教師への不信感が生まれる理由
教師がすべての親から同じような意味で信頼・信用される方法はあるのだろうか。
学力を高めるという面からは,なかなか難しい。
学力については,大昔の相対評価の時代とそう変わらない。
できる子どももいれば,できない子どももいるのが当たり前である。
授業が十分にできてない子どもの親の中には,それを教師のせいにしたがる人がいる。
教師が「全員に同じことをしているだけだから,できないのは子どものせい」なんて言い訳したら,
「できる子とできない子を一緒にするからだめなんだ」なんて反論されかねない。
「個に応じた指導の充実」を約束していない学校は少ない。
教育課程届にもし書かれていたら,
「届け出通りの教育をしていない」ことを責められることになる。
ただ,多くの親は,それを教師のせいにはしないだろう。
日本は税金で教育に力を入れる必要のない豊かな国である。
子どもの教育の充実は,親の経済力に応じて可能であり,サービスも多様である。
一般的な親が教師への不信感を高めるのは,
生活上で生じる問題への対応に対してである。
ある教師は,子どもが怪我をしたり,トラブルに巻き込まれたりしたとき,
必ず保護者に電話やメールで連絡を入れる。
クラス替えをした後の教師は,そういうことを一切してくれない。
問い合わせないと,答えてくれない。
問い合わせてみても,「私は知らない」と答える。
子どもが保健室で治療を受けるような怪我をしても,
「知らない」と言う。
こういう教師の姿が不信を高めるのは,そういう教師でも理解できるのではないか。
しかし,理解できることと,実行することに大きな隔たりがあるのが
今の学校現場である。
いずれ,国は施設だけを用意し,人間や道具に税金の投入する必要がない時代がやって来るだろう。
迷惑をこうむるのは,全力を尽くしている教員である。
あとから考えれば,「自分で自分の首を絞めていた」と批判されるかもしれないが,
大きな変革というのは,首を絞めている人間がいなくなった後に起こるものである。
« 「教育にお金をかけろ」と言う資格のある人 | トップページ | 原爆を「投下した理由」ではなく,「投下できた理由」がわかる本 »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「教職教育」カテゴリの記事
- 「総合的な学習の時間」の指導ができるように教育できるのはだれか(2019.11.24)
- 生徒との対話の中から自然に目標達成へのルートをつくる(2018.12.26)
- 私でなくてもいい,私ではない方がいい(2018.12.14)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
「仕事術」カテゴリの記事
- ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力(2017.12.04)
- 準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト(2017.11.26)
- 歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの(2017.11.19)
- 教師の成長力を奪う力(2017.11.19)
- 成長をとめないために(2017.11.18)
「教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事
- 遠慮しないで情報を提供しろ!~いじめを見逃す環境との戦い(2018.12.29)
- 偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激(2018.12.22)
- 子どもから有能感を奪い取る方法(2018.11.25)
- 量より質が大事なものと,質より量が大事なものとは?(2018.04.23)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
「教育実習」カテゴリの記事
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
- 鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点(2017.12.23)
- ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力(2017.12.04)
「教員の評価」カテゴリの記事
- 私でなくてもいい,私ではない方がいい(2018.12.14)
- ペーパーテストだけで「評価」ができる「教科」はない(2018.05.26)
- 子どもの人間関係に対する不感症の影響力(2018.03.28)
- 自分のダメさを完全に棚上げできる才能の伝授(2017.12.29)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
« 「教育にお金をかけろ」と言う資格のある人 | トップページ | 原爆を「投下した理由」ではなく,「投下できた理由」がわかる本 »
コメントありがとうございます。記事の方で,私の考えをお伝えします。
投稿: kurazoh | 2018/11/12 20:27
私は先生という言葉が嫌いだ。先生という言葉の存在が人間を増長させ勘違いさせていると強く感じている。
若いころから先生、先生と持ち上げられれば、自分は偉くて特別な立場にあると勘違いして増長し、高慢天狗、高飛車天狗になってしまうのも無理はない。私自身もそれで保護者や生徒からの信頼を失った苦い経験がある。
ではそのような高慢天狗、高飛車天狗になってしまわないためにはどうすればよいのだろうか?
答えは単純明快。先生という呼び方を一切禁止すれば良いのだ。さん付けにすれば良いではないか。
投稿: 森田先生(元森田先生) | 2018/11/11 14:17