ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« メモをとらない教師たち | トップページ | 都合が悪いことは書かない「×××」 »

教師は授業で生徒に向き合う存在である

 教師が生活指導で生徒に向き合って,生徒が変わっていく姿を描くのはドラマの世界の話である。

 それは,単なるイメージだけで,教職経験のない人間も語ることができる。

 教師でしか語れないのは,「授業」で子どもにどう向き合うか,ということである。

 学校生活に子どもの「自由」をどこまで認めるかなどといった話題はナンセンスである。

 生活指導で,学校で決めたルールに子どもが従わない場合,どのような指導をするかが,

 「教師によって違う」ような学校が「荒れる」のである。

 自分なりの教育方針を大事にして,ドラマのような空想の世界を現場に持ち込む教師がいるが,

 「教師によって態度が異なる」ような状況をつくるから,生徒が「荒れる」のである。

 生活指導は,学習指導の基盤でもある。

 教師は,授業で子どもに正対しなければならない。

 教育上で子どもに教えたい「自由」の価値とは,「自分の行動に自分が責任を持って,自分なりにコントロールできる能力のすばらしさ」である。

 授業のなかで,そういう場面はいくらでもつくれる。

 社会科の授業なら,日替わりで,直近のニュースのうち,自分が最も興味をもった話題を1分間でスピーチさせる。世界の出来事であるなら,略地図を黒板に描いておき,起こった場所を示して,国名や地名なども記しておく。

 どんな内容を発表するかは,子どもの「自由」である。

 ただし,他の生徒たちは,必ずその発表のメモをとり,各自で地図帳を開いて,その場所を確認する。

 疑問点は質問する。発表した生徒が答えられなければ,教師が代わりに答えたり,調べさせたりする。

 また,問題解決的な学習では,追究すべき課題を「自由」に設定させることもできる。

 ただし,「自由」に設定した課題が,追究に値するものであるかどうかは,きちんと教師や他の生徒に吟味してもらう必要があり,不適切なら変更しなければならない。「自由」な選択は,何でもあり,というわけではなく,ある一定の条件をきちんと満たすように,さまざまな人から評価を受けなければならない。

 そういう学習の繰り返しで,やがて「社会性」も身についていく・・・という前提を持ちながら,社会科の教師なら授業を進めることができる。

 音楽の教師なら,たとえば「楽器で自己紹介」のような活動をさせることができる。

 楽器はもちろん,曲も自分が好きなものを「自由」に選ぶことを可能とする。

 個性的な発表が,「音楽による自己表現」となる。「自由」であることのすばらしさだけでなく,難しさも体験することができる。

 このように,「自由」な選択を子どもにさせていくのに最適な場面は授業なのである。

 単なる日常の生活での「自由」を与えることでは,子どもの社会性が身につく前に,秩序が崩壊し,お互いに「不自由さ」の方が目立った環境になりかねない。

 授業規律がしっかりできて,授業のなかで子どもが自分の責任をしっかりと自覚することができる様々な「自由」を経験を積み重ねること・・・・これが教師が語るべき「自由」の一例である。

 なぜ授業が語れないのか。

 教師として学校現場にいたことを実感してもらうためには,

 授業の実践を語らなければならないのである。

 校則がどうとかいうレベルは,ろくな取材もしていない脚本家でも書けてしまう。

 繰り返す。

 教師は授業の実践を語ることで,教師であること,教師であったことを証明できる。

 残念ながら,授業がおろそかにされる学校がいまだに多く存在する。

 それは,おろそかにしても・・・いや,おろそかにしておいた方が,子どもがまともに育ってしまうという教育界としては「暗黒の問題」が隠されているのだ。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« メモをとらない教師たち | トップページ | 都合が悪いことは書かない「×××」 »

教育」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

コメント

学校で最も「人望がある」先生と,その先生の飲み友達を知れば,どういう学校かだいたいわかります。

ただ最近は,教師たちが居酒屋で愚痴を言い合う,ということもしないほど,人間関係が希薄になっていることも問題になっています。

先生同士の会話が聞ける場所を私はよく探して,情報を集めていました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220213802
より転載
中学生の時に同級生を授業の合間の休み時間ごと(+放課後)に蹴り飛ばし,所持品を壊したり盗んだり,自転車を駄目にしたり,下級生を「あいつを殴らなければお前を殴る」と脅して自分は直接手を下さず暴力をふるったり・・・と周囲もどうにも出来ない程酷い「校内暴力」をふるっていた男子生徒が,高校では普通に不良・ワル,運良く部活をやっていたので体育系大学へ。その後一般の会社に就職するも,まともに勤められず退職。現在は「学校の先生」(体育)になっています。生徒への言葉遣いや態度は正に「チンピラ」,部活の指導中は体育館の床に寝そべっているし,仕事上の不手際を注意されると「てめえに言われたくねえ」と目上の人に啖呵を切っていました。奇遇にもある学校で暴力をふるっていた相手と同僚になったのですが,相手が普通に接しても無視しまくっていて,挨拶ならまだしも,仕事の引き継ぎや連絡もだったのです。又,当時の「暴力行為」については「覚えていない」と言い張っていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この記事にあるように攻撃性が高いと先生になれるのです。

似て非なるもの 攻撃性と積極性、指導性と支配性。支配性が高いと指導性があると勝手に決めているような採用側のの問題。攻撃性と支配性をつかさどるのはテストステロン、それ故性欲も強い傾向がある。教師の性犯罪発生率が他の職業より格段と高い統計もありますね。
似て非なる物を採用基準に用いているということが問題なのです。
 いじめが無くならないのは、加害者と教師が同じ仲間であるから悲惨な事件が繰り返し起こるのです。中野富士見中で歯止めがかからず大津皇子山中、マスコミが騒がないだけで全国で加害者と教師が同じ仲間になって加害行為を行うと言うケースは日常茶飯事。もと加害者が教師になっているケースもとても多いのです。

採用方法や基準などかなりゆがんだ物となっているとしか言えません。だからD氏のような人でも採用される。

向き合うか向き合わないかって向き合わないなら退職してもらうのが筋です。向き合わない人には教職から離れて一般公務員になれる制度があるのだから、(公務員として通用しない人格障害もありだけれど)一刻も早くそういう人には教職から離れてもらいたいです。

向き合わない=回避性ということですね。
回避性であり攻撃性の高い人物が教員に採用されやすい、そうでない人もいるけれどかなり少数派。いじめの加害者とかが採用される事実。
京都教育大の集団強姦事件では、みな加害者が教員になっていたとか。
ばれて不都合な事があるから、被害者に圧力をかけたとか。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14117690329
この記事のような人物が採用されているとか。
全ては採用する側の異常な考え方にあるのではないでしょうか。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 教師は授業で生徒に向き合う存在である:

« メモをとらない教師たち | トップページ | 都合が悪いことは書かない「×××」 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より