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「おれさま」たちの扱い方(その1 教員編)

 もし指導主事が担当する研修の「裏メニュー」を私がつくるとしたら,

 「おれさま」たちの扱い方

 をテーマにしたい。

 学校関係の「おれさま」たちの素材は豊富である。

 当然,指導主事も「おれさま」の部類に入るだろうと思われるかもしれないが,

 私が指導主事になったとき,どの先輩を見ても
 
 驚くほど腰の低い人たちばかりで,研修の場で実際に会ってもらえれば「素材」に含める必要がなくなることがわかってもらえるだろう。

 はじめにことわっておくが,これから様々な「素材」を紹介するが,そうよばれる人のすべてが素材に該当するわけではない。こんなこともいちいちことわらないとクレームを入れている「おれさま」がいるので,「ことわらない」ことを「ことわって」おく。

 まずは「教員」である。

 生活指導主任とか,学年主任といった「立場」以外の人に,けっこう「おれさま」が多い。

 小学校は個人商店街だから,それぞれが「店主」「社長」であることを忘れてはならない。

 毎日の授業でだれにもさしずされず,時間割など自分で勝手に変更して,好きな内容を好きなだけ教えることができる。事前に提出した週案どおりにやらなくても,チェックされない限り,そこは「自由な教育」の場である。

 「教員」が「おれさま」になるタイミングは様々なだが,研修だから「対教師」としての「おれさま」は,どのように扱ったらいいかがテーマになる。

 結論から簡単に言ってしまえば,お世辞まではいかなくても,常にいい気分でいられるように持ち上げておけばよいのである。

 「おれさま」は,どうでもいい話も含めて,対教師に話しかける場合,「自慢」であることが多い。

 広く言えば「認めてほしい」「褒めてほしい」ような内容である。

 あるブログのように,そういう話は聞いていても何の参考にもならないが,もし無反応で聞き流してしまうと,あとで何をされるかわからない。

 ほとんど自分と同じような人間を必死に批判する人がいるが,笑い者になっているのを気の毒に思っても,決してそれを口にしてはならない。

 「おれさま」の恨みを買うことは,特に校内の教員の場合は,絶対にやってはいけないことである。

 自分自身(教師)が被害にあうならまだいいが,こっそりと子どもを標的にしてくるから,質が悪いのである。

 こういう「おれさま」への対処の方法は,

 「世間」では当たり前のように行われている。

 刺激しない。ご機嫌を損ねない。

 こういう対処ができない教師は,「世間知らず」なのである。

 社会科の授業で学ぶことで言えば,これが「大人の国際関係の築き方」である。

 プライドしかない国に対して,その国のプライドを傷つけるようなことをしてしまうのは下策である。

 「お・か・げ・さ・ま」

 「お・た・が・い・さ・ま」の精神を徹底してもらいたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より