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2014年4月

日本の「右傾化」と教育政策の動向

 日本人は,自分たちが「右傾化」しているという実感をもっていない。

 政府が多文化主義の失敗を叫ぶこともないし,外国人排斥を訴えるデモも起こらない。

 何をもって日本全体が「右傾化」しているといえるのか,わかりやすい指標が見当たらないのが日本の特徴だが,私が危惧しているのは,「一気に傾く」「一息に傾く」という日本人らしさがどこで始まるか,ということである。

 これまで,「右傾化」を阻む最大の機関は「公立学校」であり,その担い手が教員だった。

 組合の組織率が低下していることは,別に「右傾化を阻む人間の減少」によるものとは考えられないが,バランスがとれる人間を学校が育ててきたかと問われると,そうとも言えない感じである。

 もし日本の「右傾化」が進んでいるとして,その進行度を速める機能を果たすとすると,それはやはり学校とマスコミにあると思われる。

 過去の失敗を繰り返さない・・・これは,「右傾化」を阻む立場の人たちの合い言葉であったが,それが,「戦争はだめだ」などという当たり前の言葉のみの繰り返しでは,何の意味もない。

 どのような失敗が,なぜ起こったのか。なぜ,戦争が避けられなかったのか。それを追究するなかで,

 たとえば外交では粘り強さが大事,世論に振り回されないことが大事,首相のリーダーシップが大事など,教訓を抽出する作業を社会科や歴史の授業では繰り返していかなければならない。

 戦争の悲惨さなど,だれでもわかる。感情だけで子どもをコントロールするやり方では,

 過ちはかえって繰り返されるだろう。

 内閣府の「外交に関する世論調査」によれば,中国に親しみを感じないと答える人の割合が,1980年の20%前後から,2013年の80%まで,ほぼ右肩上がりで増え続けている。

 憎しみに対して憎しみでお返しすることの危険性を最も認識すべきなのは,だれだろう。

 韓国の場合はほぼ40~60%の幅に収まっている。

 評論家の山本一郎氏は,プレジデント2014.5.19号で,このように述べている。

>いま日本社会が抱える右傾化という命題は,単に内向きで民族主義的だという観点からの発想ではなく,むしろ国内経済や世界政治の中で日本人が精神の根底に宿した危機意識の現れであり,防衛本能に依拠していると考えられます。

 危機意識が精神の根底に宿すのはいいのだが,実際に起こす防衛行動が極端すぎるものにならないように,長期のビジョンを描き,それを国民とともに磨き合い,よりよい選択肢を増やすことが政府に求められる仕事である。

 そして,そこでそれなりのリーダーシップをはかるべきなのが教育を司る文部科学省なのだが,

 会議の一部を英語で行うなど,多国籍企業の物まねを慌てて計画(何と人間まで連れてきて)するようなバタバタ営業をしているようでは,本当に先が思いやられる。

 教育政策の動向は,教科書の記述に対する声明,次の指導要領の改訂に向けての動きから探っていく。


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予算獲得のための「新政策」より重要なこと

 新しい世の中の動きに素早く反応して,適切な対応を行わなければならない仕事がある一方で,

 そのような動きに翻弄されずに,足もとの問題を地道に解決していかなければならない仕事もある。

 後者の代表は教育である。

 外交は,一見すると前者に属するように思われるが,地道な交渉が大事ということを考えると,常に変化にばかり目を配って右往左往してはならないから,教育に似たような面がある。

 残念ながら,国の政策では,「今までのものをしっかり実現させること」は人間の努力によるものであり,

 カネをかけるべきものは,「何か新しいもの」という信仰があって,多くは無駄遣いという結果に陥っていく。

 教育政策のトップに求められる資質というのは,ほかの分野で言えば外交に近いと思われる。

 とにかく長いスパンでの国益の追求が求められる分野である。

 とりあえず必要そうな新しい種をまく,というのも大事だが,そこばかりに目がいってしまうような政策をしていては,やがて民間のパワーの方にたよらざるを得なくなる。

 日本の場合,国が教育に予算をつぎ込まなくてもいいのは,

 民間のパワーへの信仰が高いからであり,そこにお金をかけるだけの経済的なゆとりが国民にあるからである。国家予算に占める教育分野への支出(多くは人件費だが)の割合が低いことは,国民や民間の教育がパワーをもっているからである。

 外交の仕事ですら,民間のパワーが輝くことがあるが,やはり外交は国の仕事である。

 会社の利益よりも,国の利益のためにはたらいてほしい。

 教育の分野で,会社の利益のためのはたらいている人を頼った方が,

 国の利益のためにはたらいている人を頼るよりも自分のためになる,

 と考える人が増えることは,教育だけでなく,外交などの面でもマイナスになる可能性がある。

 「ゆとりのなかで生きる力を育てる教育」がもてはやされたとき,

 すかさず「学力低下」を問題視し,

 国の利益のためにはたらいた人を叩いたのは,民間のパワーである。

 そして,民間の仕事が増えていった。

 近視眼的に見れば,その方が多くの人にとって,プラスになる。
 
 しかし,長い目で見て,この傾向が続くことが,どのような結果を招き,

 それがどれだけ日本にとってマイナスなのか,それを語るべきであるのが教育行政のトップである。

 今のままでは,郵政民営化のような事態が教育分野でも起こりかねないし,

 その方がいいのではないか,という人が増えている段階に来ている。


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長野の「生徒による授業の5段階評価」に注目

 評価項目は学校ごとに設定できるようだが,「満足度」を評価するということで,

 教師の側としては「生徒を満足させること」に力を注がなければならない,というメッセージが発せられたことになる。

 公立学校の野球部の顧問をしていたころ,もし「部活動の満足度」を私が評価されたら,

 かなり低いものになるはずだと考えられる。しかし,実際の数字には現れない。

 「もっと練習が厳しくなるのが恐ろしい」からである。

 これが,授業となると,どうなるだろうか。

 テストの問題が非常に易しく,評価が甘い先生に対する「満足度」が向上するのだろうか。

 テストの問題が非常に難しく,本当に必死に学習しないと,高い評価がもらえない先生に対する「満足度」はどうなるのだろうか。

 そもそも,生徒に対して,教師は授業や学習のどういうところを「満足」させることをねらっているのだろうか。

 絶対評価のようだが,学校で参考にしてみるとおもしろいのは,

 教員全体の相対評価である。

 A先生よりB先生の方が,生徒を満足させている,ということが数字でわかるようになる。

 生徒は,授業のどこに「満足感」を感じるのだろうか。

 各生徒の成績との相関関係も調べてみるといいかもしれない。

 さらに,もともとその教科が好きなのか,嫌いなのか。

 得意なのか,苦手なのか。

 学力がどんどん向上し,生徒の満足感もぐんぐん伸びているような教師の存在が明らかになる。

 学力は向上していないが,生徒の満足感が伸びているような教師も。

 学力は向上しているものの,生徒の満足感はそれほどでもない教師。

 学力が向上せず,満足感もない教師。

 「人気投票ではない」などの,事前の生徒に対する指導が最も重要であることは,言うまでもない。

 「言語活動の充実」をめざしているのであれば,文章記述とセットにしておきたい。

 満足度は~です。なぜならば・・・・。根拠がしっかり書けることが,信頼できる評価の前提であることも,言うまでもないことだろう。


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具体的なものばかりを求める質の低い教育論

 孫子の兵法書は,抽象的な書かれ方をしている。

 だから,戦場での経験が不足している者には,使いこなせない。

 これと正反対なのが「教育書」の類であろう。

 そのまま小学生に読ませてあげればいいような「板書の仕方」などが具体的に示されている本が売れている。

 教育は,「戦い」と同じで,生きものである。

 戦いでは,敵軍の将が賢かろうと愚かであろうと,

 こちらの想定通りに動いたり止まったりしてくれるとは限らない。

 天候の変化が,移動の速度を遅めたりすることもある。

 細かく具体的に書けば書くほど,自在性を失い,それが味方の全滅に結びつきかねないのが「兵法」である。

 「教育法」の授業が抽象的すぎると,学生は何を言っているのかわからない。

 だから,こういうときはこうしろ,ああいうときはこうしろと教えるのだろうが,

 教わっていない事態に遭遇すると,何もできなくなる。

 教育実習では,こういう場面がよくあるが,そこでどのくらい「学ぶ」ことができるかが,

 教師になるべき人間か,なるべきではない人間かの境目であろう。

 戦場に出ればすぐ死んでしまうのがわかっている人間に武器を持たせるべきではない。

 臨機応変。

 そのために必要な教師の力量とは何か。教養とは何か。

 大学のカリキュラムに何が欠けているか。

 大学の試験に何が欠けているか。

 広島大学医学部を卒業した学生に貼られることになるレッテルが気の毒である。


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堅気の人間として「民間人校長」を擁護すれば・・・

 「民間人」とはいえ,コンビニのバイトをしている若者が「校長」になれるわけではない。

 コンビニのバイトをしている若者には管理能力はない,ということを言いたいわけではない。

 そもそも,なぜ「民間人校長」が求められるようになったのか。

 それは,「教員集団」があまりにも閉鎖的で,前例踏襲主義的で,教育の未来への閉塞感がぬぐいきれないことが背景にあった。

 教員たちに,閉鎖性・閉塞性への危機感が共有されていなければ,「民間人校長」の肩身は相当狭いモノになるだろう。

 一般の教員というのは,
 
 校長に「何を運んできてくれること」を最も強く望んでいるのだろう。

 多くの場合,「優秀な教員」である。非常勤の講師も含む。

 明らかに「指導力不足教員予備軍」のような教員が異動してきたり,

 絶対に採用試験に合格しそうにない講師を採用したら,まずは校長が白い目で見られることになる。

 それが特に顕著なのが小学校というところらしい。

 小学校の校長というのは,

 現場の教員にとって,

 「いかにいい学校に転勤させてくれるか」でその存在価値が決まるものらしい。

 「ベテランが2人抜けたあと,初任者が2人入りました」なんてことになったら,

 「戦犯扱い」されかねないのが校長なのだそうだ。

 もちろん,校長が人事を決めるわけではないが,

 教育委員会の人事担当者にコネがある校長なら,その希望は通りやすくなる。

 最近は,現場から教育委員会に出て,校長として戻ってきた方が,
 
 「私の情報網を利用したいだけ利用して,私には何の見返りもしてくれなかった」とぼやいていたが,

 そういう「義理人情では動かなくなったヘンな世界」になってしまったという面もある。

 さて,次に,校長に運んできてほしいと教員が願うのは,「カネ」である。

 民間人校長の学校には,予算がつきやすい。

 それは,学校を変えるアイデアをもって採用されているわけで,

 採用した手前,そのアイデアを実現させる予算をつけなければ,「契約違反」のような状態になる。

 しかし,残念ながら,「釣った魚にえさはやらない」という世界はここでも顔を出す。

 最後に,私なら,これを運んできてほしい,と民間人校長に願うのは,

 「ヒト」である。

 地域に顔を出し,学校に協力してくれる人を,少しでもたくさん集めてきてほしい。

 これは授業をもち,子どもの教育に全力を注がなければならない教員にはなかなかできない仕事である。

 公立学校には,カネがない。
 
 必要なのは,カネがなくても動いてくれる善意の人たちである。

 私の父がそうだったのだが,よく貧乏な家なのに,運動会やら何やらで学校にご祝儀を納め続けられたものだと感心している。

 どうして無償で尽くしている学校に,オカネまで落とさなければならないのか,子どもの私には理解できなかった。

 学校の管理運営上の実質的な事務仕事は,ほとんど副校長や教頭が代行できてしまうことは,多くの人が気づいていることだろう。

 管理職というと内向きだが,経営者と呼んであげれば,いつも学校にいない校長だったとしても,

 学校に集まってきてくれる地域の人たちの笑顔でその仕事の価値や意義に気づいてくれるはずである。


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情報の価値は受け手の「思考力」次第で決まる

 どんな情報にも,受け手次第で価値が決まる。

 「そんな考え方をしているから,だめなんだ」と批判するような内容なら,

 「批判されるという価値」があるから,役に立つ。

 私は新聞のスクラップを中学生時代から始めて,もう30年以上がたつが,

 新聞には,「健康」をテーマにした内容など,「使い回し」がめだつ記事がある。

 こういう記事の場合,私には新たに読む「価値」を感じないが,

 新聞社の側からすれば,

 その都度,新しい読者が目にすれば,「価値」を感じてくれるから,繰り返し使えるものなのだ。

 学校の教師も,こういう「使い回し」の情報を発信することが多いだろう。

 4月から教師になった人も,来年は,今年と同じ内容を教えることになる。

 学習指導要領が改訂され,教科書の内容が変わらない限り,教える内容は同じはずだ。

 それがずっーと,繰り返されてきたのが「教育」という世界の常識である。

 しかし,中には「そうではない」という自覚をもっている人がいる。

 こういう教師によって,今の教育界というのは支えられているのだが,
 
 やがていなくなるのではないか,という危機感をもっているところが多いだろう。

 学校の場合,「受け手」の「思考力」はそれほど高くはない。

 だからこそ,「発信側」の工夫が必要なのである。


 さて,情報の価値は,受け手の「思考力」次第で決まる・・・

 というのは, 東洋経済オンラインで読んだ「ニッポンの大学の”ジレンマ”とは?」

 から感じたことである。


 ここでは,大学院での面白い授業が紹介されていた。

 先生が書いた論文や本を「叩き台」にして,

 要約してはいけない

 褒めてはいけない

 賛成してはいけない

 という規則のもと,理論的批判からあら探しまで,何でもあり
 
 というムードのなかで,学生が先生を攻撃するという授業。

 今の日本で,

 こういう授業ができる大学の先生,

 こういう授業で「攻撃できる」大学の学生は,どのくらいいるだろうか。

 あら探しのような情報のとらえ方をしている学生からも,

 何かを学ぼうとする姿勢をもつ教師が,どのくらいいるだろうか。

 自分の心がいかに狭く,人間の器がどれだけ小さいかを喜んで宣伝して,

 かつ得意げになっている哀れな教育ブロガーがいるが,

 まさに雲泥の差である。


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指導力不足の教員に不足しているものとは?

 指導力のある教師と指導力不足と見られてしまう教師との違いは,

 子どもに情報を伝える場面からも明らかになってしまう。

 全く同じ内容を一字一句変えずに伝えたとしても,

 実際に子どもに「伝わっている」ことには雲泥の差がある。

 これは,動画を配信するなら可能かもしれないが,

 文字だけで伝えるネット上の世界では伝わりにくい。

 なぜ「伝わり方」が異なってしまうのか?

 そもそもの子どもからの信頼度が違う。

 つまり,子どものその先生を見る目が違う。

 そういうこともあるだろう。

 声の大きさが違う。
 
 声の張りが違う。

 態度が違う。

 熱意が違う。

 抑揚が違う。

 子どもの目を見て話しているか,そうでないか。

 子どもへの伝わり度を確認しながら話しているか,そうでないか。

 聞く側の姿勢や聞く位置を整えてから話しているか,そうでないか。

 聞く側の子どもがどういう子どもかを理解していて話しているか,そうでないか。

 だれが最も「伝わりにくい子どもか」を理解して話しているか,どうか。

 などなど,「同じ内容を話している」のに,

 その「伝わり方」が異なっているというだけで,

 その後の子どもの行動に雲泥の差が生じてしまう。

 だから,ネット上で実践例を出すとしたら,

 「何を伝えたか」ではなく,

 「子どもがどうなったか」を示さなければならない。

 どこまで,その力が向上したのか。

 学力調査(「学力テスト」と呼称してしまうと,その価値が半減する)では,小6のときの状況と中3のときの状況を比較したい。

 中学校でどのように改善したのか,あるいは,「退化」してしまったのか。

 そこから,「どこが問題だったのか」「どこにその成果の源があったのか」を探るのが

 教育の実践研究である。

 ただこういう授業をやりました,という報告だけでは意味がないのである。

 指導力不足教員というのは,以上のような「考え方」ができない。

 だから,根本的に,自己教育力不足人間であることから変えていかなければならないのだ。

 自分に指導力が不足しているのではないか,

 という自覚がある教員は,たとえ「指導力不足教員」という評価を下されても,

 現場に復帰する見込みのある人である。


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能率を向上させるために仕事を増やす

 読書編でご紹介したことですが,つい2週間ほど前は,同時進行の仕事が5つくらいあって,なかなか頭の中の整理がつかず,混沌とした感じではかどらなかったのに,仕事がさらに増えて10個以上になると,なぜか不思議に頭がはっきり・すっきりしてきて,能率もあがり,次々にこなせるようになってきました。

 どうやら,数が少ないと,余裕というより油断が生じて,頭がしっかりと働いてくれないようです。

 仕事は多くなればなるほど,優先順位を意識せざるを得ないようになります。

 ただ,重要な仕事と,自分がやりたいと思っている仕事(研究)が異なっているため,

 優先すべき順番と実際にやっている順番は食い違っている。

 でも,こういう仕事の進め方が,結局は効率的で,しかも,効果的なのかもしれません。

 いくつかの仕事を同時進行することで,

 「全体像」というか,「おおもとの目的・目標」などを見失わないですみます。

 仕事は「組み合わせ」のパターンによって,新しい目標や課題が発見できたりして,

 個別のおもしろさ以上のものが実感できるようになります。

 教材研究も,生徒理解も,1点重視,1点突破では,うまくいかないかもしれません。

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「嫌いな人」「嫌いな子ども」をつくらない方法

 小学校時代の話で中学生からよく耳にするのは,

 「担任のお気に入り」「担任からの嫌われ者」の話である。

 ある小学校では,男性教諭が,(何年生の話かは,あえてここではふせておき,ご想像にお任せしたいと思う)

 休み時間に,「お気に入り」の女子を膝の上に乗せて歓談していることがあったという。

 この話は「焼き餅」の感情で語っている面もあるようだが,

 われわれ中学校の教師から見れば・・・いや,世の中のあらゆる父親(母親も?)の目から見ても,

 「あり得ない」話である。

 一方,「嫌いな子ども」の存在も,教室内ではっきり認識されるようで,

 「よく怒られる」「怒られ方がほかと違う」「いいことをしたときは無視される」などの

 「仕打ち」の状況が語られる。

 ここまで露骨な犯罪的行為,人権侵害行為が起こるのはごく一部の学校だろうが,

 同じ人間であることから,

 どこで起こってもおかしくないということも実感できることだろう。

 教師の立場なら,

 「子どもを嫌いになりたくない」が,「嫌いになってしまう自分がいる」ことに悩んでいる人もいるだろう。

 教師に向いていない人のパターンを明確に指摘すると,

 「できなければいけないことができない子ども」が嫌いになるような人間。

 こういう人間は,教師になってはならない。

 「私の言ったことを,言われた通りにしない子ども」が嫌いになるような人間。

 こういう人間は,親にもなるべきではない。

 思い通りにならないことが世の中にどれだけあるか,

 ほとんど経験しないで教師になる人間がたくさんいる。

 残念ながら,同じように,親になる人間もたくさんいる。

 教師の仕事とは,何なのか。

 親の役割とは何なのか。

 それが自覚できるだけで,「嫌いな人」や「嫌いな子ども」は激減する。

 教師として残念なことは,それが自覚できないわがまま人間が同じ教師として目の前にいる現実である。

 こういうのは,素直に「嫌い」になるべきである。

 ただし,我慢してつきあわなければならない。

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エベレスト登頂のための「犠牲者」たち

 ヒマラヤ登山の現地ガイドを示す「シェルパ」・・・・もともとは,ネパールの少数民族の名前である。

 エベレスト登頂のためのガイドの仕事は,世界で最も危険なものの一つだろう。

 肉体的・精神的な負担が大きく,依頼者からのときに無茶な要望にも応えなければならない。

 報道では,シェルパと登山家との間のいざこざが紹介されていたが,ある登山家は,

 20年来の不満が表面化したものではないか,という趣旨のコメントを発表していた。

 夢の実現にまっしぐらに進む「依頼者」とは違って,

 「仕事」としてエベレスト登頂をめざす人たちの気持ちは,

 どのようなものだと理解すればよいのか。

 ふと,教師の仕事と重なるあるイメージが浮かんだ。

 私たち教師は命の危険を冒してまでの仕事をしているわけではないが,

 「この程度の力量の自分たちに,ここまでの要求をされても実現は難しいだろう」という思いを抱いている。

 公務員だから「暴動」を起こすわけにもいかないが,

 私たち教師は,何をめざして今の仕事をしているのだろうか。

 ときにはとてもつらい思いをする。

 よかれと思ってしたことが,裏目にでることも多々ある。

 そこで,大切なのは,「目標」を設定することなのだということに思い至る。

 きっと,シェルパも「ただのガイド」という意識ではないはずだ。

 私たちは,何なのか。

 教育基本法が掲げている目標もある。

 その実現のために全力を尽くすことを公務員になるときに宣誓している。

 でも,それだけで満足してはいけない。

 もっと具現化可能な具体的な目標を設定し直さなければならない。

 これぞという目標を,同じ学校の教師全員が共有して,教育という仕事にあたるべきである。

 それでも子どもの入学式を優先する,という教師がいるのが日本の「公務員」という

 「理想の職業」の特色である。


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全国学力調査を学力向上に直結させるために

 全国学力調査の結果公表の課題については,本日はふれないことにする。

 学力向上への道を,各自治体は示していくべきである。

 学力向上には,「復習」が不可欠である。
 
 学校の定期考査の問題の解き直しを,どのくらい丁寧に指導しているかによって,学力の学校間格差が生まれるという仮説を私はもっている。

 もし自治体がそれを学校任せにせずに,リーダーシップを発揮して学習のあるべき姿を示したければ,

 学力調査の問題の正解,模範解答例,問題への基本的な取り組み方,応用問題などの情報を豊富に提供するべきである。

 最も優秀な教師に「解説」させて,それを動画で公開する。

 こういう取り組みが塾や予備校でしかできないから,

 「学力向上は学校ではなく,塾や予備校の仕事」のようになってしまい,

 東京都の高校のように,塾や予備校に試験問題をチェックしてもらうような事態に陥るわけである。

 問題は,解いただけでは学力は向上しない。

 それをすぐに活用することが,学力向上の近道である。


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一人も見捨てないつもりの教師が全員を見捨てている教室

 教師が子どもを「見捨てる」とは,どのような態度をとることを指すのだろうか。

 私は,教師がいなくてもできることを子どもだけでやっているとき,そのように感じる。

 あるいは,だれか「見捨ててはいけない」子どもに教師がつきっきりになっているとき,

 ほかの「見捨ててはいけない」子どもが見捨てられているように見える。

 「見捨てないすすめ」とは,「見捨てるすすめ」に他ならない。

 
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原爆を「投下した理由」ではなく,「投下できた理由」がわかる本

 戦争ができる国にする方法は,自国民に,戦争をする相手の国の人間に対する憎悪をかきたてることにある。

 逆に考えると,戦争をしかけられないようにするためには,危ない国の人間たちに,「憎まれるより愛されること」をし続けることが大切だということがわかる。

 オリバー・ストーンは著書「語られてこなかったアメリカ史」で,国家のあり方に対する警鐘を鳴らしてくれている。

 やや長くなるが,翻訳書『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 1 2つの世界大戦と原爆投下』(早川書房)の一部を紹介する。

 「原爆投下は必要なかった」と堂々と語れるアメリカ人は少数派だろう。

 歴史の授業ではそんなことは習っていないし,もし授業でそういうことを主張したら,総攻撃にあってしまうだろうから。

 「なぜ原爆を投下したか」ということについては,「戦後体制の主導権を握るため」など,多くの分析がなされているが,ここでは記さない。

 日本人がわかりにくいのは,「なぜ原爆が投下できたか」=「なぜ恐ろしい兵器による無差別大量殺人が可能だったのか」という点であるが,次の内容を知ると,納得できてしまう。

**********************

 アメリカ人は日本人に対して深い憎しみを抱いていたのである。・・・・(中略)・・・・戦時中にアメリカが使ったプロパガンダは邪悪なナチス指導者と「善良なドイツ人」を慎重に区別していたが,こうした区別は日本人には用いられなかった。《ニューズウィーク》誌が一九四五年一月に論じたように,「今回の戦争ほどわが国の兵士が敵を憎み,殺したいと考えた戦争はいまだかつてなかった」のである。
 歴史学者のジョン・ダワーによれば,アメリカ人は日本人を害虫,ゴキブリ,ガラガラヘビ,ネズミと見なした。サルの比喩も多用された。・・・(中略)・・・《タイム》誌は「日本の一般市民は思慮分別に欠け無知である。ひょっとすると人間かもしれないが,それを示す証拠は・・・皆無である」とコメントしている。ワシントンのイギリス大使館は,アメリカ人は日本人を「名もなき害虫の群れ」と考えていると本国に書き送り,大使はアメリカ人が普遍的にもつ「『皆殺しをも辞さぬ』反日感情」を伝えた。一九四五年二月,ヨーロッパから太平洋方面に転属になった有名な従軍記者アーニー・パイルは述べた。「ヨーロッパでは,われわれの敵はどれほど残忍で凶暴であろうとも,まだ人間だった。しかし,ここでは日本人は人間以下と見なされ,ゴキブリやネズミのように嫌悪されていることに私はほどなく気づいた。」(316~318ページ)

**********************

 黒人を奴隷として酷使したような,「人種差別」というレベルを通り越していたことは明白だろう。

 日本人は人間ではなく「害虫」なのだから,原爆を投下することによる「良心の呵責」など生まれなかったのではないか,とさえ思えてくる。

 『「感情」の地政学』(早川書房)で,ドミニク・モイジはこう語っている。

 西洋社会にとっての「恐れ」の根源は,未来に対する支配の喪失にある。もはや自分たちがグローバリゼーションを支配できなくなったという現実を受け入れざるを得ない試練にさらされている。

 日本は,まだ西洋社会の基準に沿って,というか後追いをして,グローバル化を進めようとしているが,「その先」を見通す必要があるだろう。

 「民主主義」「国民主権」という原理が,何を生んでいくか,想像をたくましくしておかなければならない。


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教師への不信感が生まれる理由

 教師がすべての親から同じような意味で信頼・信用される方法はあるのだろうか。

 学力を高めるという面からは,なかなか難しい。
 
 学力については,大昔の相対評価の時代とそう変わらない。

 できる子どももいれば,できない子どももいるのが当たり前である。

 授業が十分にできてない子どもの親の中には,それを教師のせいにしたがる人がいる。

 教師が「全員に同じことをしているだけだから,できないのは子どものせい」なんて言い訳したら,

 「できる子とできない子を一緒にするからだめなんだ」なんて反論されかねない。

 「個に応じた指導の充実」を約束していない学校は少ない。

 教育課程届にもし書かれていたら, 

 「届け出通りの教育をしていない」ことを責められることになる。

 ただ,多くの親は,それを教師のせいにはしないだろう。

 日本は税金で教育に力を入れる必要のない豊かな国である。

 子どもの教育の充実は,親の経済力に応じて可能であり,サービスも多様である。

 一般的な親が教師への不信感を高めるのは,

 生活上で生じる問題への対応に対してである。

 ある教師は,子どもが怪我をしたり,トラブルに巻き込まれたりしたとき,

 必ず保護者に電話やメールで連絡を入れる。

 クラス替えをした後の教師は,そういうことを一切してくれない。

 問い合わせないと,答えてくれない。

 問い合わせてみても,「私は知らない」と答える。

 子どもが保健室で治療を受けるような怪我をしても,

 「知らない」と言う。

 こういう教師の姿が不信を高めるのは,そういう教師でも理解できるのではないか。

 しかし,理解できることと,実行することに大きな隔たりがあるのが

 今の学校現場である。

 いずれ,国は施設だけを用意し,人間や道具に税金の投入する必要がない時代がやって来るだろう。

 迷惑をこうむるのは,全力を尽くしている教員である。

 あとから考えれば,「自分で自分の首を絞めていた」と批判されるかもしれないが,

 大きな変革というのは,首を絞めている人間がいなくなった後に起こるものである。


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「教育にお金をかけろ」と言う資格のある人

 「給料分の仕事はしている」と自分で判断する人間がいる。

 どのような人間が口にする言葉か,だれでもわかるだろう。

 指導力のある教師は,ICT機器などに頼らなくても,学習指導要領が求めているものを実現する力をもっている。

 教育につぎ込まれてきた「無駄なお金」の意味もよくわかっている。

 「何にいくら,どうして必要か」を語ることができずに,ただ「お金を増やせ」というのは愚の骨頂である。

 教育現場の危機は,教員免許をもっている教師よりも,

 子どもの学力を向上させたり,やる気を出させたり,才能を伸ばしたりできる人が世の中にはたくさんいることである。

 「無駄なお金」が何を指すかは言うまでもない。

 莫大な人件費の部分にメスが入り始めると,

 「教育にお金をかけろ」と叫んでいる指導力不足の教員自身が危うくなっていく。

 今は,「学ぶ」ための材料はネット上にあふれかえっている。

 この利用を進めることで,人件費のコストが半分以下に,成果が2倍以上に,

 あわせて4倍以上の効果が現れた・・・・などという実践成果がでないように,

 全力を尽くして手を抜かなければ,自分の身が危うくなる人間がいる。

 多くの人が,「公教育の充実を」と叫んでいるが,

 「公教育の何をどう充実させるべきか」という問いの答えは,

 現場に出てみれば一目瞭然である。

 そこを語らなければ,日本の教育は絶対に変わらない。


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注目される東京都立高校入試の採点ミス対応

 大阪だけでなく,東京でも,あってはならない入試の採点ミスが見つかっている。

 不合格だったはずなのに合格になった生徒はラッキーだったとして,

 その逆の生徒には気の毒だった。

 もう進学先の高校での授業や生活が始まり,部活動などへの参加も始まっているかもしれない。

 私立高校に進学した生徒はどうなるのだろうか。

 東京都教育委員会は,慰謝料を支払うことも検討しているという報道があった。

 さて,問題は今後の動きである。

 東京都の入試採点業務は,それこそ気の遠くなるような厳重チェックを行って,絶対に間違いが起こらないように実施されてきたはずである。

 だから,ミスがあった高校で,「こんなに何重ものチェックは必要ない,負担を軽減していこう」なんてこともあったとは考えられない(もし本当にそうだとしたら,大変重い処分が下ることになるだろう)。

 大阪府の高校の先生は,少しほっとしているのではないか。

 「東京でも同じじゃないか」と堂々と主張できる。

 大阪でも,テストを「マークシート方式」にして,教員のミスが起きない仕組みが検討されている。

 東京都で「マークシート方式」にGOサインが出たら,他の県も次々に追随するだろう。

 教員としてはそっちの方がラクでもあるから。

 ただし,記述式の問題もあるから,教員の採点業務が全くなくなるわけでもない。

 (私が密かに心配しているのは,

 記述式問題の採点が本当に適正に行われていたのかまで調査を入れ始めると,

 きりのないことになりそうだということである。

 これが都立の中高一貫校にまで波及すると・・・・。

 入試採点・合否判定には,とてつもない労力と神経を使う。

 公立高校の教師は,入試採点業務のときに特別ボーナスが出るという私立高校の教員をうらやましく思っている。)

 いよいよ,マークシート方式の開始か。

 本番で「塗り間違え」をする生徒はたくさんでてくるだろう。

 こっちは受験生の責任になるから,高校はラクである。


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「わかりやすい授業」とは?

 ~が~であることが,「すっきり」理解できた・・・・

 こういう感想が出されるのが,「わかりやすい授業」の典型でしょうか。

 しかし,そこには2つの落とし穴が待っているかもしれません。

 1つめ。

 1週間後,それが「わかっていたかどうか」を確かめる問いを出してみます。

 すべての生徒が,その答えをノートに書くことができるでしょうか。

 「わかったつもり」になっただけで,知識として定着していない・・・・・

 生徒が活用できない一過性の「なるほど感」ほど役に立たないものはありません。

 2つめ。

 そもそも,本当に「わかった」と言える状態なのか。

 以前にも書きましたが,たとえば,

 「鎌倉に幕府をおく地形的なメリットとは?」の答えは,

 「三方を山に囲まれ・・・」

 で「わかったつもり」になっている生徒は少なくありません。

 山が森で覆われている状態でなければ,敵の攻撃目標である自陣が丸裸の状態になってしまいます。

 
 「わかりやすい授業」というのは,学力向上にとっての「敵」かもしれないということを自覚しておくべきです。

 
 生徒が自分の力で,どのように考えたら答えに近づけるかがわかりやすい授業を目指すべきです。


 森の中を子どもが自分の足で歩いて,

 高いところに登り,

 視界が開けて下が見渡せる,

 そんなイメージの授業を展開したいものです。


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消えた小1担任教師

 兵庫県芦屋市の小学校で起こった,「学級減」の問題である。

 教育委員会事務方の連絡ミスによって発生した。教育委員会の事務方の異動は7~8月にすれば,こういうミスはなくなる。

 141人なら5クラスだったが,140人が正しい児童数だったせいで,急きょ,1クラス減にして新クラスを編成し直すことになったらしい。

 気の毒に,担任をもつことになっていた教師が一人,担任からはずされた。

 極端な話,はずされた教師は他校に異動させられる場合もある。

 4月1日付,着任。7日付,転任(異動)。

 実際にどうなったかはわからないが,小学校の場合,実力のある教師は担任からはずれることはない。

 教師の力量がそろっていれば,最も力量がある人が学年主任となり,全クラスに何らかの形でかかわれるようにできるのだが・・・。

 1クラス28~29人の規模だったはずが,上限の35人になった。

 話はそれるが,29人と35人の違いは,それほど大きなものだろうか?

 小規模校だと,新入生が36人の場合,

 18人×2学級となる。

 教員の数を増やしたい学校側としては,18人でできれば万歳,といったところだろう。

 少なくすれば,学力は向上するか。

 否,である。

 一方の18人は学力が向上しても,もう1つのクラスは学力向上どころか学級崩壊,というおそれもある。

 保護者の不公平感は募る。

 だから,小学校は毎年のようにクラス替えを行い,教師を入れ替え,

 満足も不満足も「平等」にする。

 小学校の教師の力量の違いはとてもわかりやすい。

 40人でもその子どもたちの力を最大限に伸ばせる教師は,18人学級ではもったいない。

 そういう教師をある学校に集中させてみてはどうか。

 その小学校への進学希望が増えて,抽選になる。

 必ず,40人(35人)という定員は満たされる。

 その他の小学校は,自然と少人数指導ができるようになる。

 少人数指導なら成果が上がる,というのなら,この方法が一番よいのではないか。

 
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「若手教師」は何を一刀両断したかったのか?

 わずか半月で更新されなくなってしまった5年目の先生のブログ。

 自校の教師への評価は,それなりに参考になるものだった。

 どういう教師が「指導力がない」と言えるのか,具体例を示してくれていたからだ。

 5年目くらいになると,20年選手よりもいい仕事ができてしまうのが学校現場というところである。

 同じ「教諭」という立場であり,給料を除けば「上下関係」はない。

 中学校は本当に残酷な場所で,

 たとえば部活動の指導ができない教師が,部活動のさかんな学校に異動になると,

 露骨に「はずれ」扱いされてしまう。

 管理職や周りの教師たち,そして生徒までもが「がっかりしている」様子を感じて

 1年目から「早く異動したい」と焦っている教師は少なくないはずである。
 
 「若手教師」さんは,こういう問題は扱っていなかった。

 教師の具体的な行動の問題点を指摘していたのである。

 もしかしたら,自分なりの「改善方法」を同僚の先生方に示すので忙しいのだろうか。

 学校は,教師が変われば変わる。

 部活の話では,教師が替われば変わる,という面もあるが,

 こういう場面ではこういう指導が望ましい,ということが新たに体得できれば,

 授業も生徒指導も見違えるように変わってくる。

 ヒステリー・ママと同じレベルでぐちぐちと長ったらしく「お説教」しても,何も変わらないことくらい,

 1年目の教師でもわかる。

 それでも自分の欲求不満を生活指導で晴らそうとしている教師には,「お説教」してあげるしかない。

 こういうことに力を注ぐ方が,まさに「生産的」だろう。


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教育実習に向けての不安を解消するために

 本ブログを訪問してくださった方々の検索キーワードを調べると,

 「知りたいことのそのものズバリ」の答えがないものもあります。

>不安 教育実習

 からお越しの方は,大学生かどうかはわかりませんが,

 5月ころの教育実習をひかえて,不安でいっぱいの方を想定した記事を書こうと思います。

 ここでは,最も不安要素が多くなりがちな中学校での教育実習を想定します。

 
 まず,あなたが教育実習生として自覚すべき最重要のポイントは,

 「私を育ててくれるのは,生徒たちである」ということです。

 これは教師になってからも,変わらない教育の大前提です。

 「教師は,生徒に育てられる」のです。

 指導にあたる教師に育てられるわけではありません。

 発問のタイミングがどうとか,板書がどうとか,声がどうとか,いろいろ言ってくると思いますが,

 はじめからできる人はともかく,教壇に初めて立って2週間や3週間で簡単に上達できるものではありません。

 指導の教師が教えてくれることは,自分が教師になってから上達できるようにがんばればよいのです。

 まだ教員免許すら持っていない実習生に求められるものは何かと言えば,

 「子どもから学ぶ姿勢」くらいしかないのです。

 
 指導案はもう完成しましたか?

 その指導案で授業をするとして,あなたは子どもから何を学び取れそうですか?

 もし,少しでも「これでは子どもから学ぶことができない」と思ったら,すぐに考え直して下さい。

 
 不幸にも子どもから学ぶことを知らない教師が指導に当たるような場合には,

 穴埋めプリントなどをやれと強要されるかもしれませんが,

 どっかから言葉を平行移動して写すような作業は「学習」ではありません。

 知恵を使って,それを宿題か何かでごまかせるように細工しましょう。


 「子どもからどんなことが学べるか」を自分の中の大きな目標にして,

 「子どもが~ができるようになる」「~が~であることを自分の言葉で表現できるようになる」

 ことを授業のねらいとして,それを実現させるプロセスをしっかり考える。

 指導案づくりの基本です。


 授業の評価は,「子どもが~ができるようになったか」

 「~が~であることを自分の言葉で表現できるようになったか」です。

 
 それが達成しなかったことを,単純に子どものせいにしてはいけません。

 自分が用意した学習のプロセスは,適切だったのか。
 
 資料は多すぎず,少なすぎず,難しすぎず,役立っていたか。


 当たり前の話ですが,大学生といっしょにやっている模擬授業では,

 生徒は大学生であり,中学生ではありません。

 
 中学生はどこでつまずき,どのくらいの時間で理解できるのか。

 やってみなければわからないでしょう。

 
 指導案ができたら,指導にあたる教師に,予想を述べてもらって下さい。

 その予想通りにならなくても,

 あなたが学べることはたくさんあるでしょう。

 今日はひとまずここまで。


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親が日本中から叩かれる子どもをどう救うか

 政治家の子どもでもなければ,まさか自分の親が日本中から叩かれる日が来るとは思わない。

 それも,親が自分のことを思っての行動をとったことが理由となって。

 擁護の声が上がるのは当然のことだが,叩く人間がいるのは同じ教師でなくてもわかる。

 尾木ママは「校長が悪い」というコメントをしたようだが,

 私もその通りだと考えている。

 決して,親が「悪いこと」をしたと考える必要はない。

 子のためを思う親の心をしっかりと受け止めて,それは引き継いでほしい。

 ただ,日本という国の残念なところは,

 公務員が「理想の生き方」をしているように思われる一方で,

 一般企業の人たちが「理想の生き方」をしにくい状況にあるということである。

 叩いている人間たちの中に,

 「うらやましい」という怨嗟の声を聞く必要もある。

 日本のなかでも「幸せな子ども」であることが公の事実となってしまったことが,

 残念ながら他人から見ると不幸の始まりだった。

 幸・不幸は基準の取り方で変わる。

 人は他人に迷惑をかけたり,

 障害をもつ人を差別したりすることをしなければ,

 自分に都合のいい基準で生きる権利がある。

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賞をとった人と,逃した人の違い

 賞をとった人は,

 「賞をとれるような仕事ができてうれしい。」

 「このような賞をたとえとれなくても,自分の仕事を評価してくれる人がいるので,うれしい」

 「賞になんか意味はない」

 と言える。

 賞を逃した人が,

 「賞なんか意味ない」と書けば,それは「負け惜しみ」になる。

 「出てくるな」で終わり。

 「出なければならなかった」というのも,ただの「言い訳」である。


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30年前の亡霊が漂い続ける大阪

 校内人事を選挙で決めるという「ご当地ルール」を30年以上にわかって守り続けていた中学校があったらしい。

 こういう時計が止まったような事態が,学校という現場では平気で受け継がれている。

 明るみになるまで30年もかかったのだが,改革は1か月でできるはずだ。

 今は,隠し続けた退職校長たちへの聞き取り調査が実施されているだろう。

 4月の教育委員会は暇な時期である。2週間もかからずに実態が把握できるだろう。

 学校を改革するのに一番手っ取り早いのは,

 力のある校長と教務主任を他校から異動させることにある。

 これができないのが大阪の一部の地域の中学校だった。

 私がここが最も大きい問題だと考えている。

 30年前と言えば,校内暴力で大変だった頃である。

 それよりも,管理職と教員の対立が激しかった頃と言った方がよいかもしれない。

 だから荒れていたのだと私などは思っている。

 非行に走る中学生の中には,両親が不仲であることがすぐわかる子がいる。

 大人の組織が割れている場所で子どもがまともに育つはずがない。

 片方の親が,もう一方に子育てを丸投げしているような家庭も同様である。 

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自分の子どもと「教え子」のどちらを大切にすべきか?

 自分の子どもの入学式に出るために,担任をもつことになる自分の学校の入学式を欠席した教師と,休暇を認めた校長の倫理観が問題になっている。

 YAHOO!ニュースには多数のコメントが寄せられており,関心の高さ,意見の言いやすさが伺われる。

 どちらと言えば,「休むのは許されるだろう」という意見の方が多いようだ。

 「3年後の卒業式も休むのか?」という厳しい追及?の声も聞かれるが・・・。

 まあ,「病気・通院による休暇」と偽って入学式に出ているわけではないので,

 あとは「公務員とは何か?」「教師とは,どのような仕事か?」という職業倫理にかかわる問題というわけだろう。


 血のつながりのない「教え子」たちが集う「学校」という組織よりも,「家族」を優先すべきである,

 ということを入学式で「教える」ことにした県立高校。

 とても勇気のいる「教育」だ。

 他人よりも肉親を大事にしよう。

 入学式でこういうメッセージを送るインパクトは大きい。

小学校や中学校なら,もっと大騒ぎになっていたと思うが,高校なら,担任などだれでもかまわないだろうというのが私の考えである。むしろ,入学式に出てきた方が保護者に不安を持たれる教師がいるかもしれない。

 世間の常識が通用しないのが公立学校というところである。

 大阪市には,人事を教員の選挙で決める中学校があるくらいなのだから。

 まさに「ソビエト」である。

 公立高校で,校長によるまともなコントロールがきくのは東京都くらいではないだろうか。

 一生懸命コントロールしている東京都ですら,様々な問題が起こっている。

 岡山県からは「532人処分」というニュースも届いている。

埼玉県の県立高校では,むしろ,担任以外で頼れる先生がいる,ということに気づける方が,価値のあることだったのかもしれない。

 高校生に一言。

 担任が入学式にいないくらいで慌てる必要はない。

 儀式的行事に重きを置かない高校なのだから,気楽でいいだろう。

 堅苦しく生きる必要はない。

 「自分の都合を優先する」というレベルのものも含めて,「自由」を謳歌してほしい。 

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ブログで「負け惜しみ」を綴らないですむ人生を

 批判を「嫌み」と受け取るのは,自分の犯した失敗や力不足を棚上げしてしまう,「反省力」のない人間である。

 人に迷惑をかける行為を注意されて,「私に不快な思いをさせた!」「皮肉を言われた!」とキレる高齢者が増えないことを祈りたい。


 教育の世界で一番みっともないのが,

 「あなたの学校は生徒が優秀でいいですね。それに引きかえ私の学校は・・・」

 という教師の「言い訳」である。

 こういう話を聞くと,私は次のような言葉を返したくなる。

 「では,こちらの学校にいらっしゃいますか?」

 「ある先生は,この学校で一人前になるのに10年かかったという言葉を残していますが,10年がんばれますか?あなたなら,もっと早くに成果を残せそうですか?」

 自分が教師としての力を発揮することができないのは,子どもが悪いからだ・・・・・・

 という趣旨のブログが,教師や元教師の綴る教育ブログに散見された(最近はほとんど見ていないので,実例を挙げることはできないし,してはいけないというのがぶろぐ村の方針である)。

 「本来の仕事ではないことに,これだけ時間を費やされている」

 ことをとくとくと書いていたブログもあった。

 そのブログを書くのに時間を費やすことが,「本来の仕事」ではないことは言うまでもない。

 常識的な教師は,こう思う。

 「それは本来の仕事だろう」

 ・・・・残念ながら,そういう感覚を持てない教師がいるのが現実である。
 
 ブログの世界で一番みっともないのが,

 「負け惜しみ」としか感じられないものである。

 それが共感を集めて,多くの人たちを「癒す」効果があれば,それなりの価値があると言えるのだろうが,

 ただの「負け惜しみ」を「褒められて」喜んでいるという情けない人間がいる。

 人の活動の価値は,「何を褒められてうれしいと感じるか」である程度はかることができる。

 イチローが最多出場記録を祝福されても,反応しない,というのは本当にイチローらしい。

 こうやって「人にこびない」生き方,「言い訳」をしない生き方ができる人のブログが

 教育の世界にも広がってほしい。


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特定の子どもを排除する感覚をもつ憂鬱な教師たち

 障害をもつ子どもへのあたたかい対応は,子どもたち同士ではうまくできているケースが多い。

 学校の場合,それをぶちこわすきっかけになるのが教師の態度である。

 教師のなかには,障害をもつ子どもや問題行動をよく起こす子どもが学級にいると,そういう子どもたちへの個別指導や保護者との緊密な情報交換が必要になるため,

 「余計な時間がかかる」と露骨に嫌な顔をする人間がいる。

 そういう態度は,いくつかの指導場面を通じて子どもたちには容易に伝わるようになる。

 「こんなやつ,いない方がいいんだ」

 という感覚は,大人から伝染していくと,手に負えないものになってしまう。

 「この子はいやだな」と感じやすい面をもつ子どもに,「承認」「保証」を与えてしまうのが大人=教師である。

 良識のある教師からみると,こういう特定の人間を排除しようとする傾向をもつ教師は,非常に憂鬱な存在である。

 よく言われていることだが,教師集団がぎくしゃくしていると,子ども集団も悪くなっていく。

 だから,どんなに憂鬱な教師に対しても,

 そういう感情は全く表面に出さず,何の問題もないように接しなければならない。

 憂鬱な人間を排除しようとする心のはたらきは,

 間違いなく子どもに悪影響を与えることになる。

 教育の場とは何か。

 それは排除の場ではない。

 そういう最も基本的なことがわかっていない人間が教師であること,教師であったことが,

 これからの社会の未来を暗くしてしまう。

 今後,日本で暮らす外国人の割合が増えていくことが予想される。

 今までも,摩擦が全くなかったわけではないが,それが表面化するようになると,

 ますます日本の未来は暗くなる。

 未来を変える力をもつのは,学校教育である。


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イチローの出場試合最多記録の価値と学校教育

 イチローが試合への出場数に価値を見いだすのは,もっと時間がたってからかもしれない。

 日米通算という数え方に対する疑問もあろうが,

 守備固めとか代走でしか使われないようになって,出場数が増えても,意味はないというのが今の気持ちだろうと思う。

 個人や組織にだれかが評価を下そうとするとき,

 一番わかりやすいのが「数字」で示されていることである。

 1つのアウトをどのようにとったか,

 1点をどうやって奪ったか,などということは,

 その瞬間はとても重要な意味のあるものだが,1日たつと忘れてしまう。

 高校や大学も予備校も,進学実績(多くは東大合格者数)を数字で示し,

 その「数字」につられて人が集まっていく。

 たとえば斎藤佑樹投手は,「勝ち星」をつくらなければ,いくら内容がよくても再び一軍のマウンドに立つことはできないかもしれない。

 そういう意味で「数字」が持っている力は果てしなく大きい。

 企業の業績についても,言うまでもない。


 人は,他人から認められたい,讃えられたいという欲求をもっている。

 組織は,それで支えられている面もある。

 ここで考えなければならないのは,

 学校という組織のあり方である。

 出場記録が最多の選手は尊敬される。

 これと同じような面は学校にはないのか。

 「出場数」という勝ち負けには関係のない数字の評価もプロスポーツの世界にはあるかもしれないが,

 基本的には勝ったか負けたかで評価が全く違ってくる。

 中学校には,部活動という場で他校と競う顔があり,指導者としての教師がいる。

 が,すべての部活動が強いという学校はまれであろう。

 学校(特に公立学校)を左右しているのは,教師一人一人に対する信頼度の問題である。

 「あたり」とか「はずれ」とか呼ばれる宿命のある小学校の世界では,

 優秀な教師がいれば普通の教師が「はずれ」になるという厳しさもある。

 多くの教師は,子どもの目,ほかの教師の目に敏感である。

 過剰な意識の裏返しの行動として,異常な謙遜を見せる教師もいるが,
 
 子どもと四六時中いっしょにいる環境では,「能ある鷹は爪を隠す」というわけにもいかない。

 ただ,これみよがしに自分の実践を本にして出版する暇のある現役教師などごくまれである。

 ほとんどの教師は,否定されることのない程度の「信頼性」は確保しようとして真面目に仕事をしている。

 ただ,「仕事のしやすさ」には学校によって違いがある。

 教師に「異動」によっていくつかの学校を経験する。

 そこで味わう「安堵感」「緊張感」「嫌悪感」はさまざま。

 異動したての教師が不安になる要素もさまざま。

 他人に無関心そうな教師が多ければ不安になり,

 教師たちがみんな仲よさそうにしていても,自分は仲間に加われるのかと不安になる。

 こういうとき,教師に向いている教師が教師をしているのか,

 自分が教師に向いているのかが,よくわかる。

 自分たちが経験しているのは,子どもが経験していることと同じである。

 子どもに,どういう指導をしているのか。

 教師が一番仕事がやりにくい学校とは,

 教師に向いている教師が少ない学校である。

 今,そういう学校の方が,数字で実績を残したり

 企業のような「宣伝」で衆目を集めたりすることに成功している。

 イチローのような生き方とは全く逆の人間の方が,組織では役に立つのだろう。


 イチローにも,やがてユニフォームを脱ぐ日がやってくる。

 その日はきっと,突然やって来ると思われる。

 最多出場記録というのは,本人が価値を見いだせなくても「残ってしまう」数字である。

 この記録のように,「やめてからじわじわその価値の大きさに気づいていける」ようなことを

 子どもに教えているのが教育の本当の価値だと信じていたい。


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ノーベル賞は憲法9条をつくった人に??

 憲法9条だけでなく,前文もふまえた上で判断すべきだろう。

 あとは,現状をどう考えるか,という問題もある。

 だれが考えたものであるか,という明言はできるのだろうか。

 中学校の授業で取り上げる視点は少し難しいが,

 たとえこういう「賞」をもらっても,喜んでいる場合ではない情勢が世界にはあることを踏まえたい。
 
 もっと必死に「平和」のために尽くしている人を讃えてほしいという気持ちを持たせる方がいいような気がする。


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大学は,新入生の親よりも,卒業生の親に「説明責任」を果たすべき

 教師の殺し文句には,

 「勉強って,自分でやるものです」

 「力がつかなかったのは,子どもの努力が足りなかったからです」

 「努力してもできなかったのは,もともと足りないものがあったからです」

 というものがある。

 「免責規定」みたいなもの。

 出席率などを示すことで,「真面目でない大学生活」は証明される。

 しかし・・・・。

 入学を希望する学生に,大学は何を示しているか。

 大学のPRは,いくらでもできる。

 「作文」の専門家がいるからである。

 文部科学省からやってきている人間がつくったものだというのがすぐにわかる「作文」や「デザイン」ばかりが最近は目立っている。

 学生や親を「煙に巻く」のが得意な人間が多いところである。

 しかし,そのPRの結果通りになる学生は多くはない。

 なぜ,そのような結果になったのかについての責任は問われない。

 責任が問われないものの説明をする義務はない。

 だから,夢を語っている一方で,全くそのような姿になれない卒業生が増え続けていく。

 どういう大学の話だろうか。


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教科書の採択をより開かれたかたちで行うために

 どの教科書会社の教科書も,学習指導要領に示された内容をしっかりと習得し,目標が達成できるように工夫して編集されており,文部科学省の検定も受けている。

 昔,文部科学省のチェックが甘すぎて間違いだらけだったという社会科の教科書があったが,これは例外的なものである。

 教師の立場からは,基本的に,「どの会社の教科書でも授業ができなければおかしい」と言えなければならない。

 ここに書かれているこういう記述は気に入らないから,この教科書は使いたくない,というのはただのわがままである。

 教師という職業は,基本的にわがままを押さえる立場の人間がいないものだから,

 少しは「上司」(管理職)に「上司らしい」仕事をさせようという行政側(首長側)の動きも生まれやすい。

 しかし,教師を監督しなければならない立場の人間までがわがままになってしまったら,

 もうだれにもとめられなくなる。

 「どんな教科書を使ってもいいじゃないか」という主張もわからないではないが,

 「A社やB社ではなくC社を使っている理由」をきちんとした根拠をもって答えることをすべての教師に求められたら,それこそたまったものではない。

 「C社の営業の人が熱心で」「C社には金銭的にいつもお世話になっていて」なんていう〈本当の〉理由が暴露されたら,だれが責任をとれるのだろう。

 教科書は,「採択した後」の声も重視すべきである。

 ただシェアが高いからいいものだと思って使っていたら,あまり力がつかないことがわかったので,他社と比較検討してみると,やはり課題があることに気づいた・・・・などという発見があったとき,その考えをきちんと集約できる仕組みは整っているのだろうか。

 教科書採択は,かたちのうえでは,すべての教師が比較検討し,長所短所を集約した結果として,「わずかな差」で特定の会社の教科書に決まる,という仕組みになっている。しかし,手元にはなく,どこか遠い場所にまとめておいてある教科書をくまなく読んで比較する暇など普通の教師にはない。
 
 教科書の採択理由の作文を書くのも大変な作業である。

 教科書会社では,採択のための作文をつくってあげて,自社のが採用されやすいようにアドバイスするという作戦を考えて実践する。

 このような教科書の「決まり方」の問題の解決を考えてくれるのは,いったいどこだろうか。

 それは,自治体しかない。それも,首長側の人間しかいないのかもしれない。

 自治体の責任者は,より透明性の高いかたちで決まる仕組みをつくり,採択までの動きを公開していくべきである。

 そこには,もっと親目線,いや,子ども目線での「学ばせたい教科書」「学びたい教科書」の声を集めていく工夫もすべきだろう。

 「そんなことはできないに決まっている」という声も聞こえてきそうだが,

 たかが教科書採択と言わずに。

 一事が万事,という状況からの脱却を自治体には図ってほしい。


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教職課程の教科教育の問題点

 教育実習にくる大学生が,授業の準備を始める段階で,初めて「教科書」というものにふれることが多くて驚かされる。

 大学では,中学校に教育実習に行く学生に,中学校の教科書を読ませていない。

 今の大学生は「ゆとり世代」ど真ん中だから,

 内容量が増えただけでなく,言語活動の充実が求められている今の学習指導要領に基づく教科書に対応しきれていないことが課題である。

 教員の世界では笑い話だが,

 「指導案」の書き方すら習っていない学生もいて,

 いざ書かせてみると,

 「教科書のここからここまでを読ませて」

 「この行とこの言葉にアンダーラインを引かせて」

 というのが延々と続くものがあった。

 「何?これ?」

 とたずねると,

 自分の受けた授業がそういうものだったからだという。

 こういう人は,もう一度,まともな授業を中学校から受け直さないと,

 とてもではないが現場の教師にはなれない。

 ・・・・なんてことを書くと,次々に

 「自分の先生もこうです」なんて情報が寄せられそうでこわい。

 中3のお子さんがいらっしゃる保護者の方へ,

 こんな質問をなさってみてください。

 「九州地方の一番の特色って何?」

 「古代と中世の違いって何?」

 もし,「そんなのはやったことがない」と答えたら,

 あなたのお子さんは,学習指導要領に示された内容が習得されておりません。


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「はずれ」の担任への信頼を回復させる方法

 私のブログでは,4月上旬という時期に,「小学校の担任のはずれへの対応」に関する記事へのアクセスが増える。

 今日は,「はずれた!」とがっかりしている保護者の方に,

 子どもを任せる上での教師への信頼を回復させる方法を紹介したいと思う。

 家庭訪問や,個別の面談が4月の終わりから5月の中旬にかけて行われる小学校が多いはずである。

 ここで,担任に質問してみるとよい。

 「前の担任の先生から,うちの子どものどのようなことが課題で,どのような長所があるとお聞きになっていますか? 先生から見たうちの子どもの印象は?」

 小学校の教師の「子どもを見る力」だけでなく,

 小学校という組織がまともかどうかを確かめる質問になっている。

 保護者のクレームが激しい小学校では,担任が頻繁に替わる。

 このとき課題なのは,「引き継ぎ」がきちんと行われているか,どうかである。

 絶対に引き継がれているのは,

 「問題の多い子ども」と「問題の多い親」の情報。

 そもそもクラス替えのときに,これらがあるクラスに集中しないように,考えて分けてあるのだ。

 問題は,「よい子の場合,何がどのようによいのか」を引き継がない可能性があるということである。

 「普通の子」とか「問題ない子」という表現で我が子が見られているとしたら,

 親としては非常にがっかりする。

 たいていの場合は引き継がれているはずだから,前の担任を再評価することに結びつくし,案外きちんと見てくれているのだな,と安心するきっかえになると思われる。

 さて,それがままならない場合はどうするか。

 そういうときは,担任の得意分野を知ることである。

 「先生は,どの教科を教えるのが一番好きですか?(得意ですか?と聞くのは,少しハードルが高いかもしれない)」

 苦手な教科の話は聞かなくてよい。

 まずは,教えるのが好きだったり,得意だったりする教科の授業に期待をもてばよいのだ。

 さて,そこでも不安が残るような結果になったら,どうするか?

 「先生がもし困ったことがあったら,どの先生に相談できますか?」

 さて,そこでも不安が残るような結果になったら,どうするか?

 「これから親として困ったことがあったら,どなたにどのように連絡をとらせていただければいいでしょうか?」

 さて,そこでも不安が残るような結果になったら,どうするか?

 「塾は,いつから,どういうところに行けばよいのでしょうか?」

 優秀な子どもが通っている塾の情報だけは,非常に詳しいかもしれない。太鼓判まで押してくれるかもしれない。

 「そこで勉強してくれれば,心配いりませんよ!」


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「子どもを見る目が変化するとき」とは?

 教師を次の4タイプに分けてみよう。

 弱者に優しく,悪者に厳しい。

 弱者に優しく,悪者に甘い。

 弱者にも悪者にも厳しい。

 弱者に厳しく,悪者に甘い。

 さすがに,4番目のタイプの教師は少数しかいないだろう。

 しかし,たった一人でもいると学校はぶちこわしにされるので,注意が必要である。

 問題は,弱者に優しく,悪者に甘いタイプと,

 弱者にも悪者にも厳しいタイプとでは,どちらの教師の存在が重要か,ということである。

 私の考えは,「両方とも必要だ」というもの。

 ちなみに,こういう「役割分担」ができないのが小学校の最大の弱点だろう。

 中学校では,子どもは様々なタイプの大人にかかわれることが望ましい。

 みんな同じようなタイプでは,私などは気持ち悪くて居づらくなってしまう。

 だれもが弱者には優しく,悪者には厳しくできればいいように思われるが,

 「悪者」は自分のことを棚にあげて,すぐに「不公平感」を口にする。

 だから,悪者に厳しい教師は,ときとして弱者にも同じような態度で接しなければならないときがある。

 これは「公平性」を重視すれば,やむを得ない。

 しかし,「公正さ」から言えば,「悪者」は「悪者」だから,ほかの生徒とは異なる扱いを受けるのである。

 悪者に甘くするのは,

 「学校の荒れを食い止める最善の策だ」

 とする超後ろ向き・超消極的な弱小教師集団というものがあるはずだ。

 弱者に優しくしつつも,悪者を「キレさせないこと」に全力を尽くす人たち。

 そういう人も,ときと場合によっては必要である。最低限の秩序を維持するために。

 ただ,みんなそうでは学校は悪くなるばかりである。

 ここまでは,教師経験がない人にもわかってもらえることではないか。

 今日のテーマは,ここで取り上げた「弱者」と「悪者」に対する教師の「目」は,

 どのようなきっかけで変化するのか,ということ。

 多くの教師にとって,両方とも手強い存在である。

 いじめられているのに「いじめられています」と言えない子ども。

 どう見てもいじめているのに,「いじめてません」と言い張る子ども。

 こういうケースでは,「いじめは存在しない」ことになってしまうおそれがある。

 教育の世界というのは,こういう話ばかりである。

 第三者の目と,子どもの考え,感覚,主張,とらえ方は,食い違うのが当たり前。

 正義感あふれる若い教師は,

 自説を語って子どもたちを理解させようとする。

 しかし,うまくいかない。

 なぜ,自分の気持ちが伝わらないのかと,じれったい気持ちになる。

 授業でも同じような光景が見られるようになる。

 この次のステップは,

 子どもの言うことを素直に受け入れられるようになる。

 一方がAと言い,もう一方はBと言っても,両者を責めたり否定したりしない。

 しかし,これでは何も先に進まない。

 さらに次のステップに移行できるかどうかである。

 教師が素直に子どもの話を聞くのは大事だが,それは,

 子どもが教師の話を素直に聞けるようにするための手段であり,目的ではない。

 目的は,「弱者」を強くし,「悪者」に「悪」を自覚させ,反省を促すことにある。

 「子どもの見る目が変化するとき」というのは,

 子どもが教師の目を見て,「悟る」ことができるようになるときのことである。

 指導に当たっている教師の目をよく見てみよう。

 そこに足りないものや過剰なものがないか,吟味してあげよう。


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学校教育とLINE地獄

 利便性が高い世の中では,「問題行動」「犯罪行為」に対するハードルも低くなる。

 ちょっとしたうっかりが,取り返しのつかない状態を生んだ例が群馬県から,

 モラル欠如がそのまま形に残った例が愛知県から報告されている。

 いずれも,教師の「公務員(大人)としてやってはいけないこと」がもとになっている。

 LINE自体に罪はない。

 問題を起こした人間の罪である。

 しかし,問題を起こしたり,罪を犯したりする人間への「転落のしやすさ」を助長しているのが

 LINEのような道具である。

 LINEで個人情報を垂れ流した子どもは,ある意味で「英雄」になってしまう。

 こんな例も含めて,

 小中学校では,「LINE地獄」の様相が日に日に明るみになっていくことだろう。

 問題への対応は,「寝た子を起こす」結果になり,さらに

 問題は広がっていく。

 子どもたちは,「ごまかし方」も学んでいく。

 親にコントロールすることを期待するのはまず不可能だろう。

 学校の教師にも難しいことは言うまでもないが,
 
 望ましくない「罰則規定」の誕生が予想される。

 利便性が拡大していく「天国」と,その結果として生じる問題群・・・「地獄」は背中あわせの関係にある。

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教師の夢とは何か?

 「Qちゃん」と聞いて,今の10代の人はだれのことかわかるだろうか。

 女子スポーツ界で初めての国民栄誉賞を受賞。

 日本女子陸上界で初めてオリンピックのマラソンで金メダルに輝いた。

 世界記録も出した。

 その背景にある壮絶さをノンフィクション作家の方の本で読ませてもらったが,
 
 改めて,「マラソン」という競技のおそろしさを知った。

 高橋尚子が公式的に出場した大会の回数をご存じだろうか。

 全部で12回である。

 このうち,7大会で優勝している。

 この「12回」という回数を,中学校教師の生活に置き換えてみると,

 自分が担任した子どもたちを卒業させる回数とほぼ同じであることに気づいた。

 卒業させるまでには,ありとあらゆる苦労がある。

 しかし,どれだけその苦労を乗り越えてきたかで,その卒業生への思いというのも変わってくる。

 私たち中学校教師にとっての「勝負」とは,どこにあるか。

 それは,入学してからの1週間である。

 3日間だと,まだ授業が始まっていないから,1週間にしておいた。

 この間に,3年間の「勝負」の90%が凝縮されている。

 昨年,東大理Ⅲに現役で合格した卒業との最初の出会いはまだ鮮明に覚えている。

 入学式で代表の挨拶をすることになっていたその生徒にかけた一言を,相手もまだ覚えてくれていた。

 小学校と中学校は,全く別の世界である。

 そのことを実感させるのに,「恫喝」は必要ない。

 必要なのは,どのような生き方が求められているか,それを自覚させることである。

 それは,子どもたちが初めて中学校教師というものに接することで「伝わる」ものである。

 正確に言えば,「中学校教師たち」に接することで,「伝わる」のである。

 「中学校教師」のうち,同じ学年を担当する教師たちは,「チーム」である。

 「学年主任」という「監督」を中心に,中学生を動かしていくその「チーム力」を感じさせることこそが,

 最初で最重要の中学校教師のメッセージとなる。

 独走者は許されないし,部外者的な意識の持ち主も許されない。

 3年間をよい期間とするか,台無しにするか,この1週間で決まってしまう。

 こうしたことが言える教師としてのリーダーシップを教えてくれたのが,私を動かしてくれた

 最初の学校の学年主任たちであった。

 教師の夢とは何か,まずは学年主任の言葉に耳を傾けてみよう。

 どんな3年間にしたいのか。

 教師たちにとっての3年間の夢が,「みんなでぜひとも叶えたい!」というものになっているかどうか。

 私のように,「みんなにこのように育って巣立っていってほしい」という姿を見た教師にとっては,

 言うまでもないものが「夢」である。

 別に,金メダリストにならなくてもいい。

 ノーベル賞をもらわなくてもいい。

 「夢」のために全力を尽くす人間の姿に「尊さ」を感じ,自分もその姿を追い求める人になってほしい。

 高橋尚子がどん底まで悩みきった末に発見したことは,

 「自分は走るのが好きだ」ということだったという。

 教師は何が好きで,夢を追い求めているのか。


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新任校での現状分析

 まだ子どもに自分の姿を見られてもいない新任教諭たちが,いろいろなことをしてくれている。

 学校の現状分析を丁寧に公開している人もいるが,あまり一般的ではない自分のプロフィールも表に出しているブログだから,ばれるのは時間の問題だろう。

 そういう自覚をもって,自分の学校の教師を直接的に見下すのは控えた方がよいかもしれない。

 今日は珍しく,批判された側の先生方の弁護をしてみたい。

 まず,校長に楯突いている二人の教師がいるらしい。

 職員会議が年度当初から嫌なムード一色になるのは,中学校なら避けたいところだが,

 学級王国万歳の小学校ならそれほど問題ではないだろう。

 会議以外は好き勝手にやっていればいいわけで,しつけだけしっかりしてくれていれば,

 後は学級を引き継ぐときだけ神経を使えばよい。

 小学校の場合は,「反体制派」が案外,正論を言っている場合もある。

 校長が職務命令で教諭たちを動かすような学校でないのなら,

 楯突いている教師がやっていることが法令に反しない限り,戦わせておいた方がいいかもしれない。

 それから,初任者の担当になった年配の先生の話が長いのは,

 最初だけだから心配する必要はないだろう。

 難しい質問を2~3個返してあげれば,そのうち声もかけてこなくなるような気がする。

 それぞれ,自分の「役割」をしっかり意識していて,それなりの「ポーズ」をとってくれているというだけ,

 案外「まとも」な学校かもしれない。

 企業経験が10年もあれば,今の学校の運営など,

 学級会以下の組織のように感じられるところがざらだろう。

 結局,何のフォローにもなっていなかったか・・・。

 学校だけでなく,教育公務員の職務を理解する上で大切なのは,

 副校長か教頭のところにある,区市町村教委から来る文書にときどき目を通させてもらうことである。

 都道府県や文科省からやってきて,ただの「写し」の印が押してあるものが多いことに気づくだろう。

 主任などの出張依頼も含めて年間に100~200の文書に目を通せば,だいたい管理職の仕事の概要が理解できる。

 後は,管理職目線で職場の機能を改善させていく方策を練ることである。

 文句ならだれでも言えるが,実践できる人間は一握りである。

 その一握りを一抱えくらいに増やしいかなければ,公立学校はもたない。


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教育の世界で,効率とか生産性を気にしていると,本質を見失う

 自戒を込めて,書き記しておこう。

 自分の仕事の仕方自体について,反省的に効率や生産性を問題にすることは無駄ではないだろう。

 しかし,教育という仕事に「効率」とか「生産性」の成果を求めようとすると,必ず見失ってしまうものがある。

 効率の検討に時間をかけて,時間的に非効率になっていく,なんていう問題を話題にしているのではない。

 このような「ブログ書き」という暇つぶしの最たるものに生産性などを求める「まじめさ」にどれだけ意味があるのだろうか。

 小説現代で連載されている宮城谷昌光の小説では,孫子の出番がやってきている。

 ビジネスマンに永く孫子が読み継がれている理由は,

 ビジネスの世界が「戦場」だからにほかならない。

 しかし,教育の世界には「勝ち負け」など存在しない。

 後にビジネスの世界に入って,「勝ち組」「負け組」に分類されてしまう人はいるかもしれないが,

 教育はビジネスの世界での「勝ち組」への入り方を教える場ではない。

 それでも,孫子の兵法は教育にも応用できる。

 それは,なぜか。

>智者の慮は,必ず利害を雑う

 たったこれだけの言葉を聞いても,はっとさせられる。

 こんな当たり前のことすら,日常の生活の中では忘れてしまう私たちである。

 「戦場」で活用できる知恵が,「日常」では役に立たないと言い切れる人間がいるだろうか。

 必ずプラス面とマイナス面を列挙して,比較検討する癖をつけておきたい。


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迷惑をかける範囲とその迷惑度が半端なく広く深く大きい「教員の犯罪」

 新年度が始まったばかりというのに,教員の逮捕者が続出しているようだ。

 被害者の方々には,本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。

 採用2日目で犯罪者になった教員の親は,どういう気持ちでいるのだろうか。

 親だけではない。

 その教員を育てた教師は。

 大学の教員は。

 地域の人たちは。

 親戚の方々は。

 保護者としては,再発防止を願いたいが,

 行政の立場にいた人間としては,

 本当に手の打ちようがない,という状況であることが想像される。

 まさか,採用されて2日目の教員が犯罪を犯すなど,だれが予想できることだろうか。

 研修会中に挙動不審だった教員を警察官に尾行してもらうなど,監視をつけるような仕組みが必要なのか。

 教員の立場としては,公立学校の教師たちが本当に肩身の狭い思いをしなければならないことが,

 子どもの教育にとって本当に逆効果になっていると感じる。

 「隠せばいい」と本気が考えている人間がいるかもしれないが,

 そういう発想は完全に捨て去った方がよい。

 自分のためでもある。

 「信用失墜行為」などのレベルでは済まない。

 「業務妨害」にもあたると私は考えている。

 公務員のこうした犯罪に対する罰則を強化する法改正に踏み込むことを提言したい。

 ためしに,すべての教育委員会が開く教師の犯罪に関する報告と謝罪の会見の模様は,すべて文部科学省のHPで映像を閲覧できるような仕組みをつくってみたらどうか。

 財務省も,いい加減,何か「よい防止策」を考えてくれるかもしれない。


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残念ながらそれは,「何も語っていない」ことと等しい

 私が指導主事になりたてのころ,指導主事経験をもつ校長を講師とした

 「指導講評の研修会」に参加したことがある。

 社会科の授業の指導講評だから,どう考えても私がいるグループが有利である。

 教科の専門性のない指導主事にとっては地獄の時間であったろう。

 それは,講師のコメントがとにかくキツイからである。

 教科に関する内容についての厳しさではなく,

 そもそも「講評とは何のためにあるのか」,

 「人に言葉を伝えるとはどういうことか」のような前提のところから突っ込まれる。

 このとき,私が得した気分になったのは,社会科の授業の講評だった,ということではなくて,

 今までに参加したことがある公開授業や研修会で,

 講師の言葉をすべてメモしておき,そのコツをある程度つかんでいたことであった。

 完璧な講評をしたと安堵していたら,思わぬコメントが帰ってきた。
 
 「この指導内容は今日の授業者にはレベルが高い」というもの。

 そう,指導講評とは,自分の力量をPRする場ではない。

 指導講評を受ける立場の人たちにとって,プラスになるようなことを述べる・・・・だけでなく,

 実際にプラスになるようにすることが任務なのである。

 きれいな言葉をいくら並べてみても,

 「それは何も言ってないのと同じだ」

 と思われては仕方がないのだ。

 中身がない。

 まさかとは思うが,そんなことを書いて自己満足しているとしたら,あまりに教員をバカにしている。

 初任者でもそんなことはわかっている・・・・しかし,できていない状況を,どうしたらできるようになるかを

 教えるのがプロである。

 正確には,教えるのではなく,「気づかせる」ようにするのがプロの仕事である。


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「時間を守る」ことの意義は,効率の問題ではない

 中学校の部活動の指導は,教師がまるまる抱え込んでやってしまうのが「日本式」であり,

 これが「効率がよい」などと誤解しているから,

 自分で自分の首を絞めているのに他人に文句を言っている,まさに「ミラー現象」の典型のような人間が増えてしまう。

 教師によっては,自分が専門とする教科の指導計画よりも,部活動の指導計画の方がまともに書けてしまうかもしれない。もちろん,部活で生きている教師は,そんな計画は書く必要がない。血肉となって体にしみついているからだ。

 日本のように,「部活動は教師が指導するもの」という共通認識や共通実践が当たり前のように行われているのだとしたら(行われてきたのだが),現状追認型でこれをきちんとカリキュラムに組み込み,責任を持たせるべきである。

 しかし,これでは1日が24時間では足りないし,学校現場に必要な教師が2倍必要になる。

 部活動の本来の趣旨はご存じだろうか。

 学習指導要領の総則に示されている。

 部活動は,本来の趣旨どおりに行わせるべきで,行政側は,安全や場所の管理も場合によっては業者に委託する方法を考えなければならない。

 もし部活動が本来の趣旨どおりに実施されているのであれば,たとえば集合時間の設定や,遅れてくるメンバーへの対処を考えるのは子どもたちの仕事になる。

 「全員が集まれる時間を決めろ」などはそもそも「指導」でも何でもないのだが,そういう「口をはさむ行為」も必要なくなる。

 「効率のよさ」を教育の場で語る場合,その対象は本来のところかなり限られてくる。

 多くの人が「効率がよい」と思ってやっていることは,教師にとっての「効率」であって,子どもたちの成長のための「効率」ではない。

 それを証明してくれそうな人がぶろぐ村にはいて,とてもありがたい。

 時間を守る,守らないという問題を「効率のよさ・悪さ」というかたちに置き換えて子どもに接するのは,恥ずかしすぎる。

 自分の都合に合うか合わないかで子どもの行動の意味を考える癖がある人間は,教師には向いていない。

 内田樹が教育現場で起こっていることを罵りたくなる気持ちもよくわかる。


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学校を襲う新たな〈津波〉に備える

 「注意報程度の津波」という予想で油断してはならない。

 震災と原発事故を教訓として,常に最悪を想定する癖をつけておかなければならない。

 「注意報程度の津波」がやって来るタイミングで,大きな海底地震が起こったらどうなるか。

 こういう発想が,問題行動の頻発という課題を抱える学校現場には欠かせない。

 小さい問題の発生を軽視してはならない。

 それは,大問題発生の起爆剤となる恐れがある。

 異動で新たに学校にやって来た新メンバーに,

 「原住民」が伝えるべきメッセージとは何か。

 ほんのわずかな「地面のずれ」でも見逃してはならない場所とは,どこなのか。

 ぜひ各学校で吟味しておいていただきたい。


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研究所・教育委員会・学校という3つの組織の共通点は?

 目先の「お金」を増やす場所ではない。

 「お金」に強い興味・関心がある人が,集まってくる場所ではない。

 税金でまわしていく場所である。

 問題が起こると,隠蔽をはかろうとすると思われてしまっている場所である。

 隠蔽をはかろうとしていると公表できる内部の人間が乏しいか皆無の場所である。

 「『正しいことを行っている』ことにする」のが大好きな場所である。

 すべての「公的機関」は似たり寄ったり,という印象を強めてくれる場所である。

 税金の無駄遣い,という印象を強めてくれる場所である。

 厳重なる処罰で現状の問題を処理・解決しようとすれば,

 ますます状況が悪化しそうな気がする場所である。

 99%の関係者は強い使命感をもって,任務の遂行に当たっている一方,

 どれくらいの人が現状の情けなさに憤りを感じているのかが不明な場所である。


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流行語になったら困る?「悪意のない間違い」

 ぜひとも,研究所の規定にあるらしい

 「悪意のない間違い」の定義を聞かせていただきたい。

 「悪意」のあるなしを,判断するのはだれかも,教えてほしい。

 「間違い」と「故意」の違いを判断するのはだれなのか。

 私たちの危惧は,

 「悪意のない間違い」という「言い訳」で不正や捏造をごまかそうとする人間が増えないか,ということである。

 小学校の元校長による「不正請求」がニュースになっていた。

 たった数万円のための「不正」によって,その100倍以上の退職金を棒に振る結果になっても,

 「ばれなきゃいい」という感覚が蔓延している組織が,こういう人間を生み続けるのだろう。

 (ばれてもいいというレベルに達しているのが理化学研究の世界であるとは思いたくない)

 道徳を教える資格がない人間が教育現場にいることが,

 道徳を教えさせようとしている行政の最も痛い泣き所である。


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どんな嘘でも許される日か?

 いよいよ新年度が始まりました。

 イメージ戦略がそこそこ功を奏していたためか,すでに情報統制が始まっているからか,わからないが,

 大きな混乱もなく,消費税8%時代も幕を開けたようである。

 駆け込み需要で潤ったところが,冷や冷やしながら売上のデータを眺めているところだろう。

 ここのところTVを全く見ていないので,4月1日の今日,どんな「お遊び」が展開されたのか,何の情報も持っていない。

 しかし,「嘘の情報」は,いたるところで流されている。

 人はなぜ嘘をつかないといけないのか,それを想像してあげることが,よりよい人間関係を築くために欠かせないことだというのは,頭ではわかる。
 
 ただ,感情的には全く許せない。

 自分が嘘をついている自覚すら失っている人に目くじらを立てるのはどうかとも思うが,

 そういう人たちに優しい社会が本当によい未来をつくっていくとは言い切れない。

 何しろ自分が「こういう人間はダメだ」と言っている通りのことを自分がやっていることに気付かないようになっては,もう手の施しようがない。

 自分を弁護することに必死になっている哀れな人たちが,日本を代表する研究所にもいるようだ。

 すぐにでも記者会見を開くべきである。

 しかし,おそらく組織に止められているのだろう。

 ある会見をのぞいてみた強烈な第一印象は,「組織として隠ぺいしようとしている」というものだった。

 やはり,税金のおかげで動く組織というのは,みんなこうなってしまうのだろうか。

 税金の打ち切りが怖いのか。

 あの研究所は,税金はどのように使われているかを完全に透明にすべきだろう。

 給料に見合った仕事をしているのか,調べてほしい。

 たった1つの論文のチェックすらまともにできない組織など,民間では考えられないはずである。 

 利益を上げるための組織ではない,

 利益は全く上がらないかもしれないが,社会が必要だと認めた組織であるから,税金は投入される・・・ということを子どもたちは学校で習う。

 しかし,そういう机上の話に私を含めて子どもたちは次々に裏切られていく。

 公立学校の教育がその筆頭であることは言うまでもない。

 これでは,明るい未来を担う子どもたちを育てていこう!なんて楽天的に構えていることは到底できない。

 「誤りは正す」

 こういう強い動機を持たせることが,社会をよりよくするためには欠かせないと考えられる。

 自分の誤りを認めようとしない人間,認めない組織に甘いマスコミがもどかしい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より