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日本の「右傾化」と教育政策の動向

 日本人は,自分たちが「右傾化」しているという実感をもっていない。

 政府が多文化主義の失敗を叫ぶこともないし,外国人排斥を訴えるデモも起こらない。

 何をもって日本全体が「右傾化」しているといえるのか,わかりやすい指標が見当たらないのが日本の特徴だが,私が危惧しているのは,「一気に傾く」「一息に傾く」という日本人らしさがどこで始まるか,ということである。

 これまで,「右傾化」を阻む最大の機関は「公立学校」であり,その担い手が教員だった。

 組合の組織率が低下していることは,別に「右傾化を阻む人間の減少」によるものとは考えられないが,バランスがとれる人間を学校が育ててきたかと問われると,そうとも言えない感じである。

 もし日本の「右傾化」が進んでいるとして,その進行度を速める機能を果たすとすると,それはやはり学校とマスコミにあると思われる。

 過去の失敗を繰り返さない・・・これは,「右傾化」を阻む立場の人たちの合い言葉であったが,それが,「戦争はだめだ」などという当たり前の言葉のみの繰り返しでは,何の意味もない。

 どのような失敗が,なぜ起こったのか。なぜ,戦争が避けられなかったのか。それを追究するなかで,

 たとえば外交では粘り強さが大事,世論に振り回されないことが大事,首相のリーダーシップが大事など,教訓を抽出する作業を社会科や歴史の授業では繰り返していかなければならない。

 戦争の悲惨さなど,だれでもわかる。感情だけで子どもをコントロールするやり方では,

 過ちはかえって繰り返されるだろう。

 内閣府の「外交に関する世論調査」によれば,中国に親しみを感じないと答える人の割合が,1980年の20%前後から,2013年の80%まで,ほぼ右肩上がりで増え続けている。

 憎しみに対して憎しみでお返しすることの危険性を最も認識すべきなのは,だれだろう。

 韓国の場合はほぼ40~60%の幅に収まっている。

 評論家の山本一郎氏は,プレジデント2014.5.19号で,このように述べている。

>いま日本社会が抱える右傾化という命題は,単に内向きで民族主義的だという観点からの発想ではなく,むしろ国内経済や世界政治の中で日本人が精神の根底に宿した危機意識の現れであり,防衛本能に依拠していると考えられます。

 危機意識が精神の根底に宿すのはいいのだが,実際に起こす防衛行動が極端すぎるものにならないように,長期のビジョンを描き,それを国民とともに磨き合い,よりよい選択肢を増やすことが政府に求められる仕事である。

 そして,そこでそれなりのリーダーシップをはかるべきなのが教育を司る文部科学省なのだが,

 会議の一部を英語で行うなど,多国籍企業の物まねを慌てて計画(何と人間まで連れてきて)するようなバタバタ営業をしているようでは,本当に先が思いやられる。

 教育政策の動向は,教科書の記述に対する声明,次の指導要領の改訂に向けての動きから探っていく。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より