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問題を問題と感じないことが大問題

 まともな「授業観」「学習観」「教育観」「成長観」「人生観」「人間観」をもっていない担任教師と1日8時間も一緒に過ごさなければならない小学生たちは,本当に不幸である。

 私のブログには,「小学校担任 はずれ」という検索ワードで入ってくる人たちが大勢いる。

 学級担任制の小学校教育の怖さは,保護者になってみると非常に切実で現実的な問題なのである。

 一日を過ごす時間(もちろん起きている時間)が,親より小学校の担任の方が長いのだから。

 子どもは,担任から様々な影響を受けてくる。

 何を隠そう,私は,小学校3・4年生の担任の影響を非常に強く受けているが,それはここでは本当に隠しておきたい。

 小学校では,子どもとある特定の大人(担任教師)との間で過ごす時間の6割以上が「授業」の時間となる。

 このあまりにも長い「授業」の時間に,「息抜き」が必要であることは,教育関係者でもなくてもわかる話だが,

 それが子どものためというより,大人=担任教師のために必要だ,なんていう話も聞かれるから,頭を抱えたくなる。

 あるブログに書かれている授業観は,あまりにもひどい。

 授業に関する話だけ,なぜか他人ごと=部外者からの記述になるのが不思議なところでもある。

 授業に当事者意識のない元教師の言葉など,何の役にも立たないのだ。

 ある児童が何日も欠席していた。

 出席してから,試験をした。

 満点をとった。

 そうしたら,「授業にはどんな意味があったのかと考える必要がある」なんてことを言っている。

 まさか,その児童は「授業を受ける意味はなかった」と言いたいわけではあるまいが,

 そんなニュアンスは十分に伝わってくる。

 「姿勢を正している子どもでも,頭の中では何を考えているか,わからない」

 なんてことも書いている。

 しかし,授業とは全く別のことを考えている子どもと,真剣に学習問題を考えている子どもの違いが区別できない教師では情けない。

 問いへの反応や実際の発問,子どもとのやり取りで,そんなことはすぐわかるはずである。

 おそろしいほどの「授業音痴」「教育音痴」であることが伝わってくる。

 こんなひどい教師と1日ずっと一緒に,それを毎日繰り返して1年たったら,

 子どもはどのように「成長」するのだろうか?

 こんなことはまともな教師に向けて語ることではないが,

 1時間1時間の授業には「ねらい」があり,それがどの程度まで達成できたかを,教師は「知ろうとする」姿勢,「知りたい」という欲求を持っていると願いたい。

 この「成果を知りたい」という欲求のかけらも感じない文章に出会うと,本当に憤りを感じる。

 学校は,学ぶところである。

 児童生徒は,あらゆる場面で学んでいるが,

 一番「学んでほしくないこと」も「学ぶ」可能性があることを親なら十分に知っておきたい。

 授業に重きを置かない教師から受ける悪影響は,「一生もの」になる,と断言する。

 だから,保護者としては,普段,教師がどのような授業をしているかを知る「義務」がある。

 たった1回の公開授業だけでも,その教師の「授業に向ける姿勢」は読み取れる。

 できれば,そこで「信頼感」を得たい。

 しかし,そうではない現実をつきつけられる可能性もある。

 問題は,そうなったときの,保護者としての行動指針である。

 これについては,行政が少しずつ,後押しをしてくれるだろう。

 今日のニュースでは,「英語の先生の英語力の課題」がテーマになっていた。

 今後,これに近い「指導力の課題」が問題になってくるだろう。

 「新聞を読まない社会科の先生」は,実際のところ,何%くらいいるのだろう?

 保護者は,いじめなどで教師の対応が悪いときだけクレームを入れたりするが,

 実は,生活指導よりも,学習指導自体に不満をもっている方が多い,と知っておくべきである。

 学習指導の問題には,意見が言いにくいだけだ。


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コメント

お子さんの健やかなる成長をお祈り申し上げます。

私自身もそうですが,教師も,親も,みんな「成長」できることを信じて「教育」にあたりたいと思います。

ありがとうございました。
確かに1日一緒にいたら、子供に大きな影響をうける「一生もの」になると、おっしゃっていましたね。恐ろしいことです。

担任に手紙を書こうと思います。どうしても尊敬(信用)のできない人ですが、わたしの考えや気持ちを伝えたいと思います。
アドバイス有難うございました。

記事のかたちでお答えいたします。

こんにちは、はじめまして小3の女の子の母です。

聞いてください。担任と電話で我慢できず、おもっていることを言ってしまいました。ちなみに、4年も担任の予定です。

いつも子供達の前では、とても怖く、よく手が出たり、平気で人を言葉で傷つけることをいいます。体罰もありました。しかし、大人たちの前では、調子よくて大人の汚さを感じます。
私は日頃からその担任がうちの子供にとても傷つくことを言い、他の子と差別されたことに、つい我慢できず「子供もわたしも傷つきました。あなたのことも信用していません。」と色々と言ってしまいました。
すると、あちらは、モンペにぐらいにしか、思っていないのでしょう。「はいはい、すいませんでした。」と電話を切られてしまいました。が、また、子供に対して何かキツイ言葉で仕返しをされるのではないかと心配です。

何かアドバイスお願いします。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より