ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 若い先生の年寄り臭い教育現場レポート | トップページ | 嘘つきは,自分以外の嘘つきが大嫌い »

行事に熱が入る中学生が放つエネルギー

 教職課程における「実践的な学習」として最も代表的なものは,「教育実習」である。

 大学の教師は模擬授業くらいしかやることはないのか?

 そうではない。

 地元で最も「行事がさかん」な中学校と連携するのが一番である。

 部活動は「放課後の活動」であって,子どもにとっては大事だが,教師はそこに力を削がれてはならない。

 教育課程の確実な実施が求められる。

 部活動に最も近いのが,「特別活動」の時間である。

 「行事がさかん」な学校はたいてい,本来もっととるべき進路の学習や学級の時間を犠牲にして,行事の準備と運営に時間をあてる。

 その方が成果が大きいから,「伝統」をくずさない。

 生徒だけでなく,教師にも多大なエネルギーが必要だが,中学生が本気で乗ってくると,

 教師などは目ではない。

 すばらしい活動を展開する。

 こういう姿をもしも「中学生らしい」と言わないとしたら,何をもって「中学生らしい」と呼べるのだろう。

 総合的な学習の時間でそれを実現した稀有な中学校の事例を過去に紹介したが,

 行事ならば,かなりの数の中学校で「燃える生徒像」をイメージすることができるだろう。

 リーダーの成長はもちろん,クラスの団結,個人の目的意識の向上,集中力の向上といった目で見てわかる「成果」は,教科の学習活動にも波及していく。

 私の赴任した一校目の中学校は,学習,部活動,特別活動,すべて自治体トップクラスであった。

 特に,行事の盛り上がりは,他の中学校ではまず見られないほどの爆発力があった。

 特別活動がさかんだということは,学習面への良い影響だけでなく,

 下手な道徳の授業よりも道徳らしい「実践」がそこでは繰り広げられることになる。

 道徳と特別活動の関係をより重視した教育課程を組んでいる中学校があるが,これは大正解だろう。

 両者のねらいの区別をすることは大事だが,子どもにとってそんな些末なことは問題にならない。

 学校生活をよりよく過ごしていこうとする意欲の向上を支えるのは,学校行事である。

 そういう行事での中学生のエネルギーを全身で感じる時間を教師志望の人たちには経験してもらいたい。

 教育実習期間には,こういう行事は行われていない。

 教師が忙しくて実習生指導どころではないからである。

 これは実はたいへん残念なことである。

 自分の拙い授業の前でしゅんとしている中学生のイメージしか持てないで教師になった人間と,行事で燃える中学生を自分の目で見て知っている人間とでは,教師になってからの「子どもへの期待感」のもち方が全然違ってくるだろう。

 教師が発する「期待感」も,子どもを成長させる重要なファクターの一つである。

 「どうせこの程度だろう」なんて心で見下してくるような教師に,子どもをいい方向へ感化する力などない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ  

« 若い先生の年寄り臭い教育現場レポート | トップページ | 嘘つきは,自分以外の嘘つきが大嫌い »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 行事に熱が入る中学生が放つエネルギー:

« 若い先生の年寄り臭い教育現場レポート | トップページ | 嘘つきは,自分以外の嘘つきが大嫌い »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より