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「おれさま」たちの扱い方(その2 管理職編)

 管理職の「おれさま」の対処法は,基本的にその1の教員と同じだが,

 当然のことながら,管理職は上司であることを忘れてはならない。

 教員には上司に平気で反抗したり暴言を吐く「世間知らずの子どもたち」がいるが,

 こういう人間によって学校全体の雰囲気やムードがどれだけ破壊されているか,社会人ならだれでも想像がつくだろう。

 職員室のパソコンをプールに捨てたり,学校を燃やしたりする教員が出てきた原因を,その学校の管理職にはぜひ語ってほしい。個人の責任にして何もなかったことにする「トカゲのしっぽ切り」はどんな組織にでも見られるであろうことだが,本質的なところを改善しない限り,似たような問題は他の自治体でも必ず起こる。

 さて,まず校長だが,私の経験した範囲で,「おれさま」を演じざるを得ない校長は本当に気の毒な人である。

 「校長が一歩引いたら,いないのと同じ」になってしまう学校はたくさんあるだろう。こういう学校では,校長の「おれさま化」によって最低限の秩序が保てる。

 今ここで話題にしたいのは,「ウラ研修」の中身だから,

 本物の「おれさま」の話である。

 こっちの方は,本当に管理能力のない,おそらく教育長が出す評価も最低レベルの校長であることが多いだろう。

 「おれさま」であることによって,教員が反発し,士気(教育意欲)を低下させ,教育活動を停滞させることがわかっていない人が多い(もちろん,そんな程度のことで士気(教育意欲)を低下させないことが重要で,だからこんな記事を書いている)。

 こういう人には何を言っても無駄だから,「おれさま」の出現を最小限に食い止める役割の人がほしい。

 教員として一番ラクなのは,その役割を教頭(副校長)が担ってくれることだが,教頭も教員たちの手前,ゴマすりに徹することもできない。

 一番ぴったりの役割が果たせるのは,「若手」の教員である。

 私なら,「若手」たちに,「校長を質問攻めにしろ」とアドバイスしたい。

 「校長先生がもっている教育のノウハウすべてを知りたい」という情熱に燃えて,少しでもわからないことがあれば,すぐに聞きにいく。これはもちろん,そのねらいを学年主任や同僚,できれば教頭にまでわかってもらっておいてから,実行すべきである。

 若手の教師に頼りにされてうれしく思わない「おれさま」はいない。

 しかし,さすがの「おれさま」も,「アドバイスすべき言葉が見つからない」・・・「失語症」に陥る壁にぶつかるときがある。

 「おれさま」がおとなしくなったそのタイミングを逃さず,

 「では,この問題についてはどの先生に教えてもらったらいいでしょうか」と問う。

 教員管理をすべて教頭にまかせきりの校長の場合,これにも答えられない。

 そうすると,教頭の出番がまわってくる。

 しばらく校長はおとなしくなるだろう。

 このストーリーでは,最終的に,教員集団のコミュニケーションが高まるようになる。

 ただ残念ながら,教員の側の「おれさま」が多い学校では,若手が四面楚歌となる。

 教員による放火騒ぎがあった小学校が,そういう学校ではなかったことを願いたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より