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「子どもを見る目が変化するとき」とは?

 教師を次の4タイプに分けてみよう。

 弱者に優しく,悪者に厳しい。

 弱者に優しく,悪者に甘い。

 弱者にも悪者にも厳しい。

 弱者に厳しく,悪者に甘い。

 さすがに,4番目のタイプの教師は少数しかいないだろう。

 しかし,たった一人でもいると学校はぶちこわしにされるので,注意が必要である。

 問題は,弱者に優しく,悪者に甘いタイプと,

 弱者にも悪者にも厳しいタイプとでは,どちらの教師の存在が重要か,ということである。

 私の考えは,「両方とも必要だ」というもの。

 ちなみに,こういう「役割分担」ができないのが小学校の最大の弱点だろう。

 中学校では,子どもは様々なタイプの大人にかかわれることが望ましい。

 みんな同じようなタイプでは,私などは気持ち悪くて居づらくなってしまう。

 だれもが弱者には優しく,悪者には厳しくできればいいように思われるが,

 「悪者」は自分のことを棚にあげて,すぐに「不公平感」を口にする。

 だから,悪者に厳しい教師は,ときとして弱者にも同じような態度で接しなければならないときがある。

 これは「公平性」を重視すれば,やむを得ない。

 しかし,「公正さ」から言えば,「悪者」は「悪者」だから,ほかの生徒とは異なる扱いを受けるのである。

 悪者に甘くするのは,

 「学校の荒れを食い止める最善の策だ」

 とする超後ろ向き・超消極的な弱小教師集団というものがあるはずだ。

 弱者に優しくしつつも,悪者を「キレさせないこと」に全力を尽くす人たち。

 そういう人も,ときと場合によっては必要である。最低限の秩序を維持するために。

 ただ,みんなそうでは学校は悪くなるばかりである。

 ここまでは,教師経験がない人にもわかってもらえることではないか。

 今日のテーマは,ここで取り上げた「弱者」と「悪者」に対する教師の「目」は,

 どのようなきっかけで変化するのか,ということ。

 多くの教師にとって,両方とも手強い存在である。

 いじめられているのに「いじめられています」と言えない子ども。

 どう見てもいじめているのに,「いじめてません」と言い張る子ども。

 こういうケースでは,「いじめは存在しない」ことになってしまうおそれがある。

 教育の世界というのは,こういう話ばかりである。

 第三者の目と,子どもの考え,感覚,主張,とらえ方は,食い違うのが当たり前。

 正義感あふれる若い教師は,

 自説を語って子どもたちを理解させようとする。

 しかし,うまくいかない。

 なぜ,自分の気持ちが伝わらないのかと,じれったい気持ちになる。

 授業でも同じような光景が見られるようになる。

 この次のステップは,

 子どもの言うことを素直に受け入れられるようになる。

 一方がAと言い,もう一方はBと言っても,両者を責めたり否定したりしない。

 しかし,これでは何も先に進まない。

 さらに次のステップに移行できるかどうかである。

 教師が素直に子どもの話を聞くのは大事だが,それは,

 子どもが教師の話を素直に聞けるようにするための手段であり,目的ではない。

 目的は,「弱者」を強くし,「悪者」に「悪」を自覚させ,反省を促すことにある。

 「子どもの見る目が変化するとき」というのは,

 子どもが教師の目を見て,「悟る」ことができるようになるときのことである。

 指導に当たっている教師の目をよく見てみよう。

 そこに足りないものや過剰なものがないか,吟味してあげよう。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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