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「おれさま」たちの扱い方(その3 子ども編)

 大人の中にも,「小学校時代から全く進歩していないのではないか」と思えるほど,「おれさま」度が高い人がいる。

 昔の子ども社会では「出る杭を打つ」機能があり,最終的に「おれさま」はその競争に勝ち抜いたごく少数の人間しかなれなかった。

 しかし,「いじめを許さない」学校の空気は,相対的に子ども一人一人の「おれさま度」を高め,「自分に一目おかない教師は,教師失格である」というわがままオーラを帯び始めた。

 学校ではときに,「おれさま」VS「おれさま」の抗争の処理が仕事となる。

 対立している「おれさま」には,自分の子どもの保護を絶対視した「おれさま」=保護者たちがついているから,対応にあたる教師は各個の主張を聞くのに時間を要する。

 いじめの問題等でも,「学校の対応の遅さ」が問題になることがあるが,事実関係の確認だけでもかなりの時間を必要とする場合がある。

 複雑な問題・・・中3の問題なのに,背景は小学校低学年までさかのぼることもある・・・だと,ノート1冊が聞き取りの結果だけで埋まる。

 当然,そこに書かれている内容は,相互に矛盾することが多くなる。「おれさま」も「おれさま」の保護者も,「おれさま」にとって都合のいいことしか言わないし,敵側に不利な話は捏造してでもぶちまけてくる。聞き取りをした後,簡単に言えば事実をつきとめるだけでも,膨大な労苦が必要となる。

 一方が外見的には「いじめられている」状況にあっても,全く別の安定的な「おされま」組織が入れ子状に存在することがあるから,1つの問題が発生した,といっても,背景には複合的な隠された問題があるという可能性も認識した上で,対応にあたる必要がある。

 「相手になったつもりで考えてみよう」なんていうアドバイスが全く機能しないのも,「おれさま」たちの特徴である。

 もし教師が短期戦でことをすまそうとしたら,「おれさま」をくすぐることで解決をめざすという方法がある。

 当事者たちを本当には救えない,まるで「教育的」ではない対処法だが,教室や学校の秩序が崩壊しそうな場合は,とにもかくにも「沈静化」しなければならない。

 教師は,「おれさま」の利益とは何か?を一緒に考える,というスタンスをとる。

 あまりにもえげつないので,プロセスを書きたくはないが,こういう方法に一番乗ってくるのが,保護者たちである。

 「おれさま」の格上げを目標とした指導である。

 その後,この「おれさま」がどのような挫折の道をたどるかは,あえて想像しないようにする。

 長期戦で臨む構えを見せて,「休戦宣言」を出すという方法もある。

 これは,「あなたにとって不利な証言がある」ことを伝え,「その証言の出所がどこか,信憑性がどうかを確かめるために,時間がほしい」ことを両者に伝える。さらに,「その証言が間違っていることを私の目で証明するために,しばらく日々の行動の様子を観察させてほしい」と言う。双方が納得してくれたら,

 実質的には「放置期間」の始まりとなる。

 多くの場合,この「放置期間」中,はじめはおとなしくしていた「おれさま」たちは,予定通り?の問題行動を起こし始める。最終的な和解に向けて,これらは重要な持ち駒となる。

 小学校の学級担任はこのような問題を一人で抱え込まなければならないから,多くの場合は「放置状態」となっていることが,中学校になって明らかとなる。

 中学校では,学年の教師たちの連携,生活指導部の中での対応,部活動の顧問間での情報交換によって,解決への道筋をつけていくことが多い。

 中学校の会議の時間が半端でなく長いのは,こういう問題に真摯に向き合っている証拠である。 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より