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教育の世界こそ,「知的遊戯」からの脱却を

 前回の記事では,

>個人的な知的遊戯に浸っている物が少なからず散見される

>難解な言葉で自己陶酔する世界観が学術界に広がっていないだろうか

 との指摘について,教育の世界の話を書こうとしたところが,脱線してしまったので,

 ここでは教育の世界の「論文」「学会」について記しておきたい。


 教育の世界の場合,多くの教員が参加しているような学会の場合は,「論文」とは言っても,多くが「実践紹介」に「アンケート結果」がついたような程度のものばかりである。

 現場の教育に成果を還元するための論文ならそれでいいと私は思っているが,本物の「大学の研究者」から見れば,それは「高校生のレポート」程度の代物にしか見えないかもしれない。

 逆に,教育ほど広い視野をもって研究しなければならない世界はない,と自覚している教員から見ると,蛸壺的な専門性に浸かっている大学教員の論文が,どれだけ「役に立つか」は,全く判断不可能な代物であるように見える。

 教員が読んだこともないような,現場に役立たない教育の論文に,何の価値があるのだろう。

 具体的な例はいくらでも紹介できるが,「ぶろぐ村」はそういう場所ではない,というご注意をいただいたことがあるから,個別の指摘はやめておく。一つだけ。

 「母親の学力と子どもの学力の相関が高い」なんていう「研究成果」に何か意味はあるのだろうか。

 女子の教育をもっと充実すべき,なんて結論になるのだろうか。

 こういうどうでもいいような「研究結果」を目にすることがよくある。

 だから「教育の研究者」とか「教育評論家」は社会的に重きをおかれることのない,

 バラエティ番組で「使い回し」されるような存在になってしまうのだろう。

 さて,社会科教育の世界の話だが,たとえば私が入っている学会の「論文」は,「何でもあり」の世界のものだという実感がある。

 その「何でもあり」さの加減が半端ないところが,逆に言うと

 「一般人への門戸が開放されている」というPRにもなり,毎年多くの教員が発表する学会になっているという面がある。

 ほかにも,論文などまともに書いたことがない私ですら論文審査をする学会もあり,

 理系の学会とは,それこそレベルが違いすぎるのかもしれない。

 ただ,自己陶酔系の発表や論文は容赦ない批判を受ける。

 私が査読した論文は,すでに雑誌で紹介されていた内容の使い回しであり,

 しかもただの実践紹介にすぎないため,改善のための指示をしたが,・・・・・

 いつの間にか,その執筆者は大学教員になっていた・・・・という話は以前に書いた。

 これでも教育学部などはOKなのだろう。


 とにかく,実践経験のない大学教員の話は,5分も聞いていると聞く価値がないことがわかってしまうような世界が,教育現場というところである。

 初等教育が感染している教育研究の「知的遊戯」度は非常に高い。

 小学校での学力問題の解決を真面目に考えている人が,初等教育の研究会で議論されている内容を耳にしたらそれこそあきれ返ってしまうだろう。

 教師本人たちは全く気にしていないようだが,

 小学校には,「おばか役」と「まとめ役」というのがいて,「中間層」が彩りを添える,という伝統がある。

 一度,「まとめ役」から指名して,答えさせてみたらどうなるか,実験してみてほしい。

 授業が成立しなくなる。

 授業研究などといっているが,「引き立て役」と「できる子」によって「ストーリー」ができあがる「演劇」のセリフをああでもない,こうでもないとやっているだけである。

 ある小学校の出身者に聞いてみると,

 「ここで先生が答えてほしいと考えている答えがわかった子ども」が答える仕組みが成り立っていたのだという。

 研究会前に,研究会のときの授業と同じ内容をやっていた学級もあるらしい。

 練習通りに再現できる子どももある意味では優秀だと思うが,

 「演劇」を「授業研究」の題材とすることに何の価値があるのだろう。

 「おばか役」は,とても褒められて,評価も高くなるらしい。

 それにつられて,その子どもは自分の「役」を全うする。

 これは私に言わせれば,児童虐待である。

 中学校で気づいた時には手遅れになっている。

 「おばか役」が成長できるような研究をし,その成果を示すべきである・・・・

 なんてことを書いていたら,本当にきりがない。

 「知的遊戯」は「児童虐待」である。

 これは心の底からそう思って書いている。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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