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指導主事の仕事は「激務」ではないが「失敗が許されない」というプレッシャーが強い

 一般の方にはほとんど縁がないと思われる教育委員会の「指導主事」。

 私も教員になって初めて「指導主事」の方々に出会った。

 このブログには,「指導主事」関係の情報に興味がある方がときどき訪問されている。

 参考になるかどうかわからないが,私なりに,「指導主事」に向いている人とそうでない人の違いを述べておきたい。

 まず,「指導主事は激務ですか?」と問われたら,

 「学校の激務とは比較にならないくらい,たいしたことはない」と答える。

 どう考えても,学校の方が忙しい。

 ただ,ここは誤解される恐れがあるから書いておくが,「学校の激務」とは,たった1分間の休みや息抜きもなく,12時間以上働き続けることを言う。

 私の場合,昨日から今日にかけては,16時間働き続けていた。
 
 指導主事になると,時間的な拘束時間は長くなるかもしれないし,

 出張等で移動時間は長くなるかもしれないが,

 学校現場のような「忙しさ」は教育委員会には存在しない。

 休憩時間に職場を離れることすら可能になるのがお役所というところである。

 さすがお役所,法律が守られている。

 教員になって初めて経験した「初任者研修」については,学校から10分でいける場所で行われていたにもかかわらず,「移動時間こそが時間の無駄だ」などと最初は思っていた。

 これくらい,学校現場というのは忙しいところである。

 それに比べて教育委員会の事務局では,

 一人で食事をする暇がある。

 電話に出る暇がある。

 指導主事に向いていないのは,私のように「常に動いていないと気が済まない」タイプの人間である。

 「言いたいことが言えない」ことに耐えられない人も向いていない。

 どんなに勉強不足の教員のひどい授業を見ても,いいところを探して褒めたり励ましたりしなければならない。

 そういうのが苦手な人は,指導主事には向いていない。

 また,指導主事は「失言」が絶対に許されない。

 なぜなら,「指導主事の言葉」=「教育委員会の言葉」だから。

 ときどきお世話になっていた教育委員会に質問の電話をかけると,ほとんど(確認するために)「かけ直す」と言って電話が切られる。こちらは相手から電話がかかってきたときに電話に出られるような状態にはほとんどないから,もうそこからはお互いに連絡がとれなくなる。間違えないように答える必要がない質問でも,安全のために上司に確認するくせがついてしまっているのだろう。本当に面倒くさい職場である。

 暇だからと言って,何もしないわけにはいかない。

 基本的に,「勉強嫌い」は指導主事には向いていない。

 興味のない教科の質問にも答えなければならないから,学習指導要領の解説にはすべて目を通す必要がある。これももちろん,専門的な内容は,教科の専門の指導主事に聞けばよいのだが,聞くよりも自分で調べる方が早いこともある。

 指導主事は,限られた人しかなれないか。

 決して,そういうことはない。

 1年間は,見習い期間として,ただひたすら近くにいる指導主事の仕事を見ていなければならない。

 1年間たつと,それなりの仕事はすべてこなせるようになる。

 3年目には,もう完全に「慣れる」。

 おそらく,3年目くらいで,教育委員会にそのまま居続けるタイプの人と,現場に管理職として出ていく人に分かれていく。

 指導主事になると,何ができるか。

 学校に指導ができる。

 いい加減な教育課程届を出してきた副校長や教務主任に,いじわるな質問を投げつけることができる。

 すべて法令や自治体の条例などを盾にするわけだが,さすが「教師」たち,「これが本当に子どもたちのためになると思いますか」と投げかけられると,すぐには「はい」とは言えなくなってしまう。

 法令を盾にとって教師たちをいじめるのが好きな人は,指導主事に向いている。

 こういうのが,普通の授業をしている教員の姿に向かって投げられないのが,指導主事のつまらないところである。

 話は尽きない。

 またいずれ,どこかで続きを。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より