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2014年3月

「知的遊戯」に染まった自覚がある方は,新年度は生まれ変わって・・・

 「知的遊戯」こそ大切なんだ,という開き直られ方がされるかもしれないところが,教育現場のおそろしいところである。

 新年度に向けて,クラス全体の中での各児童生徒の「役割分担」を用意していたという自覚のある方は,その見直しを行っていただきたい。

 Aさんは,思いつきを素早く口にしてくれる。

 Bさんが,その思いつきに乗って,同じような的外れの意見を発表する。

 ここで,Xさんは,まだ成り行きを見守っていなければならない。なぜならば,自分がここで意見を言ってしまうと,「授業のストーリーが壊れる」ことを知っているからである。

 さらにYさんも,すでに「最後のまとめ」のイメージを整理しているところだから,自分の出番はない(手は挙げるが,自分が指されないことは分かっている)ので成り行きをながめている。

 Zさんは,CさんやDさんが少し軌道を修正するような意見を出すと予想している。

 そこへ先生が,あらためて全員を「ゆさぶる」質問を投げかけてくる。

 Aさんは自分の答えが矛盾していることに気付けないので,さっきの話を蒸し返しながら,ただ自分の考えを披露することに集中する。

 先生はじっくりとその考えを聞いてくれるから,とくとくと自分の言葉で言いたいことを言い続ける。

 中学校であれば,こういう時間は存在しないから,より多くの内容を学ぶことができるのだが,何しろ根拠を付けたしできない限られた情報の中での「言葉遊び」が小学校では延々と続く。

 CさんやDさんが新たな面から学習対象に光をあてていくと,多くの子どもが「正解」らしいことに近づく。

 ここが授業の最も盛り上がるところである。

 EさんやFさんの発言に続き,ほとんど同じようなことをGさんやHさん,Iさん,Jさん,Kさんも発言する。

 同じ言葉の繰り返しが続く。

 ただ,これまで発言している子どものレベルでは,「まとめ」にはたどり着けない。

 だから,ここで教師はとっておきの情報を出す。

 ・・・・次に発言する子どもは・・・・。

 この後,AさんやBさんが登場してこない授業はないだろうか。

 こういう授業を毎時間繰り返すことで,アルファベットの後ろの子どもたちは,

 「子どもの序列」を明確に意識するようになる。

 ここに,「優越感」を覚える子どももでてくるし,当然のように「いじめ」も発生してくる。

 特に,ストーリーを読めずに「授業を壊す子ども」は,教師からも排除されていく。

 この教室のおそろしいところは,AさんやBさんは,教師からとことん可愛がられる,ということである。

 小学校時代,こういう「社会構造」を理解していたのが私であった。

 だから,授業を参観させてもらえると・・・・特にいいのは,

 「公開授業」のように,「お客さんがたくさんいる」と先生がわざわざ紹介するような授業である・・・・

 子どもたちの序列が手に取るようにわかる。

 教師と子どものアイコンタクトだけで,すべてがわかる。

 一度,教師と子どもの目線だけを追ってみるという研究?をしてみたらどうだろうか。

 当たり前の話だが,教師が「期待している(踏み台になるような誤った答えを言う子どもも含む)」子どもには,必然的に視線が集まる。

 そして,このアイコンタクトの流れによって,「役割分担」の存在が確認できる。

 こういう,教師の目から見て「おもしろい」と見えるような「知的遊戯」は,子どもの健全な発達を阻害するので,新年度には絶対にしないでもらいたい。

 重ねてお願いする。

 「知的遊戯」は児童虐待に当たると私は考えている。

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教育の世界こそ,「知的遊戯」からの脱却を

 前回の記事では,

>個人的な知的遊戯に浸っている物が少なからず散見される

>難解な言葉で自己陶酔する世界観が学術界に広がっていないだろうか

 との指摘について,教育の世界の話を書こうとしたところが,脱線してしまったので,

 ここでは教育の世界の「論文」「学会」について記しておきたい。


 教育の世界の場合,多くの教員が参加しているような学会の場合は,「論文」とは言っても,多くが「実践紹介」に「アンケート結果」がついたような程度のものばかりである。

 現場の教育に成果を還元するための論文ならそれでいいと私は思っているが,本物の「大学の研究者」から見れば,それは「高校生のレポート」程度の代物にしか見えないかもしれない。

 逆に,教育ほど広い視野をもって研究しなければならない世界はない,と自覚している教員から見ると,蛸壺的な専門性に浸かっている大学教員の論文が,どれだけ「役に立つか」は,全く判断不可能な代物であるように見える。

 教員が読んだこともないような,現場に役立たない教育の論文に,何の価値があるのだろう。

 具体的な例はいくらでも紹介できるが,「ぶろぐ村」はそういう場所ではない,というご注意をいただいたことがあるから,個別の指摘はやめておく。一つだけ。

 「母親の学力と子どもの学力の相関が高い」なんていう「研究成果」に何か意味はあるのだろうか。

 女子の教育をもっと充実すべき,なんて結論になるのだろうか。

 こういうどうでもいいような「研究結果」を目にすることがよくある。

 だから「教育の研究者」とか「教育評論家」は社会的に重きをおかれることのない,

 バラエティ番組で「使い回し」されるような存在になってしまうのだろう。

 さて,社会科教育の世界の話だが,たとえば私が入っている学会の「論文」は,「何でもあり」の世界のものだという実感がある。

 その「何でもあり」さの加減が半端ないところが,逆に言うと

 「一般人への門戸が開放されている」というPRにもなり,毎年多くの教員が発表する学会になっているという面がある。

 ほかにも,論文などまともに書いたことがない私ですら論文審査をする学会もあり,

 理系の学会とは,それこそレベルが違いすぎるのかもしれない。

 ただ,自己陶酔系の発表や論文は容赦ない批判を受ける。

 私が査読した論文は,すでに雑誌で紹介されていた内容の使い回しであり,

 しかもただの実践紹介にすぎないため,改善のための指示をしたが,・・・・・

 いつの間にか,その執筆者は大学教員になっていた・・・・という話は以前に書いた。

 これでも教育学部などはOKなのだろう。


 とにかく,実践経験のない大学教員の話は,5分も聞いていると聞く価値がないことがわかってしまうような世界が,教育現場というところである。

 初等教育が感染している教育研究の「知的遊戯」度は非常に高い。

 小学校での学力問題の解決を真面目に考えている人が,初等教育の研究会で議論されている内容を耳にしたらそれこそあきれ返ってしまうだろう。

 教師本人たちは全く気にしていないようだが,

 小学校には,「おばか役」と「まとめ役」というのがいて,「中間層」が彩りを添える,という伝統がある。

 一度,「まとめ役」から指名して,答えさせてみたらどうなるか,実験してみてほしい。

 授業が成立しなくなる。

 授業研究などといっているが,「引き立て役」と「できる子」によって「ストーリー」ができあがる「演劇」のセリフをああでもない,こうでもないとやっているだけである。

 ある小学校の出身者に聞いてみると,

 「ここで先生が答えてほしいと考えている答えがわかった子ども」が答える仕組みが成り立っていたのだという。

 研究会前に,研究会のときの授業と同じ内容をやっていた学級もあるらしい。

 練習通りに再現できる子どももある意味では優秀だと思うが,

 「演劇」を「授業研究」の題材とすることに何の価値があるのだろう。

 「おばか役」は,とても褒められて,評価も高くなるらしい。

 それにつられて,その子どもは自分の「役」を全うする。

 これは私に言わせれば,児童虐待である。

 中学校で気づいた時には手遅れになっている。

 「おばか役」が成長できるような研究をし,その成果を示すべきである・・・・

 なんてことを書いていたら,本当にきりがない。

 「知的遊戯」は「児童虐待」である。

 これは心の底からそう思って書いている。


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決まりは守らなくてよいことを教えてしまった教師

 昨晩,会って話をしていた大学生の教え子は,体育会の部のマネージャーをしている。

 この部では,週に何回も朝練がある。その遅刻者には,5000円の罰金が科せられるという(滞納者もいるとのこと)。

 遅刻者を減らす効果は高いだろうが,あまり「教育的」ではない。

 
 さて,次に紹介する話は,長くこのブログを読んでいただいている方には,「おなじみの話」である。


 ある中学校で,部活動の「遅刻者」をめぐって,信じられない結果になった事例を紹介してくれた人がいた。

 1人の「遅刻者」以外の全員は,時間を守って集合していた。

 指導者が「遅刻者」に「どうして遅れたんだ」と聞いたところ,

 「集合時間が早いから」と答えたらしい。

 指導者は何を思ったか,「何時なら来れるんだ」と聞いたという。

 さらに,何を血迷ったか,部員全員に,「全員が集まれる時間を決めろ」と指示した。

 驚いたことに,部員たちは,「時間を遅らせれば遅刻者はいなくなる」と判断してしまい,

 「集合時間を遅らせる」という決定をした。

 きっと,集合時間が朝早いことが苦痛だったはずの生徒も,がんばって登校していたのだ。

 しかし,「遅刻者」のおかげで,堂々と遅い時間に集まればよいことに変更になった。

 喜んだことだろう。

 時間を守らなかった部員のおかげで,「集合時間」の決まりが変わったのである。

 これこそが,「決まりは守らなくてよい」ことを生徒に教える「指導」である。

 指導者は,「話し合いで自主的に決めた時間に意味がある」と思っているらしい。

 ちょっと待て,という話である。

 「決まりを変えた」きっかけは,「決まりを守らなかった生徒がいたこと」である。

 そして,結果として,「決まりを守らなかった生徒に配慮した決まり」が決定した。

 こんな経緯で成立する「決まり」に,「自主的に決めたこと」の意義を感じる人がどのくらいいるのだろうか。

 どう考えても,決まりを変更するきっかけが最悪である。

 そして,できた新しい決まりも,最低である。

 「全員が遅れない時刻を設定しろ」なんて指示をする人間はどうかしている。

 中学校では,こんな「指導」はあり得ない。

 「用事があって遅れる人は,事前に連絡しなさい」ですむ話である。

 肌感覚として,これはさすがの小学校教師でも違和感を覚えてくれるはずだろう。


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「騒動の張本人」を隠そうとしているのはだれか?

 「STAP細胞」関係の騒動について,23日付の西日本新聞朝刊に掲載された署名記事に目を引かれた。

 論文から垣間見える学術界の一断面として,

>個人的な知的遊戯に浸っている物が少なからず散見される

>難解な言葉で自己陶酔する世界観が学術界に広がっていないだろうか

 との指摘があった。

 論文は,大学教員になったり,どこぞの研究員に就職しようというときに提出を求められる「保証書」のようなものである。

 「これだけの論文が書けるのであれば,大学教員として,研究員としてふさわしい」という判断がなされる。

 大学によっては,「質より量」が求められるともいう。

 いずれにせよ,論文のような「形」になっているものからしか,その人物を「客観的に評価した」ことにならないのだから,論文の書き手としては,そこに「自分らしさ」よりも「それらしさ」を求める傾向が強くなるのは仕方のないことだろう。

 しかし,さすがに「コピペ」が見つかったらアウトだろうし,

 「コピペ」が見破れない「審査員」もその資格を失うことは言うまでもないだろう。

 今回の一連の問題は,「コピペ学生」がそのまま「大学教員」になり,その教え子が・・・という連鎖があるのではないかという疑念まで抱かせるような状況だからこそ,「大騒動」になっているわけである。

 大学や研究所が,「張本人」を隠しているかのように思える状況にも見える。

 ・・・というか,ここからはフィクションのドラマのようになってしまうが,「張本人」のことが逆に心配になる。

 「秘密を握っている人間」が,組織からどういう目にあうかは,つくりものの世界では嫌というほど見てきた。

 昔は,大学教授とか研究者というのは,

 「社会性のなさ」を絵に描いたような存在として扱う傾向があったように思うが,

 「社会性のなさ」ではなく,考古学の「ゴッドハンド」の人のように,「社会を裏切る存在」として浮上することもあった。

 これが個人の問題ではなく,大学や研究所を巻き込んだ問題として浮上していることが,

 科学の世界の最大の危機であるように思える。

 
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【提言:教育委員会向け】 保護者からの「苦情」の「少なさ」ランキングの発表を!

 学校を選ぶ上で,保護者として参考にしたいことの一つに,

 「先生方にどのくらいゆとりがあるか」がある。

 学力面の課題については,教員の資質能力の差が問題になっているのは確かだが,

 実際のところ,資質能力そのものの差による結果よりは,

 中学校なら「学習指導以外の部分でどのくらい労力が裂かれているか」によるケースも多い。

 たとえば「部活だけに命をかけている教師」とか,

 「苦情対応に追われている教師」など。

 小中学校の苦情対応は,一般的には管理職が行い,・・・ということは,出張の多い校長ではなく,副校長,教頭がその対応に当たっているのだろうが,保護者から直接的に苦情をもらう,という「信用されている先生」も少なくないだろう。

 保護者対応は,「苦情的内容」と「相談的内容」に大きく分けられるが,

 エネルギーを割かれるのは前者である。

 時間的にも,精神的にも,かなりの労力を要する。

 教育委員会には,このような「保護者対応」の実態を調査してもらいたい。

 保護者としては,そのデータを知りたい。

 もちろん,「事実を隠す」ことも想定内である。

 しかし,教育委員会には,「保護者対応」が多い,かつ,重い,という訴えがあった学校には,どんどん優先的に人員を配置することを検討する(行政用語で「検討する」は,「何もしない」という意味にもとれるのだが,ここではその点は無視する),というメッセージを発するきっかけになる。

 普通に考えれば,「保護者対応」のうち,「苦情対応」に要する時間が少ない学校ほど,教師は通常の教育に時間を費やせているという安心が得られる。

 「相談的内容」に要するエネルギーを公開すれば,

 「親身になって保護者の話を聞いてくれる」という安心感をPRすることにもなる。

 ぜひ,前向きに(・・・これも行政用語で,「何もしない」ことも意味するが)検討してほしい。


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数字で責める行政はえげつない

 静岡県の公式HPには,背景に富士山がそびえています。

 富士山をPR材料に使えるのはとてもめぐまれた自治体ですね。

 さて,そのHPの中に,川勝知事のメッセージが掲載されている「ようこそ知事室へ」というコーナーがあります。

 「県民の皆様、特に先生方に」と題する昨年9月20日付の内容は,

 学力調査関係のごたごたを説明してくれるものなのですが,終わりの方に,このような

 データが示されています。

>各都道府県の歳出費に占める教育費の割合では、静岡県は全国で4位です。(平成21年度決算)

>教育費の大半は人件費です。静岡県の教育費は全国で10位です。(平成23年度決算)

 しかも,静岡県には,極小規模の小中学校も少ない,とまで来ています。

 これは,「学力が全国最低になる要因は小中学校(の教員の資質能力)にある」と言い換えてもおかしくない内容になっています。

 タイトルの「~特に先生方に」という伝え方も,何ともえげつない,というか,反発を受けるだろうな,という内容になっている。

 数字自体は事実でしょうが,そこから導き出される「学力最低(正確に言えば,学力調査の小6国語Aが最下位」という事実との間の関係は,「予想」「憶測」「イメージ」にすぎないとは言っても,

 「行政としてはできること(お金を出すこと)をやっている」という事実に基づいたメッセージとセットになってしまうと・・・・。

 こういう手法は,「逆利用」というのが可能なので,あまり「癖」にするのはよくないでしょうね。

 おそらく「ゴースト」ではなく,ご本人が書いた内容だと思いますので,

 教員を追い込む前に,私が聞いた気になる情報・・・・

 「静岡県の先生の多くは静岡大学出身」という面が事実なのかどうか,その影響…特に「縦関係」に及ぼされている影響に目を向けてみるのもどうかと。

 余計なお世話かもしれませんが,

 国語のA問題の「できなさ加減」というのは,やはり県民としても恥辱的な意味をもってしまうと思いますので・・・。

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【応募】 子どもの人間関係を深める手立てとは?

 子どもを「一人前」にするために,小学校・中学校では,それぞれ「組織の中での自分」「公的な空間の中での自分」を意識させるような「集団的活動」を用意しています。

 そのうち,「学力向上に結びつきやすい集団的活動」とは何か。

 「自己肯定感を強く感じられるような集団的活動」とは何か。

 「強い規範意識をもてるようにする集団的活動」とは何か。

 それぞれ,効果が高いと思われる順に,10個ずつ挙げてもらってよいですか?

 5年目の先生,いかがでしょう。

 また,次の教員採用試験を受けようとされる方,ご解答を添削させていただきます。

 コメント欄にどうぞ,ご応募ください。

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ゴーストライターの誇り

 ラジオで「ゴーストライター」で有名な?作家の話を聴いた。

 印税の分け前は「原著者」が5割5分,「ゴースト」が4割5分,という細かい情報まであった。

 書くことがプロではない企業の経営者とか,名の売れた人物などから20時間くらいの聞き取りをして,その内容を文字にするのが「ゴーストライター」の仕事だそうだ。

 出版業界でこういう仕事が当たり前のような状況であるとしたら,

 「原著者」を「語り部」とし,「ゴースト」を「インタビュアー兼編集者」として出版すればよいのに。

 「ゴースト」という言葉の「響き」は,日本では「ゾンビ」ほどは悪くないように思われるが,

 やはり一人の人間として認知されるべきものではなかろうか。

 多くの人は,「この人にこんな文章を書く暇などないだろう」と気づいていたりもする。

 出版業界が,「売れっ子」の名を借りた方が,信用ができ,本がよく売れる,という効果を狙って「ゴースト」から搾取しているという見方もできるが,

 「ゴースト」には「ゴースト」なりの職業倫理があることがわかった。

 「自分がいなければ,この本の内容は世に出ない」と信じ込まされることによって,「文字化」することに全身全霊を傾けていらっしゃる・・・でも,名もなき透明人間のままでいいのだろうか。

 4割5分というのが,とても「納得しやすい,絶妙な割合」であることを痛感させられる。


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どなたか,静岡新聞と教育委員会の関係を教えてもらえませんか?

 どうして来年度の人事の情報が,新聞社に垂れ流しになっているのでしょうか?

 静岡新聞というのは,教員向けの新聞なんでしょうか?

 私自身も,文部科学省から来た人間に何ができる?という気持ちは持っていますが,そういう教員目線に偏っていて,バランス感覚がないように思える記事が普通に出されている新聞社の方がよほど異様です。

 それまで,教育委員会の幹部は元教員が占めていたそうですが,それはどこの教育委員会も似たりよったりでしょう。明らかな法令違反などは事務方でさばけますが,教育内容にかかわる指導はどうしても教員経験がないと無理でしょうから。

 優秀な指導主事が課長のすぐそばにいれば,特に問題はないでしょう。課長が何かを決めるわけではないので,行政のプロならだれでもできるのです。答弁のための想定問答もすべて指導主事がつくりますからね。

 問題は,「なあなあ」ですまされてきた「悪癖」を解消しきることができるかどうかです。

 最初の疑問に戻りますが,こういうニュース,ほかの自治体でも「ふつう」に新聞に載るのでしょうか。

 人事の情報って4月まで秘密ではないのですか?

 東京都の場合は産経新聞というのがあるのですけど,節度というか最低限のルールは守られている気がしていましたが。

 ルールってないんですかね。

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iPadの教育利用を進めるには~孫さんなら,年間100日限定通信料プラン(通常の7割引き)を実現させてくれるはずと・・・思いたい~

 実質的な寿命が2年くらいと言われている機器に1台4万円,40台で160万円かけて,さらに夏休みで使わないときも一律で月5000円,40台で年240万円の通信費を払うなんてことは,普通の学校にはできない。

 だから,国から研究のための税金が使われているところだけが導入できる。

 私立の幼稚園での導入事例があることも知った。これは特別な事例かもしれないが,使い方としては,幼稚園くらいでの利用が一番しっくりくるというのが私の実感である。

 真剣に現場に売り込みたいのであれば,最大でも200日程度しか使わない機器の通信料を365日分とるというやり方とか,iPadしか使えないというハードの問題を解決しないといけない。

 まさに「えにかいたもち」である。

 実際に取り組んでいるものも,iPadを使わないとできないものではなかった。

 普通の学校では,普通の取り組みを充実させた方が,よほど成果が上がる。

 教員の事務にかかる手間を減らそうとして,PCのソフトなどにお金をかけている自治体があるかもしれないが,人を雇う方がよほど安くできるし,結局は紙でプリントアウトするものが増えたりすることもあり,資源の節約にもならないから,見直した方がよいだろう。

 特に若い教師の場合,事務能力を向上させるには,事務仕事をたくさん積むしかない。

 それを抜きにすると,本当に教師を辞めるとどこでも使えない人間になってしまう。
 
 総務省がかけたお金の総額が何億円か知らないが,この成果はどのようにして公表されるのか,楽しみに待っていたい。


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はじめから「優秀」な教師はいない

 「いい先生」が増えてほしい。

 保護者としての切なる願いである。

 子どもの人気と,保護者の人気はそう食い違うものではないが,

 「言いなりになる先生」は子どもの人気を集めるおそれがあるから,気をつけなければならない。

 若い教師に,「教育熱心ではない」教師はいない,と信じたい。

 ろくでもない先輩教師に「ダメ教師」とレッテルを貼るくらいの気概はほしい。

 ただ,これだけは確かに言えることは,

 はじめから「優秀」である教師はいない。

 教師は,子どもたちによって成長させてもらう存在である。

 だから,「優秀」な教師は,「教師を育てるという意味で優秀な子ども」によって育てられる。

 最近は,大学院出の教師が増えているのではないか。

 採用試験に合格しなかったから大学院に行った,なんて皮肉を書くつもりはない。

 大事なのは,大学院を出た教師だから,大学院を出ていない教師よりも「優秀」だということはない,ということを胸に刻んでおいてほしいということだ。

 年齢的には,2年ほど損をしている。賃金を得る仕事をするのも,2年遅れである。

 その損や遅れは,何によってカバーできるのか?

 それは,仕事慣れして脇目ばかり振っている教師を尻目に,

 子どもから学ぶことに全力を注ぐことで可能となる。

 3月末に,教師は何をしているか?

 次年度の教材研究をする前に,今年度の子どもたちの作品や作文,テスト答案のコピーなどを振り返りながら,自分が何を教えてきたのか,子どもから何を学んできたのかを振り返ることが大切である。

 去年の6月のテストと,今年の2月のテストを比べてみるのもいい。

 子どもたちの「自分の考え」の書き方が,どのように向上しているのか。

 「思考・判断・表現」の評価は,目標準拠評価だけでなく,個人内評価の結果もフィードバックしてあげるべきである。

 さすがに年度末にはそこまで手がまわらない。

 中学校なら,新2年生,新3年生の手にわたる何かを用意しておきたい。


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ほんの一瞬の油断が・・・

 職場の部屋の整理をしながら,高校野球の海南VS池田の試合を見ていた。

 すんなりと海南が勝ちそうな雰囲気だったが,

 同時に「何かが起こる」という気がしてならないのが春の選抜である。

 野球中継を耳にし始めてから,幾度となく

 「解説者が褒めているプレーヤーがヘマをする」場面に出くわしてきた。

 その逆に,「解説者がけなしてくれれば,活躍できる」なんて希望も持たせてくれた。

 今日の試合では,ショートゴロゲッツーで2死ランナーなし,あと一人・・・・・になるはずの場面で,

 「最もエラーしにくい打球」を処理しそこなってしまった。

 野球を長くやっているとよく接する場面で,「捕球の前に,次の動作に入ってしまう」結果として起こるエラーだった。

 すでに好プレーを幾度かしており,バットで先取点,追加点をあげている選手だったから,

 まさに「天国から地獄へ」と突き落とされた1プレーだった。

 スポーツの世界に限らず,

 「絶対にミスしないはずのところで,本当に致命的なミスが出る」ことをきっかけに,

 「ミスの連鎖」が生まれ・・・・ということが起こりうる。

 坂道を転がり落ちるように,運から見放されていく。

 起こってしまったことは取り返せないが,こういう場面は,次世代の選手(もちろん,まだ春の選抜だから,夏がある選手も含めて)に目に焼き付けてほしいところである。

 番組では,かつておこった「まさかの逆転劇」も紹介されていた。

 負けた側には,どうしても「詰めの甘さ」というものが目立ってしまう。

 勝った側にも,いくらでも「甘さ」はあったわけで,だから直前まで負けていたのだ。

 勝った側が,最もこの「出来事」を教訓とすべきなのかもしれない。

 「今年の卒業生は,大きな事故や事件もなくてよかった・・・」と振り返っている先生方も多いかもしれないが,よくよく検証しておくべきだろう。

 今は,指導要録の作成で区切りをつける時期である。

 どのような「言葉」を残してあげるのがいいか。

 基本的に,あとは「誰も読まない」ような指導要録だが・・・。


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私の夢(過去形・現在形)

 私の夢は,ぜいたくなものだった。

 月曜日は医師として病院につとめ,火曜日は実家で両親が始めた店の番をする。

 水曜日は中学校の教師として,木曜日は小学校の教師として,学校に通い,夕方は母校の高校野球のコーチに行く。

 金曜日と土曜日はプロ野球選手として,地元で行われる試合に出場する。

 日曜日は,社会科の教材を集めるための取材旅行に日帰りで出かける。

 われにかえると,・・・・子育てがいかに大変か,想像するゆとりがなかったことに気づく。

 1浪していた教え子が合格の報告に来てくれている。医学部への進学者がずいぶんたくさんになった。

 教育実習の「予約」に訪れた文学部,教育学部に在籍する教え子。

 教え子がコーチとして,野球部のめんどうをみている。

 夢では水曜日だけのはずの仕事を毎日するようになって,四半世紀近くになろうとしている。

 途中の3年間,想定外の「行政」の仕事をして,

 「教育」という仕事の難しさを「外」から見るようになり,

 これだけは「内」からでしか変えられないと思って,今に至っている。

 とにかくできるだけ早期に撤回すべきものが,「観点別学習状況の評価」である。

 「ゆとりのなかで生きる力を育む」などの「かけ声」は,外野の応援席だけで十分。

 やっていないことを,やっているつもりだなんて言い張るのはやめにしてもらおう。

 できないことはできない,やっていないことはやっていないと言える,

 正直な教師たちが増えていってもらいたい。

 昨日,ある研究会がまとめた冊子が届いた。

 何も前に進んでいない・・・というより,評価のしようのないところに埋没して行っている感覚に襲われる。

 ある調査で,「いかにできていないか」という証拠が集まりつつあるが,その出し方が問題である。

 とりあえずの私の夢は,

 日本の教育における「学習指導」が,

 「このままではまずい」という共通認識を全国民にもってもらいたいことである。

 韓国などの教師が日本に来ると,中学校の教師が部活動の指導を放課後にしていることに驚く。

 国際的に,教師が部活動の指導する,というのは,一般的なことではないだろう。

 胸をはっていいことかもしれないが,本末転倒とはまさにこのことである。


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常に前を向いていこう~トラブル回避のための7か条~

 学校現場では,教師のエネルギーの多くがトラブルへの対処や様々な人間関係の調整に費やされる傾向が高まっている。

 管理職も同様である。こういう「後ろ向き」の仕事が多いせいか,

 そもそも,「教師の仕事ではない」と当たり前のことを考えている人が多いせいか,

 管理職になる(なれる)人が足りなくなっている。

 「学力向上」をテーマにして,授業改善に地道に取り組むよりも,

 「学力調査問題」を事前に練習させて慣れさせ,少しでも高い点数をとらせる方がラクである。

 しかし,それでは「前に進む」ことにはならない。

 西條剛央という,ジャイアンの友達?のようないかつい名前の学者が,「ふんばろう東日本支援プロジェクト」代表としての経験を本にしている。

 読書篇で紹介した内容に若干の加筆をして以下に記しておく。

 私は,「構造構成主義」という理論がどれだけの広がりを見せるか,注視している。

 「構造構成主義」は,かつての孫子の兵法ほどの「威力」はないかもしれないが,ボランティア活動の運営のように,「実践」に生かされることになった理論だから,「価値がある」。

 「価値とは何か」は難しい問いだが,「被災者にとっての価値とは」などという視点で考えるだけで,景色は違ってくる。
 
 ドラッガーの言葉を引いて,次のように説明されている。

>価値とはどこかに転がっている「モノ」ではなく,相手(顧客,ユーザー)が見出す「コト」である

>価値創造とは,相手(顧客)に価値を見出してもらえる可能性が高いと考えられるモノやサービスを創造すること,ということになる

 「商品を売ってもうける」世界ではなくても,この「価値」の意味のとらえ方は参考になる。

>起きた出来事は変えられないが,出来事の意味は事後的に決まる

 という「意味の原理」も,「次の一歩」を踏み出すために欠かせないものである。

 ・・・こういう「認識」をもとに,ボランティアの運営をしていても,トラブルは避けられない。

 防げるトラブルをどうやって防ぐか。

 家庭でも職場でも,学級でも・・・・7つの処方箋は,多くの人が利用すべきである。

>(1) 質問は気軽に,批判は慎重に

 若い教師は,ベテラン教師にどんどん自分の疑問をぶつけるべきである。

 陰で悪口を言っても何も始まらない。

>(2) 抱えてから揺さぶる

 管理職は教師たちを,親や教師は子どもたちを,まずは「抱える」ことで,「存在自体を尊重する」姿勢を示すべきである。

 そのあとで,「行為に対する反省を促す」「誤った行為自体を否定する」ことで,しっかりと自ら立ち止まらせることが有効である。

 最初に強制的に立ち止まらせてしまうと,そのことへの不満から,自らの行為を正当化しかねないのが人間である。坂道を転がり始めてしまうと,なかなか止まれなくなる。

>(3) 集中攻撃に見えるような言動は慎みましょう

 組合が強かったころ,職員会議は管理職をいじめる場であった(学校もあった)。

 自殺者が出るのも無理はない。壮絶な「いじめ」は,「いじめっ子」を襲うとき,歯止めがなくなる。

>(4) 初めての参加者も見ています

 あとからだれでも議論に参加することができるように,オープンな雰囲気を保ち続けることは大切だが,難しいことでもある。人間は,「それなりの経験」をしていることを誇示したくなる,せこい存在だから。

>(5) 電話や直接会って話しましょう

 大切な話ほど,メールや電話ですまさないようにしたい。企業では,退職願がメールで届くのもジョークではなく実際に起こっていることである。これでは組織はもたない。

>(6) 休むこと

 不登校の生徒への「登校刺激」はほどほどにすべきである。あせる保護者をなだめるのが,教師の仕事である。症状が悪化し,たいへんなことになった子どもの事例をいくら話しても,「うちの子はそうじゃない」と考えるのがたいていの親である。親の方も「休ませる」工夫をしたい。

>(7) 被災者支援を目的としている人はすべて味方です

 教師間に敵味方はいない。組合員による非組合員への差別的な発言をよく耳にしたが,本気度は対管理職ほどではないにしろ,現場の雰囲気を暗くし,風通しを悪くする原因となる。

 管理職も含めて,教師はすべて「味方」であるはずである。

 気をつけたいのは,子どもや親のトラブルへの関わり方である。

 「どっちの味方なんですか」なんていうイヤな言葉に揺さぶられない,強い意思をもっていたい。


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イスラームは厳しくない?

 以下の内容は,読書篇で取り上げた内田樹と中田考の対談本『一神教と国家』(集英社新書)に関する内容を再構成してまとめたものです。

*********************** 

 この本の第一章で,まずはイスラム教やイスラム教徒への見方が変わる人が多いかもしれません。

 中学校等で習うような宗教上の「厳しさ」よりも,「幅の広さ」を実感できるエピソードが紹介されています。

 イスラム教徒の「生き方」よりも,1分でも遅れたら失礼になる,なんていう日本人の「生き方」「仕事のし方」「規範意識」の方が,よほど厳しい,なんていう話は,教師として子どもに提供する話題としては微妙なものかもしれませんが。

 また,イスラム教の国々への理解が不十分であったことが自覚できます。

 それは,本来多くの人が共有していてもよい「問い」が,新鮮な響きをもって聞こえてくるからです。その「問い」とは,

>なぜムスリム諸国間に経済上の相互協力や相互補完がまったく存在しないのか

 というものです。イスラム諸国には,国は別でもアラビア語という「宗教的な共通語」があります。

 礼拝のしかたも同じだし,そういう意味では,宗教を通して「つながりやすい」人たちであるはずです。

 でも,実際には,つながっていない。

 もちろん,世俗化が進んでいるイスラム教国がある一方で,イランのような厳格なイスラム教国もある。

 でも,「つながりがない」本当の理由は・・・・などが,本書を読んでわかります。

 「政治的にバラバラ」になっている・・・いえ,「バラバラにされた」人たち・・・16億人・・・が一つになったとき,そのパワーは計り知れないものになるかもしれない。

 それに対抗できないと判断した人たちは,「バラバラ」状態の継続を望む,という考え方ですね。

 日本はアメリカ,ヨーロッパをはじめとしたキリスト教国とのつながりが強固で,そこと対立している面があるイスラム教国への関心があまり高くはありません。

 伊藤博文が,亡くなる直前にイスラム教徒になっていた,なんていう話はほとんどの人が知らないはずです。

 では,どうしたらイスラム教徒になれるのか。

 ツイッター上でイスラム教徒になることも可能だそうです。

 さて,話題は「これからの世界をどうしよう」という話になるのですが,

 私の関心は教育が中心なので,

 まだ歴史が浅い「国民国家」というものと,

 現在の「教育研究」「社会科教育研究」のあり方に共通する問題点を連想しながら,

 本当に世界をいい方向に動かすことができる「国家」や「教育」の前提とは何かを考えてみました。

 国際政治に関われるような力はないですが,「教育」の世界なら何とかできそうなヒントが得られました。

 教育が変わることで,世界の政治も変わっていくはず・・・と考えることで,教師として現場に立つモチベーションも向上します。


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一刀両断ではすまないこの世界

 複雑化し,利害関係が錯綜しているこの世界は,何でも一刀両断ですますようなことはできない。

 大切なのは「問題を解決する」ための知恵であり,「問題を処理する」ための決断は,最後の最後に「信頼のおける人たち」が責任をもってあたるべきである。

 人間への評価は,きれいに白黒つけたり,できる・できないという風に判別できない。

 そのために,学校現場の場合は,生徒に「目に見えるような実害」が及んで初めて

 「指導力不足」が認定されるのが,痛恨の極みである。犯罪なら一発退場なのだが,「指導力不足」の問題には,広いグレーゾーンが存在する。

 だから,現場としては,今あるカードをいかに有効に使い切るかという発想でいくしかない。

 教員評価は現場を荒廃させる,という感覚的な忌避反応をしている人がいたが,

 評価の中核に,「人を活かすことができたかどうか」があれば,

 「自分だけががんばった」ような教師は高い評価が得られない

 (「自分がみんなの足を引っ張った」という人が評価されないのも当然だが)

 わけで,結局は「組織力」がものを言うわけである。

 「同僚性」という言葉を「キズのなめ合い」「かばい合い」「問題の隠し合い」というイメージで使っている人間は,そもそも公務員としての資格を欠いてしまっている。

 「同僚性」とは,教育の成果を出すためのチームワークでなければならない。

 そして,それを統括するのが管理職であり,

 管理職への的確な評価が,教育委員会事務局の行政マンには求められているわけである。

 管理職の姿が全く見えない教員のブログがある。

 職場のコミュニケーション不足は,教育力不足に直結し,問題発生時の危機管理ができない原因にもなる。

 まずは管理職とじっくり語り合ってほしい。

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罠にかかった!

 警察の「おとり捜査」には,賛成ですか,反対ですか?

 人の嘘を見抜くために,「しかけ」「やらせ」をして,正体を暴く,という商売も成り立っているようですね。

 こんな話,教育ブログの世界にはそぐわないかもしれませんが,

 「真実を知りたい」という欲求を,どうしてもおさえることができません。

 教育現場の状況は,保護者なら,子どもを通してある程度は「感じる」ことができます。

 しかし,子どもを通してでもわからない「問題」というのは,

 本当に不気味なものです。

 その不気味さに耐えられなくする,という「はたらき」も,世の中にはあってもいいかもしれません。

 真実を知るためには,学校現場に足を運ぶのが一番です。

 「卒業式の真実」を一番隠したい学校はどこにあるでしょうか。

 
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「さよなら」が言えない教師

 へき地に赴任した教師が,初対面の子どもからのこんな第一声を耳にしたとき,

 どのような反応ができるかで,その人の教育観が測られてしまう。

 「先生は,いつまでこの学校にいてくれますか?」

 実際は,「わからない」と答えるのが正解なのだろうが,

 「いつまででもいたい」なんて軽いことは言いにくいし,

 生まれたばかりの子どもを残して単身赴任することになった教師が,

 「3年だけがまんする」なんて本音は言えないから,

 本当に「キツイ」質問である。

 一方,教師の方にもつらい場面が今の時期にはある。

 人事の情報は,4月1日まで公開することはできない。

 どこかの新聞では,ほぼ正確な「人事予想」が事前に新聞に載ってしまっているが,

 東京都なら,4月1日の東京新聞で,それを知ることができるわけである。

 この新聞からの情報が入ってこない生徒は,

 入学式や始業式の時点で,いつの間にか自分の担任だった教師が学校からいなくなったことを知る。

 私もそういう経験を2回した。

 「4月からはここにいない」ことを明かせないまま,修了式後に通知表を渡して,4月からの目標などを聞きながら,心の中で最後のお別れをするのである。

 両方とも,中1の学級担任を終えた3月に異動となった。

 2度目の移動のときは,学年主任も兼ねていた。

 3年間のビジョンをよく言って聞かせていたから,私がいなくなって,

 「その通りになるか」不安になった生徒もいた。

 もちろん,ほかのベテランの先生が主任を引き継いでくれて,立派に卒業してくれたのだが。

 正直,私がいなくなってうれしかった子どもも多かっただろう。

 自分で言うのも何だが,コンマ何秒で「鬼」に化ける教師が近くにいることがプレッシャーになっていた子どもも多かったかもしれない。

 ただ,そうではない子どももいてくれた。

 離任式というのは4月の下旬くらいにあって,そこで初めて

 「いなくなった先生」と再会できるようになっている。

 しかし,「お別れ」を言う時機はすでに逸している。

 どうにかできないのかと考えてしまうが,何が起こるかわからない人事の世界だから,やむを得ないのだろう。

 この経験が,新しい仕事観を教えてくれたような気がする。

 「教師」の仕事に,「さよなら」という文字はない。

 「さよなら」を言えないことを嘆くのは,「教師」ではない。

 「さよなら」を言いながら「後悔」ばかりしている教育をしていてはいけない。

 「別れ」の季節に吹き荒れた風がおさまった公園を眺めている。


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「和」は日本最強の財産か,それとも・・・・

 日本語でいう「和」とは,「平和」(peace)よりずっと広く深い概念である。

 「和」を重んじない人,という斬り方で,非難され,いじめられる立場の弱い人がいる一方で,

 同じように,「和」を重んじない人,という斬り方で,足を引っ張られるリーダーがいる。

 「和」の中心には,「だれもいない」・・・・というのが,不思議な「理想の組織」であるのが日本である。

 「和」は「みんながつくるもの」であり,「中心」は空洞である。

 こういう独特の文化の中で,「民主主義」はどのように根付いてきたのだろうか。

 「和」は最強の財産である,と言い切れない不安感を,これからの子どもたちに丸投げするわけにはいかない。

 大人として,何らかの答えを出すべきである。

 教育現場における「和」とは何か。

 「リーダーシップ」とは何か。

 一般的な組織論にその答えを求めてきた一部の行政は,大失敗を犯した。

 「和」をコンピテンシーの中核とした個人の能力開発論,組織論を

 現場の改革の柱にできるかたちで示していきたい。

 「ごまかし」「隠ぺい」「なあなあ」が当たり前になってしまっている教育現場を

 変える,真の意味の「和」をどこから形にしていったらいいのだろう。


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「コピペ文化」はどこまで浸透しているか?

 先日,初任者のときの指導教員が,「二度目の退職」を迎えるということで,勤務先の中学校に出向き,久しぶりにお話をさせていただいた。

 定年退職後も講師として長年勤めていた中学校で働き,訪問時は何と部活動の指導中だった。

 その先生とのお話の中で,最近の「学び合い」風の学習方法への違和感が話題になった。

 若い社会科の教師は,プリントを渡して,その穴埋めを教科書等を使いながらグループでやらせる。

 それが終わると,解説を行って,終わり,だそうだ。

 これが社会科で問題になっている「コピペ」習得学習である。

 (   )の中にあてはまる言葉を,どこかから探して入れるだけ。

 それで理解は深まらないことは,だれでもわかる。

 しかし,(   )に言葉を埋められると,中学生はうれしがるのだ。

 それなりの「達成感」が得られるらしい。

 だれがこんな教育観,指導観を広めているのか? 

 「センター試験対策」という看板を背負った人たちか?

 中学校の学習指導要領には,もっと「まともな授業をしろ」と書いてある。

 こういう授業をしていたら,いつまでたっても,

 「思考力・判断力・表現力」は身にならない。

 それどころか,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」すらおぼつかない。
 
 どこかから文字や文章をコピーしてきて切り貼りすれば,評価に値する作品が完成する,と思わせてきたのはだれか?

 すべての教師が,過去に出題した定期考査問題を見返してみて,この問題に正面から向き合うべきである。

 ・・・・・・・・・・DNAの画像を切り貼りした小保方さんは,「やってはいけないという認識がなかった」と話したと報告されている。・・・・・・・・・


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障害のある生徒の指導をどうしたらよいか?

 ネット上でも読むことができますが,定価137円なので,お買い求めになってもいいでしょう。

 学習指導要領・総則編の解説に,表題に関する基本的かつ具体的な方針が示されています。

 教育公務員は,採用試験に合格してしまうと,パタリと行政関係文書や法令等に目を向けなくなりますが,少なくとも,学習指導要領が「改訂」(「改定」ではない)されたときくらいは,解説くらいは読んでおいた方がよいでしょう。

 それは,教育課程届を教育委員会に提出するときに,「なぜこういう方針にしたか」「具体的にはどうするのか」という質問に答えられるようにするためです。

 小中学校には,特別支援学級や通級による指導を受ける障害のある児童生徒とともに,通常の学級にも

 LD(学習障害)

 ADHD(注意欠陥多動性障害)
 
 自閉症

 などの障害のある生徒が在籍していることがあります。

 これらの児童生徒への適切な指導を行うために,どうしたらよいか。

 箇条書きにしてまとめてみて,自分の学校では何ができていて,何ができていないか,検討してみましょう。

 もう学校評価をする時期ではありませんが,

 教育委員会に受理された(はずの)教育課程をどうやって具体的に実現させていくか,

 検討が進められている時期でしょう。

 障害のある児童生徒は,自分を理解してくれている教師やクラスメイトを「感じる」ことができます。

 そういう意味では,教師の力量を示す「鏡」の役割も果たしてくれると言えるのです。


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元担任が,自分のことをブログで「問題児」と表現していることを知った子どもはどう思うだろう

 もう10年前になるが,通常の学級の児童生徒について,特別の配慮を要する子どもがどの程度在籍するかを行政が調査するようになった。

 ちょうどそのころ,私が指導主事として担当していた自治体の学校の管理職から,

 「今回の調査は生徒理解を深める意味でも非常に意義があった」

 との話を聞き,調査のとりまとめにあたっている教育委員会の担当に報告したところ,たいへん喜んでくれた。

 それまで,専門家でもない教師が落ち着きのない子どもに対して
 
 勝手に「ADHD」だと診断を下し,「問題児」扱いしているような状況も見られたが,

 どのような状況の児童生徒にどのような指導が適切なのか,校内でも研修を深めるようになった。

 こうして,もう10年以上前に障害をもった子どもを「問題児」などと呼ぶ教師はいなくなった・・・・はずだった。

 何のてらいも迷いもなく,

 「ADHDつまり問題児」などと呼ぶ倫理観に欠如した教師は,現場にはもういない・・・はずである。

 自分が大事にしてきた子どもに直接語りかけるのならわからないでもない。

 直接ふれあっている範囲の人間のことしか配慮できないような教師,

 直接ふれあっている人間のことすら配慮できない教師,

 ADHDの子どもを持つ親の気持ちなど何も考えられない教師・・・

 教育の歴史的大劣化は,こういう教師から始まり,いずれ深刻化するだろう。

 救世主は,やはり「首長」しかいないのか。

 
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3つ以上のブログをかけもちする人

 このブログの世界では,とても充実した「生活」を送っている方がいらっしゃいますね。

 たとえ自己満足でも,それが実生活によい影響を与え,悪影響を及ぼさない範囲内であれば,まさに「個人の自由」として尊重されるべきものです。

 私は,このブログ,読書編,そして社会科教育の実践編という3つのブログを書いていますが,最初の2つは日記のようなもので,最後のものは一般の中学校の先生にも紹介して,活用してもらえるようにお願いしているものです。

 土日で忙しくても,ある仕事から別の仕事にうつるときに,気分転換の意味も込めて書いたりしているわけです。

 夜中の更新もときどきありますが,できれば夕食後の,あまり頭がはたらきにくい時間帯に書くのがいいかと個人的には思っています。

 ブログのかけもちといえば,中にはおもしろい人もいて,それぞれ別の人間が書いている設定で運営しているのですが,書き手は一人だから,どうしても内容は似通ったものになってしまいます。

 しかも,ほかの人にはない特徴を持っている人は,その点がどうしても際立ってしまうのです。

 同じ誤記の仕方をするとか,同じ誤解に基づいた記述があるとかは,大した問題ではありません。

 盗作も問題でしょうが,なりすましっていうのは,別の意味で気になりますね。

 コピペ学者も,なりすましも,当然のことながら?,

 「私はコピペ学者です」とか,

 「私はなりすましです」などは言いませんね。

 
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嘘つきは,自分以外の嘘つきが大嫌い

 小中学生のなかには,平気で教師の質問に対してウソをつく子どもがいますね。

 これは,自分を守るため,条件反射的にできるように,生まれつきできるようにプログラムされている能力のように思われますが(ウソのつきかたを親が教えることはない),すぐにばれるウソをつき続けるかどうかは,親や教師の教育次第です。

 なかには,とにかくばれない限りウソをつき続けるという強者もいて,バレたときには強く責められるのですが,その鬱憤を晴らすように,他人がウソをついたとき,ウソをついたと思ってしまったときには怒りまくる,という「子ども」がいます。

 この非対称性を「不平等」と呼んでも理解できない人たちに,「民主主義」を語る資格はあるのでしょうか?

 報道を見ていると,そういう人たちばかり扱われるのでおもしろいですね。

 ただ,本当に自分を客観視できない人はいるようで,「こういうことをいう人間はおかしい」と言っている自分自身がそういう人間だということに気づけない人は,周囲との摩擦が絶えないことになるわけで,気の毒ですがなおす方法はありません。

 子どもたちには,「そういう人は,そういう人なのだ」という理解をさせるようにしています。

 なお,この記事の内容は,どこかのブログとは何の関係もありません。


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行事に熱が入る中学生が放つエネルギー

 教職課程における「実践的な学習」として最も代表的なものは,「教育実習」である。

 大学の教師は模擬授業くらいしかやることはないのか?

 そうではない。

 地元で最も「行事がさかん」な中学校と連携するのが一番である。

 部活動は「放課後の活動」であって,子どもにとっては大事だが,教師はそこに力を削がれてはならない。

 教育課程の確実な実施が求められる。

 部活動に最も近いのが,「特別活動」の時間である。

 「行事がさかん」な学校はたいてい,本来もっととるべき進路の学習や学級の時間を犠牲にして,行事の準備と運営に時間をあてる。

 その方が成果が大きいから,「伝統」をくずさない。

 生徒だけでなく,教師にも多大なエネルギーが必要だが,中学生が本気で乗ってくると,

 教師などは目ではない。

 すばらしい活動を展開する。

 こういう姿をもしも「中学生らしい」と言わないとしたら,何をもって「中学生らしい」と呼べるのだろう。

 総合的な学習の時間でそれを実現した稀有な中学校の事例を過去に紹介したが,

 行事ならば,かなりの数の中学校で「燃える生徒像」をイメージすることができるだろう。

 リーダーの成長はもちろん,クラスの団結,個人の目的意識の向上,集中力の向上といった目で見てわかる「成果」は,教科の学習活動にも波及していく。

 私の赴任した一校目の中学校は,学習,部活動,特別活動,すべて自治体トップクラスであった。

 特に,行事の盛り上がりは,他の中学校ではまず見られないほどの爆発力があった。

 特別活動がさかんだということは,学習面への良い影響だけでなく,

 下手な道徳の授業よりも道徳らしい「実践」がそこでは繰り広げられることになる。

 道徳と特別活動の関係をより重視した教育課程を組んでいる中学校があるが,これは大正解だろう。

 両者のねらいの区別をすることは大事だが,子どもにとってそんな些末なことは問題にならない。

 学校生活をよりよく過ごしていこうとする意欲の向上を支えるのは,学校行事である。

 そういう行事での中学生のエネルギーを全身で感じる時間を教師志望の人たちには経験してもらいたい。

 教育実習期間には,こういう行事は行われていない。

 教師が忙しくて実習生指導どころではないからである。

 これは実はたいへん残念なことである。

 自分の拙い授業の前でしゅんとしている中学生のイメージしか持てないで教師になった人間と,行事で燃える中学生を自分の目で見て知っている人間とでは,教師になってからの「子どもへの期待感」のもち方が全然違ってくるだろう。

 教師が発する「期待感」も,子どもを成長させる重要なファクターの一つである。

 「どうせこの程度だろう」なんて心で見下してくるような教師に,子どもをいい方向へ感化する力などない。


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若い先生の年寄り臭い教育現場レポート

 若いはずの人から若さが感じられないのはなぜだろう。

 教師になって5年目で,最初は中学校の教師だったのに,今は小学校の教師?

 排他的な人間観は,どうやって育まれてきたのだろう。

 周囲にいる教員は,いったいどういう「教育」をしているのだろう。

 この教育ブログの世界には,ときどき若い先生の実体験を綴るようなブログが登場し,そしていつの間にか消えていく。
  
 若い教師ほど,ブログを書いている暇はないはずである・・・・なんていう嫌味を,同じ職場の先輩教師の立場だったら言うだろう。

 書いているのが自分の悪口だということを知ったら・・・・ただではすまされない。

 ・・・・なんてびくびくする必要はない。

 ブログを書くことがストレス発散にもなるなら,それはそれで子どものためになる。

 国民には,「悲惨な教育現場の実態」を「知る権利」がある。


 あるブログに書かれている内容は,コメントにも書かせていただいたが,

 すでに退職して何年もたつ元教員が書いていると思われるほど,

 「古臭い」現場観に満ち満ちている。

 言葉づかいも非常に「年寄りっぽい」。

 これは正直な感想であって,決して「悪口」のつもりではない。

 「大昔」と変わらない学校の実態があるのだな,と感慨にふけっている。

 現場でたった5年しか経験していないのに,これだけのことが書けるということは,

 とても「優秀な観察者」「熟練の批判者」である。

 どの校種の,何の教科を教えているのか全く不明のそのブロガーの「実践」紹介の登場を楽しみにしている。

 今のままでは,ただの「評論家」にすぎない。

 メディアでの露出が多い「教育評論家」は,むごいキャラクター設定の影響で苦しんでいるように見える。

 ああなってしまうと,もう二度と教育現場には戻れないだろう。

 それにしても,自分が批判していることを自分がそっくりそのまましていて恥ずかしく思えない理由が分からない。

 そこまで「大先輩」を見習う必要はないと思うが。

 
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教育という仕事に憧れている人たち

 今でも「デモシカ教師」はいるかもしれないが,たいていは

 教職というものに憧れて教師を目指す人が多いはずである。

 憧れているだけでは大学も合格できないから,勉強することになる。

 大学に入ったら,教職課程をとり,教育実習を経験しつつ,採用試験のための勉強をするわけである。

 この過程で,最も大切な時期はどこだろうか。

 教員になって5年たっても,中学高校の教科書のレベル,教職課程の知識のレベルのことしか身についていない人間がいる。

 教員は指導力不足程度では簡単に失職しないのがおいしいところである。

 役に立たないと思われた免許更新制が,「ニセ免許」摘発のきっかけになるとは,何とも皮肉な話である。

 なぜ5年の経験を経ても,「一人前」になれないのだろう。

 教科書にかいてある程度のことしか言えないのだろう。

 それは,気の毒な話だが,最初のボタンの位置が間違っていたからである。

 ボタンのかけ違いは,気づいたときには全部外さなければならない。

 しかし,そういう作業ができる人は少ない。

 唯一のチャンスは,二校目に転勤になるときである。

 さっきの質問・・・・最も大切な時期・・・の答えは,「教育実習」である。

 そこで,どういう教師の指導を受けるかで,

 自分自身に対する正しい判断が下せるかどうかが決まる。

 「憧れている」だけで,教師には「不向き」な人間がいる。

 言葉だけで何とかなるという発想をもった,

 コミュニケーション能力の欠如を覆いで隠すような人間が,最も教師には向かないと私は考えている。

 ブログは言葉だけで(なかには参考になる文章を引用もしないで本の表紙の画像を貼り付けているのもいるが)思いを伝える手段だが,それで伝わるのは,

 「自分の言葉で表現できる人間かどうか」ということである。

 「自分の言葉」という表現は,学習指導要領の解説にも登場している,「行政用語」である。

 しかし,この「行政用語」は,珍しく実践的な意味をもつ「教育用語」でもある。

 1年目から,「自分の言葉」で教育を語れるような人間でなければ,教師にはならない方がいい。

 そうでないと,ただブログで不満や鬱憤をぶちまけるだけの教師になってしまう。


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もし中学校の校内研修で,むごい内容の公開授業を参観したとき,若い教師は何を語るべきか?

 教職経験が6年未満の先生方にお聞きしてみたい。

 あなたは今まで,校内で何回,研究授業を行い,どの教科の先生から,どのような指摘を受けましたか?

 ・・・・・とにかく年配の先生というのは,校内での研究授業を担当するのを嫌がるらしいので,自然と若い教師にその出番がまわってくるはずである。これは,チャンスと捉えたい。

 今日の話題は,万が一,ベテランの先生が授業をして,それがむごい内容・・・・具体的にどのような状況になっているかは,ご想像におまかせしたい・・・・だった場合,若い教師の立場で,何か言えるか,ということである。

 結論から言えば,正直に思った通りのことを伝えるべきである。

 それがどんなに

 「生意気」だと思われようが,一刀両断してよいのである。

 それは,若い教師だからできる特権みたいなものである。

 若い教師は,どうせ決まった年数で異動させられる。

 5年目くらいになったら,何でも言いたい放題でかまわない。

 実際にそういう経験をしてみないと,

 「本当はどういう言葉で表現すべきか」ということがわからないまま,年数だけくってしまう。

 以前にも書いたことだが,本当にむごい内容の授業について,

 ある講師の先生(文部科学省の教科調査官)が,

 魔法のような言葉でフォローしていたのには驚いた。

 褒める場所がどこにもなさそうな授業なのに,それなりに成立していたことになってしまうような「褒め方」だった。

 しかし,これは「自分にはまねができない」と思った。
 
 子どもの立場になれば,こんなにひどい授業はあり得ない・・・どこがどうあり得ないか,
 
 1分ごとにそのネタがある,というくらいの状態で,50分授業の問題点を語るのに50分以上かかるような授業だったのだ。

 若い教師の特権は,生徒と年齢が近い,ということである。

 横道に逸れるが,

 指導力不足教員のかなりの割合が,この「世代間ギャップ」への不適応を起こしているという説明がある。

 生徒の目線で語れない。生徒の言葉や行動を受け止められない。

 かけるべき言葉が見つからない。心の底から軽蔑されているように思われてくる。

 それでも現場に立って,生徒となるべく目を合わせないように,生徒と対話する場面をつくらないようにして,淡々と授業を進めている教師の様子は,ドラマなどでも紹介されているから,実体験のある人たちも多いのだろう。
 
 40代,50代の教員に多いそうだ。

 話をもとに戻す。

 若さの特権の話である。授業の感想は,ぜひとも,正直に思ったことを思った通りに語るべきである。

 それは何よりも子どものためである。

 もちろん,授業をした教師のためでもある。

 変化のための重要なきっかけになるはずである。

 そういう学校の生の現場の問題から目をそらして,評論家のようなことを書くのは全く意味がないと私は思う。

 まずは,どうでもいいところから,もちあげる。

 そして,正直に,ここはこう伝えてもらった方が,中学生なら響きやすいのではないか。

 ここは意見を中学生に言わせてみてほしかった。私が知りたかったから。

 この資料は,こういう角度で見せてもらった方が,子どもは興味をもてたかもしれない。

 私がそうだから。・・・・こんな調子で,導入の工夫,発問の仕方,話し合ったり発表したりする場面の作り方,板書の仕方,ノートのとらせ方,などなど,思いつく限りのことを伝えるべきである。

 初任者とか2年目の教師がいたら,そういう教師のためにもなる。

 遠慮することはない。

 遠慮してはならない。

 ちなみに,校長の学校経営にも疑問があれば投げかけるべきである。

 2校目は,本当に荒れた学校に異動させられるかもしれない。

 しかし,それこそが教師として成長する上で,最も重要な経験が積める場となるだろう。


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【発表(フィクションです)】 SNS中毒の監視・パトロール会社を設立

 以下の話は,T大学附属育鳳学園に関するフィクションであり,実在の話ではありませんので,ご注意ください。

**********************

 当学園の生徒会では,生徒たちの「SNS中毒」の問題が深刻化していることを憂慮し,問題解決のための提案を行いました。

 その結果,卒業生のグループを中心として「SNS中毒の監視・パトロール会社」が設立される運びとなりました。

 この会社が行うサービスの詳細は後日発表されますが,本来は保護者が監督すべき子どもたちのケータイ依存を,保護者の代理としてチェックし,子どもたちに警告を発するというサービスが基本です。

 使用時間だけでなく,会話の内容もチェックするサービスもオプションで用意されています。

 どうしても行事や生徒会企画のための「在宅会議」を行いたい場合は,会社に届け出てくれれば,警告の対象からはずしますが,保護者の同意が必要です。

 通信の契約者が保護者であるにもかかわらず,責任をとれない状態にあることを改善するために考え出された仕組みで,生徒自身が発案し,そのアイデアを卒業生がひきとって起業にまでこぎつけられたことは,学園としても誇れることです。

 「子どもの人権」を主張する団体との詳しいやり取りの詳細は,HPに掲載してあります。

 ぜひともこの機会に,「SNS中毒」の治療を真剣に検討されてみてはいかがでしょう。

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 おもちゃをとりあげられたら子どもは怒ります。

 福岡の中3が傷害容疑で逮捕されたそうですが,中毒の治療には,時間と根気,そして「専門家」が必要です。

 保護者と教員との間の,責任のなすりつけ合いもやめましょう。

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チェック機能が働かない,いい加減な学会等の組織は何%くらいあるのか?

 学者の世界も教育現場の世界と同じように,大きく信頼を損ねるような事態がたびたび生じている。

 一般の方には「論文」というものの価値は分かっていただけないと思うが,

 それがあれば,大学や研究所の教員・研究員として採用される上での「根拠」となる。

 しかし,「論文」審査の実態というのは,私が辞めた学会では本当にいい加減なもので,「査読」というチェック機能がきちんと果たされない。

 私が「査読」して,他で書いていることのコピーみたいなもので,こういう「二重投稿」的な論文に価値はないと主張したが,ふたを開けてみれば,ほとんどそのまま学会誌に掲載され,その後,その執筆者は大学の教員になった。だから私はその学会を辞めたのである。

 同じようなことが,科学者の世界でもあったのかどうか。

 コピペも見破れないような「査読」者にそもそも論文審査を行う資格などないだろう。

 チェック機能が働かない組織など,信頼することはできない。

 また,謝罪会見が開かれるのだろうか。

 ちやほやした新聞や雑誌は「だまされた」といって怒りをあらわにするのだろうか。

 私なりの意見を書かせてもらえば,チェックできなかった連中も「連座制」にするべきである。


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大学を卒業していなくても,教員免許がなくてもできてしまう「先生」という仕事

 学校の教師に関しては,本当にロクでもないニュースばかりが入ってくる。

 大阪府の“ニセ教師”の事例から,何が学べるか?

 結論から書けば,「本物」でも必要とされない人がいる一方で,「もぐり」でも必要とされる人はいる,ということである。

 この話を書くと,また「指導力のあるなしは何ではかれるのか」などと反応する人がでてくるだろうが,

 それなりに仕事ができる「先生」の中に,偽造した教員免許で仕事をしている人が紛れているかもしれないことが,今回のニュースではっきりとした。

 めんどうくさいことだが,一斉調査がかかる可能性がある。

 調査するのは教育委員会の事務局の人間だから,本当に「余計な仕事が増える」ことになる。

 こういう調査は,学校に丸投げしない方がよい。

 「いい先生を失いたくない」学校は,「本物を見たことにする」可能性が高いからである。

 中学生や親からは,「いい先生だった」・・・・ちゃんと大学を卒業して,本物の教員免許をもっていても,学習指導も生徒指導もろくにできない教師を横目で見ながら・・・・という声も上がっているようだが,

 今回のニュースから明らかになっていることは,

 大学が卒業できなかった人の中にも,教師としての力量を高めていける人はいるということである。

 教師は,現場で,子どもや教師たちに育てられるということである。

 実際のところ,教員免許はもっていても,教職にはつかなかったため,タンスにずっとしまわれている人は多いだろう。

 それが「悪用」されたかたちなのだが,結果としては,「役に立ってしまっていた」とも言える。

 さすがに「給料を全額返金せよ」という要求は酷だろう。

 どういう結末になるか。

 これから見つかる「ニセ教師」にとっても,注目すべきニュースとなる。


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3・11にできること

 仮設住宅で暮らす高齢の被災者の健康が心配である。

 震災前の自宅で園芸を趣味にされていた方は,仮設住宅の中でも植物を育てていらっしゃるが,

 水をあげるのが嫌になるときがあるという。

 ふと,私の父が癌と闘っているとき,「どうして自分が」とこぼしていたのを思い出した。
 
 幸福がすべての人に平等に訪れないのと同じように,

 不幸も不平等にやってくる。

 体は衰え,やがて命も尽きていく。

 「心の復興」は,何のために必要なのか。

 学校の場合,最後の6時間目の後半に,「そのとき」はやってくる。

 もし自分の授業があれば,子どもと一緒に「黙とう」をしたかった。

 「なぜ自分にこの不幸が襲ってきたのか」という疑問に襲われる人たちにも,

 この「黙とう」の時間に,心の中で寄り添えるような人を育てたい。

 東京の場合,3・11の前には3・10もある。

 学期末を目前にしても,「心の教育」のネタは尽きない。

 
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嘘がどうしてばれてしまうのか,不思議がっている人に

 読書編で紹介した,日垣隆著『ラクをしないと成果は出ない』(大和書房)の中に,

>ウソには必ず理由や背景がある。それを探るとインプットが効率的になる

 という「仕事の鉄則」が紹介されています。

 これは,親にとっても,教師にとっても,必要になる「仕事術」でもあります。

 子ども(生徒)の中には,「条件反射的」にウソをつくのがいる。

 若い親や教師には,「ウソをつくことはいけないこと」「ウソをつくことは許されないこと」という

 一般的な倫理観というか道徳観があるから,

 「ウソをついたという事実」をもとにその子どもを責めたてることになる。

 ときには,「条件反射的」に怒ることになります。

 それが「若さ」の証拠。

 「仕事術」を身につけようとしたら,

 「なぜウソをつくか」「なぜウソをつかなければならないのか」をまず頭に思い浮かべることです。

 そうすれば,まずは「怒り」は抑えることができる。

 教師なら,「体罰」も防ぐことができるようになります。

 答えは簡単に思い浮かべられます。

 「ウソをつくな!」とどなったところで,子どもの心は変わりません。

 簡単に子どもを「落とす」方法は,

 「こういう事情でウソをつかなければならなかったんだな」と理解を示すことです。

 これは,決して「許している」わけではないことが重要。

 苦悶の表情が欠かせません。

 では,大人の場合,どうするか。

 ネット上のウソはどうするか。

 ネット上の「ウソ」は,その道をよく知っている人にはすぐに見分けられます。

 なぜそういう「ウソ」をつかなければならないのか。

 書いている本人に,「哀しい過去」があるからです。

>物事の本質は,ウソをつく理由に隠されている

 という著者の指摘は確かです。

>その人が言葉にしないこと,別の言葉で覆い隠そうとしていること・・・。ここに本質が潜んでいる場合もあると,知っておく必要があるでしょう。

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「心の復興」を難しくしている「心」の問題

 IQを調べてみると,多くの人と変わらないか,それより上なのに,

 「そういう言葉を投げかけたら,傷つく人がいる」という助言の意味が全くわからない人がいる。

 自分がそういう言葉を投げかけられると,キレる。

 その逆は平気でできてしまう。

 子どもなら,「成育歴を聞くと,なるほどと思わされる」ことが多い。

 「心の復興」にたどりつけないでいる人たちである。

 99.99%まともな内容を記事にしても,たった一言の「不適切な表現」が,その人間全体への不信感を決定的にすることがある。

 子どもの喧嘩ではあるまいし,相手の人格を否定したら,それでおしまいである。

 教師が何気なく子どもに発する一言は,その子どもに絶大な影響を与えることがある。

 教師も,教育実習に訪れる大学生も,心しておくべきだろう。

 最近は,教師が管理職からかけられる言葉で折れてしまうこともある。


 さて,明日は3・11である。

 安倍首相が語った「心の復興」への道のりは,決して平たんなものではないだろう。

 「物質的な復興」とは異なり,単に「お金を落とせばよい」という論理では通用しない

 「心」の問題を口にしたということに,

 いわれのない不安感を抱いた人もいるのではないか。

 国はどのようにして国民の「心」の問題を解決できるというのか。

 国民は,国に「心の救済」を求めているのか?


 
 だれのどのような操作によるものか・・・・私はそれが学校にあるように思えてならない・・・・しかも,その発信源が社会科にあるとしか思えないのだが・・・・,

 「国」に対して持っている国民の不信感の重さというか信頼感のなさは,選挙の投票率の例を挙げるまでもなく,軽視できないものがある。

 「次の選挙で替えればいい」なんて悠長なことを言っていられるのは,

 被災地の現状に関心のない人たちだけだろう。

 
 被災地の人たちと私たちの違いは,「被災したか,していないか」の違いだけである。

 もちろん,私たちは失ってはいないが,被災地の人たちが失ってしまっているものはたくさんあるだろう。

 私たちが認識しておくべきなのは,被災地の人たちも私たちと同じように「失っていないもの」がある,ということである。

 むしろ,被災を通して私たちよりも強く持つようになっているものがある。

 そういうものへの想像力をもたないまま,3・11や被災地の人たちのことを軽々しく口にするのはやめるべきである。

 「心の復興」を最も難しくしているのは,人間の「心」の問題である。


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教育に関する出版業界の不思議

 小学校教育に関する本は,比較的たくさん出版されていることを,大型の書店や有名小学校の公開授業に行ったことがある人なら,よくご存じだろう。

 中身を読むと,中学校の教科書より易しい言葉でいろいろと書かれている。

 何だか情けない気になるのは,小学生向けの本のように,イラストがいっぱいである。

 小学校の教師のレベルを下げているのは,出版業界がやっている「編集方針」ではないかとさえ思ってしまう。

 子ども向けの本より子ども向けな本が売れるそうである。

 一方で,先日,学校経営に関する本を読んでみたら,これも驚いたことに,ウェブ上に公開されている行政の資料をそのままコピペしたような章が「論文」などとして紹介されている。

 ブックオフなどに行けば,そのうち100円で売られる運命にある本だと思うが,こういうどうでもいい本が出版される一方で,本当に本にする価値のあるものが出版されないというのが,この国の教育に関する出版の事情である。

 売れない「専門書」より,とりあえず買い手がつく本が出版されるのは理解できるが,これだけ内容のない本を出版する会社があるというのはよく理解できない。

 味も素っ気もない行政文書だが,そこには国の教育改革の流れを本当は左右すべきであるような重要な論点が,さらっとふれられていたりする。

 ところがいざ,はじまってみると,「言語活動の充実」のように,「何だか良さそうなイメージのするフレーズ」とセットになっている,中身のない提案だけが通っていく。

 「イメージに流されやすい」のは,この国に限らず,多くの人が陥りやすい「失敗」の原因の一つだろう。

 広告業界の裏話を聞けば聞くほど,人間のまだ「情報」から「独立」できていない姿が明瞭になってくる。

 「ウケがよい」ことばかりを重視する国の教育政策に,何の期待ができようか。

 
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佐村河内氏<たち>のつくった音楽の価値

 罪を憎んで人を憎まず・・・・という言葉は,簡単にはできないことだからこそ,「美しい言葉」として語られています。

 佐村河内氏の作品として発表されてきた数々の音楽に深い感動を覚えた人たちは多いでしょう。

 今回の佐村河内氏の会見によって,そのような人々は,<彼ら>の音楽をそれまでと同じような気持ちでは聞けなくなってしまうことは確かでしょう。

 ただ,「だまされた」という強い憤りを感じている人ばかりかといえば,そうとは言えないかもしれません。

 「作品自体」には何の罪もないわけです。

 私は何も聴いたことがないので想像上の話ですが。

 それなのに,「作品の価値」も失われてしまうとしたら,音楽を聴く人というのは,作り手への気持ち・・・作曲者が,障害を持っている人だとか,被ばく2世だとかいうこととセットにして「作品」をとらえているのだということになります。

 私たちは,ストーリーの中に自分を落とし込んで・・・その置き方は人それぞれでしょうが・・・その場で感動している自分自身を感じることで満足しているところもあるのだと思います。


 
 会見の一部の様子を見ると,音楽の話ではなく,

 「障害の事実は本当かどうか」という点に多くの関心が集まっているように思えます。

 聴覚障害をもっていない人の,聴覚障害に対する理解が,とても浅いものであったことを感じるきっかけにもなりました。

 「診断書を見せられても納得できない」という気持ちはわかりますが,「本当は聞こえているんじゃないか」という責め方は,どの程度「あり」なのでしょう。

 「今まで嘘をついてきたんだから,これも嘘なんだろう」という責め方は・・・それも障害にかかわることについての責め方は,もし障害が本当だったとき,どういう言葉を返すことになるのでしょう。

 記者会見でのやりとりは,記者が絶対権力者です。

 国会での議員からの質問も同じです。

 国民が主権者であり,国民に知る権利があるから,当然と言えば当然なのですが,

 主権者であり,知る権利があるから,

 「お前,言葉が聞き取りにくいと言っているが,それは本当なのか」

 「聞こえているようにこっちは感じるぞ」

 としつこく責めたてることは,「権利があるからいいじゃないか」ですまされることでしょうか。

 このような大人の態度に接する子どもは,まねをします。

 学校では,「いじめの加害者」と「認定」された子どもが,周囲から「罪の償いの一環」のようなかたちで,逆に「いじめ」を受けることがあります。

 社会的な問題,学校では問題行動の連鎖が起こらないようにするために,「私たちは正しい判断ができるようにするための情報」を知る権利を持っているのです。

 ゴーストライターはこの世に何人くらいいるのでしょうか。

 ゴーストライター側には何の「罪」もないのでしょうか。

 今回,佐村河内氏が非難されるのと同じように,その人たちも「非難される資格」をもっているのでしょうか。

 「利用していた」「利用されていた」は,

 それぞれどっちの方なのでしょうか。

 私が目にしている報道はごくわずかですが,少なくとも記者会見の様子からは,「偽障害者」としてのレッテルを貼り,その真偽をはかるための目の方が鋭く,ゴーストライターとの言葉の不一致と訴訟の問題が「次のネタ」だという「宣伝」をするだけで,音楽等の制作の実態に関心を向けさせてくれる情報にふれることはできませんでした。

 思い浮かんだメロディーを口ずさんで,他の人がそれを楽譜におとし,編曲をする。

 こういう場合も,「作曲者」は口ずさんだ人で「あり」なのでしょうか。

 「共同制作者」として「訂正」する道というのはないのでしょうか。

 値がつりあがった「佐村河内作品」の価値は,本当はどこにあったのでしょうか。

 「現代のベートーベン」という肩書には,どれくらいの「宣伝効果」があったのでしょうか。

 こうした疑問を解決してくれるような報道が現れることを期待したいと思います。


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禁断のアンケート

 中学校2年生では,近代という時代がどのような時代だったか,自分の言葉でまとめる時間をとっている。

 そこで,さりげなく教育制度の変遷を復習しつつ,現在でも「教育改革」は進められていることを紹介した。

 6・3・3制がいつから始まったのかをふり返るとともに,

 現在,4・4・4制とか,4・5・3制などが検討されていることを伝えた。

 さらに,自分の小学校時代をふり返って,

 「いつから中学生になってもよいか」と聞いてみた。

 結果は,最も多かったのが5年生,次が6年生,そして今のままでよい,という順になった。

 現在の世代のほとんどは,小学校に6年間通っているから,それが当たり前だと考えている。

 しかし,そこに見直しをかけなければならない根拠を探すとしたら,実はすでにスタート時点から4年生と5年生の間には大きな隔たりがあることが指摘されていたことが挙げられる。

 そして,現在の中2に聞いてみても,まさにその理由をもって「5年生から中学生がいい」という結論を導き出している。

 これだけ大きな制度改革を実現させるためには,小学校には気の毒だが,

 小学校5・6年生の教育成果に課題があることを証明する必要性も出てくるだろう。

 ある小学校の出身者は,小6の社会科(歴史)の学習のほとんどはビデオ鑑賞だった,という。

 私自身の経験で言えば,音楽専科の教師なのに,ほとんどレコードで音楽鑑賞ばかりをさせられた。

 こういう授業をしている人間に税金が投入されているのである。

 ビデオを見せるだけなら,何の資格も必要ないだろう。

 小学校の元教師のなかには,「指導計画,評価計画」の知識がゼロの人間もいるようだ。

 学習指導要領はおろか,教育法規に関する知識が全くない。

 採用試験では,もっと法令に関する問題の割合を増やしてもよいと思われる。

 資格試験的な性格を持たせるようにしないと,今のように2人に1人が受かるようになってしまうと,だれでも合格できてしまうのと同じようなものである。

 口伝えの情報,掲示板への書き込みをいくら集めてみても,それは「客観的なデータ」とは言えない。

 学校に対して行われている様々な調査に対して,「本当のこと」を報告しているのか,チェックを入れてみるという方法でもよい。

 そして,第三者による大規模な「学校における教育の実態調査」を行ってもよい。

 教育委員会ではなく,自治体として調査するのである。

 ごまかしようのない「禁断のアンケート」が,現実のものになる日は近いだろう。

 公務員も国民なのだから,自由を尊重しろ,なんていう小学生のようなことを書いている人間がいるが,こういうのはそもそも社会人などとは呼べないただの子どもである。

 起業して好きなように経営してみるのがよいだろう。

 失敗して初めて社会とは何かを学ぶことができるかもしれない。


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学級王国の「おうさま」の開き直り方

 ある学級では,ゲーム機を持ち込むことが可。

 ある学級では,お菓子を教室に持ち込むことが可。休み時間なら,いつ食べてもいい。

 ある学級では,マンガを持ち込むことが可。授業中でなければ,いつ読んでもいい。

 保育園でもやられていないことが,小学校の教室では行われている。

 小学校の学級王国は,教師が「おうさま」であったり,児童が「おうさま」であったりもする。

 児童の「おうさま」が「今日は体育をやりたくない」と言ったら,

 たった一人の大人の「おうさま」は,

 ビデオを見て過ごすこともあれば,お菓子を食べながら暇つぶしをすることもある。

 家庭以上に秩序が崩壊している学級の話を聞いたことがある人はどのくらいいるだろう。

 こういう学級の教師がどういう論理で自己を正当化するのか,参考になる教育ブログの記事がある。

 人間と動物を同じレベルで比べたり,

 家庭と学校を同じレベルで比べたりする。

 「ゲームして時間をつぶしたい」と主張する担任と,

 「マンガを読みたい」と主張する子どもの「おうさま」の対決になった場合,

 どうなるのだろう。

 結局はみんなそれぞれバラバラに好きなことをするに決まっている。

 単独世帯がどんどん増えているのは,高齢化だけが原因ではない。

 一人でいれば,「やりたいことをやって何が悪い」という説明をいちいちしなくてすむ。

 「学級王国」の「話法」は,「好きなように生きろ」だから。

 中学校に入って,「社会のルール」に従えない子どもが続々と現れる。

 講師の先生に,授業中に読んでいたマンガ本を取り上げられた中学1年生が,

 怒り心頭で職員室に現れたという話を同僚の先生からお聞きした。

 もう一度書くと,怒り心頭で職員室に来たのは,マンガ本を取り上げられた

 中学1年生の女子生徒である。

 「なぜマンガ読んじゃいけないの?」

 そのあとの話はここでは書かない。

 こういう子どもは,「ルールに従わない」のではない。

 「ルールに従えない」のである。

 「ルール」の意義を学んだことがない子どもが,続々とつくられている場所が,

 「おうさま」だらけの「学級王国」である。


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間違いを指摘し合える組織づくり

 小学校6年生の育て方に慣れている小学校教師は多いだろう。

 ただ,それが本当に子どものためになっているかどうか,確かめる手段をもっているだろうか。

 崩壊しているあっちよりはまし,なんてレベルではないだろうか。

 中学校の場合も,サイクルが短いから,10年くらいたつと,中1,中2,中3の特徴がつかめるようになり,どこをどのように刺激すると伸びるかわかってくる。

 ピント外れのことをしているのを見ていると,たいてい,案の定,子どもから敬遠されるようになっていく。

 一方,的を射ている教師のまわりには,子どもが集まっていく。

 ピント外れの教育を受けてきたことがよくわかる子どもたちがいる。

 中1でしばらく「かみ合わない」日が続くが,

 「わがまま」という言葉の意味を初めて知るようになると,少しはましになっていく。

 さて,信頼を得るようになった教師が気を付けなければならないことがある。

 それは,「間違い」を指摘してくれる人が減るばかりか,

 自分の「間違い」に気づきすらせず,「盲従」してしまう人が増えてくることである。

 組織が,お互いの「間違い」を指摘し合える環境をつくるのは難しい。

 ならばせめて,「ダメな気がするリスト」をつくったり,

 「ダメな気がする」という言葉を表明する機会をつくったりするのがよいだろう。

 「ダメな気がする」経験を2度も3度も繰り返してはいけない。

 でも,そうでもしないと気づけないのが人間なのかもしれない。


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傷つけられる「アンネの日記」~心の痛みを他人の心の痛みで癒す人たち

 他の国や民族を敵視することによって,何とか自分の国や民族のまとまりを維持しようとする人たちがいる。

 それは,本質的には,自分の国や民族の誇りを傷つける行為であり,

 結果的には,自滅行為である。

 そのように自滅してきた国や政権はどれだけあったことだろう。

 政権が倒れるだけですむのならよいが,国が滅亡してしまうこともある。

 自分の心の痛みを,他人の苦しみを理解し,癒してあげることで,

 自分自身を癒している人たちもいる。

 教師の多くは,心の痛みを抱えている。

 しかし,決して甘えてはならない。

 子どもの多くも,心の痛みを抱えている。

 そういう子どもたちを救うことによって自分自身を救ってほしい。

 切に願う。


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数字に興味を持ち,自ら考えられる子どもを育てよう

 社会科の教員で,「国勢図会」を活用していない人はいない(と願いたい)。

 教科書や地図帳に出ている統計資料だけで満足していては,定期考査の問題もつくれないし,入試問題の予想もできない。

 以下,『日本国勢図会』の紹介をした読書編から,転載する。

*************************

 「読書」向けの本のようには見えないかもしれないが,この「日本がわかるデータブック」によって,ある程度の世界の情勢もわかる。

 もし子どもに「日本の兵力は?」と問われたら,「第39章 国防と自衛隊」の図を見せてあげればよい。

 そうすると,自然に周辺各国の兵力も目に入ってきて,子どもは「比較」するようになる。
 
 日本 14万人
 中国 160万人
 北朝鮮 100万人
 韓国   52万人

 小学校5年生になると,「割合」を算数で習うが,「割合」という考え方がどういう意味をもっているかを,「国の兵力」をもとに実感させることができる。

 「国の人口の何%にあたるか?」という疑問がわくようになれば,「割合」の意味を理解し,それを求める計算作業も自然と身についていくと考えられる。

 人口で割った数字は,

 日本   0.1%
 中国   0.1%
 北朝鮮  4.1%
 韓国   1.1%

 となる。

 歴史に興味のある子どもで,江戸時代の人口に対する武士の割合を知りたくなったら,

 教科書で探させてみてもいい。答えは「7%」である。

 データは,使い方を間違えるとたいへんなことになる。

 「割合」の扱い方に慣れていない小中学生は,割合の数字だけを見せられて,

 「日本の中国の~は同じだ」などと誤解してしまうことがある。

 だから上には書いていないが,割合を求めるための数字(ここでは人口)を示してあげることが親切であろう。

 また,上記のように「軍事力」を題材に算数や理科を教えていたのは戦時中の教科書だった。

 「刷り込み」になるのも恐ろしい話である。

 さまざまな分野のデータを網羅し,企業人にもヒントを与えてくれるのがこの本の特徴と言える。

 小中学生向けの話ではないが,企業の統計における「付加価値額」とは何か,ご存じだろうか。

 経済学の専門家なら知っているかもしれないが,以下のように求められる。

 付加価値額=売上高-費用総額+給与総額+租税公課

 つまり,営業利益と税に人件費を加えたものである。

 売上額に対する付加価値額の割合を付加価値率という。

 企業全体では,18.6%という数字となる。

 付加価値率が最も低い業種は,卸売業,小売業の10.6%。
 
 これは業種の性質からも理解可能であろう。

 同様に,付加価値率が最も高い業種は教育,学習支援業の46.9%である。

 付加価値額で両者を比べると,

 卸売業,小売業 42兆円

 教育,学習支援業 6兆円である。

 両者とも,「逆転の発想」で利益を上げている企業がある。

 政治の世界の統計もある。

 衆院選の投票率(選挙区)は,

 第43回(2003年11月)  59.86%
 
 第44回(2005年9月)   67.51%
 
 第45回(2009年8月)   69.28%

 第46回(2012年12月)  59.32%

 と推移していることが示されている。

 2009年の衆院選で勝利し,与党となった民主党だが,2012年の選挙では公示前の230議席から,1998年に結党した時の議席数93を下回る57議席へと激減してしまった。

 自民党が圧勝した衆院戦は,この4回のうちでは最低の投票率となっており,

 民主党への失望は,日本の政治への失望に拍車をかけたものという見方もできる。

 「憲政の常道」と呼ばれた1925年から32年までの政党政治は,国民からそっぽを向かれて終わりを迎えてしまった。

 こういうことが起こらないことを心から願っていたい。


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小学生にかけてほしくない言葉

 小学校の現場で働くようになった,元中学校の先生の話を聞く機会があった。

 もちろん管理の行き届いている小学校もあるのだろうが,基本的に何でもありの学校もあるらしい。

 詳しい話は私が今までこのブログで紹介してきたこともたくさん含まれているが,

 書いた記憶がはっきり残っていないことだけ,記事にしておきたいと思う。

 小学校高学年の授業から,「ついていけない子ども」が出始める。

 そういう子どもに対して,小学校教師は,

 「これができないと中学校で落ちこぼれるぞ」というニュアンスの言葉をかけるらしい。

 中学校教師が,中学生に同じようなことを言う場合と比較して考えてみてほしい。

 小学生にとって,「私は中学校で落ちこぼれる」という刷り込みをされることの影響と,

 中学生にとって,「私は高校で落ちこぼれるかもしれない」というプレッシャーをかけられることによる影響。

 ご存じのとおり,中学生が高校に行くときは,たいてい学力で「輪切り」にされた状態で進学する。

 心配するほど,上級校で「困る」ことは起こらないだろう。

 みんなできないことを知ればほっとするかもしれない。

 ところが,小学生にとっては,

 脅されていたとおりのことが起こる。

 これが望ましい小中の関係だと思う人はいないだろう。

 では,小学校の教師は,どうすればいいのか。

 何が原因でできなくなるのか,しっかり分析してくれれば,その結果として,

 6・3制ではなく4・5制でないと成立しない,という結論が出るかもしれないが,

 そこまでたどりつくまでの間の子どもはどうしたらいいか。

 おどして勉強させることほど情けないことはない。

 中1プログラムの種が,どこでまかれているか,しっかりと検証すべきである。

 社会科の話で言えば,地図帳をほとんど使ったことがない子どもが中学校に上がってくる。

 地図帳の活用方法が分からない。

 教師自身が学ぶ気がないのなら,小学校6年制はできるだけ早く見直すべきであろう。


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中学生の輝き

 私は,学校週5日制になったころの教育の趣旨を大切にしている人たちと一緒に仕事をする機会をもっている。

 中学校の社会科の価値を知らない「計算おじさん」や,基礎学力に乏しい学生を教えている大学の先生が,よってたかって「悪役」にした社会科の地理的分野のカリキュラムは,改訂によって,大きく歪んでしまっている。

 「知っているかいないか」ばかりを重視するような教育観を主張するだけあって,両者の話はよく似ているし,傲慢な態度もよく似ている。

 学校現場は,「教えること」で精一杯になってしまって,「学ぶこと」をおろそかにせざるを得ない状況に追い込まれている。

 これでは学力がつかないということが,採点作業が始まっている「学習指導要領実施状況調査」で明らかになることを私は望んでいる。

 どのようなカリキュラムにしろ,教師の力量で子どもに学力がつくかどうかは決まる。

 教師が力量を伸ばせるカリキュラムかどうかも重要なことである。

 今のカリキュラムは,ただひたすら暗記すればいいだけの内容を示してしまった。これでは教師は表面的な「指導の工夫」に走るだけであって,本質的な意味での「研修」などしなくなるだろう。

 学習指導要領の改訂を2度も経験しながら,全く変わらない趣旨で行っている発表会の運営にかかわっているのだが,今回,発表していた中学生の輝きを,小学生や高校の先生に見せてあげたかった。

 小学生が知的ではない,とは言わないが,中学生の活動力に小学生はたちうちできないだろう。

 私がもし6・3制に反対する理由・・・4・5制(例)に賛成する理由を探せと言われたら,ロールモデルを知らない5・6年生と,知っている5・6年生を比べたら,圧倒的に後者の方が実力が早く伸びるはずだということをまず主張したい。

 中学生の優秀な子どもは,どんどん小学校に送りこんだ方がいい。

 小中連携は,大人がうだうだやっているより,小学生と中学生を直接向き合わせた方が,手っ取り早く実現できる。

 2年前に訪問させてもらった小学校に中学生を5月に連れていくことを楽しみにしている。

 一生懸命,発表に耳を傾けて,質問もしてくれた小学生の目も輝いていた。

 学校で目が曇っている人間はだれか。

 管理職の目は,しっかりと教員を見ているか。

 子どもとばっかり接している小学校の校長がいるが,

 校長は,もっと教師と接するべきである。

 子どもに人気の校長にもそれなりの価値はあるだろうが,

 それだけでいいのなら,近所のおじさんでも校長になれる。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より