佐村河内氏<たち>のつくった音楽の価値
罪を憎んで人を憎まず・・・・という言葉は,簡単にはできないことだからこそ,「美しい言葉」として語られています。
佐村河内氏の作品として発表されてきた数々の音楽に深い感動を覚えた人たちは多いでしょう。
今回の佐村河内氏の会見によって,そのような人々は,<彼ら>の音楽をそれまでと同じような気持ちでは聞けなくなってしまうことは確かでしょう。
ただ,「だまされた」という強い憤りを感じている人ばかりかといえば,そうとは言えないかもしれません。
「作品自体」には何の罪もないわけです。
私は何も聴いたことがないので想像上の話ですが。
それなのに,「作品の価値」も失われてしまうとしたら,音楽を聴く人というのは,作り手への気持ち・・・作曲者が,障害を持っている人だとか,被ばく2世だとかいうこととセットにして「作品」をとらえているのだということになります。
私たちは,ストーリーの中に自分を落とし込んで・・・その置き方は人それぞれでしょうが・・・その場で感動している自分自身を感じることで満足しているところもあるのだと思います。
会見の一部の様子を見ると,音楽の話ではなく,
「障害の事実は本当かどうか」という点に多くの関心が集まっているように思えます。
聴覚障害をもっていない人の,聴覚障害に対する理解が,とても浅いものであったことを感じるきっかけにもなりました。
「診断書を見せられても納得できない」という気持ちはわかりますが,「本当は聞こえているんじゃないか」という責め方は,どの程度「あり」なのでしょう。
「今まで嘘をついてきたんだから,これも嘘なんだろう」という責め方は・・・それも障害にかかわることについての責め方は,もし障害が本当だったとき,どういう言葉を返すことになるのでしょう。
記者会見でのやりとりは,記者が絶対権力者です。
国会での議員からの質問も同じです。
国民が主権者であり,国民に知る権利があるから,当然と言えば当然なのですが,
主権者であり,知る権利があるから,
「お前,言葉が聞き取りにくいと言っているが,それは本当なのか」
「聞こえているようにこっちは感じるぞ」
としつこく責めたてることは,「権利があるからいいじゃないか」ですまされることでしょうか。
このような大人の態度に接する子どもは,まねをします。
学校では,「いじめの加害者」と「認定」された子どもが,周囲から「罪の償いの一環」のようなかたちで,逆に「いじめ」を受けることがあります。
社会的な問題,学校では問題行動の連鎖が起こらないようにするために,「私たちは正しい判断ができるようにするための情報」を知る権利を持っているのです。
ゴーストライターはこの世に何人くらいいるのでしょうか。
ゴーストライター側には何の「罪」もないのでしょうか。
今回,佐村河内氏が非難されるのと同じように,その人たちも「非難される資格」をもっているのでしょうか。
「利用していた」「利用されていた」は,
それぞれどっちの方なのでしょうか。
私が目にしている報道はごくわずかですが,少なくとも記者会見の様子からは,「偽障害者」としてのレッテルを貼り,その真偽をはかるための目の方が鋭く,ゴーストライターとの言葉の不一致と訴訟の問題が「次のネタ」だという「宣伝」をするだけで,音楽等の制作の実態に関心を向けさせてくれる情報にふれることはできませんでした。
思い浮かんだメロディーを口ずさんで,他の人がそれを楽譜におとし,編曲をする。
こういう場合も,「作曲者」は口ずさんだ人で「あり」なのでしょうか。
「共同制作者」として「訂正」する道というのはないのでしょうか。
値がつりあがった「佐村河内作品」の価値は,本当はどこにあったのでしょうか。
「現代のベートーベン」という肩書には,どれくらいの「宣伝効果」があったのでしょうか。
こうした疑問を解決してくれるような報道が現れることを期待したいと思います。
« 禁断のアンケート | トップページ | 教育に関する出版業界の不思議 »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「ニュースより」カテゴリの記事
- 止まらないビールの需要減(2018.12.30)
- 五輪ボランティアの数字を見て(2018.12.27)
- 南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。(2018.12.23)
- 愛校心によって大切なものを失った経験から(2018.12.16)
「教育改革」カテゴリの記事
- 改正教育基本法第16条の問題点(2018.12.28)
- 今,手を抜いていると,公教育の民営化が本格化したとき,・・・(2018.11.24)
- 国後島で考えたこと~日本の教育(2018.10.02)
- 都合の悪いことに目を向けさせなくする教育(2018.09.08)
「教職教育」カテゴリの記事
- 「総合的な学習の時間」の指導ができるように教育できるのはだれか(2019.11.24)
- 生徒との対話の中から自然に目標達成へのルートをつくる(2018.12.26)
- 私でなくてもいい,私ではない方がいい(2018.12.14)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
「仕事術」カテゴリの記事
- ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力(2017.12.04)
- 準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト(2017.11.26)
- 歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの(2017.11.19)
- 教師の成長力を奪う力(2017.11.19)
- 成長をとめないために(2017.11.18)
「道徳」カテゴリの記事
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 五輪ボランティアの数字を見て(2018.12.27)
- 南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。(2018.12.23)
- チコちゃんに叱られる~おやじギャグが言える年齢になると,ホンネも漏れやすい(2018.11.11)
- 道徳教育が成立するための条件とは(2018.10.31)
「教育実習」カテゴリの記事
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
- 鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点(2017.12.23)
- ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力(2017.12.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント