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イスラームは厳しくない?

 以下の内容は,読書篇で取り上げた内田樹と中田考の対談本『一神教と国家』(集英社新書)に関する内容を再構成してまとめたものです。

*********************** 

 この本の第一章で,まずはイスラム教やイスラム教徒への見方が変わる人が多いかもしれません。

 中学校等で習うような宗教上の「厳しさ」よりも,「幅の広さ」を実感できるエピソードが紹介されています。

 イスラム教徒の「生き方」よりも,1分でも遅れたら失礼になる,なんていう日本人の「生き方」「仕事のし方」「規範意識」の方が,よほど厳しい,なんていう話は,教師として子どもに提供する話題としては微妙なものかもしれませんが。

 また,イスラム教の国々への理解が不十分であったことが自覚できます。

 それは,本来多くの人が共有していてもよい「問い」が,新鮮な響きをもって聞こえてくるからです。その「問い」とは,

>なぜムスリム諸国間に経済上の相互協力や相互補完がまったく存在しないのか

 というものです。イスラム諸国には,国は別でもアラビア語という「宗教的な共通語」があります。

 礼拝のしかたも同じだし,そういう意味では,宗教を通して「つながりやすい」人たちであるはずです。

 でも,実際には,つながっていない。

 もちろん,世俗化が進んでいるイスラム教国がある一方で,イランのような厳格なイスラム教国もある。

 でも,「つながりがない」本当の理由は・・・・などが,本書を読んでわかります。

 「政治的にバラバラ」になっている・・・いえ,「バラバラにされた」人たち・・・16億人・・・が一つになったとき,そのパワーは計り知れないものになるかもしれない。

 それに対抗できないと判断した人たちは,「バラバラ」状態の継続を望む,という考え方ですね。

 日本はアメリカ,ヨーロッパをはじめとしたキリスト教国とのつながりが強固で,そこと対立している面があるイスラム教国への関心があまり高くはありません。

 伊藤博文が,亡くなる直前にイスラム教徒になっていた,なんていう話はほとんどの人が知らないはずです。

 では,どうしたらイスラム教徒になれるのか。

 ツイッター上でイスラム教徒になることも可能だそうです。

 さて,話題は「これからの世界をどうしよう」という話になるのですが,

 私の関心は教育が中心なので,

 まだ歴史が浅い「国民国家」というものと,

 現在の「教育研究」「社会科教育研究」のあり方に共通する問題点を連想しながら,

 本当に世界をいい方向に動かすことができる「国家」や「教育」の前提とは何かを考えてみました。

 国際政治に関われるような力はないですが,「教育」の世界なら何とかできそうなヒントが得られました。

 教育が変わることで,世界の政治も変わっていくはず・・・と考えることで,教師として現場に立つモチベーションも向上します。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より