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どうしても抜けない「添削癖」

 教員には,日常生活でもなかなか抜けない「癖」というものがあります。

 それは,書かれたものに「誤りがないか」と探してしまう癖。
 
 「シミュレーション」を「シュミレーション」と書かれてあったりすると,気になって仕方がない。

 そして,私もそうなのですが,人の書いたものは何度も読み返すことができるけど,

 自分の書いたものはあまり推敲しない。

 推敲しないわけではなくても,おかしいところがたくさん残ってしまう。

 そういうときは,人に自分の文章を読んでもらうに限ります。

 このようなブログは不特定多数の人が読んでくれますから,親切な人は教えてくれるかもしれません。

 これを「おせっかい」なんていうふうに受け止めるのが,

 「指導力のない教師」に典型的に見られる姿勢です。

 こういう教師は,自分の授業を人に説明したがらない。見せたがらない。

 ブログの宣伝文句に,授業で役に立つことを書くとか,具体的な指導法を書くとか言いながら,何も書けない人がいる。

 人にそれを見せて,あれこれ言われるのが嫌なんですね。

 そもそも見せるもの,書くものなど何もないかもしれない。

 こんな人間にいくら研修を受けさせても無駄です。

 一番いい研修は,自分の授業を見せて,そこにどんな問題があるかを指摘してもらうこと。

 そういう研修を受けない限り,教師は変わりません。

 ただ,せっかくの指摘に耳を傾けなかったり,自己反省を全くしないのがいますが。

 これこそ「指導力不足」を超えた「不適格教員」なのです。

 普通の学校の教師には,「研究成果」を文章にする成果があまりありません。あまりというか,一度もそういうものを書いたことがない人が大多数でしょう。

 「研修は何をしているのか」の答えを,明確に答えられる教師はどのくらいの割合でいるのでしょうか。

 「こんな本を読んでいる」ことで「研究と修養」に結びついているとは言えないでしょう。

 研究は,個人ではなく,組織で行うのが一番です。

 4人の組織なら,1年に1回,1人が「研究発表」する。

 その発表のための資料を事前につくり,4人でああでもない,こうでもない,とやる。

 中心は1人でも,4人の協同作業のように進める。

 こうやって「人のおかげで研究ができている」と実感できることが,

 教師には絶対的に必要です。

 そして,そういう研究ができた人は,

 たとえば社会科の授業なら,決定的にそのスタイルや思想が変わってきます。

 社会科とは,何をどのように学ぶのがベストの教科なのか。

 4人1組で試行錯誤させて,ある程度の時間で判断させ,それなりの結論を出させ,発表する。

 そして他のグループからも意見をたくさんもらう。そしてさらに見直し,検討を重ねる。

 そんな授業を年に1回くらいはしたいものですね。

 「おかしいこと」「誤っていること」の指摘を受けることに,何の抵抗もない人間でないと,そういう子どもを育てることは不可能です。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より