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2014年2月

本を破るという行為~続く「アンネの日記」毀損問題

 どんなに荒れている学校でも,たとえばいじめの対象となっている子どもの教科書が破られるということは滅多にないのではないか。

 ノートが破られるということはある。教科書のような「みんなが持っている本」よりも,個人がつくったノートの方を破った方が,「より大きな精神的なダメージを与えることができる」という「破る理由」がはっきりしている。

 図書館に続き,書店でも「アンネの日記」関係図書が破られるという被害にあった。

 愉快犯という見方もあるようだが,本を破ることによって,だれにどのようなダメージを与えようとしているのか。

 図書館の本の場合は,冊数から考えても,ただの「気まぐれ」で犯行に及んだわけではないことは明白である。

 はっきりした「ねらい」があって,本は破られている。

 27日,産経新聞が社説でこの問題を取り上げた。

 産経新聞が取り上げることを見越した犯行だった可能性も指摘されている。

 もしそうだとすると,実際の社説を読んだ犯人はがっかりしたことだろう。

 「罠」にかからなかった。

 犯行の動機や犯人像を具体的に指摘しているブログがある。

 しかし,証拠は何もない。

 もし,その想定通りの犯人が見つかったら,やや複雑な国際的問題に発展する可能性もあろう。

 国際政治問題にからむと,情報は伝わりにくくなる。

 情報が伝わらないことで,不安や「妄想」が広がりかねない。

 これも見越した犯行だとすると,犯人のねらいは半分は達成されたことになってしまう。

 日本では,産経新聞が指摘するように,特定の著作が「破棄」されることはあっても,

 「本を(明確なねらいをもって)破る」という行為は滅多に起こらない。

 だから余計に「罠」にはまりやすい状況にあるのだ。


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日露戦争と第一次世界大戦を比べてみる

 日本が国産に成功した機関銃は,どの国の何という会社のものをもとにしたのか?

 機関銃は,攻撃と防御,どちらの場合に使うのが効果的だったか?

 中学校の授業では,ホッチキス社なんていう会社名は登場しないのが普通だが,文房具と機関銃のように,全く無関係に思えるものがつながっているという意外な事実に気づくことは,歴史を知ることの楽しさの一つである。

 知ることと学ぶことの違いに気づけることも大切である。

 戦国時代の長篠の合戦と,第一次世界大戦の共通点は何か。

 何と,ナポレオンの時代も,そこから1世紀が経過した第一次世界大戦のときも,移動は馬と徒歩であった。

 突撃の花形は,同じように騎馬だったという。

 そういう戦争を終わらせた新兵器が,機関銃であった。

 最強軍団武田氏の騎馬隊を退けたのも,大量の鉄砲であった。

 さて,第一次世界大戦は,それまでの「戦争」をすっかり変えてしまった「戦争」だった。

 歴史をしっかり学んだ生徒は,次のような問題に正しく答えてくれるようになった。

 第一次世界大戦は,当初の予想に反して,長期戦になってしまった。

 なぜ,長期戦になってしまったのか。

 そこには,長期戦を可能にした条件があったことと,戦争を終わらせるための条件があったと考えられる。

 これを,先に学んだ日露戦争と比較してみる。

 そうすると,それらの条件のイメージが「焦点化」される。

 日露戦争には,長期戦ができない理由と,戦争を終わらせることができた理由があった。

 第一次世界大戦とは逆の関係である。

 みなさん,答えはわかりますか?

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多忙な時期にこそ,人と会う

 今,自分に最も必要なのは睡眠時間だということはわかっているが,優先すべきことが多い。

 それが教師にとっても学年末という,この時期の特徴である。

 そのうえ・・・学校の仕事すら終わっていないのに,夜,出席者が自主的に集まってくる研究会に出るということは,「公務の妨げ」になる可能性もある。

 勤務時間外だから,どこに行こうと勝手なのだが,このまま「今日も3時間睡眠」なんて日を続けていれば,通常の勤務でも集中力を失うなどの弊害が起こるかもしれない・・・。そう考えて,出席をためらったり,とりやめる人もいるだろう。

 私は,そういうときこそ,「心を失わないようにする」ために,人に会うことが大切だと思っている。

 気分転換の意味で,いつも会っている職場のメンバーではなく,1か月以上,会う人が離れている人がよい。

 実際,研究会では若手の教師のすばらしい発表にふれることができた。

 若い教師たちに自信をもってもらうことは,10年選手,20年選手に課せられた使命である。

 自分自身の課題をどう乗り越えるか,

 教育全体の課題との関係はどうか,

 学校の課題との関係はどうか・・・・

 自分の経験もふまえてアドバイスを考えるのだが,大事なのは聞き手が

 自分自身が直面している課題にそのアドバイスを生かす方法を創り出してくれることにある。

 当事者ではない人間に,完璧なアドバイスができるという保証はない。

 最終的には,自分の頭で考えることが大切である。

 そうやって必死に「考えている」人の姿を見ていると,教師はそれが次の一日を過ごすためのエネルギーになる。

 多くの仕事は,人とのかかわりの中からエネルギーをもらって成立する。

 子どもからももちろんエネルギーをもらうし,

 子どもにはそのエネルギーを倍返しで与えていきたい。

 今,学年末考査の採点もしているが,粋な答えにうならされている。


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「アンネの日記」毀損問題に対応する機関はどこ?

 「アンネの日記」が毀損されたニュースは,各学校でも話題になっているだろう。

 哀しい知らせだが,ニュースになることで,多くの人が「アンネの日記」を手にとることになるだろうと思われる。

 イスラエル大使館から善意の寄贈,というニュースも伝わっている。

 このような善意に,だれがどのように応えるべきなのだろう。

 警察の捜査はどこまで進んでいるのだろうか。

 仕事上の優先順位はどのくらい高いのだろうか。

 被害のあった図書館では,どのような調査が進んでいるのだろうか。

 職員や利用者などへの聞き取り調査は行われたのだろうか。

 図書館での監視強化は進んでいるのだろうか。

 「いたずら」は起こっていないだろうか。

 知りたいことが多すぎる。

 その割に,情報はほとんどない。

 この情報への飢餓感は久しぶりに味わっている。

 「情報統制が行われている」なんて妄想まで浮かぶ始末である。

 「だれが,何のために?」という発想自体が覆されるような筋書きの映画もあった。

 今回の事件も,「だれが,何のために?」という予想すら立ちにくい事件である。


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教師とは,子どもだけを相手にする職業なのか?

 とても気の毒な生育歴をもった方が,ブログでそれを公開している。

 教師を長くやっていると,問題行動を起こす生徒の生育歴の情報がどんどん積み重なっていき,経験的に生育歴ごとの指導を工夫するようになっていく。

 嘘が平気で言えるような人間は,そうしないと自分が守れない経験を子どものときに嫌というほどしてきて,ある時期から,「嘘を言っている自分は本当の自分ではない」ように思い込み,罪の意識はどこかに消し飛んでしまう。

 「他人になりすまし,自分でコメントを入れているだろう。だって,どんな時間に記事を書いてもすぐにコメントが入るなんておかしいだろう。」という指摘があったら,なんとコメントは常に早朝だけ入るようになった。

 これが「二重の意味で不自然である」ことに気づけない。

 「気づく必要がない」からである。

 人を言葉で傷つけ,容赦なく攻撃する。そういう人間は,たとえ大人になっても,だれかが「救う」ことが必要である。

 教師は「子ども」だけを相手にしていればよいのか。

 そうではない。そうではないケースが想像できない人間は,現場の教師にはいないだろう。

 教師は子どもといる時間が長いが,子どもによっては,親と話している時間の方が長くなることがある。不登校の子どもや学校をさぼって徘徊しているような子どもの親である。

 多くの場合,親は子どもとそっくりな面をもっている。感情的で,短絡的で,単純なところが似ている親子が多い。

 しかし,親は,子どもと違って,さすがに「大人」である。

 「本当に大丈夫か,この人は・・・」と思う人でも,しっかりとした会話によって,時間をかければ,お互いに理解し合えることもある。

 「おれはこんなにまともなのに,どうして子どもはバカなんだ?」

 なんていうキレ方をしていること自体がまもとでないことがわからない人がいる。

 同じレベルに立ってはならない。

 「こんなこともわからないのか?」などとこっちが短気になってはいけない。

 教師の仕事のすべては,「丁寧さ」が重要である。

 無責任タイプの教師は,「子どもには可能性がある」なんていう「言い訳」をして,何もしないまま放っておいたりするが,そんな態度で何もしないような「公務員」は必要ない。

 親からできるだけ多くの情報を得て,指導に生かそうとする姿勢が必要である。

 指導力不足の教師のなかに,このような親と「まともな話」ができない人間がいる。

 たとえば,「あの親は壊れている」「工場に出して修理しないとだめだ」なんていう表現ができる人間である。

 こんな人間は,すぐにでも学校現場から追放すべきである。

 「だれでもわかる間違いに気づかない」なんてことを理由に,「壊れた人間」なんて呼び方をする人間は,特別支援の教育にかかわる資格はない。

 残念ながら,特別支援教育の現場でも,多くの問題が発生する。
 
 それを子どもや親のせいにするようでは,公務員としての資格がないのだ。

 教師の仕事を自分の都合のいいように解釈する教師は,「救済」の対象である。


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指導主事の仕事は「激務」ではないが「失敗が許されない」というプレッシャーが強い

 一般の方にはほとんど縁がないと思われる教育委員会の「指導主事」。

 私も教員になって初めて「指導主事」の方々に出会った。

 このブログには,「指導主事」関係の情報に興味がある方がときどき訪問されている。

 参考になるかどうかわからないが,私なりに,「指導主事」に向いている人とそうでない人の違いを述べておきたい。

 まず,「指導主事は激務ですか?」と問われたら,

 「学校の激務とは比較にならないくらい,たいしたことはない」と答える。

 どう考えても,学校の方が忙しい。

 ただ,ここは誤解される恐れがあるから書いておくが,「学校の激務」とは,たった1分間の休みや息抜きもなく,12時間以上働き続けることを言う。

 私の場合,昨日から今日にかけては,16時間働き続けていた。
 
 指導主事になると,時間的な拘束時間は長くなるかもしれないし,

 出張等で移動時間は長くなるかもしれないが,

 学校現場のような「忙しさ」は教育委員会には存在しない。

 休憩時間に職場を離れることすら可能になるのがお役所というところである。

 さすがお役所,法律が守られている。

 教員になって初めて経験した「初任者研修」については,学校から10分でいける場所で行われていたにもかかわらず,「移動時間こそが時間の無駄だ」などと最初は思っていた。

 これくらい,学校現場というのは忙しいところである。

 それに比べて教育委員会の事務局では,

 一人で食事をする暇がある。

 電話に出る暇がある。

 指導主事に向いていないのは,私のように「常に動いていないと気が済まない」タイプの人間である。

 「言いたいことが言えない」ことに耐えられない人も向いていない。

 どんなに勉強不足の教員のひどい授業を見ても,いいところを探して褒めたり励ましたりしなければならない。

 そういうのが苦手な人は,指導主事には向いていない。

 また,指導主事は「失言」が絶対に許されない。

 なぜなら,「指導主事の言葉」=「教育委員会の言葉」だから。

 ときどきお世話になっていた教育委員会に質問の電話をかけると,ほとんど(確認するために)「かけ直す」と言って電話が切られる。こちらは相手から電話がかかってきたときに電話に出られるような状態にはほとんどないから,もうそこからはお互いに連絡がとれなくなる。間違えないように答える必要がない質問でも,安全のために上司に確認するくせがついてしまっているのだろう。本当に面倒くさい職場である。

 暇だからと言って,何もしないわけにはいかない。

 基本的に,「勉強嫌い」は指導主事には向いていない。

 興味のない教科の質問にも答えなければならないから,学習指導要領の解説にはすべて目を通す必要がある。これももちろん,専門的な内容は,教科の専門の指導主事に聞けばよいのだが,聞くよりも自分で調べる方が早いこともある。

 指導主事は,限られた人しかなれないか。

 決して,そういうことはない。

 1年間は,見習い期間として,ただひたすら近くにいる指導主事の仕事を見ていなければならない。

 1年間たつと,それなりの仕事はすべてこなせるようになる。

 3年目には,もう完全に「慣れる」。

 おそらく,3年目くらいで,教育委員会にそのまま居続けるタイプの人と,現場に管理職として出ていく人に分かれていく。

 指導主事になると,何ができるか。

 学校に指導ができる。

 いい加減な教育課程届を出してきた副校長や教務主任に,いじわるな質問を投げつけることができる。

 すべて法令や自治体の条例などを盾にするわけだが,さすが「教師」たち,「これが本当に子どもたちのためになると思いますか」と投げかけられると,すぐには「はい」とは言えなくなってしまう。

 法令を盾にとって教師たちをいじめるのが好きな人は,指導主事に向いている。

 こういうのが,普通の授業をしている教員の姿に向かって投げられないのが,指導主事のつまらないところである。

 話は尽きない。

 またいずれ,どこかで続きを。


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批判対象の「極端化」で自説の意味を訴える人たち~内田樹をはじめとして

 『内田樹による内田樹』を読んでいて,改めて感じさせられたことです。

 「教員叩き」に対抗するために書かれた本が『先生はえらい』だそうですが,「教員叩き」が,いかにも無責任なかたちで行われているように,紹介されています。

 どのような批判がどのような意味で問題なのかは紹介せずに,

 「批判すること自体が問題なのだ」ですませてしまっている。

 こういう態度では,教育にかかわらず,何も変わりはしないでしょう。

 教師が「孤立」「疲弊」「委縮」しているのは,政治主導で教育改革が求められているからだ,としていますが,そもそも「政治」=「悪」みたいな発想で,「政治」=「国民の声をしっかりと行政に生かすもの」というイメージを欠落させているから,教師を批判している人間がとにかく悪い,という印象ばかりが強められるようになっているのです。

>今の日本の政治家やオピニオンリーダーを見ていると,彼らはたぶんほんとうの「戦場」ではぜんぜん使いものにならないだろうと思います。

 その理由を,部下を罵倒しているばかりの指揮官の無能さで説明しようとしている。

 震災のときの菅元首相の話だ,というなら,なるほどと思いますが,政治家はそういうことだけをやっているわけではない。

 内田樹の「教育改革」嫌いは,自分が大学で余計な仕事を増やされ,時間を無駄に費やされたことにムカついているだけであって,哲学者の話にしろ何にしろ,後付けの論理がくっついているだけのように感じてなりません。

 内田樹が言いたいことは,「そう主張することで,何を主張しようとしているのか」という話で,それは自分自身にこそ訴えかけてもらいたい内容に他ならないのです。

 全く同じ症状を示している教育ブログもありますね。

 学校の危機的状況は,とにかく教師・保護者・教育委員会などなどが,一体となって取り組まなければならないのです。

 そこに「本気」を注ぎ込まなければならないのに,足を引っ張ってばかりの人間がいる。

 商取引の世界と,友達づきあいの世界をなぜ一緒に考えなければならないのか。
 
 仕事と交友,趣味の世界を区別できない人が,昔から一貫した「批判原理主義」に従って「文句を言う相手」を探している・・・・。

 文章を書いて稼ごうとする人ならそれでいいかもしれないのですが,

 たとえば本気で教育の現状を改善しようとする人なら,

 どこに問題があるかを真剣に考えなければならないはずなのです。

 現場をつぶさに見なければ,本当にどこまで深刻なのかはわからないと思います。


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正義感だけで社会性のない人間の発想の見本

 小中学生レベルの子どもだと,まだ十分な社会性が身についておらず,正義感だけで「お互いに何を考えて行動しているのか分からない相手の行動」に対して,身勝手な想像をして,迷惑な行動に出たりする。

 分かりやすい例を紹介してくれた人がいました。

 「他人が何を考えているか,わからない」という前提のもと,「こう考えている人間がいる」と書いているということは,本人がそういう考えである,ということだから,書かれていることには信頼性があると考えられます。

 この事例をもとに,道徳の授業を考えてみましょう。

 あきらさんが,ゆうとさんから,500円を借りました。

 たまたまその場にいたたろうさんが,500円のやり取りを見かけました。

 たろうさんは,あきらさんがいつ500円をゆうとさんに返すか気になっていました。

 しかし,あきらさんは,いつまでたってもゆうとさんに500円を返しませんでした。

 たろうさんがストーカーのようにあきらさんとゆうとさんにつきまとっていて,500円を返す場面に遭遇しなかったということです。

 たろうさんは,ゆうとさんに500円を返さないあきらさんに怒りを覚えました。

 (教師の発問)

 どうして,たろうさんは怒ったのでしょうか?

 (予想される答え)

 あきらさんは500円もゆうとさんから借りたのに,返さないから。

 (教師の発問)

 どうして,あきらさんはお金を返さなかったんでしょうか?

 (予想される答え)

 500円くらいなら,返さなくてもいいと思った。

 そのうち返そうと思っていた。

 前にゆうとさんに500円を貸していたから。

 借りたことを忘れていたから。

 (教師の反応)

 いろいろ想像はできますが,あきらさんに聞いてみないとわからないことですよね。

 今まで「500円」で考えてきましたが,これを「100円」にしてみましょう。

 (教師の発問)

 何が本当の理由に近くなったでしょうか?

 (予想される答え)

 返さなくてもいいと思った。

 もらったつもりになっていた。

 100円を借りたことを忘れてしまった。

 (教師の反応)
 
 そうですね。まだ,なぜかは分かりませんね。

 実は,あきらさんに確かめたところ,「100円くらいならいいや」と思っていたそうです。

 (教師の発問)

 みんなだったら,どうですか?

 (予想される答え)

 私もあり得る。

 私は必ず100円返す。

 借りたら倍返し!

 (教師の発問)

 では,100円を返してくれないあきらさんに対して,ゆうとさんはどう思っていたのでしょうか。

 (予想される答え)

 わからない。

 ゆうとさんも忘れていた。

 100円を返してくれなくて,いらいらしていた。

 (教師の反応)

 そうですね。これも,ゆうとさんに聞いてみないとわかりません。

 では,ゆうとさんは返してくれなくて,いらいらしていたと,仮定しましょう。

 (教師の発問)

 ゆうとさんは,あきらさんに何か言うべきですか。

 (予想される答え)

 100円返してね,と言えばいい。

 (教師の反応・発問)

 そうですね。でも,もし,それが言いにくいタイプの人だったら?

 (予想される答え)

 ・・・・・

 (教師の発問)

 ところで,返さない金額が100円でも,たろうさんは怒ったでしょうか?

 (予想される答え)

 たろうさんも,100円くらい,いいんじゃないか,と思って,怒らなかったかもしれない。

 (予想される質問)

 でも,そもそもたろうさんはどうして100円を返す・返さないを気にするんですか?

 気になるんなら,直接,あきらさんやゆうとさんに聞けばいいのに。

 (教師の回答)

 そうですね。でも,たろうさんは,お金のやり取りに対して異様な興味をもっている人で,常にくっついて,じっと観察しないと気が済まない人らしいのです。

 こういうたろうさんが近くにいたら,どうですか。

 (予想される質問)

 気持ち悪い。

 (教師の発問)

 たろうさんは,「100円くらい,いいや」と思うあきらさんが許せない人だと仮定します。

 皆さんは,こういうたろうさんについて,どう思いますか。

 (予想される質問)

 たろうさんは,人にお金を貸さない方がいい。

 正義感が強いのはわかるから,警察官や裁判官になるのがいいのでは?

 あまり,人のことに口出しするのはよくないと思う。

 友達ができない人になると思う。

 (教師のまとめ)

 友達同士で,50円とか,100円とかを貸し借りすることはよくあると思います。

 友達関係なら,いちいち記録をつけたりせずに,あげたつもり,もらったつもりになることもあるでしょう。

 でも,借りたお金はなるべく早く返すことにしましょうね。

 「借りた」のなら。「貸す」方も,「あげた」のか「貸した」のか,はっきりさせておきましょう。

 「あげた」つもりなら,「返さなくてもいいよ」と伝えてあげましょう。

 そうやって言えば,逆に,「返してくれる」確率も高くなると思いますよ・・・・。

 そして,そういう「お金」のやり取りに,異常な興味をもっている人がいる,ということを知っておきましょう。

 借りたものは返す。それで,余計なトラブルを避けることができます。


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『アンネの日記』はなぜ破られたか?

 器物損壊(「アンネの日記」の本のページを破った)の動機は何か?

 私の推理はこうである。

 犯人は,「アンネの日記」の素晴らしい価値・・・世界記憶遺産に登録される理由も,よく知っている人間。

 犯人は,「アンネの日記」の内容が気に入らないから,破ったのではない。

 その価値を知っているからこそ,「利用」したのである。

 「アンネの日記」を破るようなひどい人間が日本にいる,ということを,広く世間に・・・この情報は,当然,海外にも流れることが分かっているから・・・知らせたかった。

 日本人のイメージダウンをねらう・・・という可能性もあるだろうが,こういう人間が生まれた原因を,

 「右傾化が進む安倍内閣の政治にある」と印象づけたかった。

 つまり,「反安倍政権」の考えをもつ者による犯行である。

 こんなパターンの推理は,何通りくらいできるのだろう?

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【回答】 担任教師とのトラブル解消法

 コメント欄に以下のようなご相談があったので,お答えいたします。

 あまりに具体的な内容のご相談の場合は,お答えすることが適切でないこともあるでしょうが,今回はよくあるケースなので,一般論として,私なりの考え方をお伝えしたいと思います。

*********************

こんにちは、はじめまして小3の女の子の母です。

聞いてください。担任と電話で我慢できず、おもっていることを言ってしまいました。ちなみに、4年も担任の予定です。

いつも子供達の前では、とても怖く、よく手が出たり、平気で人を言葉で傷つけることをいいます。体罰もありました。しかし、大人たちの前では、調子よくて大人の汚さを感じます。
私は日頃からその担任がうちの子供にとても傷つくことを言い、他の子と差別されたことに、つい我慢できず「子供もわたしも傷つきました。あなたのことも信用していません。」と色々と言ってしまいました。
すると、あちらは、モンペにぐらいにしか、思っていないのでしょう。「はいはい、すいませんでした。」と電話を切られてしまいました。が、また、子供に対して何かキツイ言葉で仕返しをされるのではないかと心配です。

何かアドバイスお願いします。

*********************

 まず,ご相談いただいた方に,率直に申し上げます。

 感情的に担任にぶつかっていったことは,失敗でした。

 相手の担任教師は,感情で動くタイプの人間であると想像できます。

 そういうタイプの教師に「怒り」をぶつけても,反発しか返ってこないでしょう。

 もちろん,担任教師の行動に,「怒る」のは当然のことです。

 「体罰」「暴言」「不当な扱い」「いい加減な対応」は,公務員としてはもちろん,人間として許されざる行為です。

 しかし,それに対する「怒り」を,直接,担任に向けるのは,

 担任が子どもに「怒り」を向けているのと同じレベルの行動になってしまい,逆効果になります。

 まずは,担任の「行動レベル」「人間レベル」を超えなければなりません。
 
 心理的に,自分がより冷静で,有利な立ち位置にいることを実感できるようにしてください。

 子どもを守るために,親として心がけるべきことで,

 なかなか実行できない第一関門は,ここなのです。

 次に,ご自分の感情を抑えることができましたら,

 事実をきちんと記録する段階に入ります。

 ついつい頭にくる情報が入ってくると,記録がおろそかになり,

 「何だか気に入らないことを言われた」という印象ばかりが「怒り」を増幅してしまう,という悪循環に陥ります。

 ですから,第一関門を突破するためにも,できるだけ冷静になり,

 まずは「担任の落ち度」よりも,「子どもの落ち度」に関する担任の言い分を冷静に聞き出して

 しっかりと記録をとるようにします。

 「自分の子どものどういう点がいたらないのでしょうか

 と,できるだけ丁寧に依頼してください。

 そして,「だから先生は,~という言葉を子どもに投げかけたのですね

 と確認してください。

 そして,

 「親として,どのようなアドバイスを子どもにしたらよいのでしょうか
 
 とたずねてください。

 この記録は,子どもための「最終兵器」になると言ってもよいでしょう。

 少しだけまともな教師だと,こう言われただけで恐縮し,自分のしたことの問題に気づいて,

 「感情に流される行動」ではなく,「少し頭を使った行動」をとるようになってくれます。

 しかし,第二関門は,こういう質問に担任がまともに答えられない場合と,

 担任の答えがあまりにも理不尽である場合,「怒り」の感情が再発してしまいますので,

 そこもこらえた上で,管理職への相談,という段階に進みます。

 管理職に相談する上でも大事なのは,

 できるだけ詳細な「記録」=「文書」があることです。

 公務員にとっての弱点は,「正式な文書」です。

 公務員の仕事は文書主義ですが,学校現場の場合,教員は実務が多すぎて,この「文書」に関する感覚が養われておらず,センスがまるでないのが一般的です。しかし,管理職だけは違います。法令にのっとった「文書」を扱えるようになることが,管理職試験に合格する条件だからです。

 校長や教頭が一般の教員と最も異なるのは,「文書で動く」点です。

 「担任教師の指導に関するお問い合わせ」といったタイトルで,

****************

 1 いつ

 2 どこで

 3 担任がだれに何をした(何を言った)

 4 その背景となる事実

 5 双方の認識の食い違い,子どもの言い分

 6 担任の言い分

 7 保護者としての意見

 8 1~7をもとにして,管理職のご意見をうかがいたい

****************

 なんていう流れでお手紙(文書)を作成してみて下さい。

 1~7までのセットは,1つの出来事について1枚の文書にしてください。これを10個くらい集めて,提出してみたらいかがでしょう。

 そして,管理職からの回答があり,それについても納得できなかったら,この文書に「管理職の言い分」という項目を付け加えて,今度は,「~教育委員会教育長」宛に,文書を作成してみてください。

 校長に命令を出せる「上司」にあたるのが,市区町村教育委員会教育長です。

 教育委員会にこのような文書が届くと,目を通すのは「指導室長(指導課長)」とか,上席の(経験年数が最も多い)「指導主事」になり,実際には教育長まで届かないかもしれませんが,管理職への指導は入ります。

 それでも何も進展しない場合は,この文書のうち,プライバシーにあたる部分を配慮して修正したものを,マスコミに提出しましょう。

 このような文書を実際につくってみると,たいてい,子どものいたらなさよりも,教師の過剰な反応(行き過ぎた指導)が明白なものになります。

 もちろん,冷静になることで,子ども自身が抱えている問題(集団不適応,学力など)の方が大きい・・・ことに気づく可能性もあります。この場合は,むしろ「親と教師が協力し合って,子どもの適応力向上,学力向上に取り組むこと」が重要になります。

 お子さんの受けた心の傷は,教師や親が想像する以上に深いものである可能性もあり,スクールカウンセラーなどへの相談も視野に入れておいた方がよいかもしれません。

 簡単で思いつくままを書いてしまって恐縮ですが,少しでも問題の改善に近づくことができることを,お祈り申し上げます。


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教育と「マインドコントロール」

 日本がかつて長期にわたる戦争を継続することができた背景には,教育や新聞などを通して国民が「マインドコントロール」を受けていたことがあるのではないか?

 というのが,中学校2~3年生が授業で「予想」できることである。

 当時の軍国主義的な教育内容,事実を報道しない新聞に関する資料から,ある程度の裏づけをすることは可能であろう。

 この「マインドコントロール」という言葉を,安倍総理が「戦後教育」とセットで使ったようである。

 どんな時代の教育でも,そこで「マインドコントロール」を受ける危険性がある(あった)ことを自覚することは大切である。

 そもそも,「教育」という取り組み自体が,一種の「マインドコントロール」である,という考え方も成り立つ。

 政府による政策に反対することは,民主主義の社会では,「堂々と行うべき」行動である。

 ただし,そこでの判断で重要なのは,十分な説得力をもった裏づけの有無である。

 一部の「反対勢力」は,逆方向への「マインドコントロール」を必死に実践している。

 「マインドコントロールはよくない」という意見は,正確には

 「私がやっている方向と逆のマインドコントロールはよくない」という意味としてとらえるべき人間は,教育界にはいくらでもいる。

 だから,安倍総理のマインドコントロールされた結果がこうだった,という話は,

 現状を全く新しい視点や角度で積極的に見直すべきである,という趣旨に解釈した方が,より明るい先行きが見えてくる。

 「現状維持」原理主義勢力を排除することが大切なのである。

 「積極的な見直し」の努力は,必ずしも「変更すること」がゴールになるとは限らない。

 「改革のための改革」は,失敗に終わるしかないように思えるが,

 「積極的な見直し」の努力の結果,「現状のよさの再認識」が進むこともあり得るのである。

 たとえば,「少人数指導をめざす」などと言っているが,

 現実的には,学級規模は現状維持をした方が,質の低い教員の数を増やす必要がなく,教育効果はむしろ高い,という結論になるかもしれない。

 「現状維持」原理主義はだめだが,

 「改革のための議論」の結果としての「現状維持」はOKなのである。

 一度,「こうでなければならない」という発想を捨てて,何にもしばられずに,どのような教育のあり方が最もよいのか,真剣に考えてみるのがよいだろう。

 足を引っ張るのが好きな勢力は,「失敗学」を「失敗させるための方法」として利用する。

 安倍総理の発言に対して,だれがどのように反応するか,興味が尽きない。


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「褒める教師」への私の抵抗運動

 「大人に褒められることを人前でする」ことに抵抗を感じるのは何歳ころからであろうか。

 「人目を気にする」ことは,精神的に成長しているしるしでもある。

 私の娘はまだ幼いので,学校で,掃除をさぼらずに頑張ったことを讃える「カード」をもらってうれしそうに持ち帰り,家でも部屋の整理整頓に精を出していた。

 子どもはとても単純である。褒められたらうれしくなる。

 褒められたくて,行動を起こす。

 ・・・・しかし,私の場合は,それとは別次元にいた自分自身を思い返す。

 小学校1年生か2年生のときである(担任の先生が女性だった記憶があるから,低学年だということ)。

 私はごみが机の下に落ちるような作業をするとき,自分の作品を作り終わった後,いつのころからか,教室中のごみを拾って集めるのが習慣になっていた。

 ごみを拾い集める私を見る担任の先生の目は,少し戸惑っているようでもあった。

 なぜ私がごみ拾いを始めたのか。理由はよくわからないが,おそらく休み時間かどこかで,ごみを拾ってごみ箱に入れている子どもが褒められたとき,「みんなでまねをしましょう」とでも担任の先生がおっしゃったのだと思う。

 私はじっとしているのが苦手なタイプだったから,自分の作業が終わったら,教室内を(ごみを拾って)動き回ることは,うれしくて仕方がなかったのだとも思う。

 しかし,大方,ごみを拾い終わってしまった後も,ごみを求めて這い回っている私に,担任の先生は困惑していたに違いない。

 これは,私なりに「意地」をかけてやっていた行動で,先生に褒められたい,というよりも,むしろ「困らせたい」という願望があったのではないかと思ってしまう。

 そのころから私は,

 「人前で褒められることを嫌う子どもがいる」

 ことを知っていた。

 「恥ずかしさ」もある。

 しかし,一番こわいのは,

 「あいつ,先生にいいところを見せたくてやってるな」

 と嫌な目で見られることであった。

 実際に,先生に褒められて,うれしそう,というよりも,困ったな,という表情をしている子どもをよく見かけた気がする。

 私自身にも,そういうところがあった。

 だから,「教室這い回り行動」は,そういう「褒めて子どもにいい行動を起こさせよう」とする「単純」な教師への抵抗運動だったのだと考えることができる。

 娘がどういうふうに成長するかは分からない。

 部屋の整理整頓が,「三日坊主」で終わらないことを願っている。


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自己反省より他人の足を引っ張ることが大好きな専門家

 組織を改革するために,批判的思考は欠かせない。

 何かが間違っていると思ったら,まずその気持ちを周囲に伝える手段は確保しておきたい。

 同じような違和感をもっている人が見つかるかもしれない。

 そして,どこがどのように間違っているか,説明できなくても,その「答え」を教えてくれる人が出てくるかもしれない。

 そういう「改革のために必要な取り組み」の足を引っ張る人間が組織には必ずいる。

 人の足ばかり引っ張っていた結果,自分自身がその組織から排除されるようになった人も少なくないだろう。

 教師のなかには,生徒には自分の考えを押し付けるのが好きだが,それは

 自分が他人の考えを押し付けられるのが大嫌い,という気持ちの裏返しの行動だと考えられるような人間がいる。

 教師集団のなかではうまくやっていけないが,子ども相手なら,かろうじて好きにできるのが可能なのが,教師という仕事である。

 そういう教師にとって邪魔なのは,「自分より目立つ教師」「自分を批判する教師」である。

 他人の「自己顕示欲の強さ」を批判の対象にする人間がいるが,それは単に,「自分を認めてほしい」という欲求を満たすための行動に過ぎないことが多い。

 まずは,そういう自分自身の「自己顕示欲の強さ」を恥じるところから出発すべきである。

 テーマ自体が「汚点だらけ」の教育ブログがある。

 こうした「課題の多い教師の行動特性」を,人事部はデータベース化して,教員研修の資料として活用すべきである。


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【提言】 余計なお世話ですが・・・大阪市小中の教科書統一を機会にした学力向上策を一つ

 大阪市立の小中では,平成27(小),28(中)年度から使う教科書を統一して採用することに決定したそうです。

 市内で転校しても支障がないこと,市内で同じ教科書を題材にした教材研究の成果を共有して,教員の資質向上を期待する,などが理由のようです。

 後半のねらいについては,それを補強するため(具体化するため),こんな取り組みをしてはいかがでしょうか。

 市内の中学校では,定期考査の日程を同一にします。

 そして,問題は,市内の中学校から選抜された教師が議論しながら作問したものを使用します。

 たとえば社会科でいう「暗記だけでできてしまう」ようなテストは,各校でそれぞれ行うこととして,統一(共通)問題としての定期考査では,そうやって身に付けた基本的な知識や技能を活用して解き,思考力や表現力が評価できるような問題として,評価基準もある程度の統一を図ります。

 このような「市内統一定期考査」を実施しているところはおそらくどこにもないでしょう。

 実現すれば,とても画期的な取り組みとなり,大きな効果が期待できます。

 まずは,教師の作問技術の向上です。

 市販のテストやワークのようなレベルの問題ではなく,紙面をいっぱい使って多くの資料を使うような,「本物の実力がついたかどうか」を確かめられるような問題づくりは,ベテランになってもなかなか難しいものです。

 そういう問題は,生徒が解くことによって学力がつく,という効果もあります。

 定期考査を解いている間に,実力がたしかなものになっていく,そんな経験を子どもにさせたことはありますか?

 「第一次世界大戦は,西暦何年に始まって,何年に終わりましたか?」

 なんていう意味のない問題はだれでもつくれるのですが,

 「第一次世界大戦が,日本の政治や経済に及ぼした影響」に関して考えさせるような問題をつくるには,教科書のどの資料を基本にするか,初見の資料で活用可能なものを何にするか,など,たくさん検討すべきことがあります。

 こういう問題づくりに慣れることで,授業そのものが変わってきます。

 他の教科についても,きっと同じことが言えるでしょう。

 自分の学校の教師が作った問題は解けるけど,他校の教師の問題は解けない,なんてことでは,「確かな学力が定着した」とは言えないし,そもそも別々の授業,評価材料で評定を出しているのが現状なので,評定の信頼性も低かったわけです。

 評定の数字に,かなり信頼性の高い裏づけをつけることができるようになることも,軽視できない効果でしょう。

 大阪市に直接の知り合いがいるのですが,現場の教員はこういう提言を行う余裕はないかもしれません。

 大阪市の空気も読めませんし。

 行政が「やる」と決めて,すぐに出張費などの予算計上に入ってもらいたいものです。


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100%管理職試験に合格できない人の特色

 教員には,管理職に自分からなりたいと思ってなる人がいる。

 もちろん,試験と面接を通して,選ばれて決まる。

 勤務成績,実績が物を言うことはもちろんである。

 地域によっては,選ぶ人間が汚れているために,「ふさわしい人物」が選ばれない場合もあるが,その問題はここではふれない。

 ただ一言,選ぶ人間が汚れていても,ふさわしい人物が選ばれることもある。

 さて,本来は,どの教員にも,管理職として仕事をするための資質が育まれるべきであると私は考えるが,どうしても管理職に向かない人というのが学校現場には存在する。

 たとえば,「いい加減な人間」である。

 時間が守れない。

 ものが整理できない(ものをすぐになくす)。

 重要な報告・連絡・相談ができない。

 こうした「いい加減な教師」は,子ども受けする場合はある。しかし,一緒に仕事をする教員は苦労させられる。

 こういう教師は,教師からの・・・もちろん管理職から評価されることはないから,

 管理職試験に合格することはできない。

 次に,「危機管理意識のない人間」も,管理職にはなれない。

 学校の常識・・・いや,組織の常識に,「大きな問題が発生した場合,管理職以外の人間が勝手な意見を外部にもらしてはならない」というものがある。

 「○○くんが自殺したのは,○○という担任の指導が影響したという子どもの噂がありますが,本当ですか?」

 マスコミに,あるいは,保護者から,帰宅途中でこう問われたとき,一教員が自分の考えを口に出すことはあり得ない。

 しかし,驚くべきことに,「なぜそれがいけないか」が全く分からない人間が教育現場にはいる。

 理由は,「意見を述べる自由はだれにでもあるから」だそうである。

 「個性を重視すべき」だからだそうである。

 「自由」には「責任」が伴うものという観念が,大人になっても身についていないのだ。

 問題発生時と,平時の区別がつかない。

 大きな事故が起こらなければ,こういう人間でも生きていけてしまうのが,学校という「平和ボケ空間」である。

 こういう教員にはいてもらっては困るのだが,問題さえ起こらなければ,実害は出ない。

 噴火しそうでしない火山のような存在である。

 ぬるま湯のような温泉に浸かってばかりいると,いざというとき,組織そのものが崩壊しかねない問題を起こす可能性があるので注意が必要である。

 ごくまれに,ただ「偉くなりたい」「給料をもっともらいたい」ことだけが動機で管理職になろうとする人間がいる。

 こういう人間は,自分のことしか考えていないから,

 「組織で動く」という発想がない。

 教務主任とか生活指導主任を経験せずに,管理職試験を受ける人がいるというのも驚きである。

 私は学年主任の経験があるが,自分の実感からも,学校の規模が小さいと,そもそも「組織で動く」という実感を得ることすらできないのかもしれないと思ってしまう。

 「私は私」「あなたはあなた」という発想が社会人になっても全く抜けない人間をつくってしまう教育には,課題があると言わなければならない。


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問題を問題と感じないことが大問題

 まともな「授業観」「学習観」「教育観」「成長観」「人生観」「人間観」をもっていない担任教師と1日8時間も一緒に過ごさなければならない小学生たちは,本当に不幸である。

 私のブログには,「小学校担任 はずれ」という検索ワードで入ってくる人たちが大勢いる。

 学級担任制の小学校教育の怖さは,保護者になってみると非常に切実で現実的な問題なのである。

 一日を過ごす時間(もちろん起きている時間)が,親より小学校の担任の方が長いのだから。

 子どもは,担任から様々な影響を受けてくる。

 何を隠そう,私は,小学校3・4年生の担任の影響を非常に強く受けているが,それはここでは本当に隠しておきたい。

 小学校では,子どもとある特定の大人(担任教師)との間で過ごす時間の6割以上が「授業」の時間となる。

 このあまりにも長い「授業」の時間に,「息抜き」が必要であることは,教育関係者でもなくてもわかる話だが,

 それが子どものためというより,大人=担任教師のために必要だ,なんていう話も聞かれるから,頭を抱えたくなる。

 あるブログに書かれている授業観は,あまりにもひどい。

 授業に関する話だけ,なぜか他人ごと=部外者からの記述になるのが不思議なところでもある。

 授業に当事者意識のない元教師の言葉など,何の役にも立たないのだ。

 ある児童が何日も欠席していた。

 出席してから,試験をした。

 満点をとった。

 そうしたら,「授業にはどんな意味があったのかと考える必要がある」なんてことを言っている。

 まさか,その児童は「授業を受ける意味はなかった」と言いたいわけではあるまいが,

 そんなニュアンスは十分に伝わってくる。

 「姿勢を正している子どもでも,頭の中では何を考えているか,わからない」

 なんてことも書いている。

 しかし,授業とは全く別のことを考えている子どもと,真剣に学習問題を考えている子どもの違いが区別できない教師では情けない。

 問いへの反応や実際の発問,子どもとのやり取りで,そんなことはすぐわかるはずである。

 おそろしいほどの「授業音痴」「教育音痴」であることが伝わってくる。

 こんなひどい教師と1日ずっと一緒に,それを毎日繰り返して1年たったら,

 子どもはどのように「成長」するのだろうか?

 こんなことはまともな教師に向けて語ることではないが,

 1時間1時間の授業には「ねらい」があり,それがどの程度まで達成できたかを,教師は「知ろうとする」姿勢,「知りたい」という欲求を持っていると願いたい。

 この「成果を知りたい」という欲求のかけらも感じない文章に出会うと,本当に憤りを感じる。

 学校は,学ぶところである。

 児童生徒は,あらゆる場面で学んでいるが,

 一番「学んでほしくないこと」も「学ぶ」可能性があることを親なら十分に知っておきたい。

 授業に重きを置かない教師から受ける悪影響は,「一生もの」になる,と断言する。

 だから,保護者としては,普段,教師がどのような授業をしているかを知る「義務」がある。

 たった1回の公開授業だけでも,その教師の「授業に向ける姿勢」は読み取れる。

 できれば,そこで「信頼感」を得たい。

 しかし,そうではない現実をつきつけられる可能性もある。

 問題は,そうなったときの,保護者としての行動指針である。

 これについては,行政が少しずつ,後押しをしてくれるだろう。

 今日のニュースでは,「英語の先生の英語力の課題」がテーマになっていた。

 今後,これに近い「指導力の課題」が問題になってくるだろう。

 「新聞を読まない社会科の先生」は,実際のところ,何%くらいいるのだろう?

 保護者は,いじめなどで教師の対応が悪いときだけクレームを入れたりするが,

 実は,生活指導よりも,学習指導自体に不満をもっている方が多い,と知っておくべきである。

 学習指導の問題には,意見が言いにくいだけだ。


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入試に際して・・・インフルエンザにかかった場合は,事前に相談を!

 入試のシーズンになると,

 「インフルエンザにかかっていても都立高校が受検可能に

 という記事へのアクセスが増えます。

 記事にも書きましたが,昔は

 「インフルエンザは出席停止の措置を校長がとっているはずだから,入試会場にも来られないはずだ」という論理で,「受検を認めない」という方針がありました。

 しかし,人生で1回しかない高校の入学選抜を棒に振るのはいやだ!と思う中学生が,

 「インフルエンザにかかっていることを隠して」

 あるいは,

 「高熱が出ているのに,病院で検査を受けずに」

 入試会場に来てしまうことは十分に予想されます。

 高校がもし入場時に全員の体温チェックをしてくれるなら不安も軽減しますが,

 「自分の近くにインフルエンザにかかっている受験生がいるかもしれない」なんて気持ちになってしまったら,試験問題にも集中できなくなります。

 だから,高校側は,「インフルエンザにかかっていても,自身の健康に重大な問題がない限り,・・・特に,熱が下がったばかりの生徒とか,あまり熱が上がらないB型の患者」については,別室で受検させるような措置をとるべきだ・・・・という私の主張のもとで,出されたのが記事で紹介している文書なのです。

 当時は,恫喝を受けながらも,必死に問題の所在がどこにあるかを訴えたおかげで,当時の「感染症対策本部」が動いてくれました。

 行政は対策を一つ実行してしまい,それで問題なく事が進めば,あとはその「前例」に従って処理できますから,「新型インフルエンザの集団感染の恐怖」のおかげで今がある,といった感じです。

 くれぐれも,「隠さない」ように。

 事前に中学校を通して,しっかり相談しましょう。


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「褒め癖」をやめれば子どもは「まともに」成長する

 ピグマリオン効果というのを知らない教育者はいない。

 だから,「褒めて伸ばす」という「教育方針」が存在する。

 「実験」を繰り返して,「褒めてやれば伸びる」という信念を獲得した人も多いだろう。

 もしそれが正解なら,

 40人の子どもを一人ずつ,丁寧に褒めてあげればよいのである。

 「伸びたことを認めて褒めてあげること」が大切なのに,それがいつしか,

 「何でもないこと」もつい褒めてしまうようになってしまう。

 これを「褒め癖」と呼ぶ。

 「褒め癖」は,「人を褒めることができない」という課題を抱えている人のための,「褒め方」練習として身につけさせよう,というならわかるのだが,子どもをよく見て知っているはずの人がそれに陥ると,

 気の毒な子どもがどうしても増えてきてしまう・・・つまり,「勘違い」系の子どもたちである。

 「どんな意見でも,発表することが大切」

 「自分の意見を発表することが大切」

 という小学校の習慣はわからないでもないのだが,

 中学校になると,

 「他の子どもと全く同じような意見の発表」

 「他の子どもとほとんど同じなのに,無理矢理ほんの少しの違いをつくっての発表」

 「話の流れとは全く無関係の,自分の考えの発表」

 などは「注意」の対象となってしまう。

 堂々とこういう発表する子どもが多いことから,

 「勘違い」系の潜在数はかなりのものになると考えられる。

 いつしか「発言が減る」ことになって,これを小学校の教師は中学校の教師の責任問題にしたがっているが,

 「当たり前の現象」であることに気づいてほしい。

 そもそも小学校の教師も,10人くらいが手を挙げているのに,

 9人に発表のチャンスを与えず,1人に代表させることもある。

 残りの9人に全く同じようなことを繰り返し話させるような時間のゆとりがあるのが小学校である。

 実は,これが「学力低下」の原因の一つになっている(と私は考えている)。

 「褒めるポイント」「褒めるレベル」は,

 指導者の理想や子ども理解の度合いによって,かなり違ってくるものだが,

 中学生くらいの年齢になると,

 「褒められて本当にうれしくなるツボ」ができあがってくる。

 ここを見極めてあげることが,・・・・・何より,

 「褒められる」ような行動を起こす機会を与えてあげることが,

 教師の大事な役割となる。

 子どものやる気を伸ばしたい・・・・そんな低レベルの動機だけで,

 子どもを叱らない,

 子どもを褒め続ける,

 そんな悪習は捨てた方がよい。

 育てなければならないのは,

 調子に乗せられてふわふわと浮かんでいるような子どもではなく,

 しっかりと自分の足を地につけて,確実な一歩が踏み出せる子どもである。

 「褒め癖」が子どもの忍耐力,持久力を奪ってしまっていないか,

 自分の教育の足下を見直してもらいたい人が多い。

 こういうのを「単なる教育観の違い」とは呼ばないでほしい。

 大学の先生でも,最近は「褒めて伸ばす」ことを真剣に考えているようだが,

 「be動詞の意味を教えている大学」とはまた別の意味で問題である。

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教育現場を支配しているのは,民主主義ではなく,「教育者原理主義」である

 なぜ教育の世界に,民主主義的な発想が乏しいのか。

 民主主義は,とても手間がかかる,面倒くさい仕組みである。

 疑問がある,という人がいたら,その人の話にしっかりと耳を傾け,必要なことを丁寧に説明しなければならない。

 少数意見も尊重しなければならない。

 様々な意見が出されること自体を尊重するような社会のしくみである。

 そういう民主主義的な発想を,教育委員会の人間,学校現場の人間ができているかどうか。

 市民が「こんな学校にしてほしい」という要望を伝えるとする。

 児童生徒の保護者でもない市民の言うことを,真摯に聞いてくれる教育委員会や学校現場がどれだけあるだろうか。

 教育の世界にとって問題なのは,一般市民からの様々な意見が寄せられる土壌をもっていないことにある。

 その最大の原因は,一般人には理解不可能な「教育者原理主義」が学校や教育委員会にまかり通っているからである。

 「教育者原理主義」という私の造語については,

 しっかりと説明しなければならないだろう。

 一回分の記事ではとてもではないが,語り尽くせない。

 というより,実は今まで,「教育者原理主義」の問題をこのブログでは訴え続けてきたと言ってもよい。

 今日は,「教育者原理主義」という言葉だけを紹介して終わりたい。

 そこからどんなイメージを膨らませてもらえるかで,

 教育問題との距離感が分かるのではないかと考えている。

 「教育者原理主義」の「教育者」には,様々なタイプが含まれる。

 学校教育の実践とは無縁の人間や,唯我独尊タイプの学級王国の王様も含まれる。

 その裾野は実に広い。

 どのような斬り方をすべきか,今はじっくりと考えているところである。

 私たち中等教育にかかわっている教師たちにとって,まず,しっかりと理解したうえで

 批判しなければならないのは,小学校に籍をおく「教育者原理主義」の問題点である。

 突破口を探しているところである。


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教育現場に市民の声が届かない

 「地域に開かれた学校づくり」が実現するのはいつのことだろうか。

 今,教育現場に「市民の声」がしっかりと届くしくみはあるだろうか。

 「地域」や「市民」の「要望」を聞きはじめたら,「きりがない」と教育委員会事務局は思うだろう。

 だから,教育は変わらないのである。

 「市民の声」ではなく,「市長の声」だと,「政治の介入だ」と騒ぎ始める人間たち。

 そんな程度で騒いでいるようでは,永遠に「市民の声」が学校に届くことはないだろう。

 「市長の声」が学校現場に届く仕組みをつくると,

 「学校現場が委縮する」という表現をしている人がいるが,

 そんな声で委縮しているようでは,そもそも今の公立学校の教師などつとまるわけがない。

 私のような現場の人間と,

 安倍政権がやろうとしていることを危惧する人とのギャップは,

 それこそ計り知れないほど大きなものである。

 教育委員会の人間なら分かることだが,「市長」に限らず,「議員」がしっかりとした考えをもって,筋の通った回答を教育委員会に求める機会などいくらでもある。

 教育委員会が,学校に指導する立場であり続けたければ,市長に限らず,

 様々な立場からの様々の要望にしっかりと耳を傾け,誠意をもって対応するべきである。

 それが今,できていないから,どう変えるかを検討しているわけだ。

 人材不足が否めない自治体もあろう。

 人材不足という問題を教育委員会内だけで処理してすませられるような時代ではない。

 市町村ではなく,都道府県なら,すでにもうその問題には気づいている。

 だから,「変わる」必要があるのだ。

 ストレートに書けないのがもどかしいが,

 最初に戻って,改めて問いたい。

 今,教育現場に市民の声は届いているか?

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生活指導の充実を図るための教師の「話法」

 自分の授業実践が書けないことを屁理屈で一生懸命ごまかそうとしている人がいるが,

 書いている内容を読めば読むほど,授業を成立させるための力量がないことがひしひしと伝わってくる。

 自分のことを「リーダー」なんて呼んでいるが,そもそもまともな学校では,自分で自分を「リーダー」と呼ぶような教師はいない。

 さて,生活指導というと,「それに適した先生」の仕事のように思えるかもしれない。

 テレビドラマで「生活指導主任」の役者は,体が丈夫そうで,怖そうなタイプが選ばれる。

 しかし,実際の教育現場で,優れた生活指導主任の資質は何かと問われれば,

 私は「調整力」だと即答したい。

 管理職はもちろんだが,教師たちの声に耳を傾けつつ,基本方針を徹底してもらえる「話法」が必要である。

 「みんなで~しましょう」

 「私たちは,~しています」

 という「話法」で語れるかどうかが,まずは生活指導主任としての第一歩である。

 自分の考え(あるいは管理職の考え)を他人に押し付けるタイプの人が生活指導主任になると,

 どうしても教師集団のコミュニケーションが希薄になっていく。

 生活指導には,日々起こる新しい事態への機敏な対応が求められる。

 迅速,敏速,俊敏,・・・・そんな「動き」が生活指導の・・・・学校の,命運を握る,と言っても過言ではない。

 しかし,「問題となる事態」を見過ごす教師が一人でもいると・・・・

 あるいは,「問題となる事態」を隠す教師,一人で何とかしてしまおうとする教師がいると・・・。

 共有されるべき情報が共有されないことが,「荒れる学校」から変われない原因の一つである。

 授業は個人の技能次第でいくらでも生徒をひきつけることができるが,

 生活指導は教師全体の揺るぎない統一感が命である。

 だれの口からも,同じような状況では同じような言葉が発せられる学校であることが,

 「荒れる学校」から変わるための条件の一つである。

 「信頼される学校」に変わるために欠かせない条件の一つである。

 だから,「私はこうした」という話をいくらしても,現場の教師の「助け」にはならない。

 生活指導には,「私たちはこうした」という「話法」が欠かせない。

 「私たちの学校は,すべての教師がすべての子どものことを真剣に考える学校です」

 という言い方をすべての教師ができる学校づくりが,生活指導主任の最も大切な仕事となる。

 しかし,小学校にはそもそもそのような「話法」が通用しない空気があるようだ。

 学級ごとに異なったルールが存在するのは当たり前。

 その理由。「子どもが決めたから」。

 当然のことだが,「どうしてあっちはよくてこっちはだめなの」という話になる。

 「クラスが違うんだから,当然だ」という「話法」になる。

 こういう風土の学校では,教師たちが「私たちはこうする」という「話法」が使われることはまれだろう。

 あっちでは試しに「学び合い」をやっている,こっちでは「ドリル中心」でやっている,

 そっちでは「指導書どおり」にやっている。

 授業はそれでいいのかもしれないが,

 授業の基盤となる「生活」が,学級によって異なってしまっていては,中学校に進学したときのギャップに子どもは苦しむことになってしまう。

 どうして学校にマンガを持ってきてはいけないのか。

 どうして休み時間にゲームをしてはいけないのか。

 どうして放課後にお菓子を食べてはいけないのか。

 小学校のときは,よかったのに。

 昔は「いけないものはいけない」という言葉が通じたが,今はそうではない。

 小中のスムーズな接続に最も必要なのは,

 学習指導の問題ではなく,

 生活指導の問題である。

 生活指導の「話法」の有無が,問題なのである。

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神奈川県・公立高校入試問題(社会科)の出題ミスとその防ぎ方

 公民的分野の政治に関する問題で,出題ミスが発生した。

 問題は,「最高裁判所及び最高裁判所の裁判官について説明した文として誤っているものを1つ選ぶ」という単純な知識を問うものだったが,

 「誤っているもの」が2つあった。

 「正解となる誤り」とは,

>1 最高裁判所の裁判官は,国会に設置される弾劾裁判所の判断以外で罷免されることはない。

 だけのはずだったが,

>2 最高裁判所の裁判官は,内閣総理大臣が指名し,天皇が任命する。

 も,「誤っているもの」つまり,「正解となってしまう誤り」だった。

 「内閣総理大臣」は,「内閣」でなければならない。

 どうしてこのような出題ミスが起こったか。
 
 それは,2が誤答である=正しいことを述べた文であることのチェックの方法がまずかった,というか,チェックをしていなかったのだと想像する。

 この文が正しいことを,日本国憲法第6条の条文で確認しなければならなかったのに,それを怠ったことがミスの原因であろう。

 実際のところを言えば,最高裁判所の長官は,前任者が決めて,内閣総理大臣に報告し,総理はそれを閣議に出して決めるだけであるから,実質的な指名権は前任者である,というのが正解・・・・なんて問題は,公立高校の入試では出されないから,やはり教科書どおり=日本国憲法どおりの内容でないといけない。

 入試問題の出題ミスというのは,出題する側の「沽券」にかかわる問題・・・俗な言い方なら「メンツ」にかかわる問題だから,絶対に防ぐように何重にもチェックを行うはずである。それなのに,こういうことが起こった。

 ・・・神奈川県の入試問題をつくっているのはだれかは知らないが,高校の教師か高校の教師経験者が必ずかかわっているはずである。ということは,

 「そういうレベル」と見られても仕方がない,ということである。

 もっと穿った目で見れば,「間違ったことを教えていたのか」という話にもなる。

 「内閣の決定というのは,内閣総理大臣がすべて決めているんだ。閣議は全会一致が前提だから。だから,内閣総理大臣の決定といったら,それは内閣の決定と同じ意味だ」という教え方がその一例である。

 こういう邪推を引き起こしかねない事態が,今回の出題ミスだった。

 思考力とか表現力を問うために,複数の資料を使って凝った問題のつくりにするとき,出題ミスは起こりやすいが,こういうただの知識を問う問題の場合に,油断が生じやすいということもあるだろう。

 あまり入試の出題ミスが重なると,教員の学力水準への疑問にも結びつく。

 今回の出題ミスは,防げないミスではなかったはずである。

 防げるミスは徹底的に防ぐための努力を続けていきたい。


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都合が悪いことは書かない「×××」

 何を書いて,何を書かないか。

 ブログにしろ,新聞にしろ,小説にしろ,そこにあるのは「書き手」の自由な選択である。

 しかし,「自由」が自分自身の利益を重視したものであれば,

 当然そこには周囲からの批判がつきまとうことになる。

 たとえば,特定秘密保護法に反対している新聞社のなかで,

 「尖閣漁船の衝突映像公開」について,扱っていないところがあるらしい。

 この漁船衝突事件や映像の公開に関して,菅直人=民主党政権がどのような態度をとったか,お忘れの方は当時のニュースをさかのぼっていただきたい。

 ネットで映像を公開した一色氏は,当時の官房長官から「犯罪行為だ」と罵られ,守秘義務違反=国家公務員法違反容疑で書類送検され,退職している(最後は起訴猶予)。

 現政権=安倍総理の立場は,「映像は特定秘密に当たらない」というものである。

 「摩擦の発生を防ぐ」ことを目的に,情報を公開しない,そういう当時の政府の態度も理解できなくはないが,

 特定秘密保護法に反対する新聞が,その法律の趣旨への理解を高めるようなことは書かない,という方針をもっていたとしたら,私ならこのように説明する。

 自分に都合の悪いものは公開しない,という態度を積極的に批判する人間ほど,

 自分自身にとって都合の悪くことを隠す癖がないか,疑ってかかるべきである。

 公務員なら,守秘義務が伴うことは言うまでもない。

 教育ブログの中には,学校経営に直接かかわっているわけでもない教員が,経営者の言葉をおそらくは何のことわりもなく,漏らしているものがある。

 教員には,情報モラルに限らず,マナーやモラルに欠けた人間が少なくない。

 私自身,児童生徒のころにもそういう認識を持っていたが,実際に教育現場に入っても,その点の印象は全く同じだった。

 ただ予想と違っていたのは,

 「まともな生徒が多い」ということだった。

 さて,学校の内部のことを公開する,という姿勢は,

 子どもを学校にあずけている立場の人間からすると,ありがたいことの方が多い。

 知ってしまって損をすることも多いのだが,それを知らないままでいて,いつか大きな不利益を被るより,ある程度は予想していて,困る,という方が,対策を講じる上での心のゆとりがもてる。

 最初の話題に戻すと,

 要は自分自身というより,だれかのために遠慮して,書くものと書かないものを分けるような人間の表現は,どうしても「つくりもの」としての印象が漂ってくる。

 「つくりもの」ばかりつくっている人々が,いざというとき,

 自分がやっていることと同じことをしている人間を批判するというのは,

 何とも情けない話である。

 教科書に書かれていることに,ふれない教師もいる。

 教科書に書かれていないことに,ふれる教師もいる。

 敏感な子どもたちは,すぐに気づく。

 それを,生きる上での知恵に結び付けていってもらいたい。

 
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教師は授業で生徒に向き合う存在である

 教師が生活指導で生徒に向き合って,生徒が変わっていく姿を描くのはドラマの世界の話である。

 それは,単なるイメージだけで,教職経験のない人間も語ることができる。

 教師でしか語れないのは,「授業」で子どもにどう向き合うか,ということである。

 学校生活に子どもの「自由」をどこまで認めるかなどといった話題はナンセンスである。

 生活指導で,学校で決めたルールに子どもが従わない場合,どのような指導をするかが,

 「教師によって違う」ような学校が「荒れる」のである。

 自分なりの教育方針を大事にして,ドラマのような空想の世界を現場に持ち込む教師がいるが,

 「教師によって態度が異なる」ような状況をつくるから,生徒が「荒れる」のである。

 生活指導は,学習指導の基盤でもある。

 教師は,授業で子どもに正対しなければならない。

 教育上で子どもに教えたい「自由」の価値とは,「自分の行動に自分が責任を持って,自分なりにコントロールできる能力のすばらしさ」である。

 授業のなかで,そういう場面はいくらでもつくれる。

 社会科の授業なら,日替わりで,直近のニュースのうち,自分が最も興味をもった話題を1分間でスピーチさせる。世界の出来事であるなら,略地図を黒板に描いておき,起こった場所を示して,国名や地名なども記しておく。

 どんな内容を発表するかは,子どもの「自由」である。

 ただし,他の生徒たちは,必ずその発表のメモをとり,各自で地図帳を開いて,その場所を確認する。

 疑問点は質問する。発表した生徒が答えられなければ,教師が代わりに答えたり,調べさせたりする。

 また,問題解決的な学習では,追究すべき課題を「自由」に設定させることもできる。

 ただし,「自由」に設定した課題が,追究に値するものであるかどうかは,きちんと教師や他の生徒に吟味してもらう必要があり,不適切なら変更しなければならない。「自由」な選択は,何でもあり,というわけではなく,ある一定の条件をきちんと満たすように,さまざまな人から評価を受けなければならない。

 そういう学習の繰り返しで,やがて「社会性」も身についていく・・・という前提を持ちながら,社会科の教師なら授業を進めることができる。

 音楽の教師なら,たとえば「楽器で自己紹介」のような活動をさせることができる。

 楽器はもちろん,曲も自分が好きなものを「自由」に選ぶことを可能とする。

 個性的な発表が,「音楽による自己表現」となる。「自由」であることのすばらしさだけでなく,難しさも体験することができる。

 このように,「自由」な選択を子どもにさせていくのに最適な場面は授業なのである。

 単なる日常の生活での「自由」を与えることでは,子どもの社会性が身につく前に,秩序が崩壊し,お互いに「不自由さ」の方が目立った環境になりかねない。

 授業規律がしっかりできて,授業のなかで子どもが自分の責任をしっかりと自覚することができる様々な「自由」を経験を積み重ねること・・・・これが教師が語るべき「自由」の一例である。

 なぜ授業が語れないのか。

 教師として学校現場にいたことを実感してもらうためには,

 授業の実践を語らなければならないのである。

 校則がどうとかいうレベルは,ろくな取材もしていない脚本家でも書けてしまう。

 繰り返す。

 教師は授業の実践を語ることで,教師であること,教師であったことを証明できる。

 残念ながら,授業がおろそかにされる学校がいまだに多く存在する。

 それは,おろそかにしても・・・いや,おろそかにしておいた方が,子どもがまともに育ってしまうという教育界としては「暗黒の問題」が隠されているのだ。 


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メモをとらない教師たち

 学び方を学ばせる教師自身が,学び方を知らないのではないかという場面に出くわすときがある。

 先日,ある小学校の研究会に参加したが,私が見たところ,半分以上の教師は

 メモをとっていなかった。

 指導主事という仕事をしていたためか,教師の一挙手一投足を,子どものそれと同じような感じで

 「観察」してしまうくせが抜けない。

 私のように参観者の評価をしている人間がいることなど,だれも想像していないだろう。

 中学校の教師として,小学校の教師がどんな学び方をしているのかに私は興味があるのだ。

 私の目の届く範囲にいる先生方のメモの取り方もチェックした。

 メモの取り方をしっかり学んで知っている方もいた。

 ただ,それは10人中でたった1人である。

 研究協議と講師による講演が続き,私のメモはA4サイズのノート10ページ分になった。

 それくらい書いていた人は,私の目の届く範囲にはいなかった。

 大事なポイントでメモを取りながら,

 「ここは最も重要でメモすべき時である」

 と感じながら周りを見ると,聞くことに集中しすぎていて,

 手が動いていない人が多かった。

 人間は,耳で聞いて理解することはできるが,

 その理解したことをきちんと記憶に定着させ,自分の言葉で語れるようにするには,

 少しあとでふり返れるようになっていなければならない。

 多くの情報は,記憶から,消えていくのである。

 そんなことは,子どもに教育しているはずである。

 大学時代に,教職教養で学んだ知識があるはずである。

 それなのに,

 自分は実践していない。

 こういう教師では,きっと子どもも同じような状況だろう。

 話を聞くことも大事だが,

 大事だと思ったことをメモすることも非常に大切である。

 しっかりと,「残す」ことが研修では大事なのだ。

 あの教師たちのなかで,その日のうちに「研修報告書」を書きあげた人はどのくらいいるだろう。

 日本の教育界で,その場に参加していた教師は,本当に研究熱心な人たちであるはずである。

 その人たちの多くに

 「聞いているだけで,あなたの明日の授業のどこが変わるのか?」

 と問いかけたい気持ちでいっぱいになった。

 子どもをただ見物しに来ただけなのだろうか。

 見世物となっている子どもたちは,本当に気の毒でならない。


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「学び合い」などそこにはなく,あるのは「言葉合わせ」だけ

 「学び合い」とは,「だれ」と「だれ」が,何について,どのように学ぶしくみなのか。

 学校なのに,「だれ」の部分に「教師」が入らないことをしているところがある。

 たとえば「大人の社会」のことを学ぶ「社会科」で,

 「子ども」と「子ども」で「学び合う」ことって可能だと思われますか?

 「学び合う」人と人のなかに,「子ども」が入っているのは当然ですが,

 あとの「人」とは,「だれ」のことなのでしょう。

 「学び合い」に,「教師」の関わり方のノウハウが完全に欠如している研究ってないですか?

 社会科なら,そこに「地域の人」「生産者」「立案者」「実践者」などがいくらでも入ってくるべきですね。

 それは,「資料」からでも学べますが,実際の「子ども」を相手にしたときだからこそ,

 「訴えたいもの」「伝えたいもの」が生まれることもあります。

 そして,そうしたときの子どもの反応から,話し手が「学ぶ」こともある。

 教師は,そういう「学び」を常に繰り返し,子どもと接していくわけだから,

 毎年毎年「同じことをする」のが教師の仕事ではないことくらい,胸をはって言えなければなりません。

 さて,「学び合い」という魔法のような言葉で思考停止して,

 無理矢理「学び合わせ」ようとしながら,

 結局は「言葉合わせ」に終始している時間がありませんか?

 「学び合わせ」なら,まだ許せますが,

 子どもたちがやっているのは,「言葉合わせ」に過ぎないような授業はありませんか?

 教師が,日常的な子どもとのやりとりで,「言葉合わせ」に終始しているようでは,授業改善に手がつくことはないでしょう。

 まずは,「言葉」をきちんと理解しようとすること。

 その「言葉」づかいから,どういう理解のもとで,その「言葉」を使っているか,

 その「使い方」の微妙な「違い」を子どもたちから聞き取って,

 それぞれ,どこがどのように「違う」かをわからせてあげなければ,

 子どもが社会に出て,きちんと伝わる「言葉」を話せるようにはなりません。

 ただの「言葉合わせ」でお茶を濁せる社会もなくはないでしょうが,

 そのままでは日本がかつて犯した最悪の結末・・・・「玉砕」に陥る危険があることを忘れてはなりません。

 理想を言えば,「言葉」の使い方の微妙な違いに子ども自身が気づき,それをお互いに指摘し合えるような関係が,「学び合い」のできる環境なのでしょう。

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教育ブログなど,真面目に読まないように!

 そんな断り書きは,メディアリテラシーを学んだ人には全く必要ありませんね。

 しかし,本当に「藁をもつかむ」ようなゆとりのない人にとっては,こんな教育ブログでも「心のよりどころ」になってしまう。哀しいことです。

 ゴーストライターに暴露されてしまった「有名人」が,若いころからある癖をもっていたことまでばらされてしまっていますね。

 この癖は,小さいときには「自分を大きく見せるための手段」として,だれでも一回くらいは使ったことがあるかもしれません。

 でも,その癖が大人になっても抜けない人がいる。

 こういう人が混じっている教育ブログは,本当に警戒が必要ですよ。

 その癖は,程度によって許されるものもあるでしょうが,決して許されないものもある。

 教育ブログの中には,かつて教師だった人間が,自分の経歴をぼかして,

 ブログを書いている教員への不満を垂れ流すようになっているものがあります。

 内容も理解できていない本の表紙を記事で使うくらいは可愛いものですが,

 自分を批判する人間に対する文字の起こし方は,見苦しいの一言に尽きる。

 「頭のなかみ」にふれるあたりは,もうそっちの領域では紛れもない「本物」のしるしです。

 過去の記事はそのままだから,さかのぼってみれば自分の正体はすぐにばれるのに,

 「私は学校とは無関係な人間」などと偽って,教育問題に口出ししている。

 老人の暇つぶしだと見逃せばよいのかもしれませんが,自分の問題点にまともに向き合おうとしない態度にふれるたび,似たような態度で子どもばかりか教師集団にまで迷惑をかけている人たちを思い出し,本当にやりきれない思いになっています。

 学校の教師は,問題行動を繰り返す子どもや,子どもを守るためならどんな嘘でも平気でつくような親たちに振り回されることがあるのですが,そんなことは,「結局は自己責任で,どうにかしてくださいね」ですますことができる。どんな「正当な助言」にも耳をかさないのであれば,「それではあとは,おまかせします」で終わりにできる。

 しかし,一番やっかいなのは,学校のなかでわがままにふるまう同僚なのです。

 職場の集団が一枚岩になれないことのつらさは,別に教育の業界でなくても,わかってもらえるでしょう。

 「頭のなかみ」にふれるような人間は,

 そういう原因で病気休職に入った教師たちを,冷たい目で見るのでしょうね。

 だから,少しでも自分に危険な兆候がある教師については,こういう人間のブログにふれないことをおすすめします。

 人の冷たさというのは,文章から伝染してくるんですよ。

 人間不信に陥っていきます。

 人間不信に陥った人間は,「目」の動きをみれば,わかりますよ。

 読んではいけないブログのヒントは,危ない「目」の動きです。


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教員が病気で欠勤できる学校づくり

 教育実習生の「寝坊による遅刻」が繰り返されたことで,

 指導案のダメ出しの回数が減るようになってしまった昨年度までの方針をどうするか。

 けっこう,悩みどころです。

 10年前には当たり前だったことが,

 この2~3年でどこまで後退してしまうのかと不安が募ってきています。

 厳しい指導が当たり前で,力をめきめきつけた実習生がいた時期には,教員採用の枠がとても小さく,

 「おおあま」の指導でお茶を濁すようになってから,教員としてどんどん採用されるようになっていく。

 このミスマッチは今後もしばらく続くと考えると,

 公立学校の教育力低下が最も深刻な状態になるのは,

 ちょうど東京オリンピックが開催されるころではないか,というのが私の予想です。

 さて,教育実習期間に体調を崩すような学生はそもそも教師には向かない,

 なんて厳しい言葉を書く雰囲気ではなくなっている昨今なのと,

 私自身,昔は1日で治った風邪がなかなか抜けない年齢に達してしまったことで,

 教員としての適切な体調管理の方法は・・・なんてことも考えなければならなくなっています。

 昔は,生徒が問題行動を起こしてくれることが,

 高熱も吹っ飛ばしてくれる特効薬でした。

 そんな時代ではなくなった今,「学校を休める状況をどうつくったらよいか」は真剣に考えられていいテーマかと思われます。

 これは,残念ながら,よく休む教員が複数いる学校ではもう手遅れです。

 すでに行っている対応で,教員たちには心の余裕がなくなっているから。

 せめて今,みんな元気で,職場に出ているというゆとりのある状況のもとで,

 「休める学校」のあり方を検討しておくべきでしょう。

 まずは,日頃の健康チェックを教員全員が目で見て分かるかたちで行えるボードをつくる。

 ・・・・というと,無理して自分の体調の悪さを隠すような人がいる職場では逆効果になるので,

 生徒の保健委員を使って,教師たちの健康をチェックする機能をもたせる。

 実は,心の健康に課題がある教員ほど,この生徒との言葉のやりとりが,何よりもいい治療薬になる場合があるのです。

 情報の集約は,養護教諭。

 養護教諭=保健室と職員室の連携がうまくできていない学校もあるはずですから,そういう問題も解消する。

 教師集団は,何でも自分たちで問題解決を一手に握ろうとせず,子どもを生かす方法で考えるようなゆとりがほしいものです。

 生徒との心の交流がしっかりできる学校では,治療が難しい病気で長く学校を離れる教員を減らすことが期待できます。

 ・・・・そんな学校づくりは不可能だ,と言われてしまうかもしれませんが,1学年だけでも始めてみたらいかがですか。

 学年格差が実感される学校の方が,学校全体としての教育力は高いというのが私なりの学校観です。


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「不燃性」教師の増加に歯止めを

 京セラをつくった稲盛和夫さんの言葉に,

>人間には「自然性」「可燃性」「不燃性」がいる

 というものがあります。

 強い「自然性」をもったリーダーに,「可燃性」に富んだメンバーがついていく,

 そういう強い組織のイメージは,

 いい先生に恵まれた経験のある方なら,ご自身の学校での体験として思い浮かべることができるでしょう。

 どうして自分はあんなに燃えていたのか?

 その火は,だれからうつったものか?

 もちろん,生徒の中にも,「自然性」の強い子がいる。

 こういう子がいる場合は,むしろ教師は「不燃性」に徹していた方が,

 仲間同士で「可燃性」を高め合う,なんていう体験をもたせることにつながるかもしれません。
 
 しかし,普通の学校ではそんなことはごくまれです。

 
 問題は,今,「不燃性」教師が増えていることでしょう。

 まわりの火を消す威力さえ持っている,堅牢な「不燃性」を持て余す学校現場が増えていることと思います。

 「可燃性」も人からの影響を受けやすい,という意味にとれますが,

 実は「不燃性」の影響力も,決して無視できないものがある。

 それぞれがそれぞれの殻に閉じこもった生活を送っている学校・・・。

 学校という場所は,ふつう,「活気」があるところです。

 ですから,「不燃性」教師集団に出会うと,非常に面食らいます。

 「冷静な理性」があるわけではない。

 「無気力」という濃厚な大気におおわれたその場所には,

 「新しいものを創り出す喜び」はなく,ただただ時間がたつのを待っている人たちがいる・・・。

 学校をこういう場所にしないために,何が必要なのでしょうか。

 たとえば,問題行動が起こると,教師たちは「火消し」に没頭する場合がありますが,

 荒れた学校を立て直した経験がある教師なら,

 そういう時こそがチャンスだということが分かるでしょう。

 教師同士は,結束するチャンス。

 教師と子どもとは,信頼関係を作り直すチャンス。

 子どもと子どもは,再チャレンジの大切さを自覚し合うチャンス。

 問題行動をつぶすためのエネルギーよりも,
 
 問題行動から次の行動へと移るためのエネルギーを最大化すべきです。

 「自然性」「可燃性」がある人たちが,

 まずは正しい「点火のタイミング」を見極めてほしいと思います。

 ありきたりの言葉ですが,

 教師が変われば,子どもが変わる。学校が変わるのです。


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『明日ママ』に敏感でも『今日の学校』に鈍感な人たち

 ドラマによって視聴者の一部が心を痛める結果になったことは,制作者や放映している人間にとって,非常に残念なことに違いない。そちら側への同情の余地はある。しかし,「それも想定内」などという感じ方をしていたとしたら,許せなくなってくる。

 実は教育現場でも,生徒に対して,教師が「演技として」冷たく接するようなケースは多々存在していた。

 生徒ががっかりすること・・・それは「想定内」として,「次のステップアップ時までの貯金」として,「不満である」ことを直接伝える場合がある。

 しかし最近は,「冷たく扱われる」ことへの耐性がほとんどない生徒たちが,簡単に「心が折れた」状態・・・「無気力」の状態になり,下手をすると「生命維持装置」まで故障するという事態に陥ることがある。

 ここまで子どもの活力が低下した学校に,「いじめ」や「体罰」が起こる心配など皆無である。

 しかし,「いじめ」がよく起こる学校より,こっちの方が問題は深刻だと言える。

 教師も子どもたちも,冷や冷やしながら「なりゆき」を見守っているようなところがある。

 昔の金八先生もそうだったが,テレビ画面の方では,泣くも怒るも喜ぶのも非常に大げさな,

 オーバーリアクションの「生き生きとした」子どもたちが暴れまくっている。

 そこまで堂々と自分の感情が爆発できれば,気持ちいいだろう,とさえ思ってしまう。

 派手な問題行動を演じてくれている方が,まだ「子どもが生きている」証拠だから,学校は捨てたもんじゃない,と感じてしまう人は少なくないだろう。

 現実の学校現場では,もっともっと平穏である。しかし,それは表面的なことにすぎないのではないかと,疑ってみるゆとりがほしい。

 『明日ママ』に敏感になるくらい,

 『今日の学校』にも目も向けてもらえると,救われる子どもが増えるかもしれない。

 学校公開日でも,校舎内が非常に閑散としている学校がある。

 外部の目がいかに大事かを,今回の『明日ママ』問題は教えてくれていると,強く訴えたい。


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「被害者救済」と「個人主義」は全く別次元の話

 「個人の弱さ」の最大の原因は,「失敗を人のせいにしたがる心の弱さ」にある,というのが私の考えである。

 裏返すと,「失敗をだれのせいでもなく,お互いに無責任状態にする」という「集団の怖さ」になる。

 これは,結局のところ,「個人が集団になったときのこわさ」であって,「集団の強さ」ではない。

 私たち教師は,日々の教育活動で,集団の中にあって個人が生き生きと輝く姿を見て,感動を覚える。

 それは,「失敗が許される空間内で,個人が委縮していない」状態への安心感が支えになっている,という面もある。

 個人を生かすも殺すも,集団という「個人の集まり」がもつ魔力である。

 小学校や中学校で教壇に立っていた元教師が,経歴を隠して支離滅裂なことを書いているが,ここに日本の教師に見られる誤った「個人主義」の典型を見ることができる。

 自分に都合のよい嘘が平気で言えるような人間に,そもそも「個人主義」など語る資格はないのだが,将来の時間の無駄を省くためにも,単純な発想は排しておく必要があろう。

 そもそも多義的な「個人主義」の概念を,

 「集団主義」「権威主義」との対比で語るような単純な話は,「批判のための批判」という低レベルな主張のためになされることがほとんどである。

 自分が本当の意味の「個人主義」を考えようとしていない姿そのものが,「集団主義」すら非難できない思考の落とし穴にはまっていると言える。

 「被害者救済」の大切さと,「個人主義」と「集団主義」の対立の問題は,何の関係もない。

 利己的で無責任な個人が集まれば,最悪な無責任集団ができる。

 悲しい話だが,そういうのが学校とか教育委員会という場所だ,という非難は正面から受け止めなければなるまい。 

 そもそも学校現場のようなところでは,リベラリズム風の「個人主義」は根付かず,コミュニタリアニズムが重宝される。

 コミュニタリアニズムの最大の強みは,完成形のリベラリズムなどはそもそもあり得ないという,多くの人が納得しやすい根拠をもっていることにある。たとえば物事の良し悪しの判断でも,「個人としての判断」とは言っても,そこには「他者の評価」「評判」がどうしても入り込んでくる。

 人間の信条というものは,他者から独立して形成されるものではなく,社会で生活していれば,共同体に影響されながら・・・たとえば,人々からの承認を受けたり,非難を受けたりするなかで,形作られていくものである。

 しかし,そんな「社会観」が通用しない場所がある。

 あえて「自分の考え」に固執し,「わがまま」「自分勝手」にふるまっても,相手が純粋無垢な子どもであるために,「わがまま」「自分勝手」に見えにくい場所がある。

 それは,たとえば小学校という教育の場の「悪質な学級王国」である。

 「個人主義」を語る資格がないばかりか,そこでは「自分の利益を最大化するための手段」にしか見えない。

 そういうレベルの話が「教育ブログ」で垂れ流されていることが,この村の哀しい現実である。

 「担任おろし」をくらったときの話を正直に書いていたころが懐かしい。あのころに戻ってもらえないものか。

 
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雪かきのたびに思い出す優しさと担任の死,そして教育現場にとって本当に必要な「雪かき」とは?

 高校時代の担任の先生が亡くなったのは,ご自宅の前だった。雪かきをされていたときに,弱くなっていた心臓に負担がかかり,ほとんど苦しまずに亡くなったそうである。

 仕事ででかける奥様や子どもたちのために,じゃまな雪をどかそうとされたが,体の方が静かに悲鳴を上げてしまった。

 私の実家の周辺も,高齢者が多くなっているが,自宅前の雪かきをしているのは,ほとんどが高齢者だった。

 自分のためというより,自宅の前を歩く見ず知らずの人のために,雪かきをしているのである。

 担任のことがあってから,何だか心配になる。

 私の母親も,私が雪をどかしている後ろに出てきて,ちりとりで雪かきを始めたが,すぐにやめさせてしまった。

 80に近い人ほど,本当に働き者である。60代はもうそういう時代の人ではないのかもしれない。孤独を感じる暇があったら,雪かきでもしたらどうか。「ご近所様」と話ができるいい機会にもなるだろう。


 今日は学校は休みだが,都知事選の投票会場になっているところでは,雪かきが行われているだろう。

 昔は主に部活動の生徒を動員して雪かきをいっしょにやっていたが,朝練がない学校では,早めに登校してきた生徒に手伝ってもらうしかない。

 関東ではあまり雪かき専用の道具を常備している学校は少ないだろうから,金属製のスコップで雪かきを行う。

 けっこう重量があるから,疲れやすい。

 昔は生徒から「代わりますか」と声をかけられてもスコップを渡す気がおこらなかったが,今ではどうか,自信がなくなりつつある。

 人のために,黙々と雪をどかしている子どもたちの姿は美しいが,自分は雪かきをしないで,その子どもたちの名前をもらさずメモし,「善行の評価のための資料」にしている教師たちの姿はどうなのだろう。

 「評価者」と「実践者」が対立する場面があるところの方が,正常であるような気がする。

 さて,教育現場で本当に必要な「雪かき」とは何か?

 来年度の研修計画を各教育委員会が策定し始めているようで,「評価」をテーマとした研修の講師依頼をやむなく受けることとなった。

 「評価」をするには,「指導力」とはまた別の「分析力」「総合力」を必要とするが,そもそも,

 たった一つの問いに対する反応だけからも,多面的な評価が可能となることを実感できるような実践そのものが,実は教育現場には欠けていることが問題なのである。

 今の学校現場における「評価」の現状は,「評価材料の不足」という問題に尽きる。

 それは,「指導の不足」という問題とイコールであり,

 さかのぼれば,「教材研究の不足と教材の不足」がセットになっている。

 根本的な原因は,「教師の学習意欲不足」である。

 気の毒な話だが,小学校の授業や「学び合い」の授業の実例を紹介して,「指導の不在と評価の不可能性」についてもふれる。

 たった一つの問いに答えられないことで,教師たちの自信を失わせることができるが,そこが「まともな教師」の出発点になってくれると信じている。

 私も名前をしっている大学の先生の研修(講義)は,話が難しすぎてわからなかった,という感想があったらしい。

 「尊王攘夷運動とは何か」をだれでもわかるような易しい言葉で表現させることがどれだけ難しいかを考えたことがない人なら,きっと「尊王攘夷」をはるかに上回る難しい言葉や概念の羅列でそれを説明しようとすることに抵抗はないだろう。

 雪かきをしている教師に猛吹雪があたっている姿を想像しながら,

 雪かきを一人で終えた後に,その場所をだれも通らないという「実績」をふり返ってもらう研修の「こわさ」を今,想像している。

 今のところ,私が満足している点は,無意味な研修に,「これは無意味だった」と言える雰囲気がある自治体であることである。だから引き受ける気持ちになったというのが正直なところ。


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小学校・歴史教育の抜本的改革案(読書編からの転載)

 世界史を必修にするとか,日本史を必修にする・・・なんてちっぽけな議論をするのではなくて,国の指導者には「歴史教育の抜本的な改革」を提言するくらいの発想力がほしいですね。

 地理とか政治・経済は,実際に目で見える範囲,肌で感じる範囲で動いているものを扱いますが,歴史だけは次元が異なっていて,時間を超えたスケールで今をながめる知恵を授けてくれるものですから,もう少し大きな目で物事が判断できるような教育の実現を考えてほしいものです。

 たとえば,

 小学校では,「さかのぼり型」=「テーマ史」

 中学校では,「通史型」

 高等学校以上は専門家が教えることになるので,教科書はあっても,教える内容は何でもありとするとか。

 そして,大学入試では,小中の内容を基本とし,教養問題として出題する。

 「勉強する動機は入試のみ」なんていう情けない今の状況から脱出し,魅力ある学習を高校でつくってもらうためにも,これが一番かと。

 さて,小学校での歴史学習の抜本的な改革案です。

 日本史の人物学習など,中学校できちんと時代背景とセットで学んだ方が理解が深まるので,全く必要ありません。むしろ,現代からの視点だけで過去を評価するような「誤解日本史」が定着している問題を解消できます。「歴史嫌い」という発想が生まれること自体,もはや「教育しない方がまし」の状況です。

 小学校なら,「言語の歴史」「宗教の歴史」「農耕の歴史」「お金の歴史」「民主主義の歴史」「報道機関の歴史」「工業の歴史」,もし余裕があったら,「戦争と兵器の歴史」を学んでくれれば十分。

 最初に接する「歴史学習」で,「歴史を学ぶ意義」そのものが学べます。

 今につながる世界の大きなテーマに沿った歴史の流れを知った上で,日本の歴史をしっかりと学習する,そういう新しい「歴史教育」の流れをつくることで,超近視眼的な発想をする人が減り,常にあっちいったりこっちいったりする情けない学習指導要領の変化がなくなることを期待したいです。

 長い歴史と伝統を学ぶためのルールがころころ変わる,というのはいかにも「学ばせる気があるのか」という印象を強めてくれます。 

 ついでに言えば,小学生に,あんな薄っぺらい教科書など必要ありません。

 百科事典があればいい。つまり,電子辞書があればいいということです。

 ネットにつながってしまうと,ゲーム機や通信機になってしまうので,タブレット型の電子辞書を売り出してほしいところです。

 仮想・・・・本書で「歴史」を学んだ小学生の感想文

 「言語の歴史」

 ・・・英語を学んで,将来の職業に生かしていきたいです。

 ・・・語順のパターンで言語を分類したとき,日本語が最も多い語順のグループに入る,ということは意外でした。

 ・・・同じ言語でも,歴史を隔ててかなり大きく変化してきていることがわかりました。

 中等教育に進むことの意義も,しっかり把握させられるのが,この改革案の特長です。

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北方領土の「雲」がなくなる日

 ソチオリンピックの開会式で,日本の入場行進時に映し出された日本地図で,

 北方領土が雲で見えない状態になっていたことが写真つきで報道されています。

 雲が晴れていてそこに何も描かれていなければ,それこそ大問題ですが,大会運営者の適切な配慮の結果といってよいでしょう。

 雲は「固定的」なものではないことが,明るい暗示になっていると解釈したくなります。

 雲が晴れても,そこは一面の雪で「真っ白」の地図になっているかもしれません。

 その雪も解かすためには,粘り強い返還要求運動や交渉が必要です。

 そのためにも,「知識」が必要です。

 歴史だけでなく,地理も。

 では,中学生の地図帳ではわからない質問を一つ。

 「日本で暖流が北から流れてくる場所はどこ?」

 ・・・「宗谷海流」「宗谷暖流」をネットで検索してみてください。

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NHKでも紹介されたアニメ映画『ジョバンニの島』

 本日,2月7日は「北方領土の日」です。

 なぜ2月7日が「北方領土の日」なのでしょうか?

1 北方領土返還要求運動がスタートした日だから

2 北方領土が不法占拠された日だから

3 日本とロシアとの間で条約が調印され,国境が画定した日だから

4 日本が最初に「日本の地である」ことを宣言した日だから

5 ロシア人のニーナさんの名前にちなんで

 滅茶苦茶な選択肢が紛れていますが,社会科の先生でなくても,その理由は知っておきたいものです。

 北方領土で当時のソ連軍が侵攻してきたときのこと。

 これは独立行政法人 北方領土問題対策協会のHPで,何人かの元島民の方のインタビューが動画で見られるようになっていますから,情報はいくらでも手に入ります。

 日本人とロシア人が混住していた時期があることなど,詳しく知らない人も多いでしょうが,

 当時のことをよく「学べる」アニメーション映画が今月22日に公開されます。

 『ジョバンニの島』です。

 本日のNHKニュースではかなりの時間を割いて,紹介されていました。

 元島民の方の平均年齢は80歳近くとなっており,人数も7000人程度まで減少してきています。

 北方領土の返還要求運動に長く携わってきた方々のお話を聞いて,そういう運動を続けている方々の存在を知らせるだけでも,社会科の教員をやっている価値があるだろうと思っています。

 解決がどれくらい難しい問題かはみんなわかっていますから,あとは

 「難しいからやらない,かからわない」という単純な発想の人に何を語りかけるか,という智慧を集めていかなければなりません。

 『ジョバンニの島』は,全国の小学校で,ぜひ上映していってもらいたいです。

 小学校の夏休みは教師たちは必ず誰かが出勤していますから,連日,教育用の映画の公開をしてもらってもいいんですよね。

 プロジェクターの性能もかなりよくなりましたし。

 塾づけにされるだけの子どもたちからは,「夏休みなんていらない」という声も聞かれ出すかも・・・。

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教師ならわかる「突然いい子ぶる子ども」の特徴

 ウラ研修ネタなら,私よりもいくらでも「専門性」の高い先生方がいらっしゃるでしょう。

 「イデオロギーこてこての社会科教師の扱い方」などは,生徒向けにも必要な研修?かと思いますが,評価が授業者に一手に握られてしまっている分,ある程度はがまんしないと「いい成績」はとれません。

 私がもし受け持ちの子どもの能力を正確に評価しようとしたら,複数の別の先生に授業やテストを実際にしてもらって,そこでの評価を総合して知らせてあげたいですね。

 私が評価した場合と,全く異なる,なんて生徒はざらにいそうで,困るケースも想定されますが,お互いにどこがどのように優れているか,ということをきちんと議論し合えば,双方の誤解が解けて,その生徒の評価はどちらかというと,上がっていくことの方が多くなると思われます。

 長所を見つけるのは,複数の目でないと難しい面があるのです。

 だからは教員評価をする場合には,私は360度評価が欠かせないと以前から主張しています。

 話をもとに戻すと,子どもの学習に対する正しい評価は,ティームティーチングなどをしているところでは,上にあげた方法だけでもいくらでもできるのですが,仕事量は一人でやるときよりも何倍にも増えるため,「わざわざ忙しくするために一人を二人にしたわけじゃない」なんて言い訳のために,なかなか実現できません。

 また,同じような指導力の教師が二人で組むことは,今のように小規模化してしまっている学校ではなかなか難しいでしょう。

 教師は一人でも,できることがあります。

 教師が無条件に子どもに期待をかけてあげることで,その逆よりも子どもが伸びるということを私たちは知識として知っています。教育心理学で必ず習います。しかし,それを実践する人は少ない。

 どうしてなんでしょう?

 なぜ子どもへの高い評価を出さない方向へ,教師たちは動くんでしょうか。

 簡単に言えば,子どもが嫌い,教育が面倒くさいからに他ならないでしょうね。

 だって,好きな人に対して,その人がより高い評価が受けられるように努力できるなんていう楽しい仕事が,嫌いなんていう理屈は成り立たないでしょう。
 
 でも,仕事の嫌々感,倦怠感,荒れに対する面倒くささ,それがどうしても表に出てきてしまう人がいるんですね。

 そういうことばかりを書いて公開していた人間が,どさくさに紛れてか,急に「品格」なんてことを言いだし,自分の反省ネタや自虐ネタを増やし始めている。

 教師なら,突然こういう行動に走る子どもが,何かしでかしているのは経験上,感知しているはずです。

 注意が必要ですね。手遅れなのがわかっているのに,慌てている子どもを見ると,何だか怒りよりも同情の方が勝ってしまう年齢に私もなってしまいました。相手の方が年上だと,なおさらです。


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『明日ママ』の次は,村上春樹の小説

 クレームの先は,テレビ局から小説家へ・・・・

 不服を申し立てた側に,「正義がありそう」な実例がまた一つ増えました。

 北海道中頓別町の町議が問題視した一節は,ニュースをご覧いただくとして,

 フィクションの世界の言葉に敏感に反応するあたり,

 日本独特の『言霊』意識が特に鋭くはたらく部分へのアンテナ感度を高くしておかないと,

 「軽率な発言」ではすまされない,というのが教師という仕事の使命感のもち方であることを

 認識させられたので,簡単ですが書かせてもらいました。

 「~がおかしい」「~が悪い」の「~」に,不用意に入れて表現すべきではない言葉があることを知らない恥知らずが「品格」だの何だのと垂れ流している不快感も,付け加えておきます。 


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学校教育のはかりしれない高コストと低パフォーマンス

 学校教育のコストがどれくらいかかっているか,具体的な数字を挙げられる人はどのくらいいるのでしょうか。

 生のデータは文科省が発表しているものでつくれると思いますが。

 日本の「英語教育」には,一人当たり,いくらかけられてきたのでしょう。

 小学校にその「幅」を広げようとしているわけですから,これがさらにどのくらい増えるのでしょうか。

 こういう「英語にいくら」「数学にいくら」という計算は,厳密には成立しにくいのですが,単純に学校で子どもが学んでいる時間数で割り算してみたらどうでしょう。

 私の想像では,英語ほど,多くの日本人にとっての「つかいみちのなさ」から見ても「費用対効果」の低いものはこの世にないのでは?

 しかし,無駄なものほど時間とカネをかける,というのが「文化水準の高さ」を物語るのであれば,そこで満足しておけばよいのでしょうが,「効果が出ない」となると,また話は別になっていくでしょうね。

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熊本発・教科書はなくても授業が成立することを証明

 「教科書の配り忘れ」は,これまで,さすがに報道では見たことがなかった。

 一般的な学校では,教科書はある分掌の担当者が一斉に配布することになっているはずである。

 教科の先生に渡して,「いつでもいいから配って」という類のものではない。

 今回の「事件」?ではっきりしたことは,

 小学校の図画工作の場合,教科書はあってもなくても授業は成立する,ということが証明されたわけである。

 私の小学校時代の図画工作の先生は,「画家」でもあった。

 教科書を授業で使った記憶はない。

 音楽は手元に楽譜がないと演奏できないし,国語は文章がないと読むこともできない。

 「教科書が欠かせない学習」を必要最小限にとどめて,教育費の圧縮をはかるというのも今後の教育政策のあり方の一つだろう。

 教育委員会がこわくて学校に確かめられないものがある。

 それは,「心のノート」の配布状況である。

 自民党政権になって,「心のノート」が復活した。

 これを配っていない学校があることを想像するのは難しくない。

 副教材だからなおさらである。

 学校ではなく,子どもをランダムに抽出して調査した方が,正確なデータが集まるだろう。

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「おれさま」たちの扱い方(その3 子ども編)

 大人の中にも,「小学校時代から全く進歩していないのではないか」と思えるほど,「おれさま」度が高い人がいる。

 昔の子ども社会では「出る杭を打つ」機能があり,最終的に「おれさま」はその競争に勝ち抜いたごく少数の人間しかなれなかった。

 しかし,「いじめを許さない」学校の空気は,相対的に子ども一人一人の「おれさま度」を高め,「自分に一目おかない教師は,教師失格である」というわがままオーラを帯び始めた。

 学校ではときに,「おれさま」VS「おれさま」の抗争の処理が仕事となる。

 対立している「おれさま」には,自分の子どもの保護を絶対視した「おれさま」=保護者たちがついているから,対応にあたる教師は各個の主張を聞くのに時間を要する。

 いじめの問題等でも,「学校の対応の遅さ」が問題になることがあるが,事実関係の確認だけでもかなりの時間を必要とする場合がある。

 複雑な問題・・・中3の問題なのに,背景は小学校低学年までさかのぼることもある・・・だと,ノート1冊が聞き取りの結果だけで埋まる。

 当然,そこに書かれている内容は,相互に矛盾することが多くなる。「おれさま」も「おれさま」の保護者も,「おれさま」にとって都合のいいことしか言わないし,敵側に不利な話は捏造してでもぶちまけてくる。聞き取りをした後,簡単に言えば事実をつきとめるだけでも,膨大な労苦が必要となる。

 一方が外見的には「いじめられている」状況にあっても,全く別の安定的な「おされま」組織が入れ子状に存在することがあるから,1つの問題が発生した,といっても,背景には複合的な隠された問題があるという可能性も認識した上で,対応にあたる必要がある。

 「相手になったつもりで考えてみよう」なんていうアドバイスが全く機能しないのも,「おれさま」たちの特徴である。

 もし教師が短期戦でことをすまそうとしたら,「おれさま」をくすぐることで解決をめざすという方法がある。

 当事者たちを本当には救えない,まるで「教育的」ではない対処法だが,教室や学校の秩序が崩壊しそうな場合は,とにもかくにも「沈静化」しなければならない。

 教師は,「おれさま」の利益とは何か?を一緒に考える,というスタンスをとる。

 あまりにもえげつないので,プロセスを書きたくはないが,こういう方法に一番乗ってくるのが,保護者たちである。

 「おれさま」の格上げを目標とした指導である。

 その後,この「おれさま」がどのような挫折の道をたどるかは,あえて想像しないようにする。

 長期戦で臨む構えを見せて,「休戦宣言」を出すという方法もある。

 これは,「あなたにとって不利な証言がある」ことを伝え,「その証言の出所がどこか,信憑性がどうかを確かめるために,時間がほしい」ことを両者に伝える。さらに,「その証言が間違っていることを私の目で証明するために,しばらく日々の行動の様子を観察させてほしい」と言う。双方が納得してくれたら,

 実質的には「放置期間」の始まりとなる。

 多くの場合,この「放置期間」中,はじめはおとなしくしていた「おれさま」たちは,予定通り?の問題行動を起こし始める。最終的な和解に向けて,これらは重要な持ち駒となる。

 小学校の学級担任はこのような問題を一人で抱え込まなければならないから,多くの場合は「放置状態」となっていることが,中学校になって明らかとなる。

 中学校では,学年の教師たちの連携,生活指導部の中での対応,部活動の顧問間での情報交換によって,解決への道筋をつけていくことが多い。

 中学校の会議の時間が半端でなく長いのは,こういう問題に真摯に向き合っている証拠である。 

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「おれさま」たちの扱い方(その2 管理職編)

 管理職の「おれさま」の対処法は,基本的にその1の教員と同じだが,

 当然のことながら,管理職は上司であることを忘れてはならない。

 教員には上司に平気で反抗したり暴言を吐く「世間知らずの子どもたち」がいるが,

 こういう人間によって学校全体の雰囲気やムードがどれだけ破壊されているか,社会人ならだれでも想像がつくだろう。

 職員室のパソコンをプールに捨てたり,学校を燃やしたりする教員が出てきた原因を,その学校の管理職にはぜひ語ってほしい。個人の責任にして何もなかったことにする「トカゲのしっぽ切り」はどんな組織にでも見られるであろうことだが,本質的なところを改善しない限り,似たような問題は他の自治体でも必ず起こる。

 さて,まず校長だが,私の経験した範囲で,「おれさま」を演じざるを得ない校長は本当に気の毒な人である。

 「校長が一歩引いたら,いないのと同じ」になってしまう学校はたくさんあるだろう。こういう学校では,校長の「おれさま化」によって最低限の秩序が保てる。

 今ここで話題にしたいのは,「ウラ研修」の中身だから,

 本物の「おれさま」の話である。

 こっちの方は,本当に管理能力のない,おそらく教育長が出す評価も最低レベルの校長であることが多いだろう。

 「おれさま」であることによって,教員が反発し,士気(教育意欲)を低下させ,教育活動を停滞させることがわかっていない人が多い(もちろん,そんな程度のことで士気(教育意欲)を低下させないことが重要で,だからこんな記事を書いている)。

 こういう人には何を言っても無駄だから,「おれさま」の出現を最小限に食い止める役割の人がほしい。

 教員として一番ラクなのは,その役割を教頭(副校長)が担ってくれることだが,教頭も教員たちの手前,ゴマすりに徹することもできない。

 一番ぴったりの役割が果たせるのは,「若手」の教員である。

 私なら,「若手」たちに,「校長を質問攻めにしろ」とアドバイスしたい。

 「校長先生がもっている教育のノウハウすべてを知りたい」という情熱に燃えて,少しでもわからないことがあれば,すぐに聞きにいく。これはもちろん,そのねらいを学年主任や同僚,できれば教頭にまでわかってもらっておいてから,実行すべきである。

 若手の教師に頼りにされてうれしく思わない「おれさま」はいない。

 しかし,さすがの「おれさま」も,「アドバイスすべき言葉が見つからない」・・・「失語症」に陥る壁にぶつかるときがある。

 「おれさま」がおとなしくなったそのタイミングを逃さず,

 「では,この問題についてはどの先生に教えてもらったらいいでしょうか」と問う。

 教員管理をすべて教頭にまかせきりの校長の場合,これにも答えられない。

 そうすると,教頭の出番がまわってくる。

 しばらく校長はおとなしくなるだろう。

 このストーリーでは,最終的に,教員集団のコミュニケーションが高まるようになる。

 ただ残念ながら,教員の側の「おれさま」が多い学校では,若手が四面楚歌となる。

 教員による放火騒ぎがあった小学校が,そういう学校ではなかったことを願いたい。


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「おれさま」たちの扱い方(その1 教員編)

 もし指導主事が担当する研修の「裏メニュー」を私がつくるとしたら,

 「おれさま」たちの扱い方

 をテーマにしたい。

 学校関係の「おれさま」たちの素材は豊富である。

 当然,指導主事も「おれさま」の部類に入るだろうと思われるかもしれないが,

 私が指導主事になったとき,どの先輩を見ても
 
 驚くほど腰の低い人たちばかりで,研修の場で実際に会ってもらえれば「素材」に含める必要がなくなることがわかってもらえるだろう。

 はじめにことわっておくが,これから様々な「素材」を紹介するが,そうよばれる人のすべてが素材に該当するわけではない。こんなこともいちいちことわらないとクレームを入れている「おれさま」がいるので,「ことわらない」ことを「ことわって」おく。

 まずは「教員」である。

 生活指導主任とか,学年主任といった「立場」以外の人に,けっこう「おれさま」が多い。

 小学校は個人商店街だから,それぞれが「店主」「社長」であることを忘れてはならない。

 毎日の授業でだれにもさしずされず,時間割など自分で勝手に変更して,好きな内容を好きなだけ教えることができる。事前に提出した週案どおりにやらなくても,チェックされない限り,そこは「自由な教育」の場である。

 「教員」が「おれさま」になるタイミングは様々なだが,研修だから「対教師」としての「おれさま」は,どのように扱ったらいいかがテーマになる。

 結論から簡単に言ってしまえば,お世辞まではいかなくても,常にいい気分でいられるように持ち上げておけばよいのである。

 「おれさま」は,どうでもいい話も含めて,対教師に話しかける場合,「自慢」であることが多い。

 広く言えば「認めてほしい」「褒めてほしい」ような内容である。

 あるブログのように,そういう話は聞いていても何の参考にもならないが,もし無反応で聞き流してしまうと,あとで何をされるかわからない。

 ほとんど自分と同じような人間を必死に批判する人がいるが,笑い者になっているのを気の毒に思っても,決してそれを口にしてはならない。

 「おれさま」の恨みを買うことは,特に校内の教員の場合は,絶対にやってはいけないことである。

 自分自身(教師)が被害にあうならまだいいが,こっそりと子どもを標的にしてくるから,質が悪いのである。

 こういう「おれさま」への対処の方法は,

 「世間」では当たり前のように行われている。

 刺激しない。ご機嫌を損ねない。

 こういう対処ができない教師は,「世間知らず」なのである。

 社会科の授業で学ぶことで言えば,これが「大人の国際関係の築き方」である。

 プライドしかない国に対して,その国のプライドを傷つけるようなことをしてしまうのは下策である。

 「お・か・げ・さ・ま」

 「お・た・が・い・さ・ま」の精神を徹底してもらいたい。


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『明日ママ』どころの騒ぎではない

 コンピュータのプログラミング技能を磨く前に,身につけさせておきたいことがある。

 それは「人間らしい受け答え」の能力である。

 「きみ,それはないだろう」と言われたら,まず「何かまずいことをしたかな?」と自問自答する習慣をつけさせたい。

 しかし,この回路が完全に遮断されている人間がいる。

 「おれは悪くない」・・・・小学校低学年ならわからないでもない。

 しかし,こういう人間は,中学生にもいるし,そういう中学生の親の中には,子どもよりその「度合い」が高い人もいた。

 自分の思考回路は正常であることを普通の人間は強調する必要がないが,

 「おれは悪くない」タイプの人間の中には,それをひたすら主張し続ける人もいる。

 「おれは正しい」ということを,常に自分に言い聞かせることで,

 「おれは悪くない」モードが維持できるようにしている。

 大きくなってから,不幸に見舞われてそういう人間になってしまう例は,教員にも見られる。

 ただ残念ながら,こういう教員の「言い訳」「私の考え」の特集をつくってしまったら,公教育への信頼は地に堕ちてしまうだろう。

 産経新聞でしか読めないかもしれないが,例の団体の集会で報告されたコテコテのイデオロギー授業には驚いた。ほとんど「反政府運動」である。学校(校長)はおろか,教育委員会のコントロールが全くきいていないこともよくわかる。

 いじめへの対処の問題も真剣に論ずべきことだが,日常的な授業で大変な目にあっている子どもたちを救うことができていない。

 こういう教師が,たとえばテレビの取材を受けて,自分の主張を電波に流してしまったら,さすがの日本でも暴動が起こるかもしれない。

 「明日ママ」どころの騒ぎではない。

 「反原発運動」を煽る先生が使っている資料は,だいたい想像がつく。

 一部の参加者は,「取材を拒む」というスタンスだったらしい。

 秘密でなければ成立しない。

 日本人向けの愚民化政策の基本は,「一面的な情報の伝達」である。

 これは,小学校の社会科教育の特色でもある。

 中学校の社会科の目標にある,「多面的・多角的に考察し」は,ぜひとも小学校にもおろしてもらいたい。

 なぜなら,中学校からでは「遅い」からである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より