可能かもしれないが,

 文字だけで伝えるネット上の世界では伝わりにくい。

 なぜ「伝わり方」が異なってしまうのか?

 そもそもの子どもからの信頼度が違う。

 つまり,子どものその先生を見る目が違う。

 そういうこともあるだろう。

 声の大きさが違う。
 
 声の張りが違う。

 態度が違う。

 熱意が違う。

 抑揚が違う。

 子どもの目を見て話しているか,そうでないか。

 子どもへの伝わり度を確認しながら話しているか,そうでないか。

 聞く側の姿勢や聞く位置を整えてから話しているか,そうでないか。

 聞く側の子どもがどういう子どもかを理解していて話しているか,そうでないか。

 だれが最も「伝わりにくい子どもか」を理解して話しているか,どうか。

 などなど,「同じ内容を話している」のに,

 その「伝わり方」が異なっているというだけで,

 その後の子どもの行動に雲泥の差が生じてしまう。

 だから,ネット上で実践例を出すとしたら,

 「何を伝えたか」ではなく,

 「子どもがどうなったか」を示さなければならない。

 どこまで,その力が向上したのか。

 学力調査(「学力テスト」と呼称してしまうと,その価値が半減する)では,小6のときの状況と中3のときの状況を比較したい。

 中学校でどのように改善したのか,あるいは,「退化」してしまったのか。

 そこから,「どこが問題だったのか」「どこにその成果の源があったのか」を探るのが

 教育の実践研究である。

 ただこういう授業をやりました,という報告だけでは意味がないのである。

 指導力不足教員というのは,以上のような「考え方」ができない。

 だから,根本的に,自己教育力不足人間であることから変えていかなければならないのだ。

 自分に指導力が不足しているのではないか,

 という自覚がある教員は,たとえ「指導力不足教員」という評価を下されても,

 現場に復帰する見込みのある人である。


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コメント

指導力不足の教員には決定的な違いがあります
それは動機付けの部分、今から学ぶことに興味を持たせ、おもしろいことが始まるという引き込み方が、足りないというより全く無い!

どうしてこの人が先生になったのかその制度を疑う。

当然、授業を聞いても見てもおもしろくないから、騒いだり、内職したり、くだらないから別の科目の教科書を開いたり、それを凄んで見せて統制がとれているかのような勘違いの先生かなりの確率で存在していますね。

そう、よく見たら7~8割そういう先生ではないでしょうか

勿論、そういう先生は、勉強することは嫌いで、誰かにおもしろいと言う動機付けされたことは一切なし。仕方なく○●したとかで、就職先もおぼつかず、仕方が無いから先生になったと言う人が多い。

でそういう駄目先生が先輩にいて新人はこんなものでいいと思ってしまう。
悪循環のサイクルが完全に成立してしまっています。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より