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教師は授業で生徒に向き合う存在である

 教師が生活指導で生徒に向き合って,生徒が変わっていく姿を描くのはドラマの世界の話である。

 それは,単なるイメージだけで,教職経験のない人間も語ることができる。

 教師でしか語れないのは,「授業」で子どもにどう向き合うか,ということである。

 学校生活に子どもの「自由」をどこまで認めるかなどといった話題はナンセンスである。

 生活指導で,学校で決めたルールに子どもが従わない場合,どのような指導をするかが,

 「教師によって違う」ような学校が「荒れる」のである。

 自分なりの教育方針を大事にして,ドラマのような空想の世界を現場に持ち込む教師がいるが,

 「教師によって態度が異なる」ような状況をつくるから,生徒が「荒れる」のである。

 生活指導は,学習指導の基盤でもある。

 教師は,授業で子どもに正対しなければならない。

 教育上で子どもに教えたい「自由」の価値とは,「自分の行動に自分が責任を持って,自分なりにコントロールできる能力のすばらしさ」である。

 授業のなかで,そういう場面はいくらでもつくれる。

 社会科の授業なら,日替わりで,直近のニュースのうち,自分が最も興味をもった話題を1分間でスピーチさせる。世界の出来事であるなら,略地図を黒板に描いておき,起こった場所を示して,国名や地名なども記しておく。

 どんな内容を発表するかは,子どもの「自由」である。

 ただし,他の生徒たちは,必ずその発表のメモをとり,各自で地図帳を開いて,その場所を確認する。

 疑問点は質問する。発表した生徒が答えられなければ,教師が代わりに答えたり,調べさせたりする。

 また,問題解決的な学習では,追究すべき課題を「自由」に設定させることもできる。

 ただし,「自由」に設定した課題が,追究に値するものであるかどうかは,きちんと教師や他の生徒に吟味してもらう必要があり,不適切なら変更しなければならない。「自由」な選択は,何でもあり,というわけではなく,ある一定の条件をきちんと満たすように,さまざまな人から評価を受けなければならない。

 そういう学習の繰り返しで,やがて「社会性」も身についていく・・・という前提を持ちながら,社会科の教師なら授業を進めることができる。

 音楽の教師なら,たとえば「楽器で自己紹介」のような活動をさせることができる。

 楽器はもちろん,曲も自分が好きなものを「自由」に選ぶことを可能とする。

 個性的な発表が,「音楽による自己表現」となる。「自由」であることのすばらしさだけでなく,難しさも体験することができる。

 このように,「自由」な選択を子どもにさせていくのに最適な場面は授業なのである。

 単なる日常の生活での「自由」を与えることでは,子どもの社会性が身につく前に,秩序が崩壊し,お互いに「不自由さ」の方が目立った環境になりかねない。

 授業規律がしっかりできて,授業のなかで子どもが自分の責任をしっかりと自覚することができる様々な「自由」を経験を積み重ねること・・・・これが教師が語るべき「自由」の一例である。

 なぜ授業が語れないのか。

 教師として学校現場にいたことを実感してもらうためには,

 授業の実践を語らなければならないのである。

 校則がどうとかいうレベルは,ろくな取材もしていない脚本家でも書けてしまう。

 繰り返す。

 教師は授業の実践を語ることで,教師であること,教師であったことを証明できる。

 残念ながら,授業がおろそかにされる学校がいまだに多く存在する。

 それは,おろそかにしても・・・いや,おろそかにしておいた方が,子どもがまともに育ってしまうという教育界としては「暗黒の問題」が隠されているのだ。 


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コメント

学校で最も「人望がある」先生と,その先生の飲み友達を知れば,どういう学校かだいたいわかります。

ただ最近は,教師たちが居酒屋で愚痴を言い合う,ということもしないほど,人間関係が希薄になっていることも問題になっています。

先生同士の会話が聞ける場所を私はよく探して,情報を集めていました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220213802
より転載
中学生の時に同級生を授業の合間の休み時間ごと(+放課後)に蹴り飛ばし,所持品を壊したり盗んだり,自転車を駄目にしたり,下級生を「あいつを殴らなければお前を殴る」と脅して自分は直接手を下さず暴力をふるったり・・・と周囲もどうにも出来ない程酷い「校内暴力」をふるっていた男子生徒が,高校では普通に不良・ワル,運良く部活をやっていたので体育系大学へ。その後一般の会社に就職するも,まともに勤められず退職。現在は「学校の先生」(体育)になっています。生徒への言葉遣いや態度は正に「チンピラ」,部活の指導中は体育館の床に寝そべっているし,仕事上の不手際を注意されると「てめえに言われたくねえ」と目上の人に啖呵を切っていました。奇遇にもある学校で暴力をふるっていた相手と同僚になったのですが,相手が普通に接しても無視しまくっていて,挨拶ならまだしも,仕事の引き継ぎや連絡もだったのです。又,当時の「暴力行為」については「覚えていない」と言い張っていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この記事にあるように攻撃性が高いと先生になれるのです。

似て非なるもの 攻撃性と積極性、指導性と支配性。支配性が高いと指導性があると勝手に決めているような採用側のの問題。攻撃性と支配性をつかさどるのはテストステロン、それ故性欲も強い傾向がある。教師の性犯罪発生率が他の職業より格段と高い統計もありますね。
似て非なる物を採用基準に用いているということが問題なのです。
 いじめが無くならないのは、加害者と教師が同じ仲間であるから悲惨な事件が繰り返し起こるのです。中野富士見中で歯止めがかからず大津皇子山中、マスコミが騒がないだけで全国で加害者と教師が同じ仲間になって加害行為を行うと言うケースは日常茶飯事。もと加害者が教師になっているケースもとても多いのです。

採用方法や基準などかなりゆがんだ物となっているとしか言えません。だからD氏のような人でも採用される。

向き合うか向き合わないかって向き合わないなら退職してもらうのが筋です。向き合わない人には教職から離れて一般公務員になれる制度があるのだから、(公務員として通用しない人格障害もありだけれど)一刻も早くそういう人には教職から離れてもらいたいです。

向き合わない=回避性ということですね。
回避性であり攻撃性の高い人物が教員に採用されやすい、そうでない人もいるけれどかなり少数派。いじめの加害者とかが採用される事実。
京都教育大の集団強姦事件では、みな加害者が教員になっていたとか。
ばれて不都合な事があるから、被害者に圧力をかけたとか。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14117690329
この記事のような人物が採用されているとか。
全ては採用する側の異常な考え方にあるのではないでしょうか。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第三巻より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より