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教科書の採択をより開かれたかたちで行うために

 どの教科書会社の教科書も,学習指導要領に示された内容をしっかりと習得し,目標が達成できるように工夫して編集されており,文部科学省の検定も受けている。

 昔,文部科学省のチェックが甘すぎて間違いだらけだったという社会科の教科書があったが,これは例外的なものである。

 教師の立場からは,基本的に,「どの会社の教科書でも授業ができなければおかしい」と言えなければならない。

 ここに書かれているこういう記述は気に入らないから,この教科書は使いたくない,というのはただのわがままである。

 教師という職業は,基本的にわがままを押さえる立場の人間がいないものだから,

 少しは「上司」(管理職)に「上司らしい」仕事をさせようという行政側(首長側)の動きも生まれやすい。

 しかし,教師を監督しなければならない立場の人間までがわがままになってしまったら,

 もうだれにもとめられなくなる。

 「どんな教科書を使ってもいいじゃないか」という主張もわからないではないが,

 「A社やB社ではなくC社を使っている理由」をきちんとした根拠をもって答えることをすべての教師に求められたら,それこそたまったものではない。

 「C社の営業の人が熱心で」「C社には金銭的にいつもお世話になっていて」なんていう〈本当の〉理由が暴露されたら,だれが責任をとれるのだろう。

 教科書は,「採択した後」の声も重視すべきである。

 ただシェアが高いからいいものだと思って使っていたら,あまり力がつかないことがわかったので,他社と比較検討してみると,やはり課題があることに気づいた・・・・などという発見があったとき,その考えをきちんと集約できる仕組みは整っているのだろうか。

 教科書採択は,かたちのうえでは,すべての教師が比較検討し,長所短所を集約した結果として,「わずかな差」で特定の会社の教科書に決まる,という仕組みになっている。しかし,手元にはなく,どこか遠い場所にまとめておいてある教科書をくまなく読んで比較する暇など普通の教師にはない。
 
 教科書の採択理由の作文を書くのも大変な作業である。

 教科書会社では,採択のための作文をつくってあげて,自社のが採用されやすいようにアドバイスするという作戦を考えて実践する。

 このような教科書の「決まり方」の問題の解決を考えてくれるのは,いったいどこだろうか。

 それは,自治体しかない。それも,首長側の人間しかいないのかもしれない。

 自治体の責任者は,より透明性の高いかたちで決まる仕組みをつくり,採択までの動きを公開していくべきである。

 そこには,もっと親目線,いや,子ども目線での「学ばせたい教科書」「学びたい教科書」の声を集めていく工夫もすべきだろう。

 「そんなことはできないに決まっている」という声も聞こえてきそうだが,

 たかが教科書採択と言わずに。

 一事が万事,という状況からの脱却を自治体には図ってほしい。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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