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生徒会活動の「始まり」は「終わりの始まり」でもある

 「言語活動の充実」は,教科よりも,特別活動が先です。部活動も同様。

 生徒が「自分の言葉」で「自分の考え」を表現できる場だからです。

 ですから,生徒会活動などは,「生きる力」を育む上で,非常に成果が上がりやすいものの一つです。

 ある人は「教えたがりを軽蔑する」と言いながら,何だか支離滅裂なことを書いていますが,

 私は「生徒が成長していないのに,それに気づいていない」人に「気づいてほしい」という一心で,本日の記事を書くことにしました。

 生徒会役員の仕事の「終わり」とは何でしょうか。

 それは,次の役員への「引継」です。
 
 次の役員への「引継」がどのようになされたかで,役員の評価を決められると言っても過言ではありません。

 行政の仕事の話にいきなり飛びますが,

 行政では,担当者が変わっても齟齬のないように,徹底的な「引継」を行います。

 3日や4日では終わらない「引継」もあります。

 そこで「すべてを伝えきること」が,前任者の役割です。

 「だれだれさんは,どんな料理が好みか」「どこ出身か」まで話が及ぶこともあります。

 「新参者に厳しい」とか,「若い人に厳しい」とか,

 後任の人が変な誤解を抱き,せっかく深められるはずの協力関係を失ったら気の毒なので,

 「そういう人ほど,信頼を勝ち取ったときの力強さはない」などと伝えたりもします。

 もちろん中学生にも例として話し,分かっておいてほしい人間関係に関するエピソードでもあります。

 さて,中学生は,仕事が始まると,目先の仕事をどうやってクリアしていくかで頭がいっぱいになってしまいがちですが,大切なことは,次の役員にどうやって今の仕事の流れを伝えられるかということになります。

 それが「始まり」は「終わりの始まり」でもある,という表題の意味です。

 生徒会役員を担当する教師も交代してしまうかもしれません。

 こういうとき,次の役員が頼りにすべきなのは,新任の教師ではなくて,

 先任の生徒会役員=先輩なのです。

 教師は「仕事が多い」「忙しい」と言って,このような

 「生徒が生徒にきちんと引継を行う」という指導を怠ってしまうことがありますが,

 そのためにまた自分が一から指導しなければならないことになってしまい,時間を失うのです。

 社会人として身に付けるべきスキルを,

 生徒会役員なら学校で習得することができます。

 それが習得できていないのは,学校の教師の方かもしれません。

 「社会科」って,こういう「社会人の仕事のスキル」を学ぶ時間じゃないんですよね。

 「引継」を1か月後の(たとえば試験期間の)自分のために,自分がノートで行う,

 なんていう考え方をすれば,「勉強の仕方」にも応用できるスキルになります。 


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より