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正義感だけで社会性のない人間の発想の見本

 小中学生レベルの子どもだと,まだ十分な社会性が身についておらず,正義感だけで「お互いに何を考えて行動しているのか分からない相手の行動」に対して,身勝手な想像をして,迷惑な行動に出たりする。

 分かりやすい例を紹介してくれた人がいました。

 「他人が何を考えているか,わからない」という前提のもと,「こう考えている人間がいる」と書いているということは,本人がそういう考えである,ということだから,書かれていることには信頼性があると考えられます。

 この事例をもとに,道徳の授業を考えてみましょう。

 あきらさんが,ゆうとさんから,500円を借りました。

 たまたまその場にいたたろうさんが,500円のやり取りを見かけました。

 たろうさんは,あきらさんがいつ500円をゆうとさんに返すか気になっていました。

 しかし,あきらさんは,いつまでたってもゆうとさんに500円を返しませんでした。

 たろうさんがストーカーのようにあきらさんとゆうとさんにつきまとっていて,500円を返す場面に遭遇しなかったということです。

 たろうさんは,ゆうとさんに500円を返さないあきらさんに怒りを覚えました。

 (教師の発問)

 どうして,たろうさんは怒ったのでしょうか?

 (予想される答え)

 あきらさんは500円もゆうとさんから借りたのに,返さないから。

 (教師の発問)

 どうして,あきらさんはお金を返さなかったんでしょうか?

 (予想される答え)

 500円くらいなら,返さなくてもいいと思った。

 そのうち返そうと思っていた。

 前にゆうとさんに500円を貸していたから。

 借りたことを忘れていたから。

 (教師の反応)

 いろいろ想像はできますが,あきらさんに聞いてみないとわからないことですよね。

 今まで「500円」で考えてきましたが,これを「100円」にしてみましょう。

 (教師の発問)

 何が本当の理由に近くなったでしょうか?

 (予想される答え)

 返さなくてもいいと思った。

 もらったつもりになっていた。

 100円を借りたことを忘れてしまった。

 (教師の反応)
 
 そうですね。まだ,なぜかは分かりませんね。

 実は,あきらさんに確かめたところ,「100円くらいならいいや」と思っていたそうです。

 (教師の発問)

 みんなだったら,どうですか?

 (予想される答え)

 私もあり得る。

 私は必ず100円返す。

 借りたら倍返し!

 (教師の発問)

 では,100円を返してくれないあきらさんに対して,ゆうとさんはどう思っていたのでしょうか。

 (予想される答え)

 わからない。

 ゆうとさんも忘れていた。

 100円を返してくれなくて,いらいらしていた。

 (教師の反応)

 そうですね。これも,ゆうとさんに聞いてみないとわかりません。

 では,ゆうとさんは返してくれなくて,いらいらしていたと,仮定しましょう。

 (教師の発問)

 ゆうとさんは,あきらさんに何か言うべきですか。

 (予想される答え)

 100円返してね,と言えばいい。

 (教師の反応・発問)

 そうですね。でも,もし,それが言いにくいタイプの人だったら?

 (予想される答え)

 ・・・・・

 (教師の発問)

 ところで,返さない金額が100円でも,たろうさんは怒ったでしょうか?

 (予想される答え)

 たろうさんも,100円くらい,いいんじゃないか,と思って,怒らなかったかもしれない。

 (予想される質問)

 でも,そもそもたろうさんはどうして100円を返す・返さないを気にするんですか?

 気になるんなら,直接,あきらさんやゆうとさんに聞けばいいのに。

 (教師の回答)

 そうですね。でも,たろうさんは,お金のやり取りに対して異様な興味をもっている人で,常にくっついて,じっと観察しないと気が済まない人らしいのです。

 こういうたろうさんが近くにいたら,どうですか。

 (予想される質問)

 気持ち悪い。

 (教師の発問)

 たろうさんは,「100円くらい,いいや」と思うあきらさんが許せない人だと仮定します。

 皆さんは,こういうたろうさんについて,どう思いますか。

 (予想される質問)

 たろうさんは,人にお金を貸さない方がいい。

 正義感が強いのはわかるから,警察官や裁判官になるのがいいのでは?

 あまり,人のことに口出しするのはよくないと思う。

 友達ができない人になると思う。

 (教師のまとめ)

 友達同士で,50円とか,100円とかを貸し借りすることはよくあると思います。

 友達関係なら,いちいち記録をつけたりせずに,あげたつもり,もらったつもりになることもあるでしょう。

 でも,借りたお金はなるべく早く返すことにしましょうね。

 「借りた」のなら。「貸す」方も,「あげた」のか「貸した」のか,はっきりさせておきましょう。

 「あげた」つもりなら,「返さなくてもいいよ」と伝えてあげましょう。

 そうやって言えば,逆に,「返してくれる」確率も高くなると思いますよ・・・・。

 そして,そういう「お金」のやり取りに,異常な興味をもっている人がいる,ということを知っておきましょう。

 借りたものは返す。それで,余計なトラブルを避けることができます。


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コメント

正義感も社会性も身につけずに保身と体裁だけ重んじる生き物→教師。

部活に関していえば,顧問が完全につきっきり,というところは難しいでしょうが,子どもなりに活動を工夫して,勝利を目指しながらも,助け合い,教え合いながら楽しそうにやっているところも多いでしょう。

学校で「活動する場」が与えられているだけでも,日本の子どもは幸せかもしれません。

部活動の指導まで教師が行う日本の教育システムは,低コストでもあり,特異なしくみであることは確かです。

http://gigazine.net/news/20140213-fixed-vs-growth-brain/
↑この記事を一度良く読んでみてください。
今の学校教育のあり方が固定された思考態度ばかり教えているように思えるのです。
動機付けという観点で、部活にしても勝利することが目的になっていて本来の部活の楽しみという観点がなくなってしまっているように思います。
教育を受ける側にとって全てが固定された考え方の教育を受けるシステムになってしまっていて固定されていない思考態度をつぶすような指導が全国各地で行われているように思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より