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「被害者救済」と「個人主義」は全く別次元の話

 「個人の弱さ」の最大の原因は,「失敗を人のせいにしたがる心の弱さ」にある,というのが私の考えである。

 裏返すと,「失敗をだれのせいでもなく,お互いに無責任状態にする」という「集団の怖さ」になる。

 これは,結局のところ,「個人が集団になったときのこわさ」であって,「集団の強さ」ではない。

 私たち教師は,日々の教育活動で,集団の中にあって個人が生き生きと輝く姿を見て,感動を覚える。

 それは,「失敗が許される空間内で,個人が委縮していない」状態への安心感が支えになっている,という面もある。

 個人を生かすも殺すも,集団という「個人の集まり」がもつ魔力である。

 小学校や中学校で教壇に立っていた元教師が,経歴を隠して支離滅裂なことを書いているが,ここに日本の教師に見られる誤った「個人主義」の典型を見ることができる。

 自分に都合のよい嘘が平気で言えるような人間に,そもそも「個人主義」など語る資格はないのだが,将来の時間の無駄を省くためにも,単純な発想は排しておく必要があろう。

 そもそも多義的な「個人主義」の概念を,

 「集団主義」「権威主義」との対比で語るような単純な話は,「批判のための批判」という低レベルな主張のためになされることがほとんどである。

 自分が本当の意味の「個人主義」を考えようとしていない姿そのものが,「集団主義」すら非難できない思考の落とし穴にはまっていると言える。

 「被害者救済」の大切さと,「個人主義」と「集団主義」の対立の問題は,何の関係もない。

 利己的で無責任な個人が集まれば,最悪な無責任集団ができる。

 悲しい話だが,そういうのが学校とか教育委員会という場所だ,という非難は正面から受け止めなければなるまい。 

 そもそも学校現場のようなところでは,リベラリズム風の「個人主義」は根付かず,コミュニタリアニズムが重宝される。

 コミュニタリアニズムの最大の強みは,完成形のリベラリズムなどはそもそもあり得ないという,多くの人が納得しやすい根拠をもっていることにある。たとえば物事の良し悪しの判断でも,「個人としての判断」とは言っても,そこには「他者の評価」「評判」がどうしても入り込んでくる。

 人間の信条というものは,他者から独立して形成されるものではなく,社会で生活していれば,共同体に影響されながら・・・たとえば,人々からの承認を受けたり,非難を受けたりするなかで,形作られていくものである。

 しかし,そんな「社会観」が通用しない場所がある。

 あえて「自分の考え」に固執し,「わがまま」「自分勝手」にふるまっても,相手が純粋無垢な子どもであるために,「わがまま」「自分勝手」に見えにくい場所がある。

 それは,たとえば小学校という教育の場の「悪質な学級王国」である。

 「個人主義」を語る資格がないばかりか,そこでは「自分の利益を最大化するための手段」にしか見えない。

 そういうレベルの話が「教育ブログ」で垂れ流されていることが,この村の哀しい現実である。

 「担任おろし」をくらったときの話を正直に書いていたころが懐かしい。あのころに戻ってもらえないものか。

 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より