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『明日ママ』に敏感でも『今日の学校』に鈍感な人たち

 ドラマによって視聴者の一部が心を痛める結果になったことは,制作者や放映している人間にとって,非常に残念なことに違いない。そちら側への同情の余地はある。しかし,「それも想定内」などという感じ方をしていたとしたら,許せなくなってくる。

 実は教育現場でも,生徒に対して,教師が「演技として」冷たく接するようなケースは多々存在していた。

 生徒ががっかりすること・・・それは「想定内」として,「次のステップアップ時までの貯金」として,「不満である」ことを直接伝える場合がある。

 しかし最近は,「冷たく扱われる」ことへの耐性がほとんどない生徒たちが,簡単に「心が折れた」状態・・・「無気力」の状態になり,下手をすると「生命維持装置」まで故障するという事態に陥ることがある。

 ここまで子どもの活力が低下した学校に,「いじめ」や「体罰」が起こる心配など皆無である。

 しかし,「いじめ」がよく起こる学校より,こっちの方が問題は深刻だと言える。

 教師も子どもたちも,冷や冷やしながら「なりゆき」を見守っているようなところがある。

 昔の金八先生もそうだったが,テレビ画面の方では,泣くも怒るも喜ぶのも非常に大げさな,

 オーバーリアクションの「生き生きとした」子どもたちが暴れまくっている。

 そこまで堂々と自分の感情が爆発できれば,気持ちいいだろう,とさえ思ってしまう。

 派手な問題行動を演じてくれている方が,まだ「子どもが生きている」証拠だから,学校は捨てたもんじゃない,と感じてしまう人は少なくないだろう。

 現実の学校現場では,もっともっと平穏である。しかし,それは表面的なことにすぎないのではないかと,疑ってみるゆとりがほしい。

 『明日ママ』に敏感になるくらい,

 『今日の学校』にも目も向けてもらえると,救われる子どもが増えるかもしれない。

 学校公開日でも,校舎内が非常に閑散としている学校がある。

 外部の目がいかに大事かを,今回の『明日ママ』問題は教えてくれていると,強く訴えたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より