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「知的遊戯」に染まった自覚がある方は,新年度は生まれ変わって・・・

 「知的遊戯」こそ大切なんだ,という開き直られ方がされるかもしれないところが,教育現場のおそろしいところである。

 新年度に向けて,クラス全体の中での各児童生徒の「役割分担」を用意していたという自覚のある方は,その見直しを行っていただきたい。

 Aさんは,思いつきを素早く口にしてくれる。

 Bさんが,その思いつきに乗って,同じような的外れの意見を発表する。

 ここで,Xさんは,まだ成り行きを見守っていなければならない。なぜならば,自分がここで意見を言ってしまうと,「授業のストーリーが壊れる」ことを知っているからである。

 さらにYさんも,すでに「最後のまとめ」のイメージを整理しているところだから,自分の出番はない(手は挙げるが,自分が指されないことは分かっている)ので成り行きをながめている。

 Zさんは,CさんやDさんが少し軌道を修正するような意見を出すと予想している。

 そこへ先生が,あらためて全員を「ゆさぶる」質問を投げかけてくる。

 Aさんは自分の答えが矛盾していることに気付けないので,さっきの話を蒸し返しながら,ただ自分の考えを披露することに集中する。

 先生はじっくりとその考えを聞いてくれるから,とくとくと自分の言葉で言いたいことを言い続ける。

 中学校であれば,こういう時間は存在しないから,より多くの内容を学ぶことができるのだが,何しろ根拠を付けたしできない限られた情報の中での「言葉遊び」が小学校では延々と続く。

 CさんやDさんが新たな面から学習対象に光をあてていくと,多くの子どもが「正解」らしいことに近づく。

 ここが授業の最も盛り上がるところである。

 EさんやFさんの発言に続き,ほとんど同じようなことをGさんやHさん,Iさん,Jさん,Kさんも発言する。

 同じ言葉の繰り返しが続く。

 ただ,これまで発言している子どものレベルでは,「まとめ」にはたどり着けない。

 だから,ここで教師はとっておきの情報を出す。

 ・・・・次に発言する子どもは・・・・。

 この後,AさんやBさんが登場してこない授業はないだろうか。

 こういう授業を毎時間繰り返すことで,アルファベットの後ろの子どもたちは,

 「子どもの序列」を明確に意識するようになる。

 ここに,「優越感」を覚える子どももでてくるし,当然のように「いじめ」も発生してくる。

 特に,ストーリーを読めずに「授業を壊す子ども」は,教師からも排除されていく。

 この教室のおそろしいところは,AさんやBさんは,教師からとことん可愛がられる,ということである。

 小学校時代,こういう「社会構造」を理解していたのが私であった。

 だから,授業を参観させてもらえると・・・・特にいいのは,

 「公開授業」のように,「お客さんがたくさんいる」と先生がわざわざ紹介するような授業である・・・・

 子どもたちの序列が手に取るようにわかる。

 教師と子どものアイコンタクトだけで,すべてがわかる。

 一度,教師と子どもの目線だけを追ってみるという研究?をしてみたらどうだろうか。

 当たり前の話だが,教師が「期待している(踏み台になるような誤った答えを言う子どもも含む)」子どもには,必然的に視線が集まる。

 そして,このアイコンタクトの流れによって,「役割分担」の存在が確認できる。

 こういう,教師の目から見て「おもしろい」と見えるような「知的遊戯」は,子どもの健全な発達を阻害するので,新年度には絶対にしないでもらいたい。

 重ねてお願いする。

 「知的遊戯」は児童虐待に当たると私は考えている。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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