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雪かきのたびに思い出す優しさと担任の死,そして教育現場にとって本当に必要な「雪かき」とは?

 高校時代の担任の先生が亡くなったのは,ご自宅の前だった。雪かきをされていたときに,弱くなっていた心臓に負担がかかり,ほとんど苦しまずに亡くなったそうである。

 仕事ででかける奥様や子どもたちのために,じゃまな雪をどかそうとされたが,体の方が静かに悲鳴を上げてしまった。

 私の実家の周辺も,高齢者が多くなっているが,自宅前の雪かきをしているのは,ほとんどが高齢者だった。

 自分のためというより,自宅の前を歩く見ず知らずの人のために,雪かきをしているのである。

 担任のことがあってから,何だか心配になる。

 私の母親も,私が雪をどかしている後ろに出てきて,ちりとりで雪かきを始めたが,すぐにやめさせてしまった。

 80に近い人ほど,本当に働き者である。60代はもうそういう時代の人ではないのかもしれない。孤独を感じる暇があったら,雪かきでもしたらどうか。「ご近所様」と話ができるいい機会にもなるだろう。


 今日は学校は休みだが,都知事選の投票会場になっているところでは,雪かきが行われているだろう。

 昔は主に部活動の生徒を動員して雪かきをいっしょにやっていたが,朝練がない学校では,早めに登校してきた生徒に手伝ってもらうしかない。

 関東ではあまり雪かき専用の道具を常備している学校は少ないだろうから,金属製のスコップで雪かきを行う。

 けっこう重量があるから,疲れやすい。

 昔は生徒から「代わりますか」と声をかけられてもスコップを渡す気がおこらなかったが,今ではどうか,自信がなくなりつつある。

 人のために,黙々と雪をどかしている子どもたちの姿は美しいが,自分は雪かきをしないで,その子どもたちの名前をもらさずメモし,「善行の評価のための資料」にしている教師たちの姿はどうなのだろう。

 「評価者」と「実践者」が対立する場面があるところの方が,正常であるような気がする。

 さて,教育現場で本当に必要な「雪かき」とは何か?

 来年度の研修計画を各教育委員会が策定し始めているようで,「評価」をテーマとした研修の講師依頼をやむなく受けることとなった。

 「評価」をするには,「指導力」とはまた別の「分析力」「総合力」を必要とするが,そもそも,

 たった一つの問いに対する反応だけからも,多面的な評価が可能となることを実感できるような実践そのものが,実は教育現場には欠けていることが問題なのである。

 今の学校現場における「評価」の現状は,「評価材料の不足」という問題に尽きる。

 それは,「指導の不足」という問題とイコールであり,

 さかのぼれば,「教材研究の不足と教材の不足」がセットになっている。

 根本的な原因は,「教師の学習意欲不足」である。

 気の毒な話だが,小学校の授業や「学び合い」の授業の実例を紹介して,「指導の不在と評価の不可能性」についてもふれる。

 たった一つの問いに答えられないことで,教師たちの自信を失わせることができるが,そこが「まともな教師」の出発点になってくれると信じている。

 私も名前をしっている大学の先生の研修(講義)は,話が難しすぎてわからなかった,という感想があったらしい。

 「尊王攘夷運動とは何か」をだれでもわかるような易しい言葉で表現させることがどれだけ難しいかを考えたことがない人なら,きっと「尊王攘夷」をはるかに上回る難しい言葉や概念の羅列でそれを説明しようとすることに抵抗はないだろう。

 雪かきをしている教師に猛吹雪があたっている姿を想像しながら,

 雪かきを一人で終えた後に,その場所をだれも通らないという「実績」をふり返ってもらう研修の「こわさ」を今,想像している。

 今のところ,私が満足している点は,無意味な研修に,「これは無意味だった」と言える雰囲気がある自治体であることである。だから引き受ける気持ちになったというのが正直なところ。


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コメント

民間企業でも同じですが、評価する能力のない人間が人を評価する、そういう間違ったシステムが幅広く浸透していますね。
 何故評価する能力のない人間が人を評価するのかといえば評価する能力のない人間が評価する職に就くからです。教員採用なんぞは選ぶ基準が1500mを六分以内に完走できること????とかそういうことで採用を決めるからです。
 民間で問題になっているブラック企業その原点は、学校教育の汚い言葉や人を傷つける行為を行使して○○させるという嗜好、上司が汚い言葉を吐き○○させる。半沢直樹のように部下の成果は上司の成果、上司の失敗は全部部下のせい。部活で同じ事が行われていますね。

 ○○大会で優勝とかそういうことが教師の評価になる。勿論、教師を評価する能力がないからそうなるのです。
 子供へ自然な内発的動機付けができる教師がいまでは、皆無に近い。めちゃくちゃな体罰、暴行で生徒を思いのままにしようとする教師が多数存在する。そしてこういう教師は死者が出ても簡単には処分されない。たまたまばれてメディアが騒いだときだけ処分される。それが今の学校システムです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より