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「学び合い」などそこにはなく,あるのは「言葉合わせ」だけ

 「学び合い」とは,「だれ」と「だれ」が,何について,どのように学ぶしくみなのか。

 学校なのに,「だれ」の部分に「教師」が入らないことをしているところがある。

 たとえば「大人の社会」のことを学ぶ「社会科」で,

 「子ども」と「子ども」で「学び合う」ことって可能だと思われますか?

 「学び合う」人と人のなかに,「子ども」が入っているのは当然ですが,

 あとの「人」とは,「だれ」のことなのでしょう。

 「学び合い」に,「教師」の関わり方のノウハウが完全に欠如している研究ってないですか?

 社会科なら,そこに「地域の人」「生産者」「立案者」「実践者」などがいくらでも入ってくるべきですね。

 それは,「資料」からでも学べますが,実際の「子ども」を相手にしたときだからこそ,

 「訴えたいもの」「伝えたいもの」が生まれることもあります。

 そして,そうしたときの子どもの反応から,話し手が「学ぶ」こともある。

 教師は,そういう「学び」を常に繰り返し,子どもと接していくわけだから,

 毎年毎年「同じことをする」のが教師の仕事ではないことくらい,胸をはって言えなければなりません。

 さて,「学び合い」という魔法のような言葉で思考停止して,

 無理矢理「学び合わせ」ようとしながら,

 結局は「言葉合わせ」に終始している時間がありませんか?

 「学び合わせ」なら,まだ許せますが,

 子どもたちがやっているのは,「言葉合わせ」に過ぎないような授業はありませんか?

 教師が,日常的な子どもとのやりとりで,「言葉合わせ」に終始しているようでは,授業改善に手がつくことはないでしょう。

 まずは,「言葉」をきちんと理解しようとすること。

 その「言葉」づかいから,どういう理解のもとで,その「言葉」を使っているか,

 その「使い方」の微妙な「違い」を子どもたちから聞き取って,

 それぞれ,どこがどのように「違う」かをわからせてあげなければ,

 子どもが社会に出て,きちんと伝わる「言葉」を話せるようにはなりません。

 ただの「言葉合わせ」でお茶を濁せる社会もなくはないでしょうが,

 そのままでは日本がかつて犯した最悪の結末・・・・「玉砕」に陥る危険があることを忘れてはなりません。

 理想を言えば,「言葉」の使い方の微妙な違いに子ども自身が気づき,それをお互いに指摘し合えるような関係が,「学び合い」のできる環境なのでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より