小学校の社会科,もう少し「伸び伸び」できないか?
社会科に限らず,小学校の授業研究では,
参観者の批判対象が教師の一挙手一投足に及ぶことが多いですね。
「伝統」のようなものなのでしょう。
中学校の教師から見ると,授業中の事細かな動きよりも,
授業以外の時間帯での子どもとのやりとりの中にこそ,批判すべき対象となる行為(なしていないことも含めて)があるのではないか,という気がしますが,ここでは授業中の話だけにします。
「子どもたちは伸び伸びと発言できた」という感想が出されることがありますが,
私から見ると,次のような印象になる場合もあります。
「子どもたちはいつでも教師と結びついていなければならない緊張感にさいなまれていて,かつ,発言機会が与えられる子どもは4人に1人以下なので,これは『伸び伸び』とは呼べないのではないか」
中学校や高校では,授業では発言しない生徒が多くなりますね。
小学校の教師は,このことを「おかしいこと」と感じる方が多いでしょう。
しかし,見方を変えると,この方が「伸び伸び」しているとも言えるのです。
自分の考えたいことを考えているかもしれないし,そもそも何も考えないでぼーっとしているかもしれない。
こういう「伸び伸び」もあり得ます。
中学校に入ると,「演技しなくてすむ」ことに安らぎを覚える子どもが増えてきます。
それに気づくまでに,やはり1年くらいかかる子もいますが。
小学校の授業研究のねらいは,
「いかに教師が子どもを自分のコントロール下におけたか」
を検証することにあるように見えます。
そのコントロールが利いたかどうかの判断基準は,
ある一つの学習課題に収れんできたかどうか。
ある子どもはAを考えたい,ある子どもはBを考えたい,では,アウトなんですね。
全員がAを考えようとすることが,大事なんだそうです。
そういう研究があってもよいのかもしれませんが,
「教師がいなければ子どもはどうするのか」
という問いに答えてくれる気はないでしょう。
「自ら学び,自ら考え」というフレーズが消えていく経緯も分からないではないですが,
ある子どもがAを考えて,別の子どもは他のことを考えることが,それほど悪いことなのでしょうか。
少人数指導をするにしても,みんなで同じことを考えるのなら,人数を減らす意味はないと思うのは私だけでしょうか。
« 教育界への「信頼」の糸を断ち続けている教師・教育関係者たち | トップページ | 「ゆとり教育はダメだ」という「あせり」感が目先の数字を改善する »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「教育改革」カテゴリの記事
- 改正教育基本法第16条の問題点(2018.12.28)
- 今,手を抜いていると,公教育の民営化が本格化したとき,・・・(2018.11.24)
- 国後島で考えたこと~日本の教育(2018.10.02)
- 都合の悪いことに目を向けさせなくする教育(2018.09.08)
「社会科」カテゴリの記事
- 止まらないビールの需要減(2018.12.30)
- 皇族への言論弾圧(2018.11.30)
- ありえない課題設定・・・EUが1つの国?(2018.11.24)
- 1000人当たりの暴力行為発生件数ワースト5は(2018.10.29)
- 創造性を奪うポートフォリオ評価(2018.06.05)
「社会科教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事
- ありえない課題設定・・・EUが1つの国?(2018.11.24)
- 歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの(2017.11.19)
- アメリカの反知性主義を輸入した人たち(2017.06.28)
- 選挙が違憲だと,国民審査が機能しなくなる?(2017.06.01)
- 「アカデミアの世界」からこのブログへ投げかけられた言葉とは?(2017.05.29)
「言語活動の充実」カテゴリの記事
- 寝た子を起こす教育(2018.05.01)
- 日本語は筆の力が物を言う(2018.04.28)
- 授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事(2017.08.25)
- すでに「深い学び」への関心が高まっている(2017.06.24)
- 教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している(2016.11.09)
「教職教育」カテゴリの記事
- 「総合的な学習の時間」の指導ができるように教育できるのはだれか(2019.11.24)
- 生徒との対話の中から自然に目標達成へのルートをつくる(2018.12.26)
- 私でなくてもいい,私ではない方がいい(2018.12.14)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
「教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事
- 遠慮しないで情報を提供しろ!~いじめを見逃す環境との戦い(2018.12.29)
- 偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激(2018.12.22)
- 子どもから有能感を奪い取る方法(2018.11.25)
- 量より質が大事なものと,質より量が大事なものとは?(2018.04.23)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
「教育実習」カテゴリの記事
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
- 鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点(2017.12.23)
- ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力(2017.12.04)
この記事へのコメントは終了しました。
« 教育界への「信頼」の糸を断ち続けている教師・教育関係者たち | トップページ | 「ゆとり教育はダメだ」という「あせり」感が目先の数字を改善する »
コメント